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第17話

 帰りのタクシーの中で、ハリーはまるで壊れた人形のようだった。  呆然としているのならまだいい。ネジがサビついたオルゴール人形のように黙り込むならばわからないでもない。  しかし壊れたファービー人形のように時折笑いだすスーツの美丈夫、というものを見るのはSJも初めてで、妙に扱いに困った。  他局のカメラに向かって堂々と交際宣言をしたSJは、颯爽とハリーとナスチャを引き連れて会場を後にするつもりだった。  しかしハリーに腕を取られ、その上腰も取られ、あの程度のキスじゃジョークだと思われるぞと甘い声で囁かれ、腰が砕けそうになった瞬間に唇と舌を絡め取られて、大量のカメラの前に男前俳優との濃厚なキスシーンをおみまいする事となった。  ハリー流の仕返しだったのかもしれない。確かに、無断でハリーを巻き込み過ぎたと思う。  サリヴァンに対抗したいが為に、彼を巻き込んだ事は反省している。ただ、テレビドラマの仕事はSJなりのハリーへのエールだった。  無理に復帰しろとは思わない。けれど、もしただ機会がないだけだったら、もう一度画面の中で演技をする彼を見たい、とSJは本気で考えていた。  映画の中のハリーの演技はどれも素晴らしく、何度涙ぐんだかわからない。ふと表情を緩めるだけで空気が変わる。彼は、そういう俳優だ。とても力がある、才能がある。  望んで農業に徹しているのならばSJも諦めるが、本人は何をしたいのかいまだに悩んでいる様子だった。もしこの仕事が嫌だ、と言うのならとりあえず最初の契約分はどうにかこなしてもらって、あとはスウェーデンに帰ってくれてもいい。  そう思っていたが、ハリーの反応はSJの想像の範疇外で、正直どうしていいかわからない。  嫌だと言われる事も、殴られる事も無かったし、キスも怒られなかった。むしろ濃厚なディープキスのお返しをされた事を考えれば、ハリーがSJの今日の行動と発言に苛立っているとは考えにくい。  だからと言って自分の都合のいい様に考える勇気はなく、SJは不思議なテンションのハリーと共に久しぶりの自宅に帰って来た。  スタジオには今日は帰ってくるなと言われている。恐らくは三文ゴシップが大好きな芸能雑誌や素人まがいの記者が、NICY周りをうろちょろすることだろう。SJはその中に飛び込んで行っても問題ないが、わざわざハリーのトラウマを刺激する必要はない。  報告はナスチャに任せ、部屋の鍵を開けると妙に足が重くなった気がした。  疲れていたのかもしれない。  そういえば、ハリーと再会したのも今日会場についてからだった。目まぐるしすぎる一日で、一週間分くらいの疲労感がある。  このところ一応帰宅してはいたが、そもそも寝る為だけに帰っているようなもので、食事も外食ばかりのSJの安いアパートには、食料らしいものは何も無い。  毎日の生活に必要な食糧は無いのに、無駄に物で溢れていて乱雑だ。ほとんど帰って来ないからと、掃除をさぼっていたのが原因で、酷い状態の部屋を見たSJは慌ててハリーをキッチンに追い立てて掃除をする羽目になった。 「……別に、キミの部屋がどれほど汚かったとしても数カ月の恋は冷めないけどな。第一掃除は俺も苦手だ」 「見栄ってもんがあるでしょ、ね、わかる? きみは今NYの僕の家に居る! ねぇ僕の家だよ、ここは僕がハイスクールを卒業してからずっと住んでるわりと思い出いっぱいのあばら家だ。そこに全世界を感動させることができる俳優のハロルド・ビースレイがいるなんて、見栄を張らない方がおかしい」 「俳優の方の俺か? 恋人の方じゃなくて?」 「どっちかっていったら後者だけど言わせないでよ馬鹿ハニー! もう! なんなの! 五分くらい静かに待っててよ!」  くすくすと笑う声がドア越しに聞こえてきて、SJはたまらない気分になる。  甘くて痒くて仕方が無い。二人で生活していたスウェーデンでの日々は、こんなに甘ったるかっただろうか。  もっとハリーとの距離は遠かったような気がする。ハリーは時々愁いだ様な表情で部屋に閉じこもったし、SJもうまい踏みこみ方を知らなかった。こんなに、何もかもさらけ出して甘えるような関係ではなかった筈だ。  離れていた三週間は、SJとハリーを精神的に近づけたらしい。  せっせと脱ぎっぱなしの服を洗濯用のカゴに放り込み、よくわからない資料や本を拾っては積み重ねる。絶妙なバランスのタワーが何個か壁際に出来たが、触らなければきっと崩れない、と思うことにして後は適当に敷きっぱなしのシーツを変えた。  そういえば電球が半分切れていた。妙に薄暗い事が気になっても、今から街に行く勇気はない。テレビをつけるのも躊躇う。  今頃はトップニュースと言わずとも、なにかしらの形でおもしろおかしくSJとハリーの一件は報道されていることだろう。重要度は芸能ニュースの賑やかし程度だとしても、やはり外を練り歩きたくはない。  薄暗さには目をつぶってもらう事にして、一度ぐるりと部屋を見回したSJは『及第点とはいかないけどどうしようもない!』という判断を下し、仕方なく部屋の扉を開けた。  狭いキッチンスペースのシンクに寄りかかるようにして立っているハリーは、場違い過ぎてとんでもない破壊力だ。自分の生活圏に彼が居る事が不思議だしおかしな気分になるし、そんなことよりとにかく格好良くて死にそうな気分になる。  やっぱりもう少し埃とか徹底的に掃除した方がいいんじゃないか、と、弱気になりかけたSJが扉を閉める前に、ハリーは流れるような動作でSJの腰を取り抱き寄せる。  甘い匂いがするのは香水か。  スウェーデンに居た時は、こんな花のような匂いはしていなかったくせに、と思うと抱きしめ返す腕に力が入った。 「……ハニー、良い匂いがする。何かつけてる?」 「ああ、そういえばホテルにサービスで備え付けてあった香水をほんの少し拝借した。香水くさい人間は苦手なんだが、ほんのちょっとした戦闘服への追加装備だ。気になる?」 「うーん別に香水の匂い嫌い、とか今まで一切思った事無いんだけどハニーが甘い匂いまき散らしてると変な花とか蝶とかそういうひらひらしたのが寄ってきそうで嫌だなァって思、ちょ、息できない死ぬ死ぬ死ぬ!」 「キミが可愛い事を言うからだ。事の始末の説明をしてもらうつもりだったが、それどこじゃなくなりそうだよ……とりあえず、かわいいキミにキスをしてもいい?」 「……いきなり情熱的に奪われるのもアレだけどそうやって事前に訊かれるのもどうかと思うよ僕は……」  いいよ、と了解の意を伝えるのは恥ずかしい。  舌で愛撫されるようなとろりとしたキスをされ、足から力が抜けるタイミングでベッドの上に柔らかく座らされる。  何もかも完璧なタイミングで腹が立つ。キスの合間に漏れる吐息と一緒に罵倒の言葉を混ぜると、ハリーが失笑した。  零れるような素の笑い声が好きだ。  吐息だけでも甘くて死にそうになる。 「手慣れ過ぎてて嫉妬しちゃうよね、僕の他にどれだけの人に愛を囁いたんだろうなんてさーどうしようもない事思っちゃう。すごい。スピーカー・ジャックが他人の人生に嫉妬だなんて! マイキーにはキスしたかったら恋だなんて言われたけど、嫉妬なんてもう紛うことなき恋じゃない?」 「キスはしたくない?」 「……何度ねだらせれば気がすむのきみってばさ」 「何度でも。キミのおねだりはどんなものでも可愛いが、キスをしてと言われるのが一番嬉しい」  もう一度、と唇を重ねられ、本能的に後ろに引いてしまいそうになる腰を抱き寄せられた。  繰り返される甘い口づけにギブアップしたのはSJで、ハリーの熱い身体を押しのけながらストップ、タイム、と情けない声を張り上げる。 「あの、嬉しい、すごく、キモチイイ、でも、あの、ちょっとゆっくりしてよハニー、知ってるでしょ僕は恋愛初心者なんだってば。……キスだけしてたら腰が抜けそう。言葉の応酬を挟んでいこうよ。三分喋ったらキスしていいよ」 「可愛らしいルールだな。砂時計が欲しいところだ。確かにキミに訊きたいことは山ほどある……どうしてオーガストと俺のことを公表しなかったんだ、とか」  どう考えても、それがサリヴァンに対する一番の切り札だったはずだ。SJがNYに急に帰ると言い出したのも、彼とハリーが恋人だったという事実を知った時だった。あの時には今のところ映像を公表する気はない、とSJは言っていたが、映像を公開せずともサリヴァンに喧嘩を売るにはこのネタしかない、とハリーは思っていたと告白した。 「ええと……まあ、確かに弱味を握った! って思ったけど、あくまできっかけって感じでさ、なんていうかハニーが過去の恋人だったからって空き巣入って僕のパソコンとかハニーの生活とかめちゃくちゃにしちゃうそのくそみたいなやり方に本気で反撃しなきゃって思ったっていうか、いや僕はいつも本気だったけど……誰が誰と付き合ってたか、なんて話僕は好きじゃないんだ。どうせだったら正攻法で真正面から取り返してやろう! って思ったの。正直僕たちが頭を下げてどうしようもなかったら、ハニーに頭を下げて元カレ映像を切り札にするしかないのかな、とは思ってたけどね」  それとは別に、オーガストなんていうハリーの元恋人に見栄を張りたかったという個人的すぎる理由もあったが、SJは口にしないことにした。恥ずかしいし、何より今それを言うと、他の話をする前にハリーに押し倒されてしまいそうだった。 「オリアンと手を組んでいたなんて俺は全く気が付かなかった」 「素直にお金が足りなかったんだよ。オリアンじいさんがおせっかいを焼いたわけじゃない。僕がわりと本気で頭を下げた。そしたら、ハリーを雇ってくれるなら考えるって言われちゃったの。そこからはもう手当たり次第に心当たりを当たって当たって頭を下げまくったね! 正直それなりの知名度の作家か監督なら誰でも良かったっていうのが本音なんだけど、たまたま旧友の姉がベストセラー作家だったのはもう神様が僕に託してくれたチャンスだと思ったよ。R・フォーカスは彼女に紹介してもらったんだからね」  滔々と説明の言葉を垂れ流すSJの言葉を、ハリーは隣に腰掛けて真剣に聞いてくれる。 「よくフォーカスが映像の原作を許したな。トロント・ミステリーは個人的には好きだが、いまいち興行収入がぱっとしなかったし、その他のシリーズではメディア化で痛い目を見たと聞いたが」 「それはきみのおかげなんだよハニー」 「俺の?」 「そう、きみのおかげさま。……ちょっと、まだ三分経ってないってば。今は引退してすっかり引きこもってるハロルド・ビースレイが主役ですって言ったらフォーカス氏は一発オーケーだった! いやー、さすがハニーだよね、コアなファン持ってるよきみってば」 「……俺はそれを了承していなかったどころか、仕事の話も聞いていなかったじゃないか。要するに嘘をついてフォーカスを釣ったのか?」 「はったりも出任せも僕の武器。最終的に全部真実にしちゃえば問題なんて一つもないんだよ! きみは二年ぶりに復帰して僕のテレビ局の特番ドラマの主役を演じる。原作と脚本はメディア嫌いのR・フォーカス! きっと地味だけど、最高のものができあがる。ねぇ、うきうきするよね、未来ってどきどきするし、わくわくする」  忙しくなるよ、と笑うSJを、ハリーは小さな息一つで許してくれた。 勝手な事ばかりして、勝手な事ばかり押しつけて、それでもハリーは怒らない。  三分だ、と笑ってSJは自分からハリーに軽いキスをした。軽やかなリップ音のキスを五つほどお見舞いして、にっこり笑って首を傾げる。 「他になにか質問ある? えーと、オリアンじいさんの件は話したし、フォーカスの事も話したし、まあでも大概は社員のツテとか元々あった人脈辿って辿って最大限に頭を下げたってだけなんだよね。筆頭株主サマも、結局ナスチャの親類だ。ナスチャとマイキーの結婚って親族総出で反対されてたから、今回ウン年ぶりに連絡とってもらってさ。ナスチャが一年に何回か実家に帰るって事で手を打ってもらったっていうまさかの身内売り案件。なんか、ほんとそういうの申し訳なかったし、もう何度誰にどれだけ頭を下げたのかわかんないよ」 「……それをしなかったのは、頭を下げるのが嫌だったから?」 「いや、別にそんなことはないんだけどさ。うーん……利用する、って思ってたんだよね、多分。僕一人で抱え込んだ馬鹿な案件だったから、一人でどうにかしなきゃいけないって勘違いしてたのかも。僕は他人を利用するのは怖いって思ってたんだ。でも、ハニーは言ってくれたよね。『利用するって言わない。頼るって言うんだ』ってさ」  頼ってみようと思った。  全力で、とことん頼って、そして絶対にNICYを守ろうと思った。  SJが立つべき舞台は、スウェーデンの農場ではない。NYの、小さなローカルテレビ局の雑多なスタジオだ。愛すべき小さな騒がしいスタジオだ。  それに気がついたのは、ハリーのおかげでもあるだろう。ただ話を聞いてくれて食事を用意してくれる彼の存在は、SJを随分と落ちつかせた。一人でテンパっていたままなら、本当にそのまま身を投げていたかもしれない。  軽いキスをしたハリーは、俺の力なんかじゃないさと囁く。 「スタンは一人でも立ち直ったさ。前向きで、強い。だが、俺がキミの役に立ったと言われれば悪い気はしないな……俺こそ、復帰できる舞台を用意してもらって、感謝の言葉もないのに」 「勝手に色々しちゃってほんと申し訳ないよ。……言い訳すると時間がなかったし色々綱渡りでハリーに拒否されちゃうと躓いちゃう案件だったし、っていうのが建前で本音はきみから否定の言葉を聞きたくなかったから。臆病でさーだめだよ僕は。全然だめ。仕事だけはきちんとやるのが信条だったのに、きみが関わってくると急に弱気になるんだものさぁ」 「スタン、あー……待て、俺が先に言っていいかな。どうもキミには全て先を越されていて、弱る。十秒黙ってくれたらいい」  素直に口を噤んだSJの心臓はおかしなくらいに鳴っていた。  ハリーは甘い空気を作るのがうまい。そして、胸を高鳴らせるのもうまいから、心臓に悪い。 「キミの事が好きだよスタン。キミの包帯が取れても、キミが足を引きずらなくなっても、俺をキミの恋人の座に据え置いてくれないか」  手を握ったハリーは、SJの額に自分の額をつけると、息で口説くように囁く言葉でSJを落とした。 「愛してる、なんて恥ずかしげもなく抱きしめたいのはいつぶりかわからないよ」  ずるい、とSJは口を開きかけ、結局何も言えずに魚のように口をぱくぱくと動かした後に、泣きそうな気持ちをどうにか押し込めて長い息を吐いて、それからハリーの肩口に沈んだ。  いつだって落とされる。いつだってSJはその蜂蜜のようなどろりとした甘さの中で、息も出来ない程溺れてしまうのだ。 「――……僕なんて『愛してる』なんて思ったの、初めてだ」  好きだよ馬鹿とかわいくもない告白を返すSJの何が良いのか、ハリーも同じように崩れ落ちてしまい、結局二人でベッドに転がるはめになった。  見慣れた天井が今日は違って見えるから不思議だった。今日もハリーと一緒だったし、スウェーデンではほとんど一緒に居たのに、どうしてか明日からはもっと気恥しい関係になるような気がする。  恋ってすごいなぁ、などと人ごとのように思っていたら、何度目かわからないキスをされて、もうだめだと二人でまた照れてベッドに沈んでしまった。 「だめだ、一晩中ティーンエイジャーのようにいちゃいちゃできそうで怖いな……そういえば、キミに土産がある」  ふと思い出したように放り投げていた荷物を漁ったハリーは、古びたロムをSJに渡した。  表面に乱雑に書かれた文字は、どうやらタイトルらしかった。読みにくいマジックの文字を、SJは声に出してみる。 「……『FLY,FLY』?」 「俺の初演作品だ。荒削りで、脚本もめちゃくちゃで、それなのに勢いだけは最高の若い作品だよ。スタンにやるよ。俺が持っていても、多分年に一回も再生しない」 「え、ほんと? いいの? もらっちゃうよ! やった、なにこれめちゃくちゃ嬉しい! どうしよう感動でどうにかなりそう今すぐ見ちゃだめ? だめ?」 「……あー……まあ、駄目、じゃないが、生身の俺より過去の俺の恥ずかしい演技の方がいい?」 「いやそれは、勿論いまここにいるハニーのほうが、いい、けど、ええと、わかったこれは明日ゆっくり見るよ。ね、だからハニー、あー……もう、こういうことになると僕の口って重くなるんだねぇ不思議だよ。甘痒い言葉は僕のスピーカーからは流れないんだろうなぁ」  キスをしてよ、と何度目かわからない口説き文句を口にしたSJに、ハリーは溶けるような口づけをした。

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