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30-47 トオル
アキちゃん、その絵の中で、一心不乱 に絵を描 いていた。
そういう背中 を、後ろから見た絵やった。
苑 先生がずっと見てきた、画学生 やったアキちゃんの背中 や。
その絵に描 かれている男の背 には、なんともいえん色気 があった。
別にエロいわけやないで、服も着てるしな、髪 も乱 れてる。絵の具もついてる。
いつのアキちゃんか知らんけど、とにかく、絵を描 くことしか考えてへんときの、アキちゃんや。
その頭の中には、絵の具が詰 まってる。床 に這 うて、絵筆 を支 えるための筋肉 の線 が、薄着 の上半身 に浮 き上 がって見えてるんや。
美味 しそう……。
俺やったらそうとしか言いようがない。すみません、ボキャ貧 で。
そやけど、後 ろから抱 きつきたいような、でも、触 ったらあかんような。それ以上、近づくことはできなくて、ただ見守 るしかないような、近くて遠い背中 やった。
「苑 先生……やっぱ変態 やったんやな」
俺は軽蔑 して、苑 先生をじとっと睨 んだ。
てめえはこういう目で、アキちゃんを見とったんやな。
俺が睨 んだ通 りや。
こんな美味 そうな背中 を描 けるとは、お前が危 ないという証 や。
お前、やっぱアキちゃんのこと、好きやったんやな⁉︎
俺はそういう言葉を込 めて、苑 先生をドーンて指差 した。
ごめんごめんて、苑 先生は俺の指から出るビームに震 え、堪忍 堪忍 て、両手を振 って俺から逃 げてた。
「これはいい絵やあ。いい絵やわ。そう思いませんか? いい絵やわあ……」
西森 は三回言うて、たじたじなってる苑 先生の横で、腕組 みして顎 を撫 でながら、獲物 を狩 る猟師 のような目で、苑 先生の絵をじろじろ睨 んだ。
「これ、売りません? うちで」
「は⁉︎ えっと……売る? これは一応 、卒制 への出品 ということで描 いたもんでして」
苑 先生は言い訳 をして、西森 から逃 げていた。
なんでやねん、売ったれや。
しかしな、これはアキちゃんやんか。モデルの承諾 もなく描 いたんやな、先生。そんなんしてええんか。不潔 だわ!
「これ、本間 先生ですよね? なんで? どういう制作意図 で描 かはったんでしょうか」
西森 さんは純粋 に、絵への興味 で聞いてるだけやのに、まるで警察 の尋問 みたいに声が響 いた。
先生、おたく変態 ですね。こんな絵描 いて、ただで済 むと思うてるんですか、って、言われてるみたいや。
俺は苑 先生が可哀想 なって、にやにやしていた。
「先生、アキちゃん好きやねん。師弟愛 やんか」
「師弟愛 ? ほほう!」
西森 さん声でかいんやわ。そんなん大声で言わんといてやり。
苑 先生、死にそうなってる。気が弱いんやから。
なかなか自分を出せんと、教授室 でくすぶって、野菜の絵ばっか描 いてたおっちゃんやねん。
でも、先生、絵が上手 いんやで。西森 さんが先生を幸 せにしてやって。先生も、新しい世界に羽 ばたけるように。
「もっと描 きましょ、うちで。先生の絵、売らしてもらえませんか。是非 とも。交渉 はここでは何やしな、後日 来ていただくか、わたくし参 りますさかい。何日? ご都合 ええ日をうかがって帰ります」
もう逃 さへん。そういう押 しの強さで、西森 は苑 先生の胸 のポケットに自分の店の名刺 をねじ込んで、ハイと言わせた。
まさかやなあ、まさかのハッピーエンドかこれは。
苑 先生まで、新しい世界へ羽 ばたけるとはなあ。
運命 ってわからん。アキちゃんのご利益 やな。
「豊作 やわあ、最近」
大満足 したみたいに、西森 は興奮 して言うて、アキちゃんに笑われていた。
おっちゃん、子供 みたいやもんな、絵を買い付ける時。
それが面白 うて、アキちゃんもこの人が好きやねんな。
「そやけど今日の俺の本命 は、本間 先生だっせ。さあ、いよいよ見られるんやなあ。胸 ドキドキしてきましたわ!」
腹 に響 く声で言う西森 に背 を押 され、アキちゃんは奥 のギャラリーに続く道を連 れていかれた。
それと手を繋 いだまま、俺もついていく。
「うおお……」
短い歓声 をもらし、西森 はアキちゃんの二十八枚 の絵と対面 した。
それからしばらく言葉 もない。
一枚 一枚 をじっと、靴音 が聞こえるような沈黙 のまま、西森 は見て周 り、眉間 に皺 を寄 せた、深刻 な顔をしていた。
アキちゃんはちょっと、困 った顔して、その背 を目で追 っている。
おっちゃん、何か言うたり。
これはいい絵やわあて言うてやれよ。
苑 先生には言うてたやん。
アキちゃん、ちょっと不安になってきてるで。すごく。
だって画商 西森 の評価 を、アキちゃんは、おとんの次くらいに気にしてた。
西森 がなんて言うか、これはいい絵やって言うてくれるか、アキちゃんずっと心配してた。
西森 さん、気に入ってくれるやろか、って、時々言うてたんやで。
どないや、西森 。
息 をひそめて待つ俺らのとこへ、西森 はコツコツと、ええ靴 はいてる足音 をさせて、難 しい顔で戻 ってきた。
「先生」
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