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30-48 トオル
そう言うて、西森 はアキちゃんを睨 み、長い溜息 を漏 らす。
「これ。あかん。売れへんわ」
そう、きっぱりと言う西森 に、アキちゃんは目を見開 き、硬直 したようやった。
俺の手を握 ってるアキちゃんの手が、一瞬 でめっちゃ冷えて、ぎゅっと俺の指に縋 った。
「これね。美術館 、いるわ。出資者 を募 りましょう」
さらに険 しい顔になり、西森 は金勘定 してる目やった。
いつもなら、幾 らで売ろかという計算が駆 け巡 っているおっさんの脳 に、今は、アキちゃんに幾 ら貢 ごうかという計算が充満 してた。
「先生のお兄さんの絵を見たときにもね、チラッと思うたんですよ。暁雨 さん」
ああ、あの人か。グアテマラや。
俺、いつの間にアキちゃんに兄貴 がいたんやって、一瞬 、びっくりしたわ。
おとんやんか、もう、紛 らわしい。
「これね、欲 しいって人は、ぎょうさんいるかと思います。金払 う人も、なんぼでも居 るでしょう。そやけどね、幾 らか金払 うて買 うて、大事 に家で飾 っとこうっていう絵と、大勢 が見るとこで飾 るべき絵はね、違 うてます」
西森 の声がめっちゃ重い。腹 に響 く声や。
「これは皆 に見せなあかん絵やわ。先生も、そのつもりで描 かはったんやな」
西森 はそれを、アキちゃんから聞いたわけやない。
絵を見たらわかる。このおっさん、目利 きの天才やねん。
天才や、西森 。俺にはそんなこと、全然 分からんかった。
アキちゃんが何を思うてこれを描 いて、どうしてやったらええんか、俺では分からへん。
「俺は展示 用の絵は、あまり扱 うたことがありません。他にもっと、適任者 がおるやろうけど、俺も一生懸命 勉強してきますさかい、どうか、この絵、西森 に預 けてもらえませんやろか」
お願いしますて、西森 はアキちゃんの空 いてたほうの右手を握 り、深々 と頭を下げた。
祇園 でバリバリやっとるベテランのおっさんが、画学生 に下げる頭にしては、ものすご深いお辞儀 やったわ。
結婚 してくれみたいなな。おっさん、全霊 をかけて頼 んどるよな。
アキちゃん、ぽかんとしてもうてる。
ぽかんとしてんのやないんか。ちょっと気絶 しとるな。
大丈夫 か、アキちゃん。返事 してやれ、西森 に。
しばらくそのままの一時停止 の時が過 ぎ、アキちゃんは再起動 して言うた。
ため息まじりの、かすかな声やった。
「あのう……西森 さん。卒業したら、俺、画家 になろかなと思うんですが。なれますやろか。ずっと西森 さんに相談 したかったんやけど、今やっと会 うたんで……」
アキちゃんは少し不安そうに、はにかみながら言うてた。俺でええんか、って。
アキちゃんの手をまだ握 ったまま、西森 は顔をあげ、はあ? という顔をした。
「何言うてますのん、先生」
信じられんものを見た時の人間の顔や。こんなもんこの世におるんやっていう。
俺も長い生涯 で何度か、こういう目で見られてきた。
人が、神か化 けもんを見る時の目や。
あまりの話に、西森 は発狂 したんか、急に笑い始めた。
アキちゃんの手を握 り、それをもう離 せへんみたいに、両手 で掴 んで、おっさんは身を揉 んで笑 うてた。
「あはは、おもろいわ! なれますやろか、て。あはははははは!」
おもろいやろ、アキちゃん。おもろい子やねん。
西森 はひとしきり汗 かくほど笑い、アキちゃんをたっぷり困惑 させた後、ようやく笑い止 んで、突然 ぐいっと、アキちゃんの手を引いた。
「先生。離 さへんで。俺がこの手で、時代に名を残す画家 にしてみせます。先生と、暁雨 さんと、ふたりまとめてやで。よそへ浮気 したら、俺、ほんまに鉄砲 持っていきますさかいな」
怖 い!! 殺されるアキちゃんが。
おとんも殺されるんや。朧 ! 出動 !
俺らのツレが画商 に殺されてしまうう!
でも平気 、アキちゃん西森 好きやし。浮気 せえへん。
俺より安泰 なぐらいやで。
鉄砲 いらんから、そんなん持ってこんといてくれ。
水煙 かて鉄砲 と戦えるんか、わからへんのやもん。
西森 はぐったりして、アキちゃんの手を自由にした。
「帰ろ……」
めっちゃ疲 れたように、おっちゃんは言うた。何かを使い果 たした顔やった。
「帰って、資金繰 り考えなあかん」
どうも、って、手を上げて挨拶 をして、西森 はよろよろ帰ろうとしていた。
待って、西森 さん。俺、お金持ちには心当 たりがあるよ。
絵に感心 があって、暁雨 さんファンで、息子の方の絵も大好き。それで、いくらでも金持ってる奴 。
そういうのがな、知り合いに一人居 るねん。
世界の大崎 茂 やで。
大崎 先生、ここに来たやん。また転 がり回 るんかと思ったんやけどな、何でか、しゅーんてなって、秋尾 と早々 に帰ってん。
アキちゃん、て、茂 はおとんに寂 しそうに言うて、なんや茂 、って、優 しい親戚 の兄ちゃんみたいなおとんに、いつもどおりの返事 されてた。
アキちゃんは、この絵を見たら、俺とはもう遊んでくれへんのやろなあ、と、大崎 茂 は言うた。
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