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第10話
トキチカさんを最初に見た時のイメージは、うつろなでっかい黒猫だった。
今も、外見を例えるなら黒猫だと思っているけど、イメージだけで言うなら豆腐か濡れた障子のような人だよなぁと思っていた。メンタルが柔らかすぎて触っただけで穴が開きそうだ。
早足にならないように歩幅を合わせて、比較的ゆっくりめに歩きながら、手を引く。
普段は結構な早さで歩くトキチカさんだけど、今は足がもつれてうまいこと歩けないようだった。というか、前が見えているのかもアヤシイ。さっき信号で止まった時にそっと覗きこんだら、涙で目が真っ赤だった。
そんなに、思いつめなくてもいいのにと思うけれど、言ったところで伝わるかも怪しかったし、とりあえず頭撫でといた。
ゴメンナサイと言われる度に、謝らなくていいのになーと思う。
おれは結構したいことしかしない派だし、面倒だったらうまいこと理由をつけてサヨナラしちゃう人間だ。そんなおれが面倒くさいゲイの手を引っ張ってゆっくり歩いているんだから、外野がどう思おうが、トキチカさんがどう思おうが、おれ自身はたいして嫌だとか面倒だとか思っていないはずだった。
いやだって、放っておけないでしょう。あんな顔で、縋られたら。
ごめんなさいなんて謝られたら。とりあえずどうにか平常心くらいまで回復させないと最悪死んじゃうでしょこの人って言い訳して、結局おれはトキチカさんを自分の家に連れ込んだ。
自慢じゃないが片づけは苦手だ。
その上友人が頻繁に訪れるようなこともないし、付き合ってる女子もいない。つまりおれ以外の人間が足を踏み入れることが、ほとんどない。
モノで溢れている上に片付けが苦手で、そんで奇麗にしなきゃいけない理由もない。まあつまり、一言でいうと大変、乱雑というか。……その上、おれの部屋の床の上は今、足の踏み場もない程の写真で埋め尽くされていた。
「……あ。やっべ」
忘れてた。というか、連れてくるつもりじゃなかったからうっかりしていた。
そういえば昨日一気に現像に回して、夜中までいろいろデータいじったり出力したりしまくって、そのまま朝仕事に行ったんだった。
ワンルームの扉を開いて、固まるおれの横からひょいと顔をのぞかせたトキチカさんは、床に散らばったものが何か分かるとこれまた面白いように固まった。
あー。そうね、そりゃ赤くもなりますね。だってこれ全部トキチカさんの写真だものね。
「……え。なにこれ。ストーカーさんみたいじゃないの倉科クン。……せめて本人には隠してくださいよやめてよどんな顔したらいいのこれ」
「いやだってうちに連れてくるとか思ってもいなかったわけで、片づける時間もなかったわけでー……ほらこれ仕事ですし。おれの。写真を撮って現像するのが仕事ですし。まあちょっと最近変質的にトキチカさんしか撮ってない感はー、無きにしもあらず、なんですけど。……引いた?」
「引いてない、けど、はずかしい、です」
「ごもっともです。すいません片づけるの面倒だしどうせまた広げるんで、なんかこう適当に場所開けて座ってください。麦茶出すんで。……写真は、踏んでいいんで」
自分の写真を踏めというのも、まあ、どうかなと思ったし、やっぱりトキチカさんは丁寧に写真をよけて歩いていたが、おれ的には本当に踏んでもらっても構わない。
他の人間が踏んだら殴るかなーとは思うくらいに、写真が好きだ。作品じゃなくたって、遊びで出力したものだって、気合い入れて撮ったものじゃなくたって、全部愛おしい。でも生で動いてるトキチカさんの方が断然価値があるというかまた写真撮りたくなってうずうずするので、おとなしくおれはグラスを探した。
来客用のグラスなんざ無い。……あったかもしれないけれど、一年前に別れた元彼女さんが最後に暴れた時に全力で割って行った、ような気がする。
しかたなく普段酒を飲んでいるグラスをトキチカさん用に、マグカップを自分用に用意して、なんか食い物買ってきたらよかったのに卵と米しかないわチャーハン作ったら食うかなぁとか思いながら、狭い部屋に戻った。
「……トキチカさん、何してんの?」
思わず、部屋の前で息を飲んだのをごまかすように、声をかけた。
おれの散らかった部屋の真ん中で。自分の写真にまみれながら、トキチカさんは、その上にぐったりと寝ころんでいた。
「んー……いやぁ、なんか。すごいなこれって、思って。オレ、こんなに写真撮られてたのかーとか、思ったら、なんか面白くなって感動して、自分がこんなにたくさんいるの、面白いし、これじゃあさー、倉科クンの部屋の床オレで出来てるみたい、とか、ちょう電波なこと考えてました」
「うちの床がトキチカさんで出来てたら大変ですよ。踏めないじゃないっすか。身動きとれねえ」
「踏んでいいのにさーオレなんか、ただの屑メンタルなゲイですよ」
自嘲的に笑うトキチカさんは、まだ、さっきの動揺の事を引きずっているのだろう。
タマコさんの店を出て、すぐに固まったトキチカさんの反応は確かに異常だった。ちらっと聞いただけでも大概屑な鬼畜元彼様だったし、ただでさえトラウマまみれの人生こなしてきたっぽいトキチカさんの、今年最大のトラウマになっちゃってることは理解できる。
固まるトキチカさんの視線の先には、見るからにチャラチャラした男が居た。
――…あー。ああいうのが好きなのかトキチカさん。って、思った瞬間自分でもどうよと思うくらいイラっとして、結構本気で睨みつけてしまった気がする。
元々あまり目つきが良い方じゃないし、人相も柔らかい方じゃない。ぼんやりしてるからまだ見れるだけであって、怒ると怖すぎるから眉間にしわを寄せるなとカヤさんに注意されることもある。
おれはヤンキーでもなんでもない、ただ写真が好きな色オタクなだけなんだけど。
まあおれの人相は置いといて、うっかり完全に八つ当たり込みで睨みつけてしまったホストっぽいおにーさんは、トキチカさんっていうかどっちかっていうとおれにメンチ切り返してた気がする。動揺していたトキチカさんは気が付いていないみたいだった。
なんであんな見るからにアホな男にどっぷり浸かっちゃうのトキチカさん。もっと、いい男いるでしょ。あんた、言動よりもずっと真面目で誠実な人なんだからさ。
あーでも、面食いなのかなー。やっぱり、派手な顔のイケメンが好きなんだろうなー。だから、屑みたいなレンアイしかできなくて、泣いちゃうんだろうな。って。
思いながら、麦茶のグラスとマグカップを机に置いて適当に写真をよけて、横たわるトキチカさんの横に座った。
「……あの男のこと、まだ好き?」
なんでこんな質問してるのか、自分でもわからない。でも口をついた言葉は撤回できず、微妙に気まずいようなぎこちない空気を感じながら、答えを待った。
トキチカさんは、写真にまみれて横になったままだ。
「あー……いや、すき、じゃないなー。なんか、怖い。顔見たらトラウマがぶわーって襲ってくるし、そういうスイッチになっちゃってるみたいでさぁ。すんげー怖いし嫌だし鳥肌ぶわーって立つから、絶対に未練とかそういうのない、って実感しました。さっさと結婚してホストやめてあの辺から消えてくれたらいいのにさーほんと」
「あ、結婚したら仕事辞める予定なのあの屑男」
「うん。だってお嬢様とご結婚だもの。どういう縁か伝手かわっかんないけど、就職し直すとかなんとか言ってたような言ってなかったような……まあ、どうでもいいんですケドネー。オレの前からいなくなってくれればそれでいいし、あーでも、これ我儘? そもそもオレが過剰反応しすぎ?」
「普通ならスルーしとけよって思う案件ですけど、トキチカさんは元々のトラウマがとんでもないし、むしろよく逃げてると思いますよ。ちゃんと頼ってくれたし」
「…………ゴメンナサイ。思いっきり抱きついちゃったよね、倉科クンに。大変頼りにさせてもらっちゃったけど、なんかこう知り合いとかにうっかり誤解とかされてたら本当に申し訳ないなって今更思う……」
別に謝らなくていい、という意味を込めて麦茶飲みながら頭をなでると、トキチカさんがまた泣きそうになったのが気配で分かった。
本当に豆腐だ。すぐ泣くんだからこの成人男子。ただ、その豆腐がかわいいと思えるからおれもどうかと思う。
「トキチカさんなんか食う? 卵と米しかないから、チャーハンか卵粥か卵かけご飯の三択っすけど」
「んーあー……おなかへってない。もうちょっと床になっていたい」
「だからトキチカさんが床になっちゃうと、おれが身動きとれないんす」
「じゃあ天井でもいい。あー……天井、いいなぁ。ただひたすら眺めながら生きるの、床より天井の方がイイね」
「……それ、おれと一緒に居たいっていう意味?」
主語がなかったけど、そういう風にしか聞こえなくて、反射で訊き返してから息を飲む気配が伝わってきた。
え、まじで? と思って顔を覗き込もうとしたら赤い耳が目に入って、いやいや、その……かわいい馬鹿、とよくわからない罵倒をしながら覆いかぶさるように床に手を付き、上から真っ赤な顔を見た。
「……この体勢どうかと思いマス」
「おれもどうかと思います。最近寝てないんでラリってると思ってください。キスしたら怒ります?」
「チョットナニイッテンノカワカンナイ」
「わかんなくていいですわ。……どうしよう、沼入った、かもしんない」
「……好奇心は猫を殺すし友情を壊すとおもう」
「一理ありますね。あーじゃあ、うん、ちょっと考えます。確かに、らりって手だしてぶち壊すのとか、おとなじゃねーなって、思いますんで」
そう言いつつも退かずに見下ろしていると、潤んだ瞳がこちらを見上げてくる。
困ったような、怒っているような。でも吐きそうとかそういう感情じゃないっぽいし、まあ良いことにした。
「…………倉科クンって案外口から全部出す派よね……」
「あー、そうかも。溜めこんでおくの、苦手かもしれない。……ガンガン情報入ってくるの迷惑っすかね?」
「迷惑というかびっくりするというか、あーあーってなるので、小出しにしてもらえるとトキちゃん嬉しい、と、思わなくも、」
「小出しにしたところでトキチカさんパニくるし勝手にぐるぐるするでしょ」
「うわあ。……おっしゃる通りだね」
ネタで誤魔化してどうにか解放されたいんだろうなーというのはわかるんだけど、そういう逃げよくないですよ大人なんですからーと、自分の都合のいいように大人理論吹っかけて、しばらく見下ろしてたら『茹だって死ぬからどいて』と懇願された。
……かわいかったから仕方ない。どこうと思う。
ただその茹だるっていうのはなんとなく男に押し倒されている状況にチョロくもときめいているだけなのか。それともおれだからなのか。そこんとこ気になったけど、まあ、おれが先に考えるって言ったんだからトキチカさんに詰め寄るのは筋違いだなーと無理やり納得しておいた。
好きになられたら、その時はその時だ、と思っていたけれど。おれが勝手に好きになる可能性ってやつを、そういえば考慮していなくて。
あーこれ。どうしたらいいの。って。
赤くなった頬に軽くキスを残してから離れて、無言でさらに赤くなっている中身豆腐な成人男子を眺めながらカベに凭れてかわいいなーどうしてくれようかなって思った。
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