9 / 25

第9話

 雨の音がした。  雨足は強まる一方のようだ。ざあざあと耳に届く雨音以外に聞こえるものは、合わせた唇から洩れる甘い息の音だけだ。  シン、とした部屋は湿気で冷たい。背にした壁も、冷たい。それなのに、頭も舌も身体も、冷えた筈の指先も熱く感じた。 「……っ、……ふ……、……」 「…………、はるさ、……下唇、すき?」 「ん……、……」  壁際に追い詰められて、手を絡め取られて、キスの合間に掠れた声で囁かれる。興奮が滲んだ甘い声が耳に流れ込むだけで、背中が震えてしまう。たまらなくなる。  ハイエンのキスは緩やかで、じれったい。  待ちきれない、と言った風に玄関先でキスをしかけてきた癖に、ぬるりと動く舌は緩慢で、千春の欲求をじわりと刺激する。 「ハイエン、……手、離し…………」 「手……ああ、すいませ……、ふ、っ?」  離してもらった腕を、ハイエンの首に絡ませて抱き寄せ、深く唇を食んだ。  一瞬だけ怯んだハイエンだったが、すぐに腰を抱きよせてくれる。密着する身体は雨に濡れているのに熱くて、不思議な感覚だった。  舌を絡ませる間に、足も卑猥に絡んでくる。甘い愛撫を太ももに感じて、息が乱れた。 「……春さん、お風呂入ります? それとも、ベッド行きます? ……できればボクの部屋の方に、来てほしいわけですけど」  もっと、と身体を擦りよせる千春から唇を離し、ハイエンは囁く。 「…………こんなキスしといてなにそのかわいいお誘い……ばか。ベッド行く」 「風呂は?」 「あとで一緒に入る……」 「わぁー……デレ全開の春さんってとんでもない破壊力ですねぇ。このまま剥いちゃいそう」 「あ。でも服は脱がないとベッド濡れる……やっぱ先に風呂入った方がいい……?」 「待てる?」 「待てない。……ああもう、だめだ全然だめだ、キスもっかいして……そしたら服脱いでベッド行こう」 「……耳から溶けそう」  もう一度唇を合わせて舌を絡ませながら、千春こそ溶けると思う。こんなキスは久しぶりで、こんなに欲情してしまっているのもいつぶりかわからない。  淡泊な方だと思っている。やりたくてたまらないと思う事もないし、なんとなく自分で処理するだけでも事足りていた。  最近は確かに性欲どころではなくて、生きることにすら快感を見いだせていなかったから、恋だの愛だの欲だの、意識するのも久しぶりだと実感する。  息を吸い込むタイミングで耳の後ろを引っ掻かれ、乱れた声が上がる。反射で竦めた首に舌が這う。  年下の癖に。そう思った千春は、ねだるように甘い声でベッド、と囁いた。  言った後で少しやり過ぎたかな、と思わなくもなかったが、くったりと千春に寄りかかりしんじゃうと掠れた声で降参するハイエンはかわいい。  もっと余裕がある男だと思っていた。  何をされても平常心でにこにこ笑っていて、心を許した相手以外には興味すらない、というのが千春の中のハイエンのイメージだった。ただ、千春が思っていた以上に、彼は千春に心を許しているのかもしれない。  恋だの愛だの一笑してしまいそうな外見と性格の癖に、こんな風に甘く求められて、自分の言葉ひとつにふらふらと舞いあがってくれるなんてかわいすぎる。  そもそも意識していた身としては、落ちないわけがない。わかっていた沼に足を突っ込んだら、やっぱり沈み込んだ。  その沼は深いだけではなく、チョコレートだった。今の千春の心境はそんな状態だ。  甘くて甘くて溶けそうだ。溶けて混じったら、きっと自分まで甘くなる。わかっているのに、抗えない。  触りたくて、触ってほしくて、甘い声で囁いて欲しくて、自分の言葉に揺れてほしくて、キスが欲しくて、手を伸ばしてそのすべてを味わいながら冷たくなった服に手をかけた。  ハイエンはいつもの仕事着のシャツで、千春も仕事用のワイシャツだった。ボタンを器用に外していくハイエンをぼんやりと眺めていたら、えっち、と笑われて軽く唇を奪われた。 「だって。……ハイエン、ワイシャツの下に、何も着ない派?」  千春も脱ごうとしたら、ボタンをハイエンの手に奪われる。仕方なく大人しく脱がされながら、他人に服を脱がされる羞恥に耐えられずどうでもいい事を口走ってしまう。 「んーいや普段はタンクトップ着てますけど。今日は家を出るまでティーシャツだったもので」 「ティーシャツで良かったのに。そういえばおれあんまりハイエンの部屋着見ないな……」 「生活時間帯が被りませんもんねぇー。ボクが起きる頃は春さんまだ夢の中ですし、春さんがご帰宅される頃には大概寝てますし。まあ、あんまり顔合わさない生活周期ってこと前提で同居OKにしたんですけどねー」 「……轟さんもだけどさ、ハイエンも結構人見知りだよね?」 「あはは、そうかも。だって人間怖いですもん。故にボクねー別に経験ないわけじゃないんですけど大変久しぶりに他人さまと一夜を共にするわけです。……下手でも怒らないでね」  情けなさそうにふわりと表情を崩し、言葉の端も崩すハイエンの魅力に、どう抵抗できただろう。  自分だけに見せるその顔に動揺しすぎて、うまく言葉が見つからない。  頭の中はかわいいどうしようということばかりで、奪われた筈の体温はどんどんと上がって行くばかりだ。  チョコレートは、毒入りだったかもしれない。じわりと千春の息をとめていく。 「ハイエンの、その、……時々敬語じゃなくなるとこ、あーってなるかも……」 「え、ほんと? 萌え的な感じですかねぇ。ボク的には結構無意識なんですけど」 「だから恥ずかしいんじゃん……。なんでそんな無防備に心開いちゃってんのばかってなるんだよばか」 「バカって二回も言われちゃった。ねー、ほんと、ボクもそう思いますよ。チョロいなって思うし、アホだなバカかなって思いますね。同僚のようなものとはいえ一応我が事務所に返済義務があるお客様とこんなよろしくない行為に及ぼうとしているなんて、シャチョーにばれたら完全にやばいです」 「じゃあやめる?」 「嫌。無理。ていうか春さんだって無理なくせに」  もう何度目かわからないキスを受け入れて、腰を撫でる熱い手を感じて声を洩らした。  下手だったら、などと言いながらもハイエンは手慣れた様子で千春の肌を粟立たせる。  ぞくり、と、身に覚えのあるささやかな快感が襲う。このままベットに辿りつかないうちに悪戯な手が伸びてきそうで、ほんの少し睨みながらベッド、と呟くとようやく手を引いてくれた。  下着一枚で横たわるシーツの上は冷たい。  濡れるから脱ごうと言ったのに、ハイエンは見なれたスーツのスラックスを穿いたままで、自分だけずるいと抗議するも、やんわりとキスで押さえ込まれる。 「……ぬぎなよ」 「嫌ですよ。これ最後の自制心なんですよ。病み上がりの春さんに無理をさせない為の、あ、ちょっと、こらこらこらっ」 「煽っておいてこのやろう……」  身体を起こしてベルトに手をかけようとするも、器用な腕につかまり押し戻される。  恨めしく見上げる千春を見下ろすハイエンは、なんとも痒そうな顔をしていた。 「あー……わかりました脱ぎます脱ぎます本当です。だからそのかわいい怒り方勘弁してください興奮だけで血が足りなくなりそう……」 「どえすなのかちょろいのか、どっちなのハイエンって」 「春さんに対してということなら完全にただのくっそ甘い男ですねぇ。そのくらいの自覚はあります。ていうか別にボク性格的には知りませんが、性癖的にはサド趣味ってわけでもないですよ」 「あ。じゃあおれ縛られる覚悟とかいらなかったんだ?」 「…………」 「ハイエン?」  急に無言になるハイエンを見上げ、首を傾げると、心なしか遠くの方を見ながら赤面している男が恥ずかしそうに笑った。 「想像してちょっといけない興奮の仕方をしてしまいました」 「……えっち」 「春さんがけしかけた癖に。まあそういうのは今度余裕がある時にお願いいたします。……普通のプレイはご不満?」 「まさか。むしろ普通でいい……っ、ぁ、……ハイエンの手、えろい……」 「えろいのは春さんですよまったくもう。腹筋撫でてるだけでこんなとか。もー……イイトコ触ったらどうなっちゃうの」  そんな事を言われても、その腹筋を撫でる手が異常に気持ちいい。  普通に友人や医者などに触られても平気なのに、ベッドの上で男に撫でられると急に甘い感覚に襲われる。セックスは心でするものだという言葉を、思い出さずにはいられない。  甘い興奮の中で触られる個所は、何処もかしかも甘い震えをもたらした。  息を詰め興奮を示す度に、ハイエンの熱も伝わってくる。  ハイエンの言うとおり、このままでは中心に触れただけで上りつめてしまいそうだ。千春の身体は本人の意思とは切り離されたかのように、熱い手を待っている。  そこまでセックスを求めていないとか、べつにしなくても死なないとか。そんなことを思っていたのが恥ずかしいくらいに、全身が熱で溢れていた。 「ああだめだ……春さん、エロすぎるしかわいすぎる……あーもう、今までどうやって生きてきたんですか。よく食い散らかされなかったですねほんと」 「……おれが良いなんていうゲテモノ好き、中々居なかったんだよ」 「じゃあボクの味覚がオカシイだけって話でもいいです。それならそれでいい。……ボクだけのモノって、すごくたまらない」  言われた方もたまらない気分になって、もうどうにでもしてくれと言う合図を込めて、ハイエンの首筋に腕を回して抱き寄せた。  どうしてこんなことになってしまったんだろうと思わない事もない。  それでも千春は嫌ではないし後悔も反省もしていない。自分を性急に求めてくれるこの男が、ただの遊びや酔狂で手を出す様な人間ではない事を、千春は知っている。 (……恋、しちゃうでしょ、こんなの)  恋しちゃえばいいのに、と。切なく囁いた声を思い出し、甘い声の合間に息も詰まる程の愛おしさを感じた。

ともだちにシェアしよう!