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第14話

 一人の生活に戻ってから、二週間が経つ。  SJからの電話は毎日欠かさず入った。  もうすっかり定時報告のようになっているそれは、恐らく午後の休憩時間にかけているのだろう。六時間程時差があるNYとスウェーデンでは、丁度時計の針が対極の時間を指す事になる。  当初は職場の人間にからかわれて嫌だ、と言っていたSJも、深夜の帰宅後にハリーを起こすよりも、彼らの生温かい応援を背に受ける方を選んだようだった。  大概はごく普通に英語で会話をしているが、時折スウェーデン語が混じる時は外野が近くに居る時だとわかる。  電話では手が出ない為か、SJの応酬する言葉も実際に会うよりも甘い。  昨日は『愛してると言って』とごねてハリーの頬をだらしなくさせた。  あまりの破壊力に暫く言葉を失っていた所、焦らしているのかと勘違いしたSJはとんでもなく可愛らしい小さな声で『いじわる』と呟き、またハリーをベッドの上に沈めてしまった。  SJはハリーの言葉が甘いと言うが、ハリーはSJの言葉の甘さには敵わないと思う。  正式な恋人ではない。どちらもそれは了承している。  ただ寂しいだけなのかもしれない。不安なだけかもしれない。それを埋める一時的なパートナーのようなものだ。お互いにその事実をきちんと認識しつつも、やはり甘い言葉を言い合えば体温は上がるし、恋慕は募る。  SJはどこまで本気かわからない。憎からず思ってくれていることはわかる。気の無い相手を翻弄するような不埒な人間ではないし、そんなことに時間を使うくらいなら、少しでも寝るか仕事をするという男だ。  それなりに愛してはくれている。だが、どの程度かと訊かれてもハリーにはわからないし、愛してるという言葉を軽率に口に乗せても嫌悪感がわかない程度の信頼感、としか答えようがない。  愛は募る。恋は重なり、もはや執着の粋だ。  日に日にSJの電話越しの声には疲れが増していたが、本人はもうちょっとだから頑張るし本当に無理って思ったら一度会いに帰るからその時に馬鹿みたいに甘やかして、と言われていた。  こう言われてしまえば、ハリーはもう何も言えなくなる。早く帰って来いとも言い難いし、これ以上頑張れとも言えず、仕方なく思いつくままにSJを甘やかす台詞を羅列した。  根回しをしている、と彼は言う。  人脈をフルに活用するのだ、と。 「頼ってみようと思ったの。きみに言われてね。あーそっか、利用じゃなくて、頼るのかぁ、だなんてそんな事にも気がつかないっていうか、そんな風に考えてみるのも有りだよなーって思ってさ。ちょっと言い訳っぽいかな? 言い訳かもしれないけど、頼って頼って、出せる手札は全部出そうって決めたんだよね! だから僕はハニーにも全力で頼るよ。とりあえずの目処は来週。あと七日で僕の人生と、巻き込まれ方式できみの人生も変わっちゃうかも。……いやほんと巻き込んじゃうかもしれないんだけど、嫌だったらいつでも逃げていいからさ、ちょっとだけ僕に付き合ってねハニー」  そんな風に笑うSJの声は少しだけ覇気がなく、不安を滲ませハリーの腕を戦慄かせた。  いま目の前にその細い身体があれば思い切り抱きしめるのに、と。口から出せばSJはまた笑う。  いつもの愛してるよというスウェーデン語で電話を切り、朝起きてからカレンダーを確認した。  来週の日曜日に何があるのか。  新しいパソコンは買っていないが、タブレットを購入したハリーは、心あたりのある単語で検索しすぐにSJが指していた決戦日が何かを知った。  イーグル・レーベル主催の音楽業界を対象としたパーティがある。  出資する新作映画の宣伝と、そしてエヴァの婚約お披露目も兼ねているようで、何社かマスコミも招かれているようだ。  もしかしたらそこで、NICYが正式にイーグル・レーベルに買収されたという話がでるのかもしれない。確かにこの日は、サリヴァンにとってもSJにとっても決戦になるだろう。  カレンダーの前から離れたハリーは、ダイニングテーブル前に着席すると暫く肘をつき、静かにテーブルを見つめた。  そこにはSJに見せる筈だった始めて撮った映画のロムがあった。当時は八ミリフィルムだった。それを友人が、思い出としてロムに焼いてくれた。  タイトルすら思い出せなかった映画だったが、マジックで乱雑に書かれた英字を眺めるうちに、当時の記憶が鮮明に溢れてくる。  何ができるのか。何をするべきか。何がしたいのか。  ロムを眺めたまま一人自問していたハリーは、扉をノックする音で正気に戻った。  慌ててドアを開けた先には、姿勢のいい老人が立っている。 「……寝起きかね。珍しくぼんやりしてるじゃないか……やっぱり、相方が居ないと目が覚めないか?」 「オリアン……あー……返す言葉もないな。珈琲を淹れる役割がないと、どうも寝坊してしまう駄目な大人だ」 「たまにはいいだろう。お前さんはいつも自分に厳しすぎる」  自分に甘過ぎる、と思っているハリーはオリアンの言葉に苦笑いを返すだけにとどめた。そして彼がいつものチェス道具を抱えていることに気がつくと、迎え入れながら眉を寄せた。 「オリアン、チェスの相手は今NYだぞ?」 「お前さんだってチェスのルールは一応知っているんだろう」 「……さらっと習って俺の単純な頭じゃ理解はできても活用できない、と判断したんだ。今じゃどれがどの駒かもあやしい」  素直に無理だ、と告げたのに、少しも笑わない老人はへこたれる様子もなくさっさと部屋にあがってしまう。 「それでもいいさ。全くの素人とやりあう機会なんてそうないからな。たまにはレクチャーをしたくなる時もある。良い腕の対戦相手が居なくなってしまって暇が増えたんだ。頭がいい男に慣れるとな、近所のチェス仲間じゃ満足できなくなって困る」 「すっかりご執心じゃないか……インジが拗ねちまうのもわかるな。俺たちはすっかりスタンに夢中だ」 「お前さんと私の彼への執着は別物だぞ。不思議で魅力あふれる男だ、ということは認めよう。どういう経緯を得てあの量の言葉が飛び出すものか、一度脳の構造を見てみたい」 「同感だ」  見慣れたチェス板をいつものソファー前に広げたオリアンは、手際よくボーンを配置していく。  時折二人の対戦を眺めてはいたが、そもそも覚える気がなかったので、どちらが勝ったかくらいしか記憶にない。  さらりとボーンの説明をしてくれたオリアンは、暫くじっとハリーを見つめた後に、おもむろに口を開いた。 「実は……お前さんには言っていなかったが、私とスタンリーは勝負をする際に些細な賭け事をしていたんだ」  賭け事、と言われたハリーは思わず眉を寄せた。オリアンは真面目な男で、ギャンブルには手を出さないことで有名だった。 「オリアンに、他人から奪いたい金なんかないだろう」 「金じゃない。金品は十分に足りているのは嘘じゃないからな。そうだな、例えば私は彼に今まで行った事のある国の思い出話とその土産を求めたし、彼は私に映画や書物や、それとお前さんの話を求めた」 「……俺の話?」 「大した事は私も知らんからな。なにを好んで食べるのか、好きな酒は何か、後は覚えている限りのエピソードとかだな。ハリーが羊を一頭逃がしてしまい町中大騒ぎになった話、酔ったハリーが大まじめにかかしを口説いていた話――」 「待て、おい、なんて事言ってくれたんだ……プライバシーの侵害だぞ」 「スタンリーがねだったんだ。悪い気はしないだろう」 「正直舞い上がる程に浮かれる話だが、恥をさらけ出したという事実は穴に隠れたいくらい恥ずかしい。そんなゲームをしていたなんて知らなかった。スタンは言葉遊びのゲームが好きだが、まさかオリアンまで巻き込んでいるとは……」 「人生の中での余興は、どんなに多くて困らないもんだ。困難や苦難よりもずっと良い。楽しんで生きる事は悪いことじゃない。ゲームも遊びも、人生の一部だ」  ゆっくりと言い聞かせるように、オリアンは言葉を並べる。  それがハリーに対しての言葉だとわからないはずもない。  いまだ人生の方向性に悩む意気地のない自分に、オリアンはついにじれたのかと不安になったが、思い詰めたハリーの顔を見た老人は珍しく笑いを漏らした。 「説教じゃないぞ、ハリー。何度も言っているがな、私はお前さんに住居を提供しているだけだ。生活費はお前さんが自分で稼いだ金でまかなっているじゃないか。遊ばなければ静かに一生暮らせる金くらいあるんだろう。三十過ぎで隠居生活を始めたところで、誰にも文句は言われないはずだ」 「……それは、そうだが……」 「お前さんが隠居したいのならそれでいいじゃないか。お前さんがアメリカに帰って働きたいのなら、それもそれでいい。なにを遠慮しているんだ。好きに生きたらいい。お前さんもスタンリーも、世界に配慮しすぎだな。小心者で見栄っ張りだ。私はイングリットにいつも言っている。彼女こそこれを守っていないが……いいか、迷惑をかけなければ何でも良い。好きにしろ、お前さんの人生に誰かが文句をつけたとしても、そいつの言葉を考慮する時間も脳味噌も無駄なだけだ」  滔々と流れるオリアンの言葉は、ハリーにとって都合が良すぎるものだった。  ハリーは、この手の言葉を素直に受け止めることができない。  小心者で見栄っ張りだ。あれだけのスキャンダルに追われて祖国を後にしたというのに、誰かに後ろ指を指されるのがまだ怖い。 「好きに生きているだけでは人間関係が崩れる」  かろうじてひねりだした反論に、オリアンは悠々と頷いた。 「それはそうだ。だから『迷惑をかけるな』と前置いた。いいかハリー、私もイングリットも迷惑なんぞかけてもらった記憶は一度もない。お前さんが一緒に居てくれて、迷惑だなんて一度も考えたことはないんだ。どこに居ても、時折帰ってきて私のくだらない話とチェスにつきあってくれたら、それでいい」 「俺は、チェスは苦手だよオリアン」 「だったらあの頭の良い虻を連れて来い。察するに、奴は働きすぎだな。一年に一回くらいゆっくり羽を伸ばす場所としては、スウェーデンの田舎は最高だろう」  そう思うだろう? と締めくくったオリアンは、ハリーの言葉を待たずにゲームを開始した。 「そうだ、私とお前さんもこのゲームになにか賭けるか?」 「……例えばなにを?」 「そうだな、私が勝ったら、ゲストハウスの改装をさせてもらおう。今回の空き巣騒ぎで、農場のど真ん中の小屋は安全ではないと知ったからな。その間お前さんは邪魔だから、アメリカ旅行にでも行ったらいい」 「ゲームじゃなくて命令じゃないか。……オリアン、俺は命令されなくたって、一人でNY行きのチケットを取れるよ」 「どうだかな。お前さんは小心者で見栄っ張りで臆病で不器用だから、空港までたどり着くのもやっとじゃないかと思うよ。心配で仕方がないから、私はいつもお前さんを甘やかしてしまうんだな」  トントントン、と些か速いノックの音が聞こえた。  ハリーのゲストハウスまで来る農夫はあまりいない。訪ねてくるのは大概オリアンかイングリットの二人だったし、前者がすでに目の前に居るのだから、ノックをしたのは眼鏡の少女以外にはいないだろう。  予想通り扉の前に立っていたイングリットは、少し怒ったような顔で扉を開けたハリーに手に持った封筒を押しつけ、ハリーの後ろの室内に向かって声を張り上げた。 「オリアン、明後日の昼の便で合ってる? こんなもの、今時ネットで取れるだろうに、なんで私が! やらなきゃ! いけないんだ!」 「空き巣に設定したばかりのパソコンを根こそぎ持っていかれたんだ、最近仕事もさぼり気味だっただろう。少しは手伝え」 「……理不尽だ。横暴だよ。馬鹿。ほんとアンタのせいで散々だ馬鹿、って伝えといて!」 「誰に、伝えろって?」 「決まってるじゃんハリーも馬鹿なの!?」  きびすを返し農場の方へ走っていくイングリットをポカンと見つめたハリーは、慌てて押しつけられた封筒を開いた。  中の物を見て、ハリーは目を見張った。  明後日の昼に発つNY行きの航空券だ。 「……オリアン……」 「いやすまない。スタンリーから連絡があって、もうすぐ正念場だと聞いたんだ。私はお前さんがそれなりの覚悟を決めていることを知らなかったもんでな……そこまでしないと駄目かと勢い勇んで、お節介根性を発揮してみたんだが、まあ、キャンセルするのももったいない。帰りのチケットは買ってないからな、頃合いを見て適当に自分でどうにかしてくれ」 「…………いや、うだうだしていた俺が悪い。ありがたく使わせてもらうよ」 「いいか、ハリー。そのチケットは賄賂だぞ。どう転ぶにしても、ここで暮らすにしてもあちらに残るにしても、一年に一回は必ず虻を連れて来るんだ。年に一度くらいは彼とチェスをしないと、私の腕がなまりそうだからな」  珍しく笑いをこぼすオリアンに、ハリーは頭が上がらない気持ちだった。  子供じゃないんだから、とは思わない。こうまでしないと動かなかった自分が悪い。  毎日SJからの電話を受ける度、ハリーはもどかしい気持ちを抱いていた。  自分に何かできるわけではない事は承知している。それでも彼の邪魔にならないのならば、彼の隣に居たいと思う。  頼られていないのだから手を差し出してはならない、というのは小心者の言い訳だ。  三十歳を過ぎた大人が、行動の理由を他人のせいにしてどうする。 「オリアンは、スタンに何か伝言はないのか?」  チケットを財布に仕舞い、明日一日でどんな準備をするべきか考えつつ、適当にチェスのボーンを動かす。  どれがどう動くのかしか、ハリーはわからない。それでも、とりあえず動かしてみることが重要だと思った。 「万事順調だ。何も心配することはない。好きなように暴れてこい、と伝えてくれ」 「オーケー。死期を悟った老人の様な伝言だが、健康診断も問題なかったんだろう?」 「元気すぎて困るくらいだと言われたな。まだまだ元気さ。お前さんたちがよぼよぼになるくらいまでは私も生きる予定だよ」 「そこまでいくとモンスターだな」 「ドラキュラ伯爵には憧れたもんだがな。怪物映画は浪漫だ」  さて本気を出して勝負するぞ、男なら勝ってみろ、と言われてハリーは苦笑した。

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