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第15話
「スーツって慣れないんだよねぇ、動きにくい! 腕が上がらない! 走りにくいししゃがみにくい! って思わないかな、ねぇナスチャ!」
狭い後部座席で腕を回しながらナスチャに話かけたSJは、彼女から返ってくる冷たい視線にもめげることはない。
「それ全部要するに『窮屈』ってことでオーケイ? ねぇ緊張しているのはわかるけど、もっとしおらしく緊張してくれないかしら」
「しおらしくって何さ、僕がちょっと黙っただけでみんなで寄ってたかって気持ち悪いから暗唱でも朗読でもなんでもいいからとにかく喋ってろって言うくせにー。あーていうかタキシードかっこいいな! やっぱり僕もタキシードにした方が良かったかなぁ気分的にはタキシードで殴り込みって感じだったんだけど所詮報道機関関係者での招待だしパーティ客じゃないからなぁ、ねぇやっぱりマイキーとナスチャは結婚式をやるべきだよそして参加者全員ドレスコードをタキシードにしよう!」
「どんな式よ。わかった、黙らなくていい。好きなだけ喋ってていいから私に緊張する時間を頂戴」
それはつまりは話かけるなということではないか、と膨れたSJだったが、彼女の緊張はもっともだったので大人しく口を噤んだ。
SJの相棒のカメラマンは大概マイキーだったが、彼は今日スタジオで留守番をしている。マイキーの代わりにカメラを回すのは妻のナスチャの役割になっていた。女性ながらに普段から重い機材を抱える事に慣れていたので、カメラの腕は心配していない。
SJと一緒に誰がパーティに乗り込むか、揉めに揉めたNICY社員達は結局トランプゲームで名誉ある一人を決めた。
皆が皆、SJについて行きたがったので仕方が無い。
これからSJとナスチャは、サリヴァン主催のパーティに赴く。時間きっかりに着いたタクシーに乗り込んだSJは早くも興奮していて、メイクを直すナスチャにうんざりと何度も溜息を吐かれた。
この一週間ろくに寝ていないせいで目頭が痛い。それでも頭の中はすっきりとしていて、興奮状態が指の先まで満ちている。
数日前からSJのやるべき事はひと段落していたが、目が冴えて寝れなかっただけだ。
最近は頃合いを見計らってハリーの方から連絡がくる。彼の声と言葉はいつでもSJを最大限に甘やかしてくるので、職場で電話を受ける際は慌てて個室に逃げ込んだ。
それでも甘い言葉の余韻で、電話を切ってしばらくは立ち上がれもしない。
いちいち腰が砕けてしまうSJの様子を見たNICYの仲間が、会ったこともないハリーに勝手につけたあだ名が、『SJ殺しのキラービー』だった。
もっとかわいい名前にしてあげてよと抗議してみたが、『あなたのシュガーハニーは元気? なんて言われたいの?』と言われてしまえば口を噤むしかない。
ハリーに少し寝ろと言われると、素直に従える。
ハリーに落ち着けと言われると、数分くらいは言葉を飲み込む事ができる。
すっかり従順になってしまった。そんな風に一人でうだうだ考えている時はひどく恥ずかしい気持ちになる。
好きだな、と思う。彼の事がとても好きだ。彼はとても甘くて、そして優しくて、SJが求めているものをすぐに見破る頭の良さと、それを与えてくれる寛容さがある。
友人じゃ駄目なのか、などと言っていた自分はどこに行ったのだろう。
SJはもうすっかり、彼の恋人という位置が手放せなくなっている。
「……それで、キラービーには今日の事言ったの?」
きっちりとメイクを直し、ショートヘアをスプレーで固めたナスチャに話しかけられ、SJはおとなしく噤んでいた口を開く。
「言ってなーい。まあでも、察してるとは思うよ。決戦は日曜日、ってわりと僕は主張してたしパーティの取材に行くとこは知ってる。でも、僕が何をしようとしてるのかは企業秘密」
「言えばいいのに。ていうか言うべきじゃない?」
「うーんそうなんだけどそうなんだけどさー、いやな顔されたらいやじゃない? そんなの怖いじゃない? ただでさえ嫌なサリヴァンに喧嘩売りに行くっていうのにその前に心折れたくないじゃない?」
「折られるなら早い方がいいとは思うけど……スピーカー・ジャックが恐れるものが、恋人の否定の言葉だなんて、二ヶ月前までならおもしろくないジョークはやめてよって笑ってたわ」
「僕だっていまだに笑えないと思ってるよまったくもう! ナスチャだってさ、ハリーに本気で口説かれてあの甘い声で名前を呼ばれてでろでろになるまで甘やかされてごらんよ。マイキーの事なんて一遍たりとも思い出さないうちに離婚を決めちゃうかもしれないんだから! あと厳密には恋人じゃない」
「SJの怪我なんてすっかり治ってるじゃないの。いつまでそのサポーター巻いておく気?」
「うるっさいなーいいでしょ僕の方の事情はほっといてよー! ハリーが! 僕の事を! 本気で好きって言ってくれるまでに決まってる!」
「……あなた、そんなにかわいいのになんで今まで恋人がいなかったのかしらね」
もう一度放っておいてと叫んだSJに、ナスチャは姉のような笑顔を見せた。
たぶん愛して貰っている。たぶん相当好かれている。そのくらいの自覚はあるにはあるが、だからと言ってきちんとした恋人になれるかはわからない。
SJのNYでの時間の無さを痛感したハリーは、愛想を尽かしているかもしれないし、時差のある遠距離恋愛が嫌になっているかもしれない。
正直スウェーデンに戻るのは怖い。
けれど『帰るからね』と言った手前、荷物だけ送ってくれとは言えない。
ハリーを目の前にしたら自分はどんな事を口走ってしまうのか、正直想像もできない。そのくらい、SJは彼に今まで想像もした事のない感情を抱いていた。
恋だなんてそんな馬鹿な。愛してるなんて恥ずかしすぎて死んでしまいそう。
そんな風に思いながらも、ハリーの声を思い出すと体温が上がるのでもう駄目だ。いつの間にこんなに落とされたのだろう。やはり、好奇心と成り行きで恋人になんてなるんじゃなかった、と反省してみるものの後の祭りだ。
「こんなつもりじゃーなかったのにーさー……なんで感情って自分の思った通りに動いてくれないんだろうねぇ」
「人間も人生も大概そんなもんよ。コイバナは楽しいけど仕事の時間よ。ホラ、気合戻しなさい。……あれ、受付かしら。やだ、割合報道関係も居るのね。知ってる顔とテレビで見かける顔が沢山いて嫌になる。ちょっとやだトム・ブラウンじゃない! 次のイーグル・レーベルの映画って彼が主演なの?」
「あー。らしいねぇ。今人気絶頂の俳優だもんねぇ。この前のグラミーだかなんだかの時も居た顔がチラホラいるじゃん、今車から降りてきたのがかの有名な『マッドボーン・ソルジャー』の美術監督でしょ。うひゃーきらびやかきらびやか! 僕達もさっさと中に入ってスターの仲間入りをしなきゃね」
颯爽とタクシーを降りたナスチャに続き、機材を担いでSJもホテルの回転ドアをくぐる。ボディチェックを済ませ、マスメディアの控室はどこかとロビーを歩いている時だった。
本当に知っている顔が多く、眺めているだけでもおもしろい。
きょろきょろとロビーでくつろぐ人間を片っ端から観察し、神経衰弱のように記憶の中の名前を照らし合わせる。
映画監督、音楽レーベルのCEO、古参の女優、作曲家、小説家、リゾートグループの御曹司、有名レストラン経営者。知らない顔もまぁまぁあるなー、などと鼻歌交じりに見回したSJは、隅のソファーに座る男性の後ろ姿に目を止めた。
思わず手にしていた機材を落としそうになった。それ程動揺した。
見間違いか、と目を凝らし、いや見間違う筈がない、と確信して更に動悸が増す。
足を止めたSJに気がついたナスチャが視線の先を見ると、二人に見つめられた男も気がついたのかこちらを振り向いた。
ダークスーツにサングラスをしていた。髪の毛は記憶にある長さよりも少し短いような気がする。いつも軽く結っていたそれを、今日はきっちりと縛っていた。
「……なにしてんの、きみ……!」
思わず名前を呼びそうになり、とっさに伏せたのはハリーが唇の前に人差し指を立てたからだ。
早足で駆け寄ったSJに、サングラスをしたままのハリーは緩く笑顔を作った。
「オリアンがおせっかいを発揮した。ついでに俺もおせっかいにもキミの力になればと思って、昨日そっちのスタジオに行ったんだが……手伝うならば当日この会場へ直接来たら良い、と入場証を貰ったよ。ええと、ミスター・グレイシーに」
「マイケル・グレイシー! ちょっとマイキーがハニーに会ってたんならナスチャ知ってたでしょ!? ていうか昨日いつきたの!? いやうちのスタジオにもだけど、なんでこっちにいるの、スウェーデンはどうしたの、なんでいるの、どうして僕の目の前にハニーがいるの!」
本当は叫びたかったがここはサリヴァンのパーティ会場だ、という理性がギリギリ働く。
最大限小さな声で詰め寄るSJの早口にもハリーは肩をすくめてみせるだけだ。
「……全ての疑問に答えると『キミに会うべきだと思ったから三日前に帰国した』が妥当かな」
「聞いてない!」
「言ってないから、まあ、そうだろう。はじめましてミセス・グレイシー。あまりこの場で名前を言うべきではない者です」
「まぁ、『名前を呼んではいけないあの人』みたいでどきどきしちゃう。はじめまして私達のキラービー。マイキーに聞いて、今日会えるのを楽しみにしてきたわ」
「ちょ、ナスチャ、ほんと、そういうのよくない。よくないよ。なんできみたちはさーそうやってさー僕をさーのけものにしてさー……」
「会いたかったんでしょ? あなたはちょっとしたサプライズがあるくらいが、テンションが落ちついていいと思ったのよ。肩の力が抜けたんじゃない?」
「腰も抜けそうだよこんちくしょう」
事実膝が少し笑っている。このまま腰を降ろしたら立ち上がれなくなりそうで、SJはどうにか深呼吸をして天井を眺めて動悸を抑えた。
幸いな事に大物ばかりのロビーの端でささやかに言い合うSJ達は、大した注目を集めていない。
皆が軽く談笑する中、ナスチャには先に機材を持って控室に行ってもらい、SJはハリーを連れてホテルのトイレに入った。
誰もいないことを確認し、一番奥の個室に入り、鍵をかける。
流石にここには防犯カメラはないだろうし、誰かが入ってきたら口を噤めばいいだけだ。
個室にしては広い空間の中、腕を組んだSJの顔を見て、ハリーはやっとサングラスを取って眉を下げた。
「……悪かったよ。キミの驚く顔が見れると思ったら、ちょっと悪戯に乗ってみたくなった。本当はこっちに帰ってきてすぐに連絡をとりたかったんだが、久しぶりの飛行機のせいか風邪のせいか、暫くベッドの上の置物みたいな生活だった」
「どこに泊まってるの? ホテル?」
「そう。スウェーデンに行く時に俺は家を売っぱらったからな。西海岸に売られていなければ小さな別荘もあるが、流石にNYからは遠い」
「僕の家に来たら良かったのにって言いたい所だけどあんまり環境よくないからうかつにおいでよって言えないのが辛いね、大概僕はスタジオで生きてるようなもんだしなぁ……でも、一言、いってくれてもよかったのに……あーもう、びっくりしすぎて心臓がまだおかしいよ」
「怒ってる?」
「……怒ってるって言ったら何して謝ってくれる?」
ハリーのシンプルな黒いシャツの襟に指を這わせながら、SJは視線を落とす。言ってからその恥ずかしさに気が付き、とても顔をあげていられなくなった。
びっくりした。けれど、怒ってはいない。会いたかったし、ハリーがどこで何をしようと、急にNY旅行に行こうと思い立ったとしても、SJが怒るような事は無い。
言ってくれたら仕事の合間にホテルで寝込んでいるハリーの見舞いにでもいけたのに、と思うくらいだ。要するに、会える距離に居たというのに教えてもらえなかったことが悔しいだけだ。
この男はSJがどれだけその腕に抱きしめられたいと思っているのか、知らないのだ。
謝罪を求めたSJに、ハリーはどろりと甘い声で応じる。
潜めた声になる寸前の息は、とても甘く腰に響く。
「なんでも。スタンが望む事を、俺は全力でこなすだけだ。せっかく海を跨いできたのに愛想を尽かした、なんて言われたくないからな」
「ハニーがくそかゆいのはスウェーデンのあの家と電話だけじゃないんだって痛感してるよ……ホテルのトイレの中でも全力で口説いてくるなんてずるくない? ここがすっごく高級な良い匂いのするトイレで良かったよほんと。地下鉄の汚いトイレじゃこんな官能的な気分には絶対にならないもんね」
「キミの言葉は相変わらず長いな。つまり、俺は何をしたら許してもらえる?」
「……キスしてハニー。別に怒っちゃいないけど、僕には今それが必要なんだ」
お願い、と首にまきついたSJの腰を抱き寄せたハリーは、愛おしそうに笑った後に溶けるようなキスをした。
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