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第10話

 その日の海燕は、珍しく、昼過ぎに起きた。  正確には朝一度出勤の為に起きたが、ぼんやりと歯を磨いている途中に轟から連絡が入り、ツバメキャッシングは臨時休業になった。  なんでも、自宅療養中だった留子が踏み台から落ち、足を捻ったか折ったかしてしまったらしい。  救急車を呼ぼうにも、昨夜から何かと話題に上がっていた台風は最早関東上陸間近で、電車も止まり交通網が麻痺している。  救急車を呼ぶよりも車で送った方が早い、と判断した轟は、親類と離れて暮らす留子の為に暴風の中車を出す決意をし、そして海燕にたまには寝て過ごせと言った。  確かに、開店していても客は来ないだろうし、外回りをするような天気ではない。  それならそれで事務所の整理でも、と、一度は着替え掛ったが、眠気に耐えられずに温かいベッドに戻ってしまったのが悪かった。  眠いのは仕方がない。つい、のぼせあがって朝方まで千春と良からぬ行為に励んでしまった。お陰さまで眠い上に身体も痛い。  そして口をゆすいでから顔を洗って着替えよう、と思えなかったのは、その千春がまだベッドでうとうととまどろんでいたからだった。  冷えた身体で戻って来た海燕にすり寄り、仕事はどうしたのかと眠気をふくんだ声で尋ねる千春の額にキスを落とし、おやすみになりましたのでもう今日は寝てましょうと囁く。  詳しく説明する前に眠気がぶり返し、再度目が覚めたのは正午を過ぎたあたりだ。  今度は千春の携帯が鳴り、慌ただしく通話に出た彼は大変嫌そうに溜息をついて、ちょっとでかけてくると告げた。 「え。この雨と風の中、春さんはどちらへ?」  くあ、と欠伸をしながら疑問を口にする。  外はとんでもない嵐で、清く正しい台風実況のようなありさまだ。 「キャバの方のお店。なんか、雨と風がすごすぎて近場の店の看板とかが飛んできて、隣の店の窓が大破損してえらい騒ぎなんだって。だから今から対策するんだって……近場に住んでる男従業員招集……」 「今からってそれ遅くないですかね……夕方には通過しちゃうんでしょ?」 「うーん……でもまあ、やらないよりは、うん……今日は休業するけど今からの出勤はちゃんと残業にしてくれるらしいし……めちゃくちゃ面倒くさいけど行ってくる……」  眠い痛いダルい寝ていたいとうだうだする千春は可愛くそして非常にかわいそうだったが、それでも真面目に腰を上げるところが好ましい。  海燕自身、仕事には真面目に取り組む性質なので、サボってしまえばいいと言い難い。サービス出勤はどうかと思うが、賃金が発生する仕事ならば仕方ないかと思う。  よろよろと着替える千春を見かねて一緒に行こうかと声をかけたが、甘えちゃうからダメと言われてしまった。 「……おれね、まだ結構お花畑っていうかチョコレートの沼の中だよ。なんかさ、ふわふわしてんの。朝になったらちょっと冷静になるかなって、思ってたんだけど全然だめだねこれ……朝になってもだめなもんはだめだなー」 「え。え? だめってそれどういうアレですかね、ええと、自分勝手に解釈するとかなり糖分高めな展開を期待しちゃうんですけど、ちょちょちょ、春さんそのお話だけしてからお仕事行ってくださいよ! 五分でいいから!」 「やだよだって絶対五分じゃ済まなくなるしベッドの中戻りたくなるしあーあーってなるの目に見えてるからそういうのは帰って来てからにしてクダサイ……。あ、ついでに夕飯の買い物してくるけど、なんか食いたいものある?」 「夕飯、あー、じゃあ鍋……じゃなくて、なんですこのお預け感!」  さらりと普段の会話を混ぜてくる千春に、うっかりいつも通り対応をしてしまってからつっこんでしまう。  海燕から仕掛けた関係だが、それに対して千春が何か言葉をくれるならばぜひいただきたい。海燕はもう、手の内を晒している。千春が嫌がっていないことはわかっていても、もらえる甘いものは頂戴したいと思ってしまう。  恨めしくベッドの上で胡坐をかいたままじっと睨んでいると、ジャケットを羽織った千春がはにかんだように笑った。 「……お預け。できたらちょっとサービスする」  そんな事を言われてしまえば、海燕はもう、何も言えない。 「…………そのサービス分、夕飯の中身の話とかだったら暴れますからね。もうちょっとプライスレスなものにつぎ込んでいただかないと襲いますからね」 「あー……うん、考えまとめつつお仕事してくるからさ。ちょっと冷静になるかもしんないし」 「いやいや冷静になってもらっちゃ困るんですけど……あ、千春さんちょっと、」 「ん?」  手招きすると大人しく千春が近寄ってくる。  眠そうな目と少し跳ねた髪の毛が愛おしく、その胸元を掴んで引き寄せ、海燕は小さく唇にキスをした。 「……いってらっしゃい。お帰りを、お待ちしてます。気をつけてね」  甘い声で囁けば千春が赤面することを知っていたから、確信犯だ。  それでも律儀に真っ赤になった後にもう一度キスをして『いってきます』とこぼしてくれる彼はやはり、たまらない。  たまらなくかっこいいしかわいい。 「……………っはー……なにこれやばい……」  扉が閉まった後に、ベッドに倒れてしまう。  こんなにどきどきするのは、どうしてだろう。恋の駆け引きなどという大それたものではない。お互いに空気は甘く、身体も合わせた後なのに、どうしてかそわそわと落ち着かない。  耳に入る言葉全てが甘いような気がしてしまい、恋は盲目だなんてまさにその通りだと自嘲した。  浮かれている自覚は十分にあるが、人生ストイックに生きる義理もない。同僚、そして客の保証人という立場であることは少しばかり問題かもしれない。それでも、今更後悔などしないし、この先の関係をまっさらな状態に戻すつもりもなかった。  どうしよう、恋だなんてまっとうな人間のようだ。  そんな風に苦笑してしまう。生きているのが奇跡のような少年時代だった。それは中学を卒業するまで続き、高校は轟の家から通った。そのあたりからどうにか人格というものが形成され始めたような気がする。あの頃は、恋だ愛だなんて感情自体に懐疑的だった。  暫くベッドの上で幸福のようなものを噛みしめていた海燕だったが、流石に寝て過ごすのもどうかと思い起き上った。  休日を満喫してもいいが、本来は出勤していた時間だ。どうせなら普段やれない事務作業をこなしてしまえ、と思い、自室のパソコンを起動させた。  埋もれていたパソコンデスクもすっかり見違えるように奇麗になっている。  無くしたものだと思っていた灰皿を手繰りよせ、スーツの上着から煙草を取り出す。一日一本と制約している煙草だったが、今日は休日仕事のお供に数本吸ってもいいだろうと言い訳して火をつけた。  ふわりと煙の匂いが充満し、肺の中まで満たされる。  害にしかならないからやめろと親切な知り合いに忠告される度に、それならそれでいいと思いながら考えときますと返事をしていた。  必死に生きて、そしてさっさと死にたい。寿命が縮まるならばむしろ大歓迎だ。そう思っていた。  けれど今は考え直してもいいかな、と思い始めている。  一生千春と共に生きる、などという重い決意はまだないがそれでも、こんな出会いが転がっている人生ならばぎりぎりまで楽しんでみるのも悪くないと思えた。 「……おじーさんになっても、春さんはかわいいんだろうなぁー」  その手を握る権利は果たして自分にあるのだろうか。  今現在の話もお預けされてしまっている身としては、自信をもってそうなるべきだと言い切りがたい。  早く帰ってくればいいのに、と、時折千春の事を考えつつ、昨晩の痴態を思い出しつつ進める作業はあまり捗らず、日が暮れる頃にやっと区切りが付いた。  まだ六時を過ぎた頃だと言うのに、もう空は暗い。ふと、千春の帰りが遅いのが心配になり始めた。買い物に手間取っているのかもしれない。  軽率に鍋がいい、などと言ってしまったが、その材料はなかなか重いのではないか。  白菜はどんなに小さくても四分の一カットだろうし、野菜類は細切れで売っていない。あれもこれもと集まれば二人分でも中々の大荷物になるだろう。  やはり迎えに行こうか。  キャバクラ店までの道は基本的に一本道だし、すれ違う事もないだろう。  そう思い立ち、ロングティーシャツとジーンズのまま、ミリタリージャケットを羽織った。  外に出る時はどうしてもスーツを着たくなる海燕だが、なんとなく、昨日千春に言われた言葉が頭に残っていた。  休日くらいは、気を抜いてもいいのかもしれない、と思えた。 「…………さっむ」  玄関のカギを閉めると、途端に寒く感じる。  まだ十月の半ばだというのに、冷たい空気は冬のようだ。傘を掴む時には日傘かどうか確認して、大きめのコウモリ傘を選んだ。  凝り固まった肩をほぐすように腕を伸ばしながら、コンクリートの階段を下りて、三階を通り過ぎようとした時、思わず足をとめた。  ――事務所の電気が煌々と灯っていた。  轟が帰って来たのだろうか。それとも千春が何か用事があって事務所に寄っているのか。  まさか電気をつけたままで泥棒が家探ししているわけではないだろう。  そう思って安易な気持ちでドアを開け、ひょっこりと顔を出した海燕はすぐに顔を曇らせ、そして自分の浅はかな考えと相手の愚鈍さを呪った。  ドアの向こう、奥の机を漁る人物は、轟でも千春でもなかった。 「……木村さん? 何してんですかこんなところでっていうか、あー……まあ、何してんですかっていうかコソ泥か」  液晶をにらみ続けていたせいで少し、頭が痛いしまだ脳味噌がぼんやりとしている気がする。  それでもこれが異常事態だということはわかりきっていた。  息を吸う。吐く。それで少しは気分が入れ替わる。  海燕に声を掛けられた人物は、小柄な体をびくりと震わせて目を見開いた。いつものように化粧はしていないがその顔は確かに、今まで散々海燕が話を聞き出そうとしていた例のモグリの闇金に手をだしたと思われる女性だった。  真っ青になる彼女を前に、海燕は考える。  彼女がツバメキャッシングに用事があるとは思えない。金を貸しているわけでもない。借用書を盗んで廃棄しようと考える不届き者もいないことはないだろうが、そもそも木村には借用書など無い。彼女はこの会社の顧客ではない。 「何をお探しです? 木村さん。まさかこんなボロ事務所に現ナマ置いてあるとかそんなアホな期待はなさってないですよねぇ」 「…………お金、ないの?」 「あるわけないでしょいつの時代の金貸しの話してるんですか。いまや怪盗さんが狙うのは銀行ばっかりですよ」  実際は若干金庫に入ってはいたが、誤魔化せるならばそう思わせておいた方がいい。  事務所の入り口は海燕の後ろにある。窓から出る事も出来ない筈だ。  とりあえず捕まえて、警察を呼んだ方が良いのだろうか。しかし何故木村がこの事務所に窃盗に入るのか。ただ単に金貸しなら現金が保管してある、と、単純に考えただけなのか。  そこまで考えて、木村が手を出している闇金の噂を思い出した。 (……猛さん、かな)  嫌な名前を思い出し、海燕の口元が歪む。  海燕と轟が追っていた闇金融には、トキワ金融が関わっている可能性が高い。そしてトキワ金融には、海燕が世界で二番目に縁を切りたい男が居る。その男と、木村は繋がっているかもしれない。  この推測が当たっていたら最悪だ。  できることなら今すぐ、逃げた方がいい。事務所の金も顧客情報も大切だが、何より命が大切だ。  しかし開けたままの扉を横目で確認しようとした時、黒い影が視界に入り、とっさに飛び退こうとしたが、その判断は遅かった。 「…………ッ、ふ……!?」 「はいえんさんってー馬鹿なんだー。亜里奈が一人で来るわけないじゃん」  後ろから抑え込まれ、強い匂いのする布で口を塞がれる。  木村亜里奈の笑う声が聞こえる。酷く耳触りで吐き気のする声。  痺れるように痛む腕と、冷たくなっていく指先を感じながら、海燕は意識を手放した。

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