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CIGAR×SUGAR×VINEGAR 5
着替えるのかと思ったが、結局ニールはティーシャツのままで無造作に紙袋を抱えて出て行った。
一人でビーチサイドをうろついても良かったのだが、知らない店に入る勇気もない。海を見るだけなら部屋のテラスからでも十分だ。
思い出して携帯を見て、一時間に一回斉脇からの着歴が残っていることに気が付いて苦笑が漏れる。
あの人も暇人だ。現地採用のアメリカ人スタッフからは連絡は来ていないし、特別な用件でもないだろうと思いつつ一応折り返しの電話をかけ、移動中であった事を詫びるとやはりどうでも良いような愚痴混じりの話をされた。
暇を持て余してはいたが、旅行先でそんな話を聞きたくない。悪い人ではないと何度も自分に言い聞かせている。そうでもしないと、ニールではないがキレてしまいそうだ。
相手の都合を考えない人間が苦手だ。
旅行に行くと言っているのに、自分の都合で電話をかけてくる人は嫌だと思う。そういう人でも楽しく付き合える人間を探してほしい。心が狭いと言われるかもしれないが、雨宮の感覚では斉脇は一緒にいて気疲れする人間だった。
適当に三十分ほど愚痴を聞き流し、口説かれそうになったのでニールを口実に電話を切った。ちょっと用事があるので急用ならメールをくださいと言ってはみたが、これは昨日も本人に伝えてある筈なので恐らく意味は無いだろう。
面倒くさい、とため息を吐き、NYに帰りたいな、と思う。
最初はあんなに嫌でたまらなかった寒くて治安の悪い街が、今は驚くほど恋しい。
移動願いなんて出したところで意味は無いだろう。だからと言って、会社を辞めてNYで新たに生活する勇気もない。ニールのことは好きだが、実家の母と妹の事を考えれば、雨宮の故郷は日本の田舎だと思える。
母ののほほんとした顔を見たのは、正月前に帰省した時だ。時折電話で連絡は来るが、相変わらずぼんやりとしていて、女手一つで雨宮と妹の二人を育て上げたとは思えない。
父は雨宮が物心つく前に亡くなっている。母子家庭だったが、比較的幸せな生活だった。雨宮は母が好きだったし、妹とも仲が良い。
ニールも姉の話はよくする。なんだかんだと文句を言う割にはきちんと連絡をとっているようだ。ただ、それ以外の家族の話はほとんど聞かない。
いい歳の大人だし、別に、本人に問題がなければ家族の事など気にはならない。
ただ、いつでも飄々としているニールが時折溜息を吐くのは大概家族の事らしく、その悩みを解消できる手助けができるなら、喜んで耳を貸そうと決意していた。
うとうと、涼しい部屋のソファーの上で田舎の母の事を思い出していたら、いつのまにかうたた寝をしていたらしい。
気がついた時には少しだけ陽が暮れていて、髪の毛を撫でられて目が覚めた。ふわり、と雨宮の好きな煙草とミントの甘い匂いがする。
何度か重い瞼で瞬きを繰り返した後、胸に抱きついておかえりと言うと、ぎゅっと抱きしめられた。
「ただいま。移動で疲れた?」
「助手席の旅は、十分に楽しかったから問題ないよ。ちょっとソファーが柔らかすぎて」
「飯は食いに行く? ルームサービスにする?」
「おなかはすいてないけど、多分寝起きだからかな。もう少ししたら折角だから美味しいモノが食べたい、と思うかもしれない。ニールは、疲れてない? 平気?」
「…………ちょっと疲れた」
甘く苦笑する恋人に、胸が切なくなる。
いつでも自信に溢れたニールがこんな頼りなく見えるのは、ひどく珍しいことだった。
きちんと身体を起こして、目元にキスをしてから手を握る。
話をしようか。そう言うと、ニールは少しだけ不安そうに笑った。
テラスの方に見える海は、昼間とは打って変わって黒く染まりつつある。夕陽のオレンジ色が残る空に、夜のネオンが光りはじめていた。
「あ、でも、ニールが疲れていて、もうご飯を食べて寝てしまいたいっていうなら、僕は隣で貴方の髪の毛を撫でながら静かにしてるけど」
「それも、ちょっと魅力的だな。でも今は少しだけ弱っているから、センセイに話を聞いてもらいたいかもしれない」
「僕でよければ。いくらでも」
弱々しく笑ったニールは、大好きだよとキスをしてから、ソファーの上で静かに話を始めた。
それは、ニール・ノーマンのあまり語られる事のない二十五年の人生の話だ。きっとこんな話をするのは、センセイが初めてだと言われ、言いようのない気持になった。
「別に、大したこともない人生だよ。大病もない。命をかけたエピソードもない。ただ、両親がどちらも屑だっただけだ。だからあの二人を除外しちまえば、俺の人生は酷く平凡だ」
ニールはいつも通りの低い甘い声で、滔々と語る。抑揚はあまりない。淡々と言葉は羅列されるのにどうしてかその言葉は胸に刺さるような響きを持った。
「普通に学校に行って、ごく一般的なインドアな少年時代を送った。好きな食いものは特になし。過保護な姉には勝気な友人が居て、時折小言を貰いつつ連れまわされる。割と幸せだったと今なら思う。当時は結構世界を恨んだりもしたけど」
「ご飯を、作る人が居なかったっていうのは?」
「うん。十歳だか十一歳だかの時に母親がアルコール依存症で入院した。その時に父親が育児放棄して、俺たち姉弟は母方の祖父母の家に預けられたんだが。それまでは、シリアルと栄養剤が食い物の全てだと信じてたよ」
ニールの当時の食事は、本当にそれだけだったのだという。
母親は酒を飲む事以外の全ての動作を放棄し、家の中はゴミと埃で廃屋の様だったという。
父親はそんな妻に愛想を尽かし、家に戻ってくることはほとんどなかった。それでも暮らしていた家が妻の持ちモノだったので、出ていけとも言い難かったのだろう。
適当に働き浮気を繰り返して遊んでも、酒乱の妻にそんな夫を責められる理性はない。
飲んで喚き泣き、酒が無くなると真っ青な顔をして震えて悪魔が見えると叫ぶ。そんな母親は、到底まともな生き物には見えなかった、とニールは言う。
「モンスターだったな。人の形をしたわけのわからないものだった。父親に至ってはほとんど家に居なかったから、アレが父だと認識出来たのは母親が病院にぶち込まれてからだった。情夫か何かかと思っていたら、そいつが実の父親だっていう。流石の俺も三日はわけがわからなくて現実を呑み込めなかったよ。姉は一週間寝込んだ。まあ、そらそうだ。……時折家に来て自分をレイプする男が、まさか実父だなんて信じられるわけがない」
「……クロエさんは、その時いくつ?」
「俺の六つ上だ。多分十三歳くらいから、そういう事は始まったんじゃないかな、と思う。俺は古本屋に入り浸っていて、家には殆ど居なかった。まあ、それは姉も一緒だったんだが。母親が入院して父親が家に居つくようになってきて初めて、姉は自分の危機を認識したらしい。まずは友人のオリビア・メイスンに全てを打ち明けた。その次は俺だ」
その時のニールの心情は想像することもできない。
「ひ弱なニール少年はあまりにも衝撃的すぎて、その辺の記憶が曖昧なんだが、どうやら父親を殺そうとしてメイスンとクロエに殴られて止められたらしい。これが全く記憶にない。俺がもう少しガタイのいい子供だったら、今頃は少年院上がりでこんな高給取りじゃなかったかもしれないな。メイスンと姉と、栄養を取らせてくれなかった屑な母親にそこだけは感謝だ」
自虐的に苦笑するニールにかける言葉が見つからない。何を言ってもしらじらしくなりそうで、ただ、雨宮は彼の胸に額を預けた。
ニールの言葉が零れる度に、触れた肌から直接言葉が響く。低い声はきもちいいのに、その言葉の中身は酷く痛々しい。
同情を引くために彼は喋っているわけではない。ただ、吐きだしたいのだろうと思う。それでも雨宮は少年時代のニールと、そしてその姉を思うとどうしていいかわからない気分になった。
アメリカでは、家庭内虐待はひどく多い、という話は聞く。淡々と語られるニールの話は衝撃的で、雨宮から言葉を奪う。
じっと黙っている雨宮の心中を察したらしいニールは、優しく頭を撫でて笑ってくれた。
「困らせてる? ……別に、センセイを泣かせたいとか、そういうわけじゃないんだけど、事実を話すとコレ以外に言葉が無いんだ。もう昔の事だし、姉には今も支えてくれる友人がいるし、それに彼女には小説という仕事とファンが居る。毎日楽しそうで良い。俺だって仕事に不満はないし、今はこうやって一緒に旅行してくれる恋人もいる。だらだらと、両親に対する不満と恨みを燃やしながら生きてるわけじゃない」
「うん。……ニールの、そういうところが好きです。でも、やっぱり僕は子供の頃の貴方を思ってしまう」
「同情されるのも、心を痛めてもらうのも、愛だと知ってるよ。ありがとう。まあ、全部過去のことだって笑えてればこんな話はしてないんだがな。……久しぶりに会ったけど、まあ、相変わらずだったよ。殴らなかったことだけは先に報告しておく。こんな観光地で警察沙汰起こして、恋人との休暇を台無しにしたくはなかったからな」
冗談めかして言うが、きっと、大変な時間だったんだろうと雨宮は想像した。
父親の再婚は四度目だという。過去三度は全て別の女性だった。そして四度目の報告は、アルコール依存症を克服した母親との再婚だ。
クロエはこの手紙を読んだ後の記憶が少し飛んでいるのだという。気がついた時には机の下に倒れていて、わけもわからない頭でオリビアに電話をしなくちゃ、と思った。そして電話をかけてから、どうして電話をしなくちゃいけなかったんだっけと首を巡らし、床に散らばった手紙を見つけ、その後もう一度卒倒したのだという。
それだけのトラウマなのだ。本人達は良くとも、振りまわされ傷を負うだけ負わされた子供は、祝福など出来るわけがない。
一度姉の代わりに電話を入れたニールは、喋る事も嫌過ぎて関わらないでくれとそれだけを言い捨て通話を切ったが、それでも両親のクロエに対する泣き落としは止まなかった。
ニールにはその効果がないと判断したのだろう。けれどクロエには尚更それは逆効果だ。彼女は今も、倒れてしまう程に両親にトラウマがある。
大事なクロエ、という文面で昼のアップルパイを全て戻してしまったという話は、雨宮の胃が痛む程だった。
実際にクロエ・ノーマンに会った事はない。けれど何度か書店で本はみかけていたし、時折作家業のブログもチェックしていた。
とても柔らかい文章を書く、優しい女性という印象だ。ふんわりとした赤毛はニールとそっくりで、白い肌にはそばかすが浮いている。瞳はニールの方が薄いかもしれない。鼻は低めだが、笑った顔がとても似ていて、ころころと可愛らしい方だな、と思った。
そんな彼女が吐くほどのトラウマというのは、想像することも辛い。
「元々モンスターだと思っていたが、中身も人間じゃないと気がついたよ。病院から出たと言っても、心を入れ替えたと言っても、結局は元から人じゃなかったんだ。関わらないでくれと言っても、聞いちゃいない。どうして想像ができないんだ、と頭を抱えたが、まあ、世の中自分と同じ感覚と考えの人間ばかりじゃないことは仕事中に何度も学んでいるからな。ああいう生き物だ、と納得するしかない。俺はまあ、それでもいいが、姉には本当に実害がありそうだし、ミス・メイスンと相談してさっさと祝って満足させてさっさと逃げようという結論に至った」
「……逃げる?」
「そう、引っ越す」
唐突に湧いて出た言葉に、思わず首を傾げてしまう。そんな仕草に笑いを零し、ニールはやさしく髪の毛を梳きながら甘い声を落とす。
「センセイの国には戸籍っていうくそ面倒な制度があるみたいだが、こっちにはそんなもんは無い。ただ、逃げればいい話だ。接触禁止令を取ってもいいんだが、裁判中に姉が衰弱して死にかねない。まさかモンスターがタッグを組み直すと思っていなかったから、今まで特別居場所を変えたりはしなかったんだが、そうも言っていられなくなった。とりあえず姉の方は引越し準備に追われているよ。あの家は貰いもので溢れていてキッチンの片づけだけでも半日仕事だ」
「引っ越すのは、お姉さんだけ?」
「とりあえずは。ただ、行く行くは俺も一緒に暮らした方がいいんだろうな、とは思ってる。そんなわけで引越し先はワシントンを押してきた」
「…………え? え。ええと、それって、ニールがワシントンに越してくるってこと? え、仕事は?」
「知ってるか、ウチののほほん姉の大親友は自分の子供の次にクロエが大事よなんて臆面もなく言う奴で、しかもそいつは俺の会社のそこそこえらい人間なんだ。ワシントン支社を作ればいいんじゃないの、なんて言っていたよ。まあ、今のところどうなるかはわからないけどね。結局全員NYに集結するかもしれないけど、うちの上司はわりと本気の口調だった」
「クロエさん、すごい……」
「いい奴かどうかはさておき凄い人間に愛されてるよ、うちの姉は。そんな感じで苦痛な時間を過ごしてきた俺の昔話は終わりだ。どうかな、ハッピーエンドになりそうなんじゃないか?」
目を細められて頬を撫でられ、たまらなくなって泣きそうになってしまった。
まさか、そんな話になるとは思ってもいなかった。辛い話を聞いていた筈なのに、結局最後はニールが近くに引っ越してきてくれるかもしれないという話になっていた。
話の流れが速くてうまく理解できない。
ぽかんとした気分のまま、それで平気なら構わないし嬉しいけれど、と本心を零した。
「居場所がまたばれたら、また引越し?」
「どうだろうね。今度こそメイスンがキレて法廷沙汰にするかもしれない。それは姉次第だな。今のところは逃げるのが一番ベストだという結論だ。売れっ子の恋愛小説家がちょこちょこと引越しを繰り返したところで、何もおかしな事はない」
「それはそうだけど。僕は、不謹慎だけど嬉しいけれど。……もっと田舎と言うか、遠くに越した方がいいんじゃ?」
「嫌だ。俺が死んじまう。週末しか会えない現状だって死にそうなんだ。これ以上遠くになったらセンセイ不足で干からびる」
「……嬉しいし辛いし切ないしかわいいし、もうどういう顔したらいいのかわからない」
「思ったまま好きに反応してくれていいよ。そんな風に、俺の話を真剣に聞いてくれるセンセイが好きだ」
アイラブユーを囁かれて、その言葉の甘さにくらりと目を閉じる。頭の中に響くニールの低い声は心地いい。暖かい首筋に唇を落として額を擦りつけ、僕も好きだと言葉を返す。
何度言っても足りない。何度言っても溢れてくる。
好きだよという言葉がこんなにも自然に溢れてくるだなんて知らなかった。
「まあ、昔の話とこれからの予定はそんなとこだ。あとは、今日は殴らなかったが胸糞悪かったから疲れた。モンスターには言葉はやっぱり通じない、って再確認しただけだったよ。後センセイと話すことは今日の予定だけだな。疲れた? 寝る?」
優しく髪の毛を撫でてくれる事に胸がいっぱいになっている筈なのに、そう言えばと腹は空腹を訴える。
「……おなかはすいてる、気がする。ニールは?」
「センセイの顔見て安心したら腹減ったよ。何か食べに行こうか。ストーンクラブは明日にしよう。随分と並ぶらしいからな。適当にうまいものを食ったら風呂入って寝て、明日は何も考えずに恋人を満喫したい」
「やっぱり、疲れてる?」
「いや、そこまでじゃないけど。どうして?」
「……せっかく大きいベッドだから」
甘えるように鎖骨を引っ掻くと、その意図に気がついたらしいニールが珍しく動揺したようだった。
一瞬息を飲むような間があり、ちょっと空気を読まなかっただろうかと後悔したが、すぐにへなりと重い身体がしなだれかかる。
甘えてくれている。そう思うとどきどきする。
「あー……もう、センセイは、すぐにそうやって俺をエロい気分にさせるから、よくない……昼間だって散々我慢していたのに」
「え、昼間は誘惑なんかしてないよ。今はちょっと、そのー、やりすぎたかなって、思ったけど」
「やり過ぎ大歓迎だ。すごくいい。暑さにぐったりしているセンセイはとんでもなくエロくて何度か車をモーテルに突っ込みそうになった」
「……こわい。あんなに格好良くスマートに車を運転してたのに、そんなこと考えてたなんて」
「ポーカーフェイスは得意なんだ。俺の頭の中なんか大概煙草かセンセイの事だよ。考えすぎてテンパってわけがわからなくなることもあるけど、まあ、それも含めて結構楽しい。恋愛は甘いだけじゃないなんて先人は言うけど、センセイはいつだって俺には甘い」
その台詞をそのまま返したい、と思う。
ニールはいつでも雨宮に寛容で、甘い。先日喧嘩を売ってしまった、と雨宮が顔面蒼白で後悔していた時も、予定を蹴って会いに来てくれた。甘すぎて、甘え過ぎていて、年上らしくしっかりと構えなくてはと思うのにうまくいかない。
余裕を持った大人でありたい。
その目標はまだまだ達成されそうになくて、暫くは雨宮を悩ませそうだ。それでも、出会った事に後悔などない。
感極まってキスを繰り返していたらどちらともなく腹の音がなって、二人で苦笑して身体を離した。
「まずは何か食いに出よう。たまには、俺が作る適当な料理とデリ以外のものも食った方が良い」
濡れた唇を指で拭われて、くすぐったくて笑う。
この人が、生きててくれて、出会ってくれて良かったなと、唐突に思ったけれど、それはベッドの上で言おうと思った。
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