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CIGAR×SUGAR×VINEGAR 4

 降り注ぐ日差しは眩しく、痛いほどに肌を焼く。 「……あつい…………」  助手席のアマミヤは一時間前からそればかりだ。  これが他の人間ならば『聞き飽きた』と一笑に付すところだが、二週間ぶりの恋人の愚痴は、なんでも可愛いと思えてしまう。相変わらずの事だが、恋とは恐ろしいものだ。 「だからアイス食うかって訊いたのに」  信号で止まった折りに、運転席の窓を開けた。あまり利口ではない古い車のクーラーの効きは微妙で、心なしか風も生ぬるい気がした。かといって外の方が涼しいわけでもない。  目的のマイアミの五月の最高気温は三十度にもなる。どうやら夏に弱いらしいアマミヤは、ぐったりとしていて少し可哀想だが、気だるげな表情は色気があって悪くない。  ニールがそんな風に思っている事など知らないアマミヤは、相変わらず気だるい声で弱音を零した。今日の彼は、かなり正直で子供っぽくてとてもかわいい。 「だって、こっちのアイスって甘くて。かき氷が食べたい……」 「砕いた氷にシロップかけたやつだろう? スラッシーの固い奴みたいな。あれだって十分甘いだろ」 「さっぱり感がちがう。こう、アメリカのアイスは、なんというかカロリー感というか……すごく濃厚でまったりしてて喉が渇きそうで、なかなか勇気が」 「一口のむ?」 「……シェイク? バニラ?」 「チョコレート」 「あの、ニールって結構、甘いのというかチョコ好き?」 「あー。割と食うかもしれない。そもそもきちんとした飯を食う習慣があんまりなかったからかな。やたらとチョコや飴やタブレットを食ってたら癖になった、かもしれない」 「ええと、その食生活は一人暮らしを始めてからってこと?」 「いいや。物心つくころから。料理できる人間が居なかったから」  シェイクのカップを渡しながらアクセルを踏む。ニールは運転の為に前を見たままだが、アマミヤはニールの顔を眺めている気配がした。 「……よく今まで病気にならずに生きてこれたね」 「それ、医者にも言われるな。あー、でも先月の健康診断では医者が目を剥いていたね。どんな高級栄養剤に変えたんだって詰め寄るから、恋人が出来て普通に飯を食うようになったって言ったら、死ぬほど笑われた」  入社してから付き合いがある馴染みの医者は、ニールに煙草をやめろなどとは言わない。喫煙に対してはもう諦めているらしいが、せめて食事をどうにかしろと毎年煩さかった。  自分ではあまり健康になった自覚は無い。相変わらず体重はあまり増えないし、白くてゾンビのようだと言われる。  それでも自炊の効果は着実に出ているのだろう。確かに目覚めも良いし、吐き気を覚えることは少なくなった。不健康なのは煙草のせいだけだと思っていたが、案外サプリメント頼りの生活が響いていたのかもしれなかった。 「健康診断はちゃんとやってるんだ。こっちは、会社全体で健康診断受けたりしないよね?」 「しない。が、メイスン女史の方針だ。できるだけ個人で行く努力をしろってさ。俺は特に稼ぎ頭だとかなんとか理由をつけられて、年に一回引きずられて医者に引き渡される。毎回とんでもない小言を貰うのが恒例の行事だったんだが、今年は笑われて末永く幸せにその恋人を手放すなって背中叩かれて終わったよ。センセイの効果は案外いろんなところに出ているらしい」 「それって僕のせいなのかな……まあ、でも、ニールが健康になるのは嬉しいよ。結構無理な移動強いてるし、倒れたら心配だし」 「アムトラックは禁煙だということを除けば結構楽しいよ。自分で車を運転した方が楽だけれど」  車の運転は久しぶりだったが、一度カンを思い出せば後はスムーズで、問題なく目的地に着けそうだった。  途中で何度か休憩を入れ、その度にアマミヤは助手席ばかりで申し訳ないと恐縮していた。  ニールは運転が苦にならないタイプだ。一人でドライブに行く程でもないが、恋人と一緒ならば比較的楽しく何処にでも行けると思う。  流石に日差しが眩しくてサングラスを手放せず、アマミヤの表情も薄暗いレンズ越しでしか見えないのが残念だが、目が合うと照れたように視線を逸らすので、多分サングラス姿がツボに入ったのだろう。  まだ春と言っても良い気候のNYでは長袖のニールも、今日はグレーのざっくりと胸元があいた半そでTシャツという装いだった。細身のジーンズに珍しく皮靴では無く、ブーツを履いた。それがどうも、アマミヤの琴線に触れたらしく、気がつくとうっとりと見つめられている。  ニールの方も、紺のポロシャツというラフな格好のアマミヤの白い腕や首筋を眺めては、相変わらずセンセイは白くてエロい、などと思っているのだからお互いさまかもしれない。  ベージュのパンツが爽やかに似合っている。とても落ち着いた服装で、アマミヤのきっちりとした人柄がよく出ている。  ニールの飲んでいたチョコレートシェイクを一口飲んで、やっぱり甘いと文句を言うものだから奪い取ろうとしたら、もう一口だけと避けられた。 「甘いなら俺が飲む」 「でも、冷たくて気持ちいい」 「…………いやちょっと、一口じゃない音がするんだが」 「慣れると、美味しい気がしてくる」 「ちょ、センセイ、それ俺のシェイク、あ。……全部飲んだな、ちくしょう」 「半分も入って無かったよ。全部だなんて人聞きの悪い」  ゴチソウサマデシタ、と日本語付きで空のカップを返される。この言葉は日本人が食事をした後に言う挨拶らしい。ニールの料理を食べた後に、アマミヤはきちんと手を合わせてその不思議な呪文を呟いた。  シェイクのお返しを要求すると、頬に軽くキスをされる。冷たい唇の感触が気持ちいいが、運転中なので深く口づけることもできない。  車の運転は好きだし、恋人と遠出するのも中々楽しい。けれど好きな時にキスができないのは辛いな、と本心を零すと、照れたように笑った。 「貴方は、放っておくと、本当にキスばっかりする……」  そんなことはない、と言おうとして、いや確かにその通りだと苦笑した。  元々、アマミヤとの関係はキスから始まったようなものだ。出会ったその日に唇を奪った。それは愛や恋なんて感情とは無縁のものだったけれど、今となってはそれが癖になってしまったかもしれない。  アマミヤと一緒に居ると抱き寄せてキスをしたくなる。セックスを拒否されても特別へこんだりはしないと思うが、キスを避けられたら少しどころかかなり堪えるかもしれない。  全くもって恋にいかれているし浮かれている。アマミヤは浮かれてもらって一向に構わないのだけれど、ニールは気の重い用事が控えていることを忘れそうになっていた。  ホテルに着いたらまず、荷物を置いて、面倒な用事を片づけなければならない。さっさと嫌な事を終わらせてカニと恋人と海に集中したい。  二人で相談した結果、ビーチで泳ぐ予定は入れなかった。ニールもアマミヤもそこまでアウトドアな遊びを選ぶ方ではなかったし、海は泳ぐよりも眺めていた方が好きだ。  細くて美人なアマミヤをビーチの喧騒に突っ込んだら、そこら中の男女を否応なしにひっかけまくりそうだ。そんな盲目的な意見を述べれば、アマミヤも『それはこちらの台詞だ』と言う。どうやら、お互いに随分と惚れているらしい。  結局明日はエバーグレーズ国立公園に行くことになっていた。動物園はNYにもあるし、水族館は日本に沢山あるだろう。けれど湿地帯でワニを見れるところはきっと他に無い。  マイアミまで来てどうしてワニなんだ、と言わない恋人で良かった。むしろ国立公園のサイトを見たアマミヤは、非常に楽しみにしてくれているらしい。  明日、何も考えずに観光に時間を費やしたい。  その為には、嫌でも両親に会わなくてはいけない。  実際に会うのは何年振りだろう。ハイスクール時代に一回、父親の方の再婚式に呼ばれたような記憶がある。あの頃のニールはまだ背も中途半端で、ガリガリに痩せた青白いだけの不健康そうな少年だった。  事実不健康で、毎日吐き気と頭痛に悩まされていた。自分の体調を慮ることが優先されていたので、ハイスクールのイベントも何もかも、あまり記憶にない。  父親が再婚したのは、ニールの知らない女性だった。けれどこれで縁が切れる、と思えば喜んで祝福しようと思った。まだニールは、素直な少年だった。  母親は入院してから会ってない。多分、最後に見たのは救急車で運ばれた時だ。あの時ニールは何歳だったのだろう。  思考が落ちそうになり、仕方なく煙草に火をつけて咥える。チョコレートシェイクの甘さが残る口の中に、独特の味が広がった。  アマミヤにはどこからどこまで話すべきだろう。別に、彼は何も話さなくても特別へそを曲げたりしないおおらかな人間だろう。家族の大事な用事があるから少しだけ抜ける、という説明だけでも、きっと怒ったりはしない。  今まで家族の事をきちんと説明したことはない。  親しい友人も少なく、その少ない友人は大概生家まわりの人間だ。生まれ育った町では、気が狂ったような家族喧嘩が起るノーマン家は有名すぎて、今更自己紹介する事もない。  関係ない人間には『アレが例のノーマンの弟の方だ』と言われ、友好的な数人には『毎日大変だな』と同情される。これが地元でのニールの立ち位置だった。  仕事を始めてからは、親しい人間など居なかった。会話をしないこともないが、飲みに行く程ではない。そもそもニールは酒には強くなかったし、わざわざ金を出して外食するなら家の中で煙草を吸っていたいと思ってしまう。  ニールの事を知らない上で親しい人間というものは、実はアマミヤが初めてなのかもしれない。  それに思い当たると、余計にどういう風に言葉を選んだらいいのかわからなくなった。  結局肝心な話は出来ないまま、車はマイアミ市街に入る。そこからは街のいかにも観光都市な喧騒に巻き込まれ、憂鬱な予定の事など本当に忘れてしまった。  NYも人は多い。観光客も多いが、やはりビーチとは違う。浮かれ切った観光客とテンションの高い店員が混ざり合って、自然と気分も高揚する。  暑いと定期的に呪いのように零していたアマミヤも、広がる青空と青い海と白いビーチに、感嘆の声をあげていた。 「……すごい……白い、きれい。沖縄みたい」 「センセイの生まれた場所は内陸? 海はないの?」  ホテルの場所を確認しながら声をかけると、海ばかりを眺めていたアマミヤがマンゴージュースの勧誘を断りながら答える。車が止まる度に路上販売が臆せずに声をかけてくる。流石の観光地だ。 「ちょっと車を走らせたら海はあったけど、日本海ってこういう感じじゃないというか……うーん、もっと黒いというか。砂浜もあんまり奇麗じゃないし岩も多いし。冬の方が荒波って感じで趣があるかな。こういう観光的な白いビーチって初めてだよ」 「うきうきしてきた?」 「勿論。ていうか、昨日からずっとうきうきしてる。……いや、先週からかな。慣れない本社社員の通訳も社長の接待も上司のセクハラも、今日の為に乗り越えたんだから。多分僕は、ニールが思っている以上に今すごく楽しいよ」  照れたようにふわりと笑う顔がたまらなくて、ついキスをしそうになって、道の真ん中だったと言う事を思い出した。  くそ、こんなにかわいいのにキスができないなんて。そう毒づくと、アマミヤはまた笑う。年上なのに、笑うと少年の様でとてもかわいい。 「ホテルに着いたらまずキスだな……つか、例のシャクシャクした名前のクソ上司はまだセンセイにちょっかいかけてんのか」 「サイワキさん。うん、なんか最近調子乗ってきて、終業後にガンガン電話来るようになった。適当に切ってるけど。あと今日は一切出てない。僕は公共機関で移動中という設定にしてある。まあ、ホテル着いたら一応折りかえすけど。本当に仕事の用事だったら困るし」 「面倒過ぎてとんでもないな。俺がいつかブチ切れて刺しに行かない事を祈るしかない。恋人がいるって言ってるのに、節操なしなのか?」 「ていうか僕が今の恋人に満足できてないって思われてるっぽい、かな。あの人の中での僕の恋人は、横暴で、束縛屋で、我儘で、人の話を聞かない、みたいなイメージらしいから。そんな事一言も言ってないんだけど、アメリカ人に偏見がある人っぽいし、誰が相手でもこの国の人はみんなそうだって思ってるのかも」 「……まあ、大概当たってると言えなくもないけど」 「え。そんなことないよ。僕の恋人は優しくて甘くておおらかで格好良くてかわいくて、言葉がとても素敵な人だし」 「誰の事かと耳を疑うな。我が社の同僚達が聞いたら笑い死にしそうだ。……でも、そう言ってもらえるのは正直嬉しい。あー……駄目だ、運転は楽しいがキスできない。我慢ばかりで狂いそうだ」  人で溢れるビーチサイドの道を抜け、やっとホテルを見つけた時にはかなりの量の煙草を消費していた。  アマミヤと一緒に居る時は極力吸わない努力をしようと決めているのに不覚だ。一刻も早く部屋に入りたくて、フロントに車を預けて部屋に案内してもらうのも早足で、アマミヤがずっと驚愕していることに気がつかなかった。  部屋に通され、やっとこれで二人きりだと気を抜いた途端、馬鹿、と詰られ眉が寄った。 「……俺の聞き間違い? 今何故か恋人に罵倒された気がしたんだが」 「広い……広すぎる! 絶対高いでしょうこの部屋……! 風呂から海が見える……!」 「うん。だって、人混みそんなに好きじゃないだろ、センセイ。じゃあやっぱり、部屋から海が見えないと、せっかくビーチに来た意味が……あ、そうか、高級すぎるからって怒られてるのか」  アマミヤの事だから金銭面の心配ではないだろう。そもそもニールが勝手に決めた遠出日程だったので、ホテル代はすべてニールが払うという話になっている。  自分が払うのだから、好きなところを取っていいだろうと考えて、何も考えずに出来るだけ広くて海の見える部屋を探した。  オフシーズン前ということもあり、急な日程だったがどうにか押さえることができたホテルは安くは無い。あまりモノの値段にこだわらないニールでさえも、二泊でこの値段かと二三度瞬きした程だ。  確かに無駄に広いしバスルームも広い。ベッドはキングサイズと書いてあったような気がする。広々としたベッドに並んだ枕は何個あるのかわからない。  落ち着いた木目のインテリアとモスグリーンの壁紙が美しい部屋だ。テラスは白い手すりで、いかにもビーチという感じがして良い。高いだけはある、と、ニールが感心している横で雨宮はぐるぐると部屋を見回してひたすらに恐縮していた。  その細い腰を抱き寄せ、ソファーに連れていく。唇を親指の腹でなぞり、額をつけて甘く囁いた。 「悪い、まあ、若干、浮かれていたっていう自覚はあるんだが。迷惑だった?」 「迷惑だなんてことはないけど、申し訳ないというか、でも、浮かれてこんな良い部屋取っちゃうニールもかわいいというか、あーもう。もうちょっとまともな服選んで来るんだった」 「なんで? 十分格好良い。俺なんかティーシャツにジーンズだ」 「貴方は何を着ても格好良いから。もー……これからニールは出かけるんでしょ? 僕は一人でこの部屋でそわそわとしながら待つしかない」 「満喫したらいい。風呂でも入って……あー、いや風呂は一緒に入りたいな。多分一時間くらいで帰ってくるよ。会いたくもない両親に、祝いたくもない祝いの品を渡してくるだけだ。……帰ったら、まあ、酒のつまみに俺の生い立ちでも聞いてくれ」  別に楽しい話じゃないけどな、と苦笑してしまうのは照れ隠しと不安からだ。  そんなニールにアマミヤは珍しく自分からキスをして、控え目にふわりと笑った。 「…………ん、……いってらっしゃい。貴方の帰りを待ってます」 「それ、いいな。毎日言ってもらいたい」 「電話でよければ。本当は僕だって会って言いたいけど」  今度はニールから唇を奪う。絡まる舌はいつもより少し熱い。体温が、気温のせいで上がっているような気がした。  珍しく胃が痛い。仕事では感じない気の重さだ。これから最高に会いたくない人間に会わなくてはいけない。けれど恋人が待っていてくれると思えば、まあ、我慢できない事は無い。 「早めに切り上げてくるよ。泣いて引きとめられる可能性が五十パーセントと言ったところだけど、振り払って帰ってくる。そしたら酒でも飲みながらキスをしよう」 「……キスだけ?」 「キスじゃないことも。なんてったって二週間ぶりだ」  シェイクのせいで少し甘い恋人の舌を堪能しながら、この甘い恋人が居てくれてよかったと思った。

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