910 / 928

30-48 トオル

 そう言うて、西森(にしもり)はアキちゃんを睨(にら)み、長い溜息(ためいき)を漏(も)らす。 「これ。あかん。売れへんわ」  そう、きっぱりと言う西森(にしもり)に、アキちゃんは目を見開(みひら)き、硬直(こうちょく)したようやった。  俺の手を握(にぎ)ってるアキちゃんの手が、一瞬(いっしゅん)でめっちゃ冷えて、ぎゅっと俺の指に縋(すが)った。 「これね。美術館(びじゅつかん)、いるわ。出資者(しゅっししゃ)を募(つの)りましょう」  さらに険(けわ)しい顔になり、西森(にしもり)は金勘定(かねかんじょう)してる目やった。  いつもなら、幾(いく)らで売ろかという計算が駆(か)け巡(めぐ)っているおっさんの脳(のう)に、今は、アキちゃんに幾(いく)ら貢(みつ)ごうかという計算が充満(じゅうまん)してた。 「先生のお兄さんの絵を見たときにもね、チラッと思うたんですよ。暁雨(ぎょうう)さん」  ああ、あの人か。グアテマラや。  俺、いつの間にアキちゃんに兄貴(あにき)がいたんやって、一瞬(いっしゅん)、びっくりしたわ。  おとんやんか、もう、紛(まぎ)らわしい。 「これね、欲(ほ)しいって人は、ぎょうさんいるかと思います。金払(はら)う人も、なんぼでも居(お)るでしょう。そやけどね、幾(いく)らか金払(はら)うて買(こ)うて、大事(だいじ)に家で飾(かざ)っとこうっていう絵と、大勢(おおぜい)が見るとこで飾(かざ)るべき絵はね、違(ちご)うてます」  西森(にしもり)の声がめっちゃ重い。腹(はら)に響(ひび)く声や。 「これは皆(みな)に見せなあかん絵やわ。先生も、そのつもりで描(か)かはったんやな」  西森(にしもり)はそれを、アキちゃんから聞いたわけやない。  絵を見たらわかる。このおっさん、目利(めき)きの天才やねん。  天才や、西森(にしもり)。俺にはそんなこと、全然(ぜんぜん)分からんかった。  アキちゃんが何を思うてこれを描(か)いて、どうしてやったらええんか、俺では分からへん。 「俺は展示(てんじ)用の絵は、あまり扱(あつこ)うたことがありません。他にもっと、適任者(てきにんしゃ)がおるやろうけど、俺も一生懸命(いっしょうけんめい)勉強してきますさかい、どうか、この絵、西森(にしもり)に預(あず)けてもらえませんやろか」  お願いしますて、西森(にしもり)はアキちゃんの空(あ)いてたほうの右手を握(にぎ)り、深々(ふかぶか)と頭を下げた。  祇園(ぎおん)でバリバリやっとるベテランのおっさんが、画学生(ががくせい)に下げる頭にしては、ものすご深いお辞儀(じぎ)やったわ。  結婚(けっこん)してくれみたいなな。おっさん、全霊(ぜんれい)をかけて頼(たの)んどるよな。  アキちゃん、ぽかんとしてもうてる。  ぽかんとしてんのやないんか。ちょっと気絶(きぜつ)しとるな。  大丈夫(だいじょうぶ)か、アキちゃん。返事(へんじ)してやれ、西森(にしもり)に。  しばらくそのままの一時停止(いちじていし)の時が過(す)ぎ、アキちゃんは再起動(さいきどう)して言うた。  ため息まじりの、かすかな声やった。 「あのう……西森(にしもり)さん。卒業したら、俺、画家(がか)になろかなと思うんですが。なれますやろか。ずっと西森(にしもり)さんに相談(そうだん)したかったんやけど、今やっと会(お)うたんで……」  アキちゃんは少し不安そうに、はにかみながら言うてた。俺でええんか、って。  アキちゃんの手をまだ握(にぎ)ったまま、西森(にしもり)は顔をあげ、はあ? という顔をした。 「何言うてますのん、先生」  信じられんものを見た時の人間の顔や。こんなもんこの世におるんやっていう。  俺も長い生涯(しょうがい)で何度か、こういう目で見られてきた。  人が、神か化(ば)けもんを見る時の目や。  あまりの話に、西森(にしもり)は発狂(はっきょう)したんか、急に笑い始めた。  アキちゃんの手を握(にぎ)り、それをもう離(はな)せへんみたいに、両手(りょうて)で掴(つか)んで、おっさんは身を揉(も)んで笑(わろ)うてた。 「あはは、おもろいわ! なれますやろか、て。あはははははは!」  おもろいやろ、アキちゃん。おもろい子やねん。  西森(にしもり)はひとしきり汗(あせ)かくほど笑い、アキちゃんをたっぷり困惑(こんわく)させた後、ようやく笑い止(や)んで、突然(とつぜん)ぐいっと、アキちゃんの手を引いた。 「先生。離(はな)さへんで。俺がこの手で、時代に名を残す画家(がか)にしてみせます。先生と、暁雨(ぎょうう)さんと、ふたりまとめてやで。よそへ浮気(うわき)したら、俺、ほんまに鉄砲(てっぽう)持っていきますさかいな」  怖(こわ)い!! 殺されるアキちゃんが。  おとんも殺されるんや。朧(おぼろ)! 出動(しゅつどう)!  俺らのツレが画商(がしょう)に殺されてしまうう!  でも平気(へいき)、アキちゃん西森(にしもり)好きやし。浮気(うわき)せえへん。  俺より安泰(あんたい)なぐらいやで。  鉄砲(てっぽう)いらんから、そんなん持ってこんといてくれ。  水煙(すいえん)かて鉄砲(てっぽう)と戦えるんか、わからへんのやもん。  西森(にしもり)はぐったりして、アキちゃんの手を自由にした。 「帰ろ……」  めっちゃ疲(つか)れたように、おっちゃんは言うた。何かを使い果(は)たした顔やった。 「帰って、資金繰(しきんぐ)り考えなあかん」  どうも、って、手を上げて挨拶(あいさつ)をして、西森(にしもり)はよろよろ帰ろうとしていた。  待って、西森(にしもり)さん。俺、お金持ちには心当(こころあ)たりがあるよ。  絵に感心(かんしん)があって、暁雨(ぎょうう)さんファンで、息子の方の絵も大好き。それで、いくらでも金持ってる奴(やつ)。  そういうのがな、知り合いに一人居(お)るねん。  世界の大崎(おおさき)茂(しげる)やで。  大崎(おおさき)先生、ここに来たやん。また転(ころ)がり回(まわ)るんかと思ったんやけどな、何でか、しゅーんてなって、秋尾(あきお)と早々(そうそう)に帰ってん。  アキちゃん、て、茂(しげる)はおとんに寂(さび)しそうに言うて、なんや茂(しげる)、って、優(やさ)しい親戚(しんせき)の兄ちゃんみたいなおとんに、いつもどおりの返事(へんじ)されてた。  アキちゃんは、この絵を見たら、俺とはもう遊んでくれへんのやろなあ、と、大崎(おおさき)茂(しげる)は言うた。

ともだちにシェアしよう!