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CIGAR×SUGAR×VINEGAR 3

 電球の暖かい色合いが木のテーブルにしっくりと馴染む。  少しだけ煙草の匂いがする、比較的静かなバーだった。酒の種類には詳しくないのでわからないが、マスターは日本語に詳しく親切だ。恐らく観光ガイドに載っているのだろう。店内の客の半分程は日本人で、ここがワシントンDCだということを忘れそうだった。  店内のBGMはジャズだ。比較的渋い音楽をよく聴いているニールを思い出して、酒の味まで苦くなりそうだった。  自然とため息がでる。せめて電話を切らずに話をするべきだったと、今日の午後はずっとため息をつきっぱなしだった。 「いやぁ、溜息もでるよな。うちにも新人が泊まるとかで、日本と違って畳に転がしときゃいいっていう作りじゃないんですよって言ったんだけどさ。数日くらい我慢しろだなんてとんでもない会社だよ」  隣にはネクタイを取っただけの斉脇が居る。雨宮がちまちまとジントニックを飲んでいるうちに、彼はもう三杯目のウイスキーに口をつけていた。  酒に強い男らしい。その点だけは有り難い。酔った勢いで何かされても困る。  そもそも、一緒に飲む予定などこれっぽっちも無かった。  ニールと些細な言い争いをしてしまったとはいえ、だからと言っていきなり斉脇に鞍替えするだなんてあり得ない。ニールに対して言葉をぶつけてしまったのは、それだけ好きだからだ。  確かに自分は褒められた恋愛経歴ではない。思い返せば屑のようだと笑いがでる。むしろそれを知っても、過去はまあ問わないことにすると苦笑いで許してくれたニールの懐の広さに感謝していた。  浮気の心配をされても言い訳できない。過去の自分はホイホイと男と寝る人間だった。まだ付き合って数カ月だ。信じろと言われても、無理だろう。  勝手に頭に来て、勝手に怒って、勝手に通話を切ってしまった。  五分後にはもう後悔していて、午後の勤務には一切身が入らなかった。どうしよう。怒っただろうか。怒ってないにしても、気まずくてどうやって連絡を取ったらいいのかわからない。  そんな風に泣きそうな面持ちで居た雨宮だったが、どうやら斉脇は来週の日本スタッフ応援と社長来店のどたばたが憂鬱すぎて落ち込んでいる、と勘違いしたらしい。  素直に恋人と喧嘩をして、と相談する程の仲でもない。憂鬱なのは確かにそうだったので、声を掛けられた時も適当に合わせていた。心はNYの男の事ばかりだったので、あまりよく覚えていない。  飲みに行こうとストレートに誘われていたら断っていた筈だ。浮気の疑惑をかけられたその直後に、一度寝たことがある人間と酒の席を設けるなんて出来るわけない。  ニールがもし雨宮に呆れていたとしても、雨宮は諦める気などない。  どうにかしてNYに行けないかとシフトを眺めていたら、帰り際にミーティングをしないかと声を掛けられた。その時に居た日本人スタッフは雨宮と斉脇を含めて四人で、全員が夕飯がてらという事でOKした。  雨宮は非常に帰りたかった。帰って思いきって電話しようと思っていたのにそれが叶わず、しかし来週のミーティングだと言われれば断る事も出来ずに了承した。  それなのにいざ仕事が終わってみれば、他の二人は用事があるから先に帰ったと言う。すっかり先に店に行っているのだと思っていた雨宮は、もう少し怒っている事を伝えれば良かったと後悔していた。  二人でバーに並んで座り、早めに帰りたい旨を伝えると、悪びれも無く斉脇は笑う。 「いや、透一と飲みたいと思ってたんだけど、いつも忙しいからって断るじゃないか。恋人に操立ててるのもわかるけど、まるで俺がオオカミみたいな逃げ方をするし。折角新チームとして頑張ろうっていう仲間なんだ、たまには相談したりとか交流したりとかも必要だろ」 「……それは、気分を害されていたなら申し訳ないですが……でも、あの、私の恋人はすごく嫉妬深いんです。仕事でも二人きりで飲んでいるなんてばれたら、もしかしたらすごく怒るかもしれない」  本当はそんな事はないだろうが、嘘も方便だ。勝手に怒りっぽい恋人にしてしまったことに罪悪感を覚えつつも、言い訳を口にする雨宮に対し、斉脇は含みのある笑顔を返した。 「その時は俺が慰めてやるよ。怒りっぽい恋人に束縛される、なんて窮屈だよな。やっぱりこっちの人間は少し感情が大雑把というか、日本人の繊細な機微が伝わらない感じするだろ」 「それは、人に寄りますが。……あまり親密にしていると、斉脇さんの奥さんにも申し訳ないですし」 「同僚と仕事帰りに酒を飲んでるだけさ。もし、それ以上の関係がいい、っていう時は喜んで同衾するけれどね」  ああ駄目だ、基本的に意思の疎通が出来ていない、と雨宮は頭を抱える。  確かに日本に居る時の雨宮はタガが外れやすかった。ビッチと罵られても反論できないような状態だったし、気持ち良く抱いてくれるならば誰でも良かった。妻子持ちでも恋人持ちでも、むしろ本気になって面倒な事にならない分有り難いくらいだった。  慣れない海外で、雨宮も最初は身体を持て余した。ストレスの捌け口がなく、さりとて夜の街を徘徊する勇気は無い。もし最初のNY店勤務の時に身近に斉脇が居れば、体の良いセフレになってしまったかもしれない。  基本的に来るものは拒まずの生活をしていたツケだろう。こういう口説き文句にはイエスとしか答えてこなかった。どういう断り方をしたらいいのかさっぱり分からなくて、ただひたすらにどうでもいい話で帰るタイミングを伺うことしかできない。  日本に居た時のように、時差を気にしなくていいのは有り難いとはいえ、腕時計はついに九時を指している。ニールは休日で、姉の家に行くと言っていた。  一般的に何時までなら電話が許されるのかわからない。いつも電話はニールからかかって来た。何が何でも今日中に電話したいのに、どうして自分は大して好きでも無い上司と二人で酒を飲んでいるのだろう。  言葉の端々で口説かれるのが不快だが、勿論言えない。  氷ですっかり薄くなったジントニックは減らない。気が付けば斉脇は煙草に火をつけていて、その煙の匂いにまた泣きそうになった。 「透一の恋人って、男? 女?」  煙草の煙を吐きながら、斉脇が尋ねてくる。  それにどう答えたら正解なのかわからなくて、もだもだと言葉を濁していたら男だろうと言われた。 「……どうして、ですか」 「なんとなく。こんなに色っぽい男が、女の機嫌を取ってるなんて想像しにくいだろ。束縛系な彼氏か。外人だったらやっぱり夜はすごいのかな。流石に体力では劣りそうだけど、俺だってそれなりにうまい筈なんだけどな」 「やめてくださいよ……あの、私は本当に、斉脇さんとはそういうアレじゃ……上司として、尊敬はしていますけれど。だからこそ、そんな関係になったらいけないと思うんです」  これも後半は嘘だったが、他に言いまわしが見つからない。気持ち悪いからこっちに来るなと言えたら楽だが、明日からの仕事を思うとそう言うわけにもいかない。それに、元々は自分が撒いた種だという負い目もある。 「模範解答というか、随分いい子になったなぁ透一。まあ、俺はいつでも空いてるから、そのつもりでいてくれたらいいよ。厳しい恋人に嫌になったらおいで」  絶対にそんな事はないと思いつつも苦笑いで誤魔化す。  さてこの口説かれながら仕事の愚痴を聞く、という苦行は一体何時まで続くのだろう、と、雨宮が絶望的な気分で腕時計をちらちらと眺めていた時に、ポケットの中の携帯が鳴った。  慌てて取り出して表示されたニールの名前に、思わず携帯を落としそうになる。  慌て過ぎて電話なのでちょっとすいませんという短い台詞も噛んでしまう程だった。急いで外に出る階段を駆け上がる。バーから出た瞬間に通話ボタンを押したが、うまく言葉が出てこなくて頭が真っ白になった。 「は、はい……っ、あまみや、です、ええと、あの、」 『落ち着けよセンセイ。今どこ? 家じゃないよな』  いつも通りのニールの声だ。怒っていたり、気まずそうな気配もない。あまりにも普通だったので、雨宮の肩の力が一気に抜けた。 「え? ああ、うん、出先……。というかすごく帰りたいのにちょっと何時に帰れるのかなっていう感じで、帰ったらすぐに電話をしようと、思ってたんだけど……!」 『うん、その話をしようと思って、センセイのアパートまできたはいいんだが居ないし、店にも居ないし、ああこれはどっかで飯でも食ってるのかと思ってさ。邪魔なら帰ろうかと思ったけど、そうでもないなら攫いに行く。何処?』 「え、今こっちにいるの……!? ええと、何処だろう、あ、いや店の裏だと思う多分、ていうか店まで行くから、」 『一人で出てこれるのか?』 「急用です。引きとめられても振り切る」  きっぱりと言い切ると、電話口のニールがささやかに笑う声が聞こえた。良かった、本当に怒っては居ないらしい。  通話を切った雨宮は、急いで店の中に戻って急用が出来たのですぐに帰る旨を斉脇に伝えた。あまりにも必死な形相だったからか、特別引きとめられる事もなかったが、明日フォローは必要だろうと思う。ただ、今の雨宮は斉脇よりも優先させるべきものがある。  薄いカーディガンを羽織って外に出て、息を切らせながら走るとすぐにS&Cストアワシントン支店が見えてくる。NY店よりも看板が大きく店も大きいが、周りの店舗も似たような派手さなのであまり目立っているようには見えない。  まだ閉店時間ではない為、店内は明るくスタッフがせわしなく働いている様子が見える。  その店舗の入り口付近に、薄手のジャケットを羽織った背の高い男性を見つけた。  ふわりとした赤髪を無造作に括って、手持無沙汰にぼんやりと街を眺める姿に一瞬見とれてしまい、溜息が出そうな程だった。煙草を吸っていたらもっと絵になったに違いない。けれど店舗の前の道は禁煙エリアだ。  駆け寄る雨宮に気がついたらしいニールは、軽く手をあげて歩く。まずは謝ろう、とあんなに沈んだ気持ちになっていたのに、本人に会うと嬉しさが勝って理性が飛んでしまいそうだった。  会いに来てくれたことが嬉しい。話をしにきた、と言ってくれた。それがとても嬉しくて、昼間とは別の意味で泣きそうだ。 「あの……、ニール、その……っ」 「うん、わかった、ちゃんと聞くし俺も言い訳するから、とりあえずセンセイの部屋に行こう。立ち話じゃ感極まった仲直りもできない」 「え。時間は平気なの?」 「明日の朝戻ればいい算段付けてきた。センセイが嫌じゃなければだけれど」 「……嫌なわけない。昼間の事、謝りたくて後悔してた」 「俺もだ。やっぱり人間は顔を合わせて喋らないと駄目だな。行こうか」  そう言って雨宮の手をとる。  職場の前で男と手を繋ぐことに抵抗がないわけではなかったが、きちんと付き合っているのだし別にいいかと開き直った。見られて困る事もない。きゅっと握り返した。  部屋に入るなり抱きしめられ、キスを落とされ苦笑される。 「……俺のじゃない煙草の匂いがする。酒に誘われた?」  普段なら甘い軽口だと思えるが、今日はあんな口論のような事があったばかりだ。思わずパニックになりかけ、必死に現状を説明しようとしたら唇を塞がれた。 「…………怒って無いよ。どうしようもないことだってあるし、あと今日の電話は俺が悪い。こんなに俺の事を好きだと言ってくれる人を、疑うなんてどうかしてる。悪かった。ちょっと、余裕が無くて、俺の不機嫌を押しつけた」 「いえ、そんな……僕こそ、カッとなってしまって、あの、普段あんなこと、絶対しないのに、電話を切っちゃったりとか……自分が悪いのに、まるで貴方の心が狭いみたいな言い方をしてしまった。謝らなきゃって思ってたら、上司に捕まってしまって、逃げられなくて」 「だから攫いに行こうかって言ったんだけど。口説かれてたんだろ?」 「…………貴方以外に僕は微塵も興味がない」 「知ってるよ。その言葉を聞きに来た。もやもやしたまま離れて寝るだなんて胃に悪いことしたくないからな。やっぱり、センセイは生身で抱きしめられる状態が一番だ」  抱きしめられたままキスをして、息が続かなくなるほど求めた。首に回した腕にぎゅっと力を入れると、苦しいとニールが笑う。  本物だ、というのが嬉しすぎて熱が上がる。絶望的な気分だった午後が嘘のようだ。絶対に自分が悪い、と思っていた雨宮は、まさかニールが謝るためだけにわざわざ電車に乗ってやってくるとは思ってもいなくて、まだ現実だと思えない。  素直に思っている事を告げると、フィラデルフィアは割と近かったよと言われた。 「クロエさんのお宅は、フィラデルフィアなんだ……」 「そう。俺とセンセイの住居の真ん中から、ちょっとだけNY寄りだな。久しぶりに車の調子も見たけど、壊れてないし安心したよ。姉は車に乗らないし、俺はNYでは車を使う生活をしていないから、車庫で老いぼれていくだけで不憫だ。久しぶりの遠出前に、メンテも兼ねて点検に出してきた」  そう言えばニールが運転して行くと聞いていたことを思い出した。すっかりレンタカーを借りるものだと思っていたが、自家用車があるらしい。  再来週のささやかな旅行まで、険悪なままだったらどうしようかと思っていた。  いつものようにベッドに座ったニールは、雨宮を膝の上に乗せて髪の毛を梳く。 「格好つけようとしすぎて、ダサいなって気がついたよ。別にセンセイは、俺が格好悪くても嫌いにならいなだろうなって、知ってるのに」 「嫌いになんてならないし、格好つけないニールだって可愛くて大好きだよ。僕も、ちゃんと声を聞くのが怖くて切っちゃって、ごめん。信じて、なんて軽率に言えないのは自分のせいだ」 「まあ、うん……正直、嫉妬はする。センセイと一緒に寝るなんていう幸福、俺だけのものだと思っていたからな。本当は駄々をこねて我儘を言いたかったのを堪えたら、よくない感情だけが残った」  いつもの甘い声で、淡々と告白をするニールの声に酔う。好きだ愛してると言われている時と同じように、たまらなく心が疼いた。 「本当は、センセイが他の誰かと二人で喋るのも嫌なんだ。まさか自分が、こんなに嫉妬深いとは思わなかった。寛容な男だなんて思い込んでいたのは、多分恋をしたことがなかったからだな。……毎回帰る時にはさらりと手を振りながら、NYに掻っ攫っていきたくて仕方ない」 「……嬉しすぎてもうよくわからなくなってきた。夢かもしれない。……夢かな」 「現実じゃないと困る。これが夢なら俺はもう一度センセイにこんな恥ずかしくて格好悪い告白をしなくちゃいけない」 「格好悪くなんかないよ。全部、言葉にしてくれる貴方が好きだ」  そう言うと、微笑んだニールは柔らかいキスをしてくれた。  言葉は大切だ。そして感情を言葉にしてぶつける勇気があるニールは、やはり格好良いし、最高の恋人に違いない。 「サイなんとかとかいう例の上司も、本当は二発くらい殴りたいってのが本心だ。二発で済めば俺はきっと我慢出来た方だな。過去の事はどうでもいいと思うように努めるけれど、今現在センセイを積極的に口説いているっていう事実が最高にカンに触る」 「一生懸命断っているのに、全然堪えないから、もうどうしていいかわからなくて。でも、そんな風にニールが怒ってくれるのが、不謹慎というか申し訳ないけど、僕は嬉しい」 「わかるよ。俺だって道行く女にセンセイが嫉妬してるの見ると、やっぱり嬉しい」 「ばれてたんだ……」 「気がつかないわけがないだろ。センセイは案外、自分が思っている程ポーカーフェイスじゃない。いつだって感情が漏れてて、それがまた可愛い。あー……だめだな、今少し精神的に弱ってるせいか、センセイを見ると可愛いしか出てこない」  聞き捨てならない言葉に、甘い言葉に酔っていた雨宮も正気に戻った。 「え。弱ってるって、何かあったの?」  膝の上に乗り上げ首に手を回したまま首を傾げる。ニールは珍しく弱々しく笑い、眉を下げた。 「ちょっと。マイアミに行かなきゃいけない野暮用の件でね。あんまり楽しい話じゃないから、後で話すよ」 「ニールに、余裕がある時でいいよ。話してくれて、それで僕が聞く事でちょっとでも気が晴れるなら、喜んで聞くから」 「……センセイのその、妙に懐が広いところは、正直尊敬している。ありがとう、覚悟が出来たらなるべく簡潔に話すよ」  待ってるよ、と言葉を返すとニールは笑う。そのいつも通りの恋人の笑顔に安心して、雨宮はそれがどんな話でも最後まできちんと耳を傾けようと誓った。  ニールに誘われたマイアミ旅行は再来週だ。来週は雨宮にとって憂鬱な行事しかないが、それでも頑張ってこなそうと思えた。  恋が全てではない、と思ってはいるけれど、今のところ活力になるのはニールの存在だ。頑張ろう。そう決意を新たにしたものの、目の前にいる恋人から離れることはできなくて、ついいつものように甘えてしまう。年下の恋人は甘やかすのがうまくてずるい。  膝から降りる事が出来なくて、結局そのままもつれるようにベッドに倒れた。 「……駄目だ。貴方に頼られるような大人になりたい、と思うのに、目の前に居ると甘えてしまって、もー……」 「ふはは、素直なセンセイも可愛いな。俺だって相当甘えてるつもりだけど、まだ足りない?」 「……え、本当に? 僕ばっかり甘やかされている気がするのに」 「オーケー。じゃあ今度から格好つけずに分かりやすく駄々をこねるよ。そういうのも、案外悪くないかもなって気がついた」  とりあえず今日は嫌でも抱きしめて添い寝するからな、と言われて、思わず熱が上がってしまった。  来週は恋人に会えない。その分まで、不安にならないように、きっちりと補充しなければいけない。それはきっとお互いさまの事で、自分だけではないという自覚は、少しだけ雨宮の不安を消した。

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