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第11話

 思ったよりも、遅くなってしまった。  千春が台風対策に召集されたのは昼過ぎの事だったのに、腕時計はもう七時近くを示している。  自店の窓ガラス対策はさっさと終わったものの、周辺の店の後片付けを何故か手伝う羽目になったのが要因だ。  一刻も早く終わらせて帰りたい。そう思っていたのは出勤したボーイも店長もみな同じで、とにかく休憩もなく動き回った。そのお陰さまで、ハイエンに連絡を入れる暇もなかった。  先ほど一回電話をしてみたが、コール音は鳴るばかりで本人が出る事は無かった。もしかしたら外出しているのかもしれないし、寝ているのかもしれない。  出てくる時も、非常に眠そうに欠伸をしていた。そのぼんやりした顔を思い出し、いつもの笑顔ではない素の状態がどうにもかわいく思えて熱が上がる。  昨日から本当に気を抜かれ過ぎていて、その度にどきりとしてしまう。  きっちりきっかり、常にキャラクターを守っているハイエンが、自分だけに見せる素の顔がとにかく千春のツボをついてきすぎていて怖い。  真顔でダダをこねる様や、恨めしそうに睨んでくる様がかわいい。  それがどうも無意識らしい、というところまでたまらなかった。あんなふうに心を許されてしまえば、誰だってよろめいてしまうだろう。千春じゃなくても落とされる。  一度あの部屋を出れば少しは冷静になれるかと思ったし、実際に少しは現実感が戻って来たが、結局ハイエンの事を考えると甘ったるい気分がぶり返す。  冷静に考えた上で結論を出すながら、もう手遅れだろうと思った。元々千春はハイエンの事が気になっていた。その意中の相手にあれだけ求められて甘い言葉と態度を示されて、やっぱりやめよう、などとは思えない。  素直に嬉しい。  もう認めてしまおうと思う。これは多分、恋だし愛だ。 「……かっゆー……」  こんな感情いつぶりかわからなくてそわそわしてしまう。  そわそわしたまま帰路を急ぎ、ついでに人の居ないスーパーで野菜と肉を買い込み、鍋とコンロはあるのかなぁと思いつつ通い慣れ始めたビルの階段を駆け上がった。  傘の意味などほとんどなくて、髪の毛まで濡れている。滴る水を拭いながら、まずはなんて言ったらいいのか、ぐるぐると考えた。  そして三階を通り過ぎ、四階の部屋前で雨の滴を払い、胸に手を当てて少しだけ息を吐いた。  少し冷静になったせいで、なおのことどんな顔をして会ったらいいのかわらかなくなった。  野菜が入ったビニール袋が重い。じりじりと手が痺れ出して、ようやく勇気を出して鍵を取り出しドアノブを回すことができた、が。 「…………れ?」  思い切って開けた玄関は冷たく暗く、その奥の部屋も電気が灯っている気配はない。  誰もいない室内を見回し、事務所にいるのだろうかと首を傾げる。彼は比較的ワーカホリックであるため、よく事務所で残業や休日業務をこなしていた。  事務所も暗かったような気もするが、一応スーパーの袋を置き、階段を駆け降りる。  三階の事務所は、記憶の通りにいつも通りの暗さだ。ただ、いつもと違ったことは、ドアに施錠をされていなかったことだった。 「……ハイエン……?」  真っ暗闇に、叩きつけるような雨の音だけが響く。隣のビルの看板の光が、ブラインド越しにほんのりと室内を照らしている。それでも、作業できるような明るさではない。  恐る恐る、蛍光灯のスイッチに手をかけ、カチリと室内を照らし――、千春は、息を飲んだ。  そこには、なぎ倒された机とソファーと、散らばった書類があった。  ……明らかに、何者かが侵入した跡が残され、そして。 「…………うそだろ……」  床に転がった、ハイエンの携帯がチカチカと光っていた。  数分、千春は何も考えられずに、ただその場に立っていた。  身体が冷たい。雨が、体温を奪っていく。さらに思考能力も奪っていきそうで、慌てて頭を振って携帯を取り出した。  頭の中は真っ白のまま、轟に電話をかける。繋がらない。この嵐の中病院に行くと言っていた。もしかしたらまだ運転中なのかもしれない。  ハイエンの携帯はそこにある。かけても意味はない。  次に電話をかけたのはリリカで、幸いにもすぐに繋がった。何と言ったのかは覚えていない。ハイエンが居ない事、轟も連絡が付かないこと、事務所が荒らされている事を伝えたような気もするが、動揺していてうまく言葉が整理されていたとは思わなかった。  その動揺のせいか、思い当たる事があるのか、嵐の中リリカはすぐに駆けつけてくれた。 「ちょ、春ちゃんびしょぬれじゃん……!」  どこで何をしたらいいのかわからず、とりあえず三階の事務所前で茫然としていた千春に、リリカは荒い息のまま駆け寄った。 「……リリカさんこそ、濡れて、ああもう、すみませんおれどうしたらいいのかわかんなくて、これ、なんですかね、やっと繋がった轟さんはそこで待てって言うし、ハイエンの携帯そこに落ちてるし、」 「待って、待って春ちゃんあたしもパニックなうだからとりあえず二人とも落ち着いた方がいいと思うんだ。あの、ほら、別に、旦那に何かあったって、決まったわけじゃ……ない、と、思いたいし、あーもう何これ」 「…………何かって、何、かな、生きてる、よね?」 「わっかんないよ。とりあえず轟サン来るまで、中入ろ。海燕がどこにいんのか知らないけど、うちらできることないから、たぶん。……社長を待と」  ね? と肩を叩かれて情けなくて涙が滲みそうになった。  何が起きても、大概ぼんやりと対処する人生だった。母が難病だと診断された時も、ゲイだとカミングアウトした時も、借金が降りかかって拉致された時も。それなりに動揺はしていたが身体は動いたし口は動いた。思考回路もゆっくりとだが正常に動いた。  それなのに、事務所の惨状を見てハイエンの不在を知っただけでこの様だ。  年下の女性に頼ってしまうなんて申し訳なさすぎる。今の千春にできることは無いが、やるべきことはパニックを抑えることだった。  荒れた事務所の中に入り、散らかった紙やファイルを避けてソファーに座る。雨を吸ったコートを脱ぐと、少しは寒さもマシになった。  暫くして、階段を駆け上がる音と共に盛大にドアが開き、そのまま倒れてしまいそうな程息を荒げた轟が駆け込んできた。  思わずリリカと千春は駆けより、崩れる身体を支える。骨ばった男の身体は濡れていたのに熱く、言葉もなく事務所を見まわしハイエンの携帯を認めると、ああ、と眩暈のように首をうなだれた。 「……馬鹿だろ……どう考えても馬鹿に違いねえよ……こんな、アホな事だれが、予想できんだよ…………」  ひとりごとのように呟き、暫く息を整えてから、轟は支える二人にすまんと礼を言い立ちあがった。 「……あの、社長、これ、おれ警察に連絡した方がいいんでしょうか。ええと、窃盗……?」  幾分か冷静さを取り戻した千春が不安げに問うが、轟は力なく首を横に振る。 「多分何も取られてねーよ。見たところ金庫は無事だしな……顧客情報は若干やられてるかもしれねーが、そんなことより海燕だ」 「……轟サン、海燕の旦那が何処に神隠しされちゃったか、心当たりあるんだ?」 「こんなアホな事するアホは一人しかしらねーしそんなやつが世の中にわらわらいたら生態バランス壊れるわ……アホ過ぎて笑えねえ。ちょっと考えればやべえってわかってる橋を全力で走って渡るアホだ。多分そのアホに海燕は拉致られた」 「ら……っ!? え、ちょ、犯罪じゃん! 警察呼ぼうよ!」 「警察信用してねーわけじゃねーが、あいつらは慎重すぎて時間かかるんだよ。あと多分組対も絡んでくる。めんどうくせえ」 「組対って、え、ヤクザ絡みなのっ? ツバ金はそういうのと一切取引ないってのが売りじゃん……!」 「会社も俺も海燕もヤクザと繋がりなんぞねーよ。あんのは海燕のアホすぎる身内だ」 「身内……」  そういえばハイエンは、あまり家族の話をしない。轟が実の叔父だという話は聞いてはいたが、両親や親戚の話は、千春は聞いたことがなかった。  まだ、そこまでの話をする段階ではなかっただけかもしれない。そもそも生活時間帯が違うハイエンと千春がよく喋るようになったのは、お互いに興味を持ち始めてからだ。  まだ、明確な感情すら伝えていない。  甘いキスをしてくれる彼に、千春は、言葉を返していない。  それを思い出すと胸がつまる。  轟はさらりと口にしたが、『拉致』という言葉を使った。  二十七年の人生で、まさか自分の周りで拉致などという非現実的な事態に遭遇するとは思ってもいなかった。そんなものは、小説か映画の中の話だと思っていた。ニュースで時折流れる拉致監禁、暴力死という単語が頭をよぎり、途端に不安感が増す。  実感がわかない。  いくら後ろめたい商売をしていたと言っても、ハイエンと轟の仕事には恐喝や取り立てなどという非日常的なモノは含まれていなかった。一緒に働いている千春から見ても、ごく普通の個人経営の金融事務所にしか見えない。  それが突然ヤクザだ拉致だと言われても、何が何だかわからない。額を支え、なるべくゆっくりと息をした。  実感が沸こうが沸くまいが、これが現実だ。  ハイエンは攫われた。  そして轟は、攫った人間に心当たりがある。  ――それならば、何もわからなかった数分前よりはマシだと思うしかない。 「……このまま何もせずに待ってて、ハイエンが帰ってくる可能性って、ありますか?」  冷静な声を出すように意識したが、すこし震えてしまったかもしれない。その動揺は、おそらく誰にも悟られてはいないし、何より轟もリリカも冷静ではなかった。  部屋の状態を確認していた轟が、千春の問いに静かに首を振る。 「ねえな。こんな無茶して拉致ったんだ。お話してハイ気が済んだんで帰ってください、なんつーことは流石にしねーだろうな。勝手に帰ってくる可能性があるとしたら死んだ時だ」  多少覚悟はしていたが、死という単語に意識が揺さぶられる。  交通事故だって自分には降りかからないと信じて生きている。それなのに、拉致された上に殺されるなど最早夢の中の出来事だとしか思えない。 「目的は何ですか。ハイエンの身内って……なにか、遺産とか、そういう話に巻き込まれてる、とか?」 「いんや。そんなマトモな話だったらもうちょっと楽だったろうよ。アイツはなぁ……ただ、海燕が嫌いなだけなんだよ。殴っても殴っても殴り足りねえんだろうな。だから俺はあいつの居る組よりでけえ組のシマに逃げた。ここは吾妻組の管轄だ。特に揉め事を嫌う吾妻の連中は、抗争の種やチンピラの喧嘩すら潰しちまう。この場所で何か問題を起こそうってのは吾妻組に喧嘩を売る事だ。……そんなこともわからねえ馬鹿じゃねーと思ってたんだよ、さっきまでは」 「……犯人は、確実にその人なんですか」 「間違いねーだろうな。ここんとこ、追っかけてた案件もソイツ絡みだったしな。自衛する前に手ぇ出してきやがるとはアホも短気になったもんだ。……リリカ、亜里奈って女に連絡はつくか?」  轟に促され、リリカは携帯を鳴らしたようだが、暫く耳にあてたあとに首を振った。 「……電源が入ってないって。まさか、例の亜里奈の借金の話も絡んでんの……?」 「お前は絢と一緒にマキんち行け。どこまで現状理解してやがるのか、何する気かわかんねーけど、一回火ぃついちまった馬鹿は何するかわかんねえ。トメのばーさんは病院だし平気だろ。海燕の交友関係が死ぬほど狭くてこんなに感謝するとはなぁ。チー、動けるか?」 「……ちょっとまだ動揺っていうか現実噛み砕いてますが。平気、です。おれもマキさんの方に行った方がいいですか?」 「いや、お前は俺と一緒に来い。隣で床睨んでりゃいい。ただ下手すりゃ一生目をつけられるかもしれねえけどな」 「社長、何処に、」 「警察よりも手っ取り早い機関に行く。こうなりゃ手持ち全部曝け出してけしかけるしかねえ」  道すがら説明してやる、と声を掛けられ、千春は頷くしかない。  わからないことだらけだ。  どうしてハイエンは攫われたのか。何のために攫われたのか。轟が憎らしげに語る『アイツ』という人物は誰なのか。犯人は、本当にその人物なのか。ハイエンと、そして轟とどんな因縁があるのか。  千春にはきっと、すべて関係のない話だ。  行きたくないと断れば、おそらく轟は無理強いしない。リリカと共に待つという選択肢もあるはずだ。  けれど『残るか』と問わない轟は、千春の覚悟を感じとっていたのかもしれない。  マキに連絡をつけ、絢に電話をかけるリリカを見送り、二人きりになった事務所で轟がぼそりと呟く。 「チー、俺ぁな、常々あんな面倒くせーやつが本当の息子じゃなくて良かったって思ってんだ」 「……はい」 「面倒くせえし、うるせーし、にこにこ笑ってる癖に人見知りだし、部屋はきたねーし、おまけに身内はキチガイだしよ。とんでもねえよ。そら、年はよ、親子程離れてるし回りから見りゃ似たもの同士の親子にしか見えねーのかもしれねーけどな。誰があんな馬鹿の親父になれるかってんだ、って、いつだって悪態付いてんだ」  轟の声は低い。  呆れたような、溜息のような投げやりな声の中に、静かな愛着のようなものが混じった。 「あんな息子いらねぇよ。……でもな、あいつ以外もいらねぇよ」  そう言った轟は雨に濡れた眼鏡を拭き、コートを脇に抱える。慌てて千春も上着を掴み外に出る轟に続いた。 「チー。……海燕、助けに行くぞ」  力強い轟の言葉に、千春は恐れよりも震えるような感動を覚えた。

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