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第12話

 酷く嫌な匂いがした。  喉が張り付いたように痛く、口の中も渇いて気持ちが悪い。  吐く息も熱く、胸のあたりが気持ち悪かった。吐いたのかもしれない。そういえば、口内が苦く酸っぱいような気がする。  息をしやすいように身体を動かそうとして、ひどく痛む関節と手首に気が付く。  ぼんやりと意識を取り戻した海燕は、自分が拘束されていることを知った。  灰色のカーペットの上は適度に温かく、暫くそこが床の上だと気が付かなかった。どうにか視線だけで天井を確認し、見覚えのないライトを眺めてから室内を見渡す。  首が動かない為、視野が限られる。  吐きそうな気分を抑えながらどうにか見てとれる風景は、どうやらいかがわしいホテルのようだと推察できた。目の前にやたらとでかいベッドが鎮座し、奥にガラス張りの風呂が見える。  最悪だ、と思う。  うすぼんやりとした記憶をたどり、拉致されたことを思い出した海燕は内心だけで舌打ちをした。考えうる限りの中で、かなり悪い選択肢を選ばれた。  ビジネスホテルならば防音が怪しい場合が多い。それなりに騒いで居れば、誰かが気が付く可能性もあるだろう。しかしラブホテルとなれば部屋数も限られる上に、防音に優れた建物が多かった。  後ろ暗い組織が経営しているホテルならば、尚のこと『一般人』に気が付いてもらえる機会は減る。  廃工場や倉庫のようなところに連れ込まれなかったのは、まだマシなのか。  そんなところに放り出されたら三日で死んでしまうだろう。だが、生きている事が幸福かといえば、今この時に限っては違うかもしれない。  海燕は、死んだ方がマシだと思える暴力を知っている。 「……目ぇ覚めたか、陣」  暫く痛む身体を意識しつつ状況をなんとか呑み込もうとしていた海燕は、頭上から掛った声に反応できなかった。  手首と足首をそれぞれ拘束されている。後ろ手に括られているため、身動きも取れない。  痛む首をどうにか持ち上げようとするが、うまくいかない。少し動くと肋骨のあたりが痛む。もしかしたら、意識のない間に暴力行為を受けたのかもしれない。  声の主は確認できない。  しかし、その声に海燕は聞き覚えがあった。  大して会話もしなかった。一緒に生活していた時間も、ほんの数日程しかない。 「……たける、さ………」  この声は、海道猛に他ならない。  それを確認し、海燕は更なる絶望感と、そして眩暈の様なものに襲われた。  最悪すぎる。海燕はうつろな瞳で、自分の不運と慢心と、そしてこの数少ない身内の頭の弱さを全力で呪った。 (…………まさか、ここまで馬鹿だとは思わなかった……)  家を出た最初の数年は、酷く警戒していた。けれど街での生活に慣れ、金融の仕事に慣れるにつれ、街の構造や仕組みを知り、そして街を統べる暴力団というモノの力を知った。  きちんと話をつけ、手を出さなければ彼らは生活に介入してくることはない。  しかしツバメキャッシングが店舗を構えるその土地を管理する吾妻組は、小さな厄介事も嫌い、組に関わる関わらないを問わず、揉め事を徹底して排除していた。  直接ではないにしろ、吾妻組の仕事を何度か見聞きし、そして海燕は安心した。  自分の天敵である男は、吾妻組とは別の傘下組織に居た筈だ。そんな者がヤクザ絡みではないにしろ、堅気の海燕に手を出す事を、吾妻組は許さないだろう。  相当の馬鹿でなければ、そんなことは誰にだってわかる。  轟も、海燕もそう考えていた。そしてそれは現実にその通りだった。誤算だったのは、相手がその相当な馬鹿だった、ということだけだ。  多分、本当に馬鹿なのだ。  吾妻組に喧嘩を売っているつもりはないのだろう。しかしそのつもりがなくても、自分の行動が結果的にどういう事態を招くのか、予想するということすらできていない。  これはもう、馬鹿と言うしかない。ただの馬鹿ならばまだ救いようもあるが、他人の命を巻き込む馬鹿など、頭が痛い案件でしかなかった。 「今日はいつものムカつくスーツじゃねーのな。お前さぁ、あの服似合ってるとおもってんのか? ちいせー事務所の金貸しごときが、格好つけてんじゃねーよ」 「……は……、嫉妬は、見苦しい、ですよー……ボクの方が、スーツ、似合うからって、……ッふ!? は……ッ」 「……勝手に喋んじゃねーよ屑。自分の立場わかってねーのかアホが」  それはこっちの台詞だ、と、言い返したいが、蹴られた腹部の痛みに声が出ない。  肋骨は怖い。折れて肺に刺されば致命傷になりうる。蹴るのならばいっそ足か手にしてほしいが、それもいざチャンスがあった時にうまく動かないと困る。頭などは論外だ。殺す気があるかないか、そんなものは別として、馬鹿は力の加減すらできない。  とりあえず海燕にわかることは、ここが隔離された一室であること。おそらくホテルの一種であること。あとは海燕をここに連れ込んだ男が、予想していた通り、猛であったことだった。 (さいあく……)  何度目かわからない感想を胸に抱きながら、細い息を吐いた。  まだ頭がうまく働かない。腕と脇腹の痛みが、じわりと思考能力を奪っていくような気がする。事務所で嗅がされた薬品のようなものが、まだ残っているのかもしれない。  とにかく海燕に出来ることは、なるべく生き延びることだと、働かない頭でどうにか結論付けた。  猛がどれだけの人数を巻き込んで、海燕を拉致したのか、そして監禁しているのか、わからない。状況がきっちりとわからないうちは、逃げ出す算段も立てられない。ここが何処かもわからない。扉の向こうに、何人待機しているのかもわからない。  海燕が居なくなった事を、轟や千春相手に誤魔化せるとは思えなかった。特に轟は、真っ先に猛を疑うだろう。そうなれば、彼が何処に助けを求めるのか、それは海燕にも予想が付く。  大丈夫。きっと、助けは来る。  それまでに自分は、殺されないように努めればいい。  なるべく刺激しないように、なるべく暴力を受けないように、従える命令には従い、少しでも被害を抑えて生きながらえる。それが、海燕が今できる精いっぱいのことだ。  強かに決意を抱く海燕の腕を掴みあげた猛は、ベッドの淵まで引き摺りあげる。痛みに悶える様を見下ろした男は、笑ったようだった。  視界が変わり、部屋全体が見渡せるようになる。  やはりラブホテルのようで、出入り口は猛の後ろに位置していた。……ついでに、拝みたくもない猛の顔も視界に入る。記憶の中よりは老けていたが、先日見た写真の通りうだつの上がらないチンピラ然としていた。懐かしくなどない。できれば、忘れたい。  その猛の後ろの扉から姿を見せたのは、さらに安っぽいチンピラ風の男と、見覚えのある女だった。 「……木村、亜里奈……」  吾妻組が目をつけていた、モグリの闇金融から金を借りていた女。  もしその闇金融がトキワ金融がらみなら猛が吾妻組のシマに手を出している可能性がある。そう疑った轟と海燕は、自衛の為に亜里奈から情報を聞き出そうとしていたのだが、結局先手を打たれてしまった。 「わぁひどい~お顔殴ったの? イケメンなのにもったいなぁい……あーでも、ホモなんだっけー。じゃあいいかーていうかホモ初めて見たー。すごーい」 「…………あんた、この男が誰か、ちゃんと知ってるの?」 「え? 誰って、トキワ金融の海道さんだよ? 亜里奈がお金に困ってたらぁ、海道さんがー親切にたくさん借りられるところを紹介してくれたの! なんかみんな貸してくれなかったから、すごい助かっちゃったー。利子とかもいっぱいあるけどーでもでも三宮さんが相談乗ってくれて、パチンコとかギャンブル? とかでの稼ぎ方教えてくれたし!」  馬鹿だ、と、今日何度目になるかわからない感想が湧いた。  返しきれない借金は、自己破産で免責になる場合がある。しかし借金の目的がギャンブルだった場合は自己破産申請が通らない可能性があった。  もとより違法な貸し付けだろうし、きちんとした弁護士に相談なりすればどうにかなるかもしれないが、この女にそんな頭があるとは思えない。  同情する気も失せて、海燕は曖昧に笑うだけにとどめた。 「でも亜里奈らっきーだったなぁ。はいえんのこと三宮さんに言ったらぁ、利子ぜーんぶ無くしてくれるっていうおいしい話もらっちゃったの。はいえんイケメンだけどホモだし、亜里奈に関係ないし、なんかバイオレンスって感じだしドキドキしちゃうー。ねぇ写メ撮って良いー?」  頭の足りない女は甘い声で毒を吐く。きっと何も考えていない。  その借りた金は何に使ったのか、問い詰めたところでまともな回答は得られないだろう。頭の中身の構造が、海燕とは違うのだ。  精神状態が衛生的ではない今この場では、亜里奈の声は非常に参る。もう黙ってほしい、と叫ぶ前に、隅のソファーに腰を下ろした猛が、悠々と声を発した。 「陣。この女をいまここで犯せ」  この言葉に絶句したのは、海燕だけではなかった。  びくりと肩を揺らした亜里奈は、その時に扉に向かって走るべきだった。そうすれば、後ろから近づいたもう一人の男に腕を取られ、拘束される事は無かったかもしれない。 「なに!? え、何言ってるの、亜里奈、ちゃんと言われた事やったよ!? ちゃんとこの人捕まえる協力したし、そしたら利子全部なくしてくれるって、三宮さんが、」 「男じゃねーと勃たねーか陣。ホモだもんなぁお前。女は初めてか? 安心しろよ、掘られねーと勃たねーならそこの三宮が手伝ってやるからよ。男の尻に興味があるっていうからなぁ。俺はそんなきたねーもん見るのも嫌だけどな。俺が見ねー代わりに、しっかり映像で記録してやるよ。もしかしたらマニアってやつに売れるかもしれねーしなァ」  亜里奈の言葉を無視し、猛は下衆な笑いを浮かべた。  海燕は三宮と呼ばれた男に首枷をつけられ、その鎖の先をベッドの脚に括りつけられる。腕と足の拘束を取られながらも、抵抗する機会は今ではないと、おとなしく耐えた。 「アンタ鬼だな。――…兄さん」  久しぶりに使う呼称に眉を寄せたのは、海燕だけではなく、そして実兄である猛は、そのしかめた顔のまま海燕に向けて拳を振りおろした。 「……ッ、!」 「クソから生まれたもんが、人間のわけねーだろうが。テメーはあれか、馬鹿か? 何人間ぶってんだよ。テメーもあの屑の血引いてんだよ。なぁ、何勝手に逃げてんだよ。何勝手に人ぶってんだよこの虫屑が。誰がそんな事許したよ。許してねーよな? じゃあお前、これからそのクソみてえな人生がどうなるかわかってるよな?」  勝手も何もない。海燕の人生も命も海燕のモノだ。そこに猛の許可が必要な筈がない。  そうは思っても、口答え出来るような状況ではなかった。どんな言葉が逆鱗に触れるか予想できない。まるで、かつての父親のようだ。謝っても謝っても、その声がカンに障ると殴る手を止めてくれなかったあの人のようだ。  猛も、逃げればよかったのだ。  海燕は逃げた。子供を殴らない大人が居る事を知った。だからその手を全力で握った。  こんな地獄から逃げられるのならば、どんな労働でも耐えられると思った海燕に、不味い味噌汁を作ってくれた轟は、『まぁ、しばらく我慢してくれや。どうも味噌汁ってやつは苦手なんだよなぁ』と、情けなさそうに笑ったものだった。  轟の不味い味噌汁が好きだ。  留子の薄すぎる味噌汁も嫌いじゃない。  たまにリリカと飲む薄いコーヒーも悪くない。  マキや絢が差し入れしてくれる煮つけもうまい。  そして、千春の料理だって、好きに決まっている。  人間が好きだ。こんな自分の周りで笑顔を振りまいてくれる優しい人たちが大好きだ。  だから海燕は、檻に戻るわけにはいかない。死ぬわけにもいかない。さっさと死んでもいいなんて思っていたのは大ウソだと自分で気が付く。  死にたくない。  ……死にたくない。 「目ざわりなんだよカスが。加藤の男隠したのもテメーだろ。余計なことばっかりしやがって、虫の癖にうぜんだよ。――俺が、一生飼い殺してやるよ」  低く笑う猛の声が耳の奥を揺さぶった。  海燕は奥歯を噛みしめ、ベッドの上で震える亜里奈の足首を掴んで引き摺り寄せた。 「……ヒッ! やだ……やだぁ!! なんで!? 亜里奈言われたとおりにやったじゃん!! やだぁああ!!」 「ボクも嫌ですよ……なるべくなら優しく努めたいんですけど、暴れると、ボクじゃない人も介入してくるんじゃないかな……。ボクなんか犯しながら犯されるって宣言されてるんですけど……」 「やだあああ! やだ、やだ、助けてよお!」 「ごめんね、でも、五体満足で許してもらえるなら、ちょっとくらい我慢しようとか――…あー、思わない、のかな」  そうか、この女も頭の軽い馬鹿の一人だった。  そう自嘲して、かわいそうな彼女の怯える腕を掴んだ。 「……ごめんね」  彼女の操を守る為に自分の命を犠牲にはできない。猛の命に逆らえば、どんなことになるのかわからなかった。かわいそうだとは思う。こんなこと、倫理に反していると思う。それでも、同情で命を投げ捨てる事はできない。  この男に加減などというものはない。下手をすれば、殴り殺されるかもしれない。  暴れる細い手をベッドに縫いつける。海燕は無心になるように努めながら、自身の手の震えをどうにか誤魔化すように息を吸った。  吐き気のするような嫌悪感と共に、涙がこぼれ落ちそうになった。折れまいと、決意した心が彼女の悲鳴でぼろぼろと削れていく。  ごめんね、ごめんねと、海燕は繰り返すことしかできなかった。

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