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第14話
ストーカーが捕まった。
有賀の携帯にその連絡が入ったのはサクラの友人の食事会からぐったりと帰った日から、数日経った後。丁度、一日の作業を終えて事務所の施錠を確認していたところだった。
サクラが迎えに来るようになってから、無理な残業は極力避けていた。
今日もどうにか区切りを付け、今から迎えに行っても平気かという電話を待っていた。
今日は土曜日で、里倉電器工務店は、表向きは休みとなる。急な呼び出しがなければ、有賀の予定に合わせてサクラは動くだろう。
切羽詰まった事情から始まった二人暮らしだが、特別不自由だと思う事もなく比較的快適に過ごしていた。少なくとも、有賀はそう思っている。
一人の空間が無いと死んでしまうのではないのか、とも思ったが、サクラは丁度いい具合に気を使わなくて良い。相性が良い人間というのは、本当に存在するものなのだなと、二十八歳にして感動する程だった。
夕飯は何にしようか。
事務所は明日定休日だ。持ち帰りの仕事もない。サクラも例の岩永夫人の一件で随分気力を使ってしまったらしく、最近はぐったりと、家と工務店と有賀の事務所を往復していた。
久しぶりに、何かゆっくり料理がしたい。一回、皮から餃子を作ってみたかったのだが、今から準備して間に合うだろうか。皮を伸ばす作業はサクラにも手伝ってもらえたら、きっといつもより楽しい。
呑気にもそんなことを考えながら、いつも通りにサクラの着信に出た筈だった。
ただ、サクラの声は固く、迎えに行くという用件と共に、ストーカーが捕まった旨を報告してきた。
何故何処で、と訊く前に不安が広がる。どうしてサクラの声色は固く重苦しいのだろう。なぜ、サクラがストーカー捕獲の報告をしてくるのだろう。アゲハ関連で身柄が拘束されれば、直接アゲハから連絡があるだろうし、有賀が個人的に相談した興信所からもサクラに連絡が行く事は無い。
じわりと広がる不安を落ち着けるように煙草に火を付け、煙を吐き出す。
それで、どこで見つかったの。そう問う有賀に、サクラの低い声が返ってくる。
「うちの工務店の裏。嫌がらせの現場を、里倉さんがとっ捕まえた、ってさっき電話があった。とりあえず縛りあげて放り投げてあるらしいけど、今すぐ来いって。俺と、有賀さんに」
「…………あー。それは、あれかな。嫌がらせって、多分、サクラちゃんターゲットだよね。本人捕まえたって言うんだから、あー。あー……里倉さんに、いろいろ、ばれた?」
最悪な現状に、煙草を持ったまま頭を抱えた。こういうことがないように、サクラにこれ以上迷惑をかけないように、興信所に頼みアゲハに頼みこんだというのに。有賀の名前も一緒に出ているということは、二人の関係も少なからず露呈していることだろう。
低い声で唸る有賀に対して、サクラは淡々と言葉を繋いだ。
「うん、まあ、そうみたいっす。話聞きたいってさ。そりゃ人間一人捕獲してるしそれが犯罪がらみなら、事情聞かないとどうにもなんないっすよね。とりあえず怒ってるとかそういうのおいといて、どういうことか説明してくれって感じだったから。すぐ迎え行っていい? ちょっと腹決める?」
「僕は大丈夫だけど。サクラちゃん、平気?」
「わっかんね。まだ混乱してる。でもなんか、起っちゃった事はしゃーないし、犯人捕まって良かったとは思ってるよ。結果誰も怪我とかしてないし」
確かに肉体的な被害は無いがしかし、サクラの生活をまた巻きこんでしまった。
本来ならば指向を隠したまま、里倉工務店を継ぐことになっていたかもしれない。息子夫婦が家を出てしまった里倉が、サクラの事を息子の様に扱っていたことを、有賀は知っている。
まだどういう話になるのかはわからないが、サクラがショックを受けていることだけは確かだった。
「……ごめん」
煙と一緒に息を吐き、零れるため息を押さえながら吐き出す言葉は、かなり情けない。
「有賀さんが謝るかどうかはまだわかんないって。とりあえず俺もどうなってんのかわかんないし。泣かないでよ、なんか、はやく行ってあげなきゃって気分になるじゃん」
「泣いてないです。泣いてないですけど、そうね、ちょっと泣きそうねー……心の準備と一緒にアゲハに連絡しておくから、事故らないようにゆっくりきてね」
「おーけい。安全運転で行きますんで」
最初よりは幾分か柔らかくなったサクラの声に、有賀もだいぶ落ち着きを取り戻して通話を切ることができた。
一人では無いということは、やはり重要だ。サクラに対して申し訳無くてどうしようもない気持ちも、里倉に何と説明したらいいのかという不安も勿論あるが、煙草を一本吸い終わる頃にはどうにか気分を落ち着ける事が出来た。
とりあえずアゲハには、犯人が里倉工務店で捕まった事と、これから事情説明に行く事を伝えた。まだどうなるかわからないが、里倉の希望によっては警察に連れて行くことになるだろうという旨を話すと、できれば自分が引きとらせてほしいとだけ言われた。何にしても連絡を待つから頑張れと励まされ、思わず笑みがこぼれた。随分友達思いの男を、友人に持った。
暫くしてサクラが着いたという連絡が届き、施錠をして事務所を出る。
お疲れ様とヘルメットを渡してくれる。サクラのバイクの後ろに跨る行為にも、最近はすっかり慣れた。バイクに跨るサクラが異常に格好良いので、有賀は迎えに来てもらうのがひそかに楽しみになっていた。
ストーカーが捕まったということは、わざわざ二人で待ち合わせて一緒に帰る必要もなくなるだろう。
結構楽しかったのに残念だなと思うが、今はそれよりも大事な事があった。
もしサクラが仕事を辞めるようなことがあれば、有賀もどうにか助けたいと、勿論思っている。そもそも有賀が原因だ。なんとしても、まず里倉ときっちり話し合いをしなければならない。
しかしそう決意すればするほど、緊張は高まってしまう。
それはサクラも同じことらしく、里倉工務店横にバイクを付けて有賀を降ろすと、シュミレーションしてみたんだけど友達と上司じゃ、気合いが違うねと苦笑した。
申し訳無くて泣きそうだ。
「……準備いい?」
「うん。そうね、来ちゃったし。お話してきましょうか」
「帰る頃には人生変わってないといいな、まじで」
「うーん、変わってたとしても、とりあえずお隣は僕がキープしておくんで。世界は変わるかもしれないけど。多分お隣は変わらないね」
深呼吸をするように息を吸って、多少緩んだ気持ちのまま笑いかける。一瞬目を開いたまま固まったサクラだったが、すぐに泣きそうな笑顔に戻った。
「……ありがとう。今はじめて有賀さんのくっそ気障な台詞に心から感動した」
「え、なにそれひどい。いつも感動してよ」
「いつもは痒さが増すんだよ。ちゃんとそこそこ感動してます。扉開けて良い?」
「あー……。すごい、こわい、緊張しすぎて、おもしろい。あはは」
「俺も笑えてきた。なんか、どうにかなるなって思って来た。お隣キープの力、強いかもしれない」
一人じゃないからどうにかなると言われ、有賀の方が感動してしまいそうだった。
いつまでも、夕暮れの工務店前でうろうろとしている訳にはいかない。
意を決したサクラが扉を開けると、裏から回れと奥から里倉の声がする。言葉に従い店横の細い路地の石段を辿り、こじんまりした民家の玄関にたどり着く。
玄関は開いていて、なぜか水で濡れている。新聞紙が透けているゴミ袋が脇に置いてあり、非常に嫌な予感がした。
ひょっこりと顔をだした里倉は、今日も飄々とした老人然としていて、テンションが掴めない。
「おう。悪かったなぁ急に。有賀ちゃんも仕事あがりに、悪いな」
とりあえず上がれと手まねきされ、客間らしき座敷に通された。
思わず正座をしてしまう二人に対して、胡坐をかいた里倉はテーブルの上のお茶を一口飲み、さてと本題を切りだした。
「おれとお前達の仲だ。いまさらお日柄よろしくなんてぇ前口上もご機嫌伺いもいらねえだろ」
有賀としては、出来れば時候の挨拶から入ってもらいたいくらいだったが、里倉はさっさと言葉を繋げてしまう。その潔さが、羨ましくも恨めしい。
「いいか、まず今日の事だ。うちのカミさんとおれが買い物から帰ってくると、玄関先でなにかごそごそしている阿呆がいやがる。いつもは店から入るんだが、今日は休みだからな。裏から回ったわけよ。そこをガツーンと確保だ。ここ最近の悪戯はてめーかってんで縛り上げて問い詰めたら、とんでもねぇタワゴトを……」
「……ちょっと、里倉さん、『ここ最近の』って何すか。え、悪戯、今日だけじゃないんすか?」
里倉の洩らした言葉に、サクラが血相を変えて食いついた。対し、好々爺は動じた様子もなく、何事もないようにそうだと頷く。有賀はもう、めまいがしそうだというのに。
「一週間前くらいからか? 店の方じゃなくて家の方にな。動物の死体とか、虫とかそういうのがごっそりまき散らされてたりよ。あと写真やら怪文章だな」
「どうして言ってくれなかったんですか、ソレ」
「それがよ、写真や手紙がな、お前と有賀ちゃんのとんでもねえもんでな。……こんなもん、ただの悪戯だから、本人には黙っておこうってことにしたんだよ。見て気持ちのいいもんじゃねーし、嫌だろ、お前も。どれがどこまで本当かなんてしらねえけどよ。何にしても自分の写真が虫まみれでばら撒かれてたらとんでもねえ気分になんだろ」
サクラを信用しているが故の優しさだとは思ったが、当のサクラはやはりもう少し早く相談してくれていたら、と頭を抱えていた。
三十路の男の精神状態を庇われるのも辛い。里倉にとっては、サクラはいつまでも子供のような存在なのだろう。
「お前の方のアパートは平気そうだったし、まあこれ以上酷くなるようなら、サクラにも話さなきゃなるめぇなぁと思っていた矢先だ」
「……とっ捕まえたっていうそいつは?」
「隣の部屋に縛ってある。暫くわけわかんねぇこと言って騒いでたから、さるぐつわ噛ませたら静かになったな。あいつもどうすっかっていう話しなきゃなんねーんだが、その前におれはお前達にきかなきゃなんねーことがある。……あー、いや、個人的に訊いときてぇこと、だな」
ついに来た。
そう思って強張る有賀とサクラに、里倉は言葉を濁したりはしなかった。
「おまえら、恋人だってのは本当か」
大真面目に、きっぱりと言葉を選んだ里倉に対峙し、サクラと有賀は同じ気持ちで固まった。
すっかり、お前達はホモかゲイかと、問われるものだと思っていた。
そう言われればサクラはきっぱりとそうだと言いきるに違いないし、有賀も頷く気で居た。
有賀は元々、ヘテロセクシャルだと胸を張って言える程女性に興味がある方でもない。サクラの事が好きだというのは本当だ。だったら自分はノーマルですが彼だけが好きですなんて言い訳はいらない。世間から見れば、有賀はゲイだ。
ただ、恋人かと問われると答えは変わる。
好きだと伝えた。嫌だとは言われていない。むしろサクラは言葉にせずともきちんと有賀の事を第一に考えてくれていることがわかる。不可抗力とはいえ一緒に住み、時折り悪戯にキスをしかけたりもする。実質的には付き合っているような形にはなっている。
頷いてしまっていいものか、悩む有賀の横で、サクラははっきりとした声で一言、『はい』と答えた。
恐らく、驚いたのは里倉ではなく有賀の方だ。
「……え。ちょ、サクラちゃん、いいの、そんな事言って」
「いいのってだってアンタ、事実でしょう。……あ? もしかして違った? 飽きた? 毎日気分で夕飯リクエストする我儘な男には飽きた?」
「そんなわけないでしょう大好きです」
「うん。じゃあうだうだ言わないでとりあえず座ってろ。落ちつけ。アンタが動揺してどうすんの」
思わずそわそわと浮足立ちそうになる有賀を横眼で睨み一括するサクラは大変格好良い。先程は自責で泣きそうになっていたが、今は嬉しくて涙が滲みそうだ。こんなに涙もろいタイプではなかった筈なのに、おかしい。
サクラに会ってから、感情の振れ幅が大きくなった。どうでもよかったものが、急に色を持って有賀の世界に侵入してきた。
それが嬉しく楽しいと思えるから、有賀は後悔などしていなかった。
二人の反応をじっと伺っていた里倉は、もう一度お茶で喉を潤してから、頭をかきむしり、足を崩した。
「あー。まあ、そうか。うん。半分くらいは、間違いじゃねーかなと思ってたんだが、そうか。……なら、しゃーねえな。正直よくわかんねぇが、どうしようもねえってことはわかったよ。ツレができて良かったなって、すぐにぽんと言ってやれなくて、悪いなサクラ」
「……おやっさん、いいんですか。従業員がホモでも」
「だってどうしようもねーだろ。今すぐ別れろって言って、どうすんだ。そら世間体とか考えだしたらキリねぇし、親とか結婚とかどうすんだって言いだしたらただの頑固親父の説教になっちまうよ。おれは息子もその嫁も居る。孫も居る。だから、どっちかってーと、お前の親御さんの気持ちを考えちまう。親御さんには言ってあんのか?」
ずばりとした問いかけに、サクラは一瞬だけひるんだように見えた。
それでも、まっすぐ里倉を見て答える。
「ない、です。……できれば、言わないでおきたいです。両親の事は好きだし。申し訳無いと、思うんですけど」
「うん、まあ、お前が誰かに惚れる度にそういう気持ちになる真面目な奴だってのも、おれはわかってるつもりだよ。だからな、しゃーねぇんだよ。お前が男の恋人連れてても、しゃーねぇ。お前の嫁の顔を楽しみにしてる親御さんに謝れなんて言えるわけねえ。サクラはな、そういうモンをきちんとわかってる優しくて真面目な、ちくしょう、……アレだ、ゴミだ。ゴミが入った」
「……やめてくださいよ、俺も泣いちゃうじゃないっすか」
話の途中で声が上ずり、目を擦る里倉の人となりに感動し、有賀も息が詰まる思いだった。
全部はすぐに受け入れられない。偏見もある。理解はできない。それでも、サクラが好きだからと老人は目を擦り、茶を煽って天井を見た。
「しかも相手が有賀ちゃんとあっちゃあ、尚どうしようもねぇ。おれはな、有賀ちゃんのことが好きだよ。あんた、都会のチャライあんちゃんに見えて、その実しっかりした優しい男じゃねーか。時々持たせてくれる煮もの、旨くてな、もうカミさんの煮ものが食えなくなっちまった。料理もうまい。気遣いができる。その上良い男だ。でもてめーら、男同士だ。有賀ちゃん、そこんとこはちゃんと、考えてんのか」
「……はい。気持ちだけで世間を渡って行けるとは思っていません。何かあれば、全力で桜介さんを守ります」
「信じるぞ」
「はい。結構です。なのでまた、お酒の話をしてください」
頭を下げた有賀に、里倉の方が面くらっていた様だ。サクラも、驚いたように有賀を見ている。
有賀自身も、勝手に口が動くような気持ちを味わっていた。
「僕も、この街が好きです。というか、とても、好きになりました。だからどうか、図々しいとは思いますが。……受け入れてくれとも、言えませんが。また、お話してやってください。あと、サクラちゃんをよろしくお願いします」
ゆっくりと丁寧に頭を下げるのは、人生で初めてかもしれない。
軽い会釈ばかりで、心をこめて礼をする事など無かった。頭を上げるとまた里倉は天井を見ていて、そのくせ口では『言われなくてもサクラはうちの大事な後取り従業員だ』と吐き捨てた。
あとは簡単だった。
ストーカーのターゲットが有賀だという一連の流れを説明し、犯人の身柄は有賀の方で管理して良いという結論を貰った。すぐにアゲハに連絡を取ると、待ち構えていたかのような速さで里倉宅を訪れたチャイナ服の美丈夫は、数人のスーツの男と共に、ストーカー男を連れて行った。
一応殺すつもりはないという旨はきいてはいたが、どういう形で決着をつけるのか、あまりききたくは無い話だ。
怯えきった男の顔を見て、それが有賀の事務所のビルの清掃業者の人間だと気がついたのは、男が引きずられて行ってからだった。
「……あー。そうか。それでうちの事務所は、何故か嫌がらせ対象にならずに無事だったのかね。自分の身元が割れそうなところは、一応避けてたってことかもね」
「あの人となんかいざこざあったの?」
「特に記憶にない。多分挨拶したくらい。無下にした記憶も、優しくした記憶もない」
「それはなんていうか、災難もここまで行くととんでもないな。お疲れ様、有賀さん」
男が引きとられ、アゲハが去ると同時に、サクラと有賀も里倉家を辞退した。里倉はもう少し話していたそうだったが、若者二人の方が疲れてしまった。
免疫がないとか自分にはまだわからないとか言った割に、里倉の態度はいつも通りで無理をしている様子もない。むしろ有賀などは逆に好かれたような気がする。
夕飯を食っていけばいいと言う誘いを丁重に断り、二人は工務店を後にした。また週明けに、サクラはここに出勤する。
少しバイクを走らせた後、サクラと二人、花がすっかり散った桜の下を歩いた。満開だったころに、ご近所さん連中と花見という名の飲み会に興じた、スワンハイツの駐車場の桜だ。
バイクは駐車場脇に止めてある。
さて家に帰ろうとなった段で、スワンハイツに寄ってもいいかと言ったのは有賀の方だった。
実は、有賀は例の鍵破り事件があってから、スワンハイツの部屋の中に入った事は無い。
着替え類も仕事で使う道具もできるだけ少量に抑える様に買いそろえた。今村にだけは、仕事で暫く止まり込みになるから留守にすると断りに行った。その際も、部屋の中には入って居ない。
アゲハの手筈で付け替えられた新しい鍵を差し込み、ドアノブを捻る。ついでに蝶番も直してくれたのか、記憶にあるよりもスムーズに、けれど気持ちの良い重さでドアは開いた。
「わぁ……ほんと、思ったより奇麗だね。なんか、生活感ないから、あんまり自室って感じじゃないけど」
靴を脱いで狭い台所を確認していると、後ろからサクラの声が投げかけられる。
「え。有賀さん、スワンハイツに戻んの? マンションの方もまだあるんじゃなかったっけ。ここって結局避難所でしょ。まあ、事務所には近いだろうけど。夏とかパソコンが火噴いて死にそう」
「エアコン買うお金くらいありますよ。なくても、前のマンション手放せば、設備くらい整えられるしね、と思ったんだけど実はちょっと迷ってる、かな」
「何が? スワンハイツにするか、マンションに戻るか?」
「んーん。住むのはスワンハイツだけど。でもそうするとサクラちゃんが来た時に困るかなーと思ってね。だってね、ここの壁本当に薄いんだよ。それはもう咳ばらいが聞こえちゃうくらいに。毎回毎回痴漢プレイよろしく声我慢したくないでしょお互いに。じゃあマンション残しといてたまにそっち使ってもいたたたたたサクラちゃん痛い痛いってば、ちょ」
「有賀さんって思ったよりブルジョア思考だよな……時々育ちの違いを感じる。じゃあもうマンションの方拠点にしたらいいじゃん……」
「うーん。でもね、僕、ここが好きなんだよね、結構本気でね。住めば都ってよく言ったもんだよ。サクラちゃんさえ隣にいなければ、壁の薄さも愛おしい」
「……ホテルいけばいいじゃん……男だけで入れるとこくらい知ってるし、汚さなきゃビジネスでも別に怒られたりしないから」
声が出るような行為はしない、とは言わないサクラが素敵だと思う。そうか触っても怒られないのか、と思うと、気分がまたふわりと柔らかくなるように感じた。
壁に寄り掛かって腕を組むサクラは格好良く、何度見てもほれなおしそうだ。
「それもそうか。じゃあ、まあ、とりあえず引っ越し本気でしなきゃだし、段取りはもう面倒だから、休み明けにぼんやり決めるとして、ねぇ、サクラちゃん」
「うん?」
ぐるりと部屋を回って、あるものとないものを確認して、玄関に戻って来た有賀は扉に寄り掛かるサクラに向かいあった。少し眠そうなサクラは、先程随分気力を使ったのだろう。今日は何か食べて帰ってもいい、と思いながら、有賀はサクラの手を取った。
まっすぐ見つめて、手を握る。
有賀が最初に好きだと思った、骨っぽくて大きい手を握る。
そしてサクラが何か言う前に、逃げる前に、しっかりとそれを告げた。
「あのね、好きです。僕の恋人になってください」
暖かい春の、桜が舞う日に、同じ場所で同じように好きだと自覚し、遠回しに伝えた。
けれど今度はきちんと言葉にしようと思った。先程、サクラがはっきりと言葉にしてくれたように。
好きです、なんて言うのは何年ぶりだろう。そんな告白は、十代の頃の記憶だ。もしかしたら言われた事はあっても、自分で口にしたことはないかもしれない。
ぽかんと、口を開けたまま絶句しているサクラがかわいくて、やっぱり好きだと思ったら、息をするのがすこしだけ辛くなった。
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