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第11話

 ほっぺたがカユい。  この五日間、とにかく全身がむずむずと痒くて、どうしようもない。しかも痒さは身体だけにとどまらずに精神まで浸食しちゃってる有様だ。  痒くて、ムズムズして、うっかりにやけてしまいそうになるから、最近はマスク常備で生きていた。  真夏じゃなくて本当によかったと思う。ちょっと息苦しいし若干暑いけど、まだ耐えられる。数年ぶりくらいに梅雨時の気候に感謝していた。  コンビニのレジであくせくとバーコードを読みとりながら、できるだけ考えないようにしているのに、どうしても意識は痒い頬に向かう。  ――…考えますって、やっぱり、ええと、好きかどうかって意味だよなぁ。  オレの写真が散らばった床に背をつけて、見上げた光景が目に焼き付いて離れない。  いつものぼんやりした覇気のない顔で、倉科クンはとんでもない発言を連発した。  カマトトぶるつもりはない。頭の回転も悪いほうじゃないと思ってる。会話のながれを読むのも比較的得意。な、はず。  でも未だにあの流れ絶対おかしいと思うし信じる勇気がいっさいもてないっていうか信じちゃだめでしょあんなの、死んじゃう。メンタル溶けて死んじゃうと思う。  思い出すと熱が上がってくらくらしたしやっぱり全身痒くなった。そわそわ、そわそわと、指先が痺れてくる。  先週までは生きるのが億劫でメシが食えない有様だったのに、今週は胸がいっぱいで食欲まで意識が行かない。要するにあんまり食えてない。  でも、倒れちゃったりしたら大人として恥ずかしいし、そういう自己管理とかも大切ヨネって思うから、うどんとかラーメンとかのど越し軽やっぽいイメージの食い物を、どうにか摂取していた。  そう思えるのも全部、倉科クンのおかげさまだからオレってば分かりやすい。  だから恋なんてイヤだ。全部、人生の隅からスミまでその人で埋まっちゃう。振られたら死にそうになるし、好きとか言われたらもう何も考えられない。  いやまだ何も言われてないけど。ないけど、うん。あれ、でもそういうことでしょばかやめろ死ぬって、もう何度目かわからない流れを繰り返してマスクの下で泣き笑いみたいな顔してしまった。  倉科クンとは会ってないけど、二回ほど連絡がきた。  どちらも取り留めのない日常的なことで、なんか仲のいい友達みたいだなーと思って、痒くなると同時にちょっとしんどくなった。  すごく好きだなーと思う。  優しいし。かっこいいし。隣に並んだときの感じとか、なんていうか良い。すごく良い。オレは別に身長低くないけど、倉科クンが結構でかいからちょっとだけ見上げるようになるのも良い。  かっこいいとか好みとか以前に、オレがめんどくっさい躁鬱ゲイでも、さらっと付き合ってくれるナイスガイだ。  すごく良い人だ。だから、沼にはまるのが怖い。  いっそ友達のまま、延々と片思い貫いた方が幸せに余生過ごせないかな、と思う。オレはいつだって恋愛が続かない。三ヶ月で沼にはまってドロドロの修羅場になるくらいなら、さわやかな恋慕のまま、生温く友人関係を続けた方が楽しいんじゃないかな、とか。  もうそんな、及び腰になっている。  別に、告白するわけでもないし、されたわけでもないのに。  ハイだかローだかさっぱりわからないぐっだぐだなテンションのままバイトを終えて、いつものトートバックひっかけてiPodのイヤホン耳につっこんで、店を出た。  今日はタマコさんの店でカヤちゃんと待ち合わせしてる。珍しくカヤちゃんから誘われた。もしかして倉科クン関係の話? って思ったけど、カヤちゃんは失恋して一緒に泣いてくれる事はあるけど、恋愛のアドバイスは基本的にしないなーと思い出した。  誰とどんな風につきあっててもトキがいいならいいんじゃない? って言ってくれる。オレがどんな屑な男に惚れていても、カヤちゃんは怒らない。タマコさんはため息ひとつで許してくれる。  でも今回はどうかな。  もしかしたら、久しぶりに祝福してくれるかもしれないし、倉科クンの事を考えて『やめときなよ』って言われるかもしれない。  自分が面倒くさいゲイだという自覚はある。  最近やっと通い慣れた道は、いつも酔っぱらいのおっさんとか、おねーさんであふれている。ついでにキャッチも結構居て、歩くだけでちょっと疲れた。  上を向いて歩くのは得意じゃない。  人の顔を見るのが苦手だ。  若干うつむき気味に、早足に歩いていたから、いきなり腕を捕まれて心臓止まるかと思った。  そんなにでかい音で音楽を流していたわけでもない。声を掛けられたら、気がつくはずだけど、そんなにオレはぼーっとしていただろうか。  そう思ってばくばくする心臓のまま視線をあげて、オレの腕を掴んでいる男を見上げてそのままきれいに固まった。  オレの腕を掴んでいたのは、紛うことなき、雨の日にこっぴどい言葉でオレを振った元彼様だった。  人生は緩急だ。そんでもって、プラスマイナスゼロ方式だ。  良いことがあれば、それだけ悪いこともある。ゆっくり上った後は、急激に落ちるジェットコースター。  あー。きっと、浮かれていたのが悪かった。普段はこのへん、もうちょっと気をつけて歩いていた。  ていうかアナタもうオレに消えろよレベルのお言葉かけたじゃないの、なんなの、目のはしに映るのも許せないっていうあれですかそうなんですかどうなんですか。  ていうか離してよ、痛い。 「あ……の、えーと。こん、ばんわ?」  やめろよなんだよ離せよとは言えなかったけど、過呼吸にならなかった上にきちんと声が出たのは奇跡かもしれない。倉科クンの言葉で頭がいっぱいで、過去の恋愛憂いでる余裕なんてなかったっていうのがまあ正解なんだろうけど、吐き気はともかく勝手に涙腺は緩んだ。  まったくもって改善されてないし、吹っ切れていない。  いきなり吐かなかっただけ、やっぱりマシにはなってたけど、結局だめだ。  このひとがこわい。  オレの腕を片手で掴んだ男は、驚くほど冷たい視線を浴びせてくる。  重いんだよね、とか。気持ち悪いじゃん、とか。言ったときと同じ冷たい目。そんなにオレの事が嫌いなら、見ない振りをしてくれたらいいのに。わざわざ追いかけてとどめを刺すなんて、オレはゴキブリレベルの不快感をまとった人間なのかそうなのか。 「ずいぶん他人行儀じゃん、トキ」  いやだって、他人ですし。あなたが他人にしたんですし。  久しぶりに聴いた声は、視線に比べてやたら甘い。というか、にやにやとしている。耳にべったりとこびり付くような甘さにぞわりと震えてしまう。  昔はこの声が好きだった。甘い声で名前を呼ばれると、頭の中がどろりと溶けて人生なんかどうでもよく思えた。あんたがオレの名前を甘く呼んでくれたら、もうそれだけでいいと思えた。  でも今は、もっとぶっきらぼうな声が良い。  すごくナチュラルに、トキチカさんはさ、って話しかけてくる、ピンク髪の男の声が良い。  なんのためらいも無く、なんの甘さもなく、普通に声を掛けてくる倉科クンが好きだ。  甘い声なんかいらない。オレにはいらない。  一回は押さえられた吐き気が、喉元からせり上がってくる。触れている手が熱くて、そういえば体温の高い男だったと思い出して頭が、ぐらぐらした。  香水と汗の匂い。タバコの匂い。甘い酒の匂い。昔の男の匂い。 「今日は一人なの? この前の派手な男は、本命?」 「……ちょっと、何言ってんのかわっかんない、ですし離してもらえると大変嬉し、」 「男なら誰でもいいのかね、トキちゃんは。淫乱なのは知ってたけどその上節操なしとか、すごいねぇホント。ていうか新しい彼氏できるの、早くないかな? なあ、もしかして俺ってば二股の被害者だった?」  それはこっちの台詞だ、と思う。  結婚するから別れる、と言われたのはオレの方だ。あんたこそ二股かけてたんじゃないのどうなのって思うけど、声が出ない。こわい。刺さるような視線と、甘い声が怖い。 「どうせすぐ別れるんだから、まあ、どうでもいいかー。トキ、重いもんな。あんな若い男じゃトキに潰されて終わっちゃうな、多分。ちょーかわいそう」  どうでもいいなら声をかけるな。どうでもいいなら放っておけ。思うが、言葉は出ない。口を開いたら吐きそうだ。  じりじり後退しているのに、腕を放してくれない。 「俺にしとけば? トキ、俺とセックスすんの大好きじゃん」  なにいってんのあんた、おれをふったじゃん。  おれのこときもちわるいっていったじゃん。  けっこんするっていったじゃん。 「……婚約者、は、……」 「なんか、頭弱い女だからさ、男が浮気相手だなんてたぶん一生勘ぐらない感じ。一緒に居るとこ見られたって、トモダチって言っちゃえば納得するでしょ。まさかこんな普通の男が、俺に突っ込まれてヨガる変態だなんて思わないだろうしさ。なあ、そろそろ身体寂しくね? 散々抱いたじゃん」 「……触るな、離せ、」  もっと言いたいことは山ほどある。  そもそも、なんでいきなり復縁を迫られているのかさっぱり、わからない。二股疑惑でプライドが傷ついたんだろうか。それともただ単に、女じゃつまんなかったんだろうか。  どっちにしてもあんたにとって結局オレってなんなの。  好きな子を虐めるような心理は、オレにはわからない。そういう人間は怖いよ。  オレは優しくされたいよ。 「…………はなしてください」  しんどくて涙がでる。情けなくて涙がでる。怖くて、悲しくて、涙がでる。  あんたのこと、好きだったはずなのになぁ。  今はもう、気持ち悪くてどうしようもない。オレの昔の気持ちまで気持ち悪くて涙がでるよ。こんな風に、思ってしまうのが切なくて涙がでるよ。  ぼろりと涙がこぼれて、とっさに下を向いたら携帯が鳴った。  それにびっくりして腕を振ったら、捕まれていた手が放れた。  あ。逃げなきゃ。  何も考えられない程いっぱいいっぱいなのに、それだけはすぐに判断できた。逃げなきゃ。逃げて良いって言った。倉科クンは、死ぬくらいなら逃げろって言った。頼って良いって言った。  きっとカヤちゃんは怒らない。タマコさんは、ため息一つで許してくれる。倉科クンは、がんばったって誉めてくれる、はずだから。  止まりそうな息をどうにか、吸って、オレは駆けだした。 「ちょ……、おい、トキ!」  びっくりしたことに追いかけてくる。オレ、インドア派だしあんまり足も速くないやばい。  でもとりあえずタマコさんの店はすぐそこだから、そこまで行けば、と、他力本願全開でどうにか走った。  鳴っていた携帯は、いつの間にか切れていたけど。  酸素、回ってなくて、死にそう。  ついでに気持ち悪いし頭ガンガン痛いし最悪だけど、今足を止めたら本当にどうしようもない男に連れて行かれそうで、どうにか、自分の火事場の馬鹿力を信じた。

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