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CIGAR×SUGAR×KISS 5

 日本では親子三人で横になる事を川の字になるというんだ、と説明すると、ぬいぐるみを抱えたままのエイミーの向こうで頬杖をついたニールは興味深そうに唸った。 「へぇ。確かに、大人二人に子供が挟まれているように見えるな。前々から思っていたが、日本語ってやつは面倒だけど面白い。漢字って、それ単独で意味があるんだろう?」  時折欠伸を挟みつつだらりと言葉を零す恋人は、朝から運転を任され一日歩き、すっかり疲れているらしい。青白く不健康そうでも、ニールは雨宮よりは体力があると思っていたが、ニコラス夫妻と一緒に行動したことも彼の精神的負担になったのだろう。  結局最後まで夫妻とその姪と一緒に園内を周り、夕食を一緒にぜひと粘るホワイト夫人をどうにか全員で説得して彼らと別れた。  帰りに適当な食材を買い込み、雨宮のアパートに寄りDVDを取ってくる事も忘れなかった。  雨宮の作ったカレーライスを、エイミーはひどく気に入ってくれた。夕飯の後も寝る気配がないエイミーと一緒に、三人で恐竜映画を見る時間は、どうにも不思議な空間だったと思う。  ニールと二人で深夜にDVDを眺める事はあるが、今日は煙草の匂いのする小さなアパートの一室ではなく、大きな一軒家の広いリビングで恋人との間には小さな子供がいる。不思議で、そわそわと落ちつかなく、それでいて満ち足りたような気分になった。  エイミーが着替えている間に雨宮を抱き寄せ、たっぷりとキスを堪能した恋人は『それって幸せってことじゃないの?』と笑った。  そうかもしれない。別に子供が欲しいわけでも、子供が好きなわけでもないのだけれど。  疲れてすぐに眠ってしまうかと思ったエイミーは夜が更けても興奮で寝れないらしく、結局雨宮とニールが添い寝をする事になった。  ニールは遠慮すると言い張ったが、雨宮とエイミーが彼を寝室に引っ張ったのだった。  春の静かな夜はゆっくりと更けて行く。寒くも暑くもない気温は肌に優しく、しっとりとした眠気を運んできた。 「センセイの名前の漢字は、どんな意味?」  眠そうなニールに問われ、雨宮は手元のメモ帳にペンを走らせた。雨宮透一、と書かれた横には先ほど書いた川の字と、今日見た動物達の下手な絵が並んでいる。 「雨、は知ってるでしょ。レインね。でも、アメっていう発音の漢字は『飴』っていうのもあって、だから僕はドクターキャンディって呼ばれてる。本当は空から降る雨なのに」 「レインマンよりキャンディさんの方がかわいいだろう。ミヤは?」 「えーと……宮殿? 城かな。透一は、透明って事だと思うけど」 「雨の降る透明な城?」 「……ちょっとそれ、かっこいいね。そんなに素敵な人間でもないけどね、僕」 「十分素敵だ、という事実を羅列すると俺の理性がぶっとびそうだから自重しておくよ。センセイがそこに居るだけで触れたくてたまらないのに。寝ぼけてキスしないか心配だ」  そんな事を言いつつも、ニールはエイミーの前では絶対にキスをしなかった。手は繋いでいたし、事あるごとに雨宮に示す好意は相変わらずだったが、スキンシップはきちんと控えていた筈だ。  そういう所が好きだと思うから、雨宮こそ伸ばしそうになる手を押しとどめるのが大変だった。  エイミーの隣でメモ帳を握りしめたまま熱くなる頬を意識しつつ息を吐いていると、眠りに落ちる直前だったエイミーがカメレオンを抱きしめた。 「……センセイのお名前、透明っていう意味なの?」 「うん? うん。厳密には、違う意味なのかもしれないけどね。透明っていう字と同じ字だよ」  トオルって読むんだ、と透の字を指さす。難しそうな顔で目を細めたエイミーは、神さまの名前、と呟いた。 「……かみさま……?」 「北欧神話じゃないか? 雷神トールのことだろ。よく知ってるな、エイミー。まあ、カリテスも女神の名前だし、ミス・メイスンは神話やらおとぎ話が好きなのかもしれない」 「ニールもよく知ってるよね、そういうの。フラミンゴとフラメンコが一緒のダンス競技だと思っていたのに」 「昼間の悪口はやめてくれ、動物やら植物にはたいして興味が無い人生だったんだ……今日で随分覚えたよ。カメは甲羅を被ったカエルじゃないし、蝶と蛾は親戚じゃない。カメレオンはトカゲの亜種だ。体色を変化させて周りに同化させることができる、だっけ?」 「とうめいになるのよ」  眠そうな声でエイミーが呟き、雨宮はなるほどそういう言い方もできるかもしれない、と感心した。  透明になることができる愛おしいトカゲのぬいぐるみの名前を、エイミーはトールと名付けることにしたようだ。その元の名前が自分と同じ漢字だという事実は、雨宮を甘いような痒いような気持ちにさせる。  トールを抱えて寝入ったエイミーの髪の毛を撫でながら、かわいいねと思ったままを口にすると、うっすらと目を開いたニールが雨宮を見た。 「――子供、欲しい?」  少しだけ気だるげな声は、雨宮の耳にどろりと入り込み、胸のあたりに鈍く溜まる。  その問いかけは『女性と結婚する未来もある』という可能性をちらつかせるものである事がわかったから、雨宮は答えに迷った。春の眠気を含んだ夜は思考回路も鈍らせる。  いつもの距離ならば何を言わずとも手を伸ばしてキスが出来る。そうすれば、言葉を選ばずとも伝わるのに、今は少女一人分の距離がある。  雨宮が言葉を探していると、ニールがふと表情を緩めた。 「……そんなに、怖い顔をしなくていいよ。ちょっと聞いてみただけだ。センセイが子供が欲しいと言ったら、時折エイミーと遊ばせてもらう権利をミス・メイスンに頼みこむしかないな、と思ったんだ。……俺以外の誰かとキスをするセンセイなんて、想像したくもない」  ニールはいつも、雨宮の不安を言葉で追い払ってくれる。きちんと伝えてくれる言葉はいつも真摯で、形式ばった告白でなくとも感動で言葉がつまった。  僕だって、と口を開きかけたところで、眠そうだったニールが急に身体を起こした。  眉を寄せてあたりを窺うような様子に、雨宮もエイミーを起こさないように顔を上げる。 「……物音がした。センセイ、今何時?」 「いま、えっと……十一時過ぎ……」 「客が来る時間じゃないな。NYのど真ん中の治安の悪いアパートなら水商売帰りの隣人が騒いでたっておかしくもないが、周りは品性良好なファミリーと老人ばかりだ。ちょっと見てくる」 「え。え? 見てくるって、平気?」 「大丈夫、映画の最初にやられるモブキャストのようなへまはしないよ。二階の窓から外を窺うだけだ」  幸いと言うべきか、雨宮たちがいる寝室は二階にある。先ほどまでの甘く切ないような空気を一瞬で追い払ったニールは、足音を立てないように素足のまま、電気も付けずに暗闇の中に消えた。  薄暗い部屋の中で、じっと息を殺す。耳をそばだてると確かに、かすかに外の砂利を踏みしめる音がする。確かに誰かが家の周りを徘徊しているらしい。  暫くじっとしていたが、不安感から鼓動が速くなるのがわかる。耳に響くどくどくという音が気持ち悪い。  縋れるものは何もなく、思わずエイミーの抱きかかえるトールの尻尾を掴んで深呼吸を心がけていると、暗闇の中からニールが帰って来た。ベッドの上に座り込んだ雨宮を落ちつかせるように背中を軽くたたき、軽くキスをしてくれる。 「メイスンに電話する。暗くて確かじゃないが、多分接触禁止令つきの元旦那だ。流石にクロエ・ノーマンの自宅の窓を破って侵入してくる事は無いだろう。もしそれができたとしても、寝室はきっちり鍵が付いている。斧でも持ってこない限りここまでは入って来れない」  あとはエイミーがこのまま寝てくれていたらいい。実際、不審者が寝室まで辿りつく事は無いだろう。外の人物の目的が何であれ、銃を乱射するような狂った人間ではない限り、命の危険も無い筈だ。  そうは思うものの、不安は拭えない。命の危険というよりは、エイミーを怖がらせたくないという思いが強い。  寝室の施錠を確認し、抑えた声で電話をかけるニールは、しっかりと雨宮の手を握っていてくれる。伝わる体温が、どうにか雨宮を落ちつかせていた。 「今すぐ来るから戸締り確認してそこに居ろってさ。なんでも、腕力に訴えたり傷害事件を起こすようなタマじゃないらしい。じゃあなんで深夜にこんなとこまで嗅ぎ付けてきたんだって話だけど。大方、メイスンもここに一緒に居るって思っているんじゃないか、って話だ」 「それじゃ、メイスンさんがこっちに来たらまずいんじゃ……」 「弁護士叩き起こしてくるって言ってたから平気じゃないか? とりあえずはエイミーが泣いたり怖がったりしないってのが一番だ。お姫さまはまだ寝てる?」 「寝てる。今日朝からずっと興奮しっぱなしだったし……昨日はあんまり寝れなかったみたいだから、疲れてるんだね。このまま寝ていてくれたらいいけど」  雨宮の隣に腰かけたニールは、もう一度キスをしてから息が触れるくらいの近さで頬を撫でた。 「……悪い。折角の休暇なのに、本気でサスペンスに巻き込んだな。センセイは平気?」 「――僕はまあ、銀行強盗に人質にされてるわけでもないから、そんなに……。スリルがあって楽しい、とまでは言えないけど。ニールが居てくれるから」 「センセイは本当に俺に甘いな……俺はわりと、今ビビってるけどね。サスペンスは作品としては嫌いじゃないが、ハラハラするやつは苦手だ。心臓に悪い」 「……そういえば、ホラーものの映画は見ないね」 「苦手だからな。ゴーストがいきなり飛び出してくる演出は思わず叫びそうになるから絶対に見ない」 「びっくりして叫ぶニールはきっとかわいいんだろうなって思うから僕は見たい」 「センセイが隣で手を握ってくれて、尚且つ好きな時にキスしていいならいくらでも付き合うよ。……だめだな、こんな時でもセンセイが隣に居るとついキスしたくなる。セックスをしなくても多分生きていけるが、キスは駄目だ。センセイとキス出来ない人生なんて味のないパスタみたいなもんだ」  もう一回だけ、とニールは低く呟いて、柔らかく唇を重ねた。緊張で張りつめていた気持ちが和らぐのは、ニールの体温のお陰だ。髪の毛を撫でる指は優しく、繋いだ手は心強い。  何度か唇を重ねた後に名残惜しく離れ、抱きつきたい衝動をどうにか押さえた。  キスの合間にも、外の不審な物音は聞こえた。メイスンに連絡を取ってから、どれくらい時間が経ったのだろう。引っ越し先は近場ではないが、それでもNY市街の筈だ。自家用車で飛ばせば、遅くても一時間以内には着くだろう。  いっそ寝てしまえとニールは言うが、万が一家の中に侵入された場合の対処を、ニールだけに任せておくわけにはいかない。  ニールと並ぶと小さく見えても、雨宮は日本人の平均身長くらいはある筈だ。特別鍛えているわけでもないが、女の子程非力でもない。実際に店舗では、女性スタッフではどうにもならない力仕事を任されたりもする。  NY出張の前に散々同僚達から『物騒な所だから護身術を覚えていけ』とからかわれたものだが、今となっては本当に必要だったかと後悔している。最初のうちは持ち歩いていた催涙スプレーも、今はどこに仕舞ったか忘れた。 「護身グッズはまあ、ないよりはあった方がいい街だけど。俺だって格闘技やスポーツとは無縁の二十六年だ。メイスンの元旦那がジェイソンばりの装備を持っていないことを祈るのみだ」 「それにしても、なんていうか……こんなところまで追いかけてくるなんて、よっぽど好きなのか、それとも嫌いなのか、どっちなのかな」 「あー。どうやら、好きな方らしい。ただし愛しているのはメイスン女史の方で、エイミーの事は邪魔者扱いらしいな。自分からメイスンを取りあげたのはエイミーだと思っているんじゃないか?」 「……実父だよね?」 「血は繋がっている筈だ。メイスンも夫を愛していない訳ではなかったようだが、あの女はああ見えて子煩悩だからな……嫉妬する男の気持ちは、わからなくもない。俺も今日はエイミーにべったりなセンセイを、何度か大人げなく掻っ攫いそうになった」  それは雨宮もわかる感情だ。  エイミーは雨宮にべったりだったが、ホワイト夫妻の姪のルシーは、ニールが気に入ったようで何かと彼の気を引きたがっていた。子守りが仕事の雨宮はエイミーから目を離すわけにもいかず、べたべたとニールに纏わり付く少女に大人げない嫉妬の感情を持ってしまったものだった。  暗闇の中でそんな告白をすると、静寂の中でニールが甘く笑った気配がする。 「相変わらずお互いに惚れてる、っていう確認作業は嫌いじゃない。どんどんしていきたい。できれば、なんの制限もなくキスできてセンセイを好きにできる環境でやりたいもんだ」 「まったくその通りだね……何時かな? メイスンさんは、一人で来るわけじゃないし、平気だろうけど……やっぱり、警察を呼んだりした方がいいのかな」 「家の周りを徘徊してるだけで通報できるもんなのか? アレが元旦那だと確証が持てれば接触禁止令を盾にどうにか通報できるのかもしれないが、俺は一階まで降りて確認したくない弱虫だからな……」 「いや僕も嫌だし、行かせるのも嫌だし、そんなの全然気にしてないし、いいんだけど、やっぱり不審者用の警報装置みたいなの置いた方が、クロエさん的にも――」  安心ではないか、と、雨宮が口にする前に、深夜の住宅街に女性の甲高い声が響いた。  何を言っているのか詳細はわからないが、確実にミス・メイスンの声だ。メイスンの声の合間に、言い争うような男性の声も混じる。  ガン、と響いたのは壁を蹴る音ではないか。その音に驚いてか、それとも口論の声に気がついたのか、エイミーがびくりと身体を揺らして目を覚ました。 「……せんせい……?」  怯えたようにぎゅっと雨宮に抱きつく少女を抱きしめ返し、エイミーごと抱きしめたニールが雨宮の額にキスをする。 「……ちょっと、見てくるからお嬢ちゃんをよろしくたのむ」 「え、見てくるって、え……ニール、」 「メイスンはわりと辛抱が苦手な女なんだ、出来る上司が傷害沙汰でクビを切られても困る」  刺されはしないさ、とニールは立ちあがり、雨宮が止める間もなく部屋を出て行ってしまった。一人ならば追いかけていたが、エイミーと一緒に一階に降りる訳にはいかない。  仕方なく怯える少女を抱きしめ、背中を優しく叩く。  泣かず、何も言わずに震えるエイミーは、こんな口論は初めてではないのかもしれない。もっとパニックになって泣くかと思ったが、ぎゅっと目をつぶる少女は口を結んだままだった。  今までもきっと、元夫がメイスンの家に乗り込んできた事があるのだろう。だからこそ接触禁止令という措置になったに違いない。そんな時まだ幼い少女は、涙を堪え声も殺し、目をつぶって耐えていたのかと思うと雨宮の方が泣きそうだった。  だいじょうぶだよと頭を撫でる。  だいじょうぶ。お母さんも居る。彼女はとてもエイミーを愛している。多分加勢してくれる大人も居る。そしてニールも居る。何も心配することはない。  ゆっくりとあやすように、雨宮が語りかける言葉に、エイミーはやっと薄く目を開いて頷いた。  暫く大人達が言い争う声が聞こえた。窓が閉まっているし、何を言っているのかはわからない。一度女性の悲鳴のようなものが聞こえてひやりとしたが、誰かが危害を加えられたり物が壊されたりするような物音は聞こえなかった。  待つ事しかできないのがもどかしい。しかし、ここで雨宮が出て行っても何の手助けもできない。自分ができるのはエイミーを抱きしめる事だと言い聞かせ、小さな身体を優しくあやした。  不安になるほどの時間の後、玄関の扉が閉まる音がした。  知らない男がそこに立って居たらどうしよう、と身構えたものの、電気をつけて飛び込んで来たのは疲れた顔の女性だった。化粧をしていなかったので一瞬わからなかったが、それは娘の一大事に必死にかけつけたミス・メイスンだった。 「エイミー……! ああ、どうしよう、無事ね、平気ね、泣いてない? 怖くなかった? ごめんなさい、どう謝ったらいいのかわからないわ……」  雨宮の腕から抜け出した少女は、ママと叫びながらメイスンに思い切り抱きつく。その後ろから顔を出したのはクロエ・ノーマンで、彼女は妙にきょろきょろとしていた。  普段から化粧っけのないクロエは、いつもより少しだけ疲れたような顔で雨宮を手招いた。 「キャンディさん、ごめんなさい、わたし自分の家なのにまだよくわかってなくて……この前全部、クリーニングに出しちゃったのよね。それで、ヘルパーさんがどこに仕舞ったのか……」 「クリーニング?」 「そう、ちょっとタオルが必要なの。何色でもいいわ。どこかにないかしら」  それならバスルームに何枚かあった筈だと階段を降りた時、玄関先に佇むニールが目に入り絶句した。 「ニール……! え、ちょ……どうしたの……」 「どうしたもこうしたも、婦女子を庇ったらこれだ。センセイ、なんでもいいから身体を拭けそうなものを持ってきて。……珈琲は好きだが頭から被るのは金輪際願い下げだ」  今日はドリンクを被ってばかりだ、と溜息をつくニールは、頭の先から茶色の液体をぽたぽたと滴らせていた。

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