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9話

 ユキが始めて言葉を発した時の感動を、イツキは今でも忘れられない。たどたどしい口調で、ゆっくりと言葉を紡ぐユキが、初めて喋った言葉が「いつきさん、ありがとう」だった。自分の名前を呼んでくれて、さらにお礼を言ってくれる事がとても嬉しくて喜ばしい。  それからのユキはイツキの真似をして、言葉を覚えていき自ら話すようになった。「イツキさん」とイツキの名前を呼んでは、花の咲く様な笑顔を浮かべて、ぎゅっと抱き着いて擦り寄って来る姿が愛らしい。すぐに飼い猫のノワールの名前も覚えて「ノワール」と名前を呼んでは、ノワールは「にゃあ」と上機嫌にすりすりとユキに擦り寄って甘える。ユキとノワールが一緒になって、戯れる姿は一枚の絵画のようで、とても可愛らしい。  ある日の事。絵本を一生懸命に読んでいたユキは、絵本をぱたんと閉じる。そうして、仕事をしているイツキの元へ、とてとてとやって来ては「イツキさん」と名前を呼んだ。パソコン画面と睨めっこしていたイツキは、ユキの方へ顔を向けるのだった。 「どうしたんだ、ユキ」  なるべく穏やかな声音でユキに話しかける。ユキは、はにかむように、照れるように、瑠璃色の瞳を様々な方向に彷徨わせていた。何か伝えたい事があるのだろうと、イツキは考えユキの言葉をゆっくりと待った。そうして、決意を固めたのか、ユキはイツキの柘榴色の瞳を真っ直ぐに見つめながらも、頬を紅く染まらせて告げる。 「俺、イツキさんのお嫁さんになりたい。大きくなって、お嫁さんになりたい」  ユキの真剣な言葉にイツキは目を瞬かせて、その言葉の意味を深く噛み締めた。イツキの心の中が温かく、歓喜で満たされる。ふっと柔らかい表情を浮かべながら、ゆっくりと椅子から立ち上がる。ユキの瑠璃色の瞳に視線を合わせるようにしゃがみ込むと、そっと手を伸ばして抱き寄せる。イツキよりも小さい身体のユキを抱き寄せると、ふわりと薔薇と苺の甘い香りが強くなった気がした。 「ユキ、ありがとう。とても嬉しい」 「イツキさんのお嫁さんになれるように、俺、がんばる」 「ああ、お前が大きくなるその日を楽しみにしている」  イツキがそう告げると、ユキは嬉しそうに明るく笑う。ぎゅっとイツキに強く抱き着いたのだった。  薔薇妖精は、食事に薔薇の花びらを浮かべた紅茶と砂糖菓子と愛情を与え続けていると、少女や少年の姿のままで、成長したりしない。けれども、薔薇妖精が人間と同じ食べているものを愛情と共に与え続けると、人間と同じ様に成長していく特性があった。これも、コジロウが教えてくれたことだった。故に薔薇妖精に対して、薔薇の花びらを浮かべた紅茶と砂糖菓子と愛情だけしか与えず、成長させない持ち主もいれば、人間と同じ様に食べているものと愛情を与えて、成長させる持ち主もいる。愛情を与えられて成長した薔薇妖精も、とても綺麗で美しいと評判が高い。そんな成長した薔薇妖精と結婚をする持ち主もいるそうだ。  これまでイツキはユキに対して、薔薇の花びらを浮かべた紅茶と砂糖菓子だけしか与えていなかった。けれども、ユキが大きくなりたいと、成長したいと望むならば、イツキはユキの意思を尊重してあげたいと思った。 「ユキ。これからは、少しずつ食事に挑戦していこうな」 「はい!イツキさんが食べているものを、俺は食べてみたいです」  はにかみながら笑うユキの頭を優しい手つきで撫でる。柔らかい白色の髪の手触りが良い。ユキに食べさせる最初の食事は、一体何が良いだろうかと、イツキは考え込む。しばらくの間、イツキの中でユキに最初は何を食べさせようかと課題になったのだった。 *****  薔薇妖精用の紅茶の茶葉がそろそろ無くなりそうなので、イツキは飼い猫のノワールに留守番を任せて、ユキを連れて薔薇屋へと訪れていた。いつものようにコジロウが出迎えてくれて、その後すぐに常連客のエミも訪れたので、アンティーク調の椅子に座る。コジロウが出してくれた温かなミルクティーと、さくさくとした食感のクッキーに舌鼓を打ちながら、互いに近況報告をするのだった。 「イツキくん……それって自慢話のつもり?」 「俺は、ユキの近況報告をしているだけだが」 「羨ましい……とても、羨ましい……!」  イツキの近況報告を聞いたコジロウは、心底羨ましそうに、妬ましそうにしながら、イツキのことを見ては、溜息を吐くのだった。 「イツキくんって、本当に親バカだよね」 「お前にだけには言われたくないな」 「私も同じく親バカなので、イツキさんと一緒ですね」 「でもさ、薔薇妖精を相手にすると親バカになっちゃうものだよね」  くすくす笑いを零しながらエミは、イツキとコジロウの二人を穏やかに見つめるのだった。エミの言葉に同意したかのように、うんうんとコジロウは頷いて口を開いた。 「本当、ユキくんもカオルちゃんも、この店にいた時よりも、とっても綺麗だし、とっても健康的になっているね。肌も髪の艶もいいし、大事にされているんだなって分かると、僕も嬉しくなっちゃうな」 「そう言われると、私も嬉しいです」 「なんたって、僕が言うんだからね! 見る目はあるんだから!」  自信満々に告げるコジロウは、ちらりと視線を向ける。コジロウと同じ様にイツキもエミも視線を向けた。今現在、話題に上がっているユキとカオルと呼ばれた薔薇妖精たちは、ひそひそと仲良さげに話をしていた。青紫色の短髪に、整った顔立ち。レースがあしらわれた黒色のミニハットを身に着けていて、マカライトの宝石を埋め込んだかの様な緑色の瞳。純白の雪の様な色白の肌に、ふっくらとした頬と小さな手足。首には青色のリボンが結ばれていて、黒色を基調としたハーフパンツスタイルの燕尾服には十字架の刺繍がされていて、十字架柄が描かれた黒色のニーソックスを身に着け、黒色のストラップシューズを履いているのが、カオルという名の薔薇妖精だ。カオルからもユキと同じ様に薔薇の甘い匂いが香った。  一見すると、カオルの服装や見た目から判断すると、ユキと同じタイプの少年の薔薇妖精に見えた。けれども、コジロウとエミの話では、カオルは少女の薔薇妖精だそうだ。他の少女の薔薇妖精と違い、カオルは少女の服装を嫌う傾向にあった。その為、普段から男装をしているのだと、エミから教えてもらった。 「ユキちゃんもカオルちゃんも、何を喋っているんでしょうね」 「薔薇妖精は、所謂【ローズフェアリー語】っていうものがあってね。薔薇妖精たちにしか、分からない言葉で話しているんだよ」 「それは不思議なものですね」 「なんたって、薔薇妖精だからね。僕たちには、まだまだ分からないことだらけだよ」  目を瞬かせるエミとコジロウの会話を聞きながら、イツキはユキの方を見やった。カオルと初めて出会ったユキは、お互いの波長が合ったのか、同じ薔薇屋にいた馴染だからだろうか、カオルとユキは仲良くお喋りを楽しんでいる。時折見せる嬉しそうな表情を浮かべて、カオルとお喋りをするユキを見て、同じ種族で話の出来る友達が新たにできて、よかったと密かに思うのだった。  イツキとコジロウとエミの三人と、ユキとカオルの薔薇妖精たちが、まったりとした時間を過ごしていた。紅茶を飲みながら会話を楽しんでいると、カラン、カランと店のドアが開いた。店の中に入って来たのは、郵便配達員だった。 「お手紙を届けに参りました」 「ご苦労様。ありがとうね」 「いえ、それでは失礼致します」  コジロウが立ち上がり、郵便配達員から手紙を受け取った。無邪気に笑いながらお礼を告げると、郵便配達員は軽く会釈をしてから、店の中から出て行ったのだった。 「何の手紙かな?」  無邪気に笑いながらコジロウは手紙の束の仕分けをしていた。けれど、ある手紙を見た瞬間、コジロウが顔を歪めたのをイツキとエミは見逃さなかった。 「何かあったのか?」  すかさずイツキが問うと、コジロウは歯切れが悪くなりながらも、先ほどまでとは違う真面目な表情を浮かべて口を開いたのだった。 「……この街の権力者たちによって主催される、薔薇妖精を持っている人限定のパーティーが開かれるんだよ。……しかも、参加は強制で、拒否権は無いんだ」  コジロウの言葉に、イツキとエミは顔を合わせる。あまりにも自分勝手な内容にイツキは眉を潜め、エミは困った表情を浮かべていた。 「その、権力者さんたちは一体、何がしたいんでしょうか……?」 「自分の所有している薔薇妖精を人に見せつけたい、自慢がしたいが為のパーティーだよ」  エミの言葉を聞きながらコジロウはアンティーク調の椅子に座り込むと、呆れた様に肩を竦めるのだった。薔薇妖精を持っていることは、所謂ステータスとされていた。  シーンと静まり返った店内で、先ほどまでお喋りをしていたユキとカオルは不穏な空気を察知して、止める。そうして、カオルはエミの元へ駆け寄ると、ぎゅっと抱き着いた。同じ様にユキもイツキの元へ駆け寄ってぎゅっと抱き着いて、心配そうな表情を浮かべて、不安に揺れる瑠璃色の瞳で見上げるのだった。イツキはユキに心配かけさせない様に、優しい手つきで頭を撫でる。 「大丈夫だ、ユキ。ちょっとしたパーティーに出るだけだ」  権力者達が主催するパーティーで何事も無く、無事に終える事を今はただただ祈るばかりだった。

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