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第8話

 雨が降り出したのは、午後七時を過ぎたあたりからだった。  台風が近づいているという情報がちらほらと耳に入りだし、夕飯のコンビニ弁当をかき込みながらぼんやりと見ていた夜のニュースでは、見なれた台風中継が始まっていた。  確かに、氾濫した状態や現状を伝えるのは危機感を煽る為に必要かもしれないが、そこにアナウンサーが立つ意味はあるのかと時折疑問に思う。現場から中継している彼らが一番疑問に思っていることだろう。  傘をさせる状況ではありません、と叫ぶアナウンサーを眺めながら、そういえば千春は傘を持って行かなかったなと海燕は思い出した。  まだ台風は九州を掠っているくらいらしいが、その影響で全国的に雨が降り出している、とのことだ。確かに弱かった雨足は、すでに耳に煩い程になっている。  大の大人が、傘がないから帰れない、ということもないだろう。ビニール傘はコンビニにも売っている。そしてそのコンビニは二十四時間営業が基本となって久しい。  最悪濡れても死ぬことはないだろうが、ふらふらと心もとない足取りで出勤する千春の顔を思い出してしまうと、どうにも落ち着かない気分になった。  迎えに行こう、と決意したのは十時過ぎで、家を出たのは千春の店の営業が終わる十二時過ぎの事だ。  過保護だなんだとはやし立てるリリカ達の姿が思い浮かんだが、雨の中歩く千春を想像すると大変胸が痛む。  一回キスしたくらいで、チョロい、と自分でも思う。  尚且つ昨日の千春は正体を失っていた状態で、ただ誰かに甘えたいだけだったんだろうと思う。思うがしかし思い出すとどうも熱が上がってしまう。  縋りついてくる腕や、熱くぬるりとした官能的な舌や、苦しそうに漏れる甘い息など、そういうものを幾度となく思い出し、あーあーと居たたまれない気分になる、という行為を今日一日繰り返していた。  おかしい、と思う。海燕はこんなキャラではなかった筈だった。  去る者は追わず来るものは適当に選ぶ、程度の精神で生きてきた。付き合った人間も、身体を合わせるだけの人間もいた。それなりに胸のときめきを感じた事もあった。初恋なんていう痒い感情はもうとっくの昔に忘れた筈だ。  それなのに千春とのキスを思い出すと、どうにもそわそわしてしまう。  普段、海燕にも轟にも頼ることなくきちんと仕事をこなし、生活している千春が、舌っ足らずな言葉で体温を求めてきたあの瞬間は、毒だと思う。あんなもの、抗える筈がない。  どう考えてみても、ただ単に海燕が千春に落とされた、という単純な回答しか出てこない。  それを認めるには、もう少しの勇気かきっかけが必要だった。 (……だからって、お迎えって。高校生かって話だけど)  店の前に辿りつき、五分ほど引き返そうか迷った後、心を決めて裏口から出てくるキャバ嬢に声をかけた。流石に従業員ではない為、勝手に入るわけにはいかない。  海燕が声をかけたのはスレンダーで背の高い美人だ。海燕の姿を認めたマキは、静かに微笑んでちょっと待っててねと千春を呼んで来てくれた。  その後ろにはにやにや笑っているリリカも見える。 「どーも。雨の日のお迎えというか傘のお届けです。終わるまでその辺で待ってますんで、ボクをスルーして帰らないでくださいねー」  にっこり笑って二本の傘を掲げると、びっくりした顔のまま固まっていた千春は、心なしか赤くなったように見えた。暗かったので、目の錯覚かもしれない。 「え。え……まじで。うわ、ありがとう……ちょっと、あの、掃除頑張ってくる」 「ゆっくりでいいですよ~ボク別に急いでないし結構着込んできたんで。リリカ嬢の煙草タイムにでもお付き合いして待ってますよー」 「この辺路上禁煙だっつの。コーヒー奢ってくれるなら春ちゃん待ち付き合っちゃるわ」 「残念、ボク今無一文なんでそれは無理なお願いですわ」 「お金持ってないホモなんかあたしになんの得にもならないじゃん!」 「あっはは! 仰る通りですねーじゃあ珈琲タイムはまた今度お付き合いしてください」  そのままリリカと別れの挨拶を交わし、付き合おうか? と声をかけてくれるマキの申し出を断った。二人の子持ちのマキは、明日の朝も早い事を知っている。  馴染みのキャバ嬢がどんどんと店を後にし、数分ぼんやりと建物の下で待った。雨は相変わらず降り続いている。冬はまだ遠い筈だというのに、すっかり冷えて寒い。  そのうち、バタバタとボーイが姿を現し、千春も階段を駆け下りてきた。 「……ごめん。おまたせ」  気恥ずかしそうに駆け寄ってくる様がどうにもかわいくて、にやけそうになる頬を引き締める。全然なんでもないですよ、という顔を保とうとして失敗して、一回顔ごとそらしてしまった。 「え。ハイエン? ちょ、何、どうしたの」 「……いやー……今冷静に、これボク浮かれちゃってんのかな何これ恥ずかしい? って疑問に思いまして、ちょっと羞恥心に耐えられなく、ええと、……気にしないでください一人で勝手にバタバタしてるだけですんで」 「……おれ、嬉しいけど」 「………………もー。なにそれ。もー……ばか。春さんのばか」  照れた顔で迎えに来てもらって嬉しい、などと言ってしまえる千春はすごい。すごいし、とてもずるいと思う。  直視できなくて傘だけずいと渡したが、それを開いた千春は数秒後に申し訳なさそうに口を開いた。 「ハイエン、これ、日傘じゃない……?」 「え。うそ。ボク、ビニール傘持ってきませんでしたか? あ、ほんとだ布だこれ。うわ、すいません。コンビニ行きます?」 「いやいいよ面倒だし。日傘でもきっとないよりはマシ……」 「日傘はどんなに頑張っても日傘ですよ。無茶言っちゃいけませんよ。もうほら、あのー……ボクの傘に入ればよろし」 「……あいあいが」 「言わない。駄目。いいから早く帰りましょうこんなアヤシイお店の立ち並ぶ路地でホモ二人が立ち話とかよろしくないですからもうほんと一刻も早く帰りましょう。台風来ちゃいますからね、うん」  台風が関東上陸を果たすのはおそらく明後日くらいの話だが、そんなことは二人にはどうでも良かった。  そうだね台風来ちゃうねと笑って、千春はおとなしく海燕の傘の下に入って来た。もう少し大きな傘を持ってきたら良かった。海燕が適当に掴んできたのは安いビニール傘で、一人ならばなんとか雨から逃れられるが、男二人の肩を守るには小さすぎる。  頭を守るのが精いっぱいで、結局二人とも雨に当たってしまう。  なんとなく、千春の方に傘を傾けるとそっと戻され、どっちにしても濡れてるし気にしないでいいよと笑われた。 「なんか、ハイエンが女の子達に人気あるのわかるなぁ……さらっとジェントルだし」  いつもより近い千春は、心の距離も近くなったかのように柔らかい声で話しかけてくる。  流石に肩が触れ合うだけでどきどきするような歳でなくても、意識している相手にそんな事を言われてしまうと、どんな顔をしていいのかわからなかった。 「ジェントルですかねぇ。他人に対して無碍な態度取るのが面倒くさいだけだと思いますけどね。適当に優しくしておけば、人間関係楽でしょ?」 「まあ、わかんなくもないけど。でもそれ、やっぱり優しいと思うし、優しくされた方は嬉しいよ」 「……春さんに対しては適当じゃなくてふんだんに優しさふりまいてる自覚はありますけどねぇ。お体の具合平気です?」 「あー。うん、へいき。ちょっと頭痛いけど台風のせいじゃないかなって思ってる」 「気圧が云々って言いますもんねぇ。うちの店も今日は閑古鳥でしたし、通り過ぎるまで外出るなとかニュースでやってますし、迷惑なことですねー台風」 「でもおれさ、台風結構好きだよ。なんか、家吹っ飛ばされた人とかそういう人からしたらそんなこと言うのも不謹慎かもしんないけど、個人的にはさ、わくわくするし。いつもと違う空気にそわそわする感じ、無責任だけどなんか好き」 「……春さん、思ってたよりも無難な人じゃないですよね。案外アバンギャルドな思考回路してたりするんでびっくりしますよ」  台風の日に、穏便に部屋に引きこもって鬱々と空に文句を言うタイプの人間ではないらしい。  海燕も、台風は嫌いではない。何より自分のあだ名の由来でもあった。この名をつけてくれた轟に感謝をしている。自分の苗字も親が呼ぶ名前も嫌いだった海燕は、やっと本当の名前を見つけたような気がしたものだ。  台風が好きだと笑う千春は少年のようで、年上だということを忘れそうになる。  普通に立っていればただのイケメンなのに、海燕の横で半分雨に濡れながらだらだらと喋る男は、ただただかわいい生物だった。  冷たい手を握りそうになる。  その衝動を隠すように、話題を探る。 「そういえば春さんって、なんでお仕事辞めたんです?」  食べ物の好みの話は散々したが、そういう基本的な事は訊いたことがなかった。なんとなく口にした海燕だったが、こちらを向いて不思議そうな顔をする千春に気が付き、首を傾げた。 「……なんですかそのリアクションは」 「え……いやだって、知ってるもんだと思ってたから。そういうの、調べたんじゃないんだ?」  確かに職業や家族構成は千春に会う前から知っていた。それは保証人がどのような人物なのか、返済がきちんとできるのかということを事前に調べるためだ。  職業、家族構成は押さえる必要はあるが、なぜ千春がニートになっていたか、書類記載はない。  訊いてはいけないことだったのかと若干慌てたが、当の千春はなんだなんでも知ってるものかと思ってたと、あっけらかんとした声で笑った。 「いやさ、別に、……隠すことでもないんだけど、よくあるのかは知らないけど変な痴情の縺れみたいなのに巻き込まれちゃって」 「え。ゲイだってばれたとか?」 「あー……まあ最終的にはそうなんだけど、最初はその、加藤さん? に、いろいろ迫られて、いつの間にか彼女扱いになってて、同じ職場だしちょっと困るなと思ってやんわり注意したんだけどそのまま泥沼に持っていかれて、その上昔女の子孕ませたみたいな中傷まで噂で回り出して。もう普通に仕事していられる状態じゃなくなって、上に呼び出されてどうなってんだって話になって面倒になってゲイなんで全部彼女の虚言ですって言ったら言ったで、課長とかが女性を悪者にするのかとか言い出して――……もうこれ駄目だって思って、思い切って辞めました。鬱診断受けたし」  千春はさらりと言うが、なかなかハードな話だと思う。  生活の大半を過ごす場所で、精神的に追い詰められるというのは恐らくとんでもないストレスだろう。海燕は家庭という場所でストレスを受けてきて育ってきたが、幸いにも轟のお陰で素晴らしい職につけていた。  毎日仕事は楽しいと思う。今の人生に満足しているのは、仕事と上司に恵まれているからだと確信している。  珍しくかける言葉に迷っていると、千春が苦笑した。 「まあ、でも、人生何がきっかけになるかわからないし。おれさ、ほら結婚して家庭を築いてっていう目標ははなからないわけだし、そうするともうなんとなく生きて親養うくらいしか義務ないよなーとか思ってたから、ちゃんとした会社辞める時もあんまり未練とか、この先どうしようとか思わなかったな。鬱まっしぐらだっただけかもしれないけど。……なんとなく生きて、なんとなく金稼いで、なんとなく親父看取って、そしたらホームレスになったっても別にいいかって思ってたよ」 「……過去形?」 「うん。あー……過去形かも。今はちょっと、新しいこと覚えるの楽しいな。料理作ったり、書類の整理したり、キャバの子達といろんな話したり、お酒のレシピ覚えたり。別に、結婚して子供作って家庭作ることだけが人間のゴールじゃないんだなって思いだした気がした」 「春さん、接客とかお客様相手の方が向いてたんじゃないですかねー。案外空気読むのうまいみたいですし。オンナノコともすっかり仲良しですし」  まだ働き出して一カ月もたっていないのに、すっかりアイドル状態の千春を目の当たりにして、じりじりとした嫉妬に駆られたりもした。  リリカなどとは携帯でのやりとりまでしているらしい。このままでは休日デートに行きかねないと危惧しているが、そんな海燕の心情を知らない千春は、首を傾げて唸った。 「仲良いかな……結構遊ばれてるけどなー……」 「仲良しさんですよ。もーお嬢様方はうちの春さんを好き勝手呼びやがってまったくあだ名料取りますよって話です。馴れ馴れしいったらないですよ」 「……ハイエン、いきなりあだ名だった気がするけど」 「ボクはいいんですよぅー。これから一緒に働く家政婦さんと仲良くなる必要がありましたんで」 「…………誰にでもそうやって距離詰めてそう」 「またまた言いがかりですってばー。そういうこと言ってると春さんのかわいらしい嫉妬だとみなしますよー」  嫉妬だよ、という呟きが聞こえ、雨のせいで何かを聞き間違えたのかと思った。  そっと横を窺うと、夜の街並みの街灯に照らされて、少し赤くなった顔が見える。  まっすぐ前を向いていたけれど、意識はこちらに向かっているのがわかって、海燕も思わず視線を正面に戻した。  すっかり濡れた肩が冷たい。傘が傾く度に滴る水が、冷たい。  それなのに頬は熱くて、ああほんとうにばかみたいにすっかりぜんぶ落とされてる、と自覚した。  事務所についた頃には気まずいような痒いような雰囲気で、そのまま無言で階段を上った。  いい加減階段を使うのは辛い、という理由だけで轟は四階の部屋を海燕に受け渡した。毎日どうせ三階まで上がってくるのだからあまり違いは無いような気がするが、住居用に改造された部屋をありがたく使わせてもらっている。  しばらくは住居というよりも物置のようなありさまだった部屋も、今はすっかり奇麗だ。  小さいビニール傘と日傘を玄関に立てかけて、靴下と一緒に靴を脱いだ。思っていたより寒いし冷たい。それに、傘の意味はあったのかというくらい水浸しだ。 「……なんか、結局二人とも濡れちゃいましたねぇ。すいません。……服びっしょびしょですねー」 「あー……うん、まあ、走って帰ってくるよりは濡れてない筈だし。むしろおれがごめん。寒いでしょ」 「春さんこそそんな薄着で出てくから、もー、大変なことになってるじゃないですか。……つめた。手ぇつめたっ」 「え、そうかな……ていうかハイエンの手も十分冷たいし、あの……手、あの」  滴る雨を払う振りをして握った手を離せなくなって、そのまま冷えた指を握り込むように絡ませる。玄関の壁に追い詰めながら、絡ませた指に滴る水滴を感じた。 「………手、あんまり繋いでると、ほら、……恋しちゃうじゃんって、言ってたのハイエンだった気がするんだけ、ど」 「うん、言いましたね」 「……ハイエン?」  ぎゅっと、絡めた手はそのままに。  壁を背にした千春の額に、そっと自分の額を合わせた。鼻先が擦れ、息が触れ合う。  千春からは、雨の匂いがした。その匂いは、とても甘い。 「恋しちゃえばいいのに」  唇を先に合わせたのは、海燕かそれとも千春だったか。わかっていた事は、絡まる手はつめたいのに、舌は熱かったことだった。

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