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30-42 トオル
二十八枚 もあるのやし、さすがに無理 やろと思えたけども、ある表具屋 のおっちゃんとこで、アキちゃんはヨボヨボのボケたお爺 やんに会い、その人に、暁雨 さんどすな、と声をかけられた。
おとんを知ってるお爺 やんやったんや。
お爺 、何歳 や。百越 えてんのやないか。
たとえ人間でも、そこまでの齢 を重ねると、半分、神やら仙 やらの領域 に近づいてまうのか。
お爺 はアキちゃんをおとんと思い込 んでて、この表具 、うちでお引き受けしまひょと安請 け合 いし、息子や孫の表具師 たちを仰天 させていた。
昔、お爺 はおとんの絵の、表具 をやる仕事を請 けたらしい。
秋津 の家の蔵 にあった、あの妖怪図 やで。あれも二十八枚 あった。
お爺 はその当時、まだお爺 やなかったし、若 い表具 の職人 で、自分も出征 することが決まってた。
それで今生 最後の仕事として、おとんの絵を預 かったんやそうや。
その絵を見て、こんな絵を描 く人が、戦争で死んでまうのは惜 しいと思った。
それで、あんたさん必ず生きて帰り、そしてまた絵を描 かなあきまへんえと、おとんに言うたが、秋津 暁彦 は苦笑 いやった。
おとんも自分の死を、覚悟 してたんやもんなあ。それで描 いてた二十八枚 やったんやもん。
お爺 が最後に仕上げた表具 は、朧 の絵やった。
あの絵が、もういっぺん見たいと、お爺 は泣きながらアキちゃんに言うた。
見せてくれという意味やろう。
アキちゃん困 ってもうて、お爺 やんボケたはるし、どうしようってなって、こいつはこいつで安請 け合 いしてもうてた。どこかで見てもらえるようにします、って。
どこでやねん。朧 の白川 の家か。
そんなとこにボケボケのお爺 を連れてって平気 なんか。
朧 の着物やったんやろう、表具 に使った余り布(ぎれ)を、お爺 はまだ持っていて、それをアキちゃんに返 してくれた。大事なもんですやろ、と。
大事なもんやったんか、おとん……。
いろいろ本人の知らんところで、暴露 されてもうてんな。
お爺 は、またあの絵を見たい一心 、またあの絵師 の表具 をしてやりたい一心 で、戦 を生き延 び、余 り布 を秋津 暁彦 に返すことを宿願 にして、今まで生きてきたんやって。
確 かに、お爺 が返 してきた余 り布 には、黒く乾 いた血の染 みがついていた。
お爺 の血やろう。
必ず生きて帰るという執念 とともに、お爺 と戦火 をくぐったんやった。
そういう気持ちが、おとんを再 び英霊 として生かすための、強い祈 り力の一つでもあったんかなあ。
そしてその祈 りは、おとんを生かし、このお爺 やんをも、生かしたんやろうな。
アキちゃん、お爺 の情念 にすっかり気圧 されてもうて、おとん大明神 の絵のパワーに、めちゃめちゃプレッシャー受けてたわ。
だってまだ、自分の絵は公開されてへん。誰 の目にも晒 してはいない。ごく一部の身内 が、ええなあ言うてくれたってだけや。
世間 はなんて言うやろ。自分の絵が誰 かにとって、ヨボヨボの爺 になって頭ボケてもうても、まだ記憶 に鮮 やかなような、魔性 の魅力 を秘 めてる絵になれるんやろうかって、アキちゃんのハードルめちゃめちゃ高い。エベレスト並 になってきてもうた。
アキちゃん。卒業制作 やで。言うたらあかんかもやけど、学生が大学で絵描 いて、これから社会に出ますっていう時に描 く絵でええんや。もっと気軽 に考えなあかん。
そうやけど、アキちゃんにとっては、これは、抜身 の真剣 でおとんと斬 り合う、本気の死闘 やったんやろうなあ。
うちのジュニアが斬 られて死んだら、どないしよ。
何か俺まで、腹痛 うなってきたで。
アキちゃんみたいに、変な虫ゲロったらどないしよ。
亨 ちゃん、そんな思いつめるキャラやないのに。
そうでもない? 思いつめるキャラか?
そうやねん、俺ら二人で、一緒 に思いつめていた。
鯰 や龍 ほどではないにしろ、卒業制作展 がめっちゃ怖 くて、怖 くてな、もう、二人で逃 げようかなって、そういう気持ちになるほどやった。
そういうの、わからへんかな。皆 には。
絵描 く人には、わかるんかな。
自分の作品を人目に晒 す前の、体の奥 の奥 、底 の底 から、全身 が怖気立 つような気持ちが。
でもそれは、恐怖 ではないねん。
たぶん、期待やねん。皆 、俺を愛してくれっていう。
アキちゃんはその気持ちで胸 いっぱいになったまま、その日を迎 えた。
卒業制作展 や。
朝飯 は食えへん。ゲー吐 くから。顔色も真っ青や。
大丈夫 、なんもない、って言いながら、まだ開いてないドアに突 っ込 んでいって足を打 ってる。
俺の男って、こんなアホな子やったっけ。
津波 に立ち向かった時のお前は、もっと男前 やったけどな。おかしいな。
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