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CIGAR×SUGAR×KISS 4
ふんわりとした特徴のない笑顔を浮かべた男は、アマミヤに右手を差しだし、ニコラス・ホワイトですと名乗った。
「先ほどはどうも、大変失礼な事を口走ってしまい、申し訳ないです……。カリテス社NY支店のスタッフとしてノーマンと一緒に働いています。僕は、彼ほど目立つ売上があるわけじゃないけどね」
「アマミヤトウイチです。ええと、日系の店舗の管理で、こちらに来ていまして――、ご丁寧に、どうもすいません」
アマミヤが恐縮しながら握手を交わしている様を横目に、ニールは濡れタオルを持ったホワイト夫人との戦いを強いられていた。
「もっときっちり拭かないと……!」
「平気だ、ジュースだろ? 化学薬品をかけられたわけじゃないんだ、そもそも黒いしシミなんざ目立たないよ。どうしてもと言うなら自分でやるから、そのタオルを貸してくれ」
「そうは言うけれど、もし虫が寄ってきたら……いっそ着替えをこちらで用意して……」
「結構だ。おいニコラス、うちのセンセイと楽しく握手してないで助けてくれ。おまえの奥方は心配性すぎる」
ニールが声をかけると、ニコラスはびっくりしたように三度ほど瞬きをした。
実際、ニールが想像するよりも彼は驚いていたと思う。なんと言っても、同じ会社で働くようになってから一年半経った今も、ニールが社内の誰かと談笑することなどほとんどない。
特別避けているわけではない。社内の人間の名前も顔を把握しているし、用事があれば声をかける。ただ、必要以上に近づかないということを徹底しているし、同僚達も恐ろしい程の売り上げを叩き出すがつきあいの悪いニールに、気さくに話しかけてくることはない。
転勤直後は何人かおそれを知らずに握手を求めてきたものだが、礼儀として一度挨拶を交わしたきり、仕事場のフロアと喫煙ルームを往復するだけのニールをそれ以上構う者はついぞ現れなかった。
柔らかい顔を微妙に硬直させたニコラスは、十分に戸惑った後に口を開く。アマミヤ相手には柔らかい彼の笑顔も、ニールと対面するとどうしても少し固くなる。それでも、微笑んで話しかけてくれるだけマシだろうなと思うくらいには、ニールは他人を拒否している自覚はある。
「……君に名前を呼ばれる度に驚く、ってみんな言ってたけど、本当だ。僕の名前を覚えていてくれてありがとう、みたいな気分になるなぁ」
「失礼だな、同僚の名前くらい把握してる。単に呼ぶ機会がないだけだろ。アンタがオペレーターなら何度だって名前を呼ぶさ。どうでもいいから彼女を落ち着かせてくれ。このままじゃパンツ一枚にされそうだ」
センセイも助けてと巻き込むと、アマミヤはエイミーをベンチに座らせて笑う。
「確かに、べたべたしたジーンズのまま帰るのは嫌じゃない? 新しいズボンを買ってもらったら?」
「バカ言うな、姉にだって洋服なんざ買ってもらいたくないっていうのに、同僚の奥方にボトムを贈られるなんて意味がわからない。嫌だ。別に俺は怒ってないってどうやったら伝わるの?」
「そのまま言ったらいいじゃない」
「……人事だと思って笑ってるけどな、俺は必死なんだ。ニコラス、わかった、今度珈琲おごってくれ。それでこの件はチャラにしよう。濡れタオルでジーンズを拭く必要も、新しいパンツを買う必要もない。ほら、奥方を納得させて」
ノーマンも困っているから、とニコラスが声をかけ、ホワイト夫人はやっと握りしめたタオルを渡してきた。
パニックになると周りが見えなくなるタイプのようだ。同僚から『ふんわりニコラス』と呼ばれている彼と並ぶと、まるで凸凹夫婦だ。
先ほどまで泣く寸前だったルシーと呼ばれた少女は、ホワイト夫妻がかけつけた事でどうにか笑顔を取り戻したようだ。子供は得意ではないが、泣かれるよりも機嫌を取った方がマシだと思う。
「娘さん?」
エイミーと一緒にベンチに腰掛け、カメレオンのぬいぐるみに自己紹介しているルシーを見やり、タオルでジーンズを拭きながらニールはニコラスに問いかける。
だらりと話しかけるニールに、ニコラスは慣れないようだ。
「妻の姪っ子だよ。カリフォルニアから来てるんだ。僕たちはお守りさ。落ち着かない子ですぐ走る」
「元気でいいんじゃない? まあ、ぶつかったのが俺でよかったよ。怪我もないみたいだし」
「いやぁ本当にすまない……まさか、こんなところでノーマンに会うとは……彼女は親戚の子供?」
「残念ながら血縁じゃないよ。メイスン女史の娘」
誰からも恐れられ愛される女上司の名前を告げると、ニコラスは目を見開く。
「……うそだろ。彼女が? ああ、いや、そういえば似てるなぁ目元とか……将来有望な美人ってことか。しかしなんでノーマンが女史の娘さんと動物園に?」
「のっぴきならない事情があって子守りを任されたんだ。俺が個人的にミス・メイスンと仲が良いわけじゃない。うちの姉とメイスンが悪友なんだ」
「ああ、作家のお姉さんか……そういえば、歳の頃も同じくらいなのかな。いやぁ、縁と偶然ってすごい。うちの姪っこが甥だったなら、運命の出会いだったかもしれないのになぁ」
「俺もぜひ同世代で運命の出会いをしてほしかったよ。エイミーはすっかりセンセイがお気に入りで、うっかりしてると奪われそうだ」
思いも寄らないニールの軽口に、ニコラスはどう対応していいか迷っていたようだ。アマミヤがニールの恋人だという事はすっかりバレているし、別段隠すつもりもない。子供同士が自己紹介している間、黙って向き合っているのも気が滅入る。
もう少し当たり障りない話を振った方が良かっただろうか、と、ニールが思案し始めた頃、やっとニコラスは肩の力を抜いたように笑った。
「キミが、お客様に人気があるのが、わかるな。確かにこんなクールガイに軽快な軽口を言われるのはおもしろいし、自分だけ特別になった気分になるね」
なるほど、ニコラスの周りにいつも人がいるのも頷ける、とニールも納得する。
彼はとても素直で、おおらかだ。休日の動物園ではち合わせた同僚が、ニコラスだったのは幸運だろう。
特別に嫌いな人間はいないが、興味があるわけでもない。話しかけられれば喋る。けれど、奇遇だな夕飯でもどうだと誘う気はまったくない。そんなニールに対しても柔らかく対応してくれるのだから、ニコラスはできた大人だと感心した。
彼の柔らかさは薄々と気がついていたが、ニコラスの周りはいつも人間で溢れている。人間自体と交流を持とうという気が全くないニールは、あえて人の輪の中に首を突っ込む気は毛頭なく、結果彼と話すこともなかったわけだ。
「あんたが人気なのもわかるよ、ニコラス。他人の長所を見つけるのがうまいタイプだろ。隣に居るとありがたい感じの人間だ」
「良い人っていうのはよく言われるけどねぇ。どうにもそれが売り上げにつながらない」
「……良い人すぎるんじゃないか? 誉めてばっかりじゃ客は興味を持たない、というのが俺の持論だ。誉めてからほんの少しの隙を見つける。それを指摘してやると、大概は完璧に近づこうとする、って俺は考えてる。まあ、あとは誉められっぱなしだと人間はなぜか警戒するっていうのもあるんじゃない?」
「いや、ちょっと待ってくれ、その話はぜひゆっくり聞きたいよ。こんな立ち話で終わらせるにはもったいない、けど、でも家族の横でするような話でもないなぁ……ちくしょう、もっと早くキミと話しておくべきだった。ニコチンモンスターだなんてあだ名で呼ばれているからみんなキミに近づかないんだ」
「寄られても困るからいいよ。一人が好きなんだ。あいつは良い奴だ、なんて言い触らすのも勘弁してくれよ。アンタが俺の事を気に入るのは構わないが、他人がそれに追随してくるのは面倒くさい」
友達が居なくても割合人生楽しいよ、と付け足すニールに、眉を下げたニコラスはしばらく後に暖かい春に咲く花のように笑顔を作った。
「やあ、つまり僕はキミの秘密を知ったってことだな。なんて光栄なことだ!」
秘密の恋人も拝見できたしね、とニコラスはアマミヤに笑いかける。急に話を振られ、仄かに照れた気配を纏ったアマミヤはエイミーをホワイト夫人にまかせてニールの隣に寄り添った。
「ジーンズ、乾いた?」
「あー……乾いちゃいないが、まあ、平気だろ。何度も言うけど、薬品を零したわけでも香辛料をぶちまけたわけでもない。薄いジュースなんて顧客の香水の匂いを延々と嗅がされるよりも随分とマシだ。まだ本命の爬虫類館に行ってないだろ? このまま俺の洋服の汚れを理由に引き上げたら、エイミーに半年くらいは恨まれそうだ」
「きみがそう言うなら、ほんとに平気なんだって知ってるけど……エイミーはルシーともうちょっと一緒に居たいみたいだよ。おねえちゃんが出来た気分で嬉しいのかも」
視線だけでホワイト夫妻と一緒でも平気かと問われ、恋人の奥ゆかしい気づかいに思わず頬が綻んだ。いつものように目を細めると、アマミヤは照れたように目を泳がす。
奇特な恋人は、ニールが甘い声で口説く度にキミの全てが好きだと零す。全て、という言葉に漏れぬように、顔も好かれているらしい。
外でなければ、もっと言うならば同僚の前でなければいくらでもキスをして口説くのに、と口惜しくなる。特に園内は禁煙で、その苛立ちを誤魔化す為に何度かアマミヤの唇に手を伸ばしかけた。
煙草も吸えない。アマミヤにもキスができない。その上普段喋ることもない同僚とその妻と姪なんていう気心知れぬ人間ともうしばらく一緒に居なければならない、というのは正直拷問だ。
辛い。できれば勘弁してほしい。だが今日の主役はエイミーだ。大人しく自分の意見を中々言わない彼女がルシーと一緒に居たい、というのならば尊重しない訳にはいかない。
「センセイが平気なら俺は構わないよ。どうせ後ろからくっついて行くだけの駄目なボディガードだからな。ただ、もしかしたら、禁煙に耐えかねてセンセイの手を握るかもしれない」
「…………きみが平気なら僕は手を繋いだままだっていいよ馬鹿」
「それ、ホントだな? 俺は構わないよ、どうせニコチンモンスターの恋人は日本人の男だってバレているんだ。誰かに見られたって、美人なセンセイを見せびらかせるだけだ」
「ストップ、ストップ。いえに、かえってからにして、もう、あの、どうしてニールはいつもそうやって痒いの……」
ニコラスに対して本当にすいませんと謝り赤い顔を隠すアマミヤはとんでもなく愛らしい。可愛くて可愛くて、早速手を繋いでにやけていたら、何故だか一緒に照れてしまっていたニコラスが鼻を押さえながらふやけたような声を出した。
「今日は、本当に驚く事ばかりだ。……キミって、笑うんだな」
「それ、よく言われるけど、みんな俺をなんだと思ってるんだ?」
「僕も最初は、この人笑うのかなって思ってたけど」
「……待て、センセイ、それは初耳だ」
「え、だってニール笑わないでしょ。だから最初に笑顔見た時のインパクトすごかったよ。あと、爆笑してるときは結構かわいいよね」
「爆笑……爆笑するのかノーマン……?」
「センセイもストップだ。それ以上言うと卵がホールインワンをした話をするぞ」
この脅しが効いたのか、アマミヤは口を噤んだが、ニコラスは暫く物珍しい視線を隠そうともせずにニールを見ていた。
珍獣みたいに見るなと言うと、珍獣じゃないかと笑われる。小気味良い会話は、割合楽しくニールにとっても発見ではあった。
一人は楽だが、一人じゃなくても別段苦ではないらしい。明日からきっと自分はデスクに座るニコラスを見かけた際に、手を上げて挨拶をするだろう。その時の周りの人間の反応を考えるとやはり若干面倒だとは思ったが、だからといって彼に声を掛けない未来は無いような気がした。
アマミヤと会ってから、どうも、自分はよく笑うらしい。その自覚は十分に甘く、繋いだ手を意識してしまうものだった。
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