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第14話
何度目かわからない虚ろな眠りから覚め、天井を眺めて何時間経ったのかわらかない。
壁かけの時計が欲しい、と、うまく動かない頭でそんなどうでもいい事を考えた折に、海燕はふと、自分の目元が濡れている事に気が付いた。
バスルームに放置されて何日経ったのだろうか。
時折現れる猛は、携帯食料を与え、そして言葉で詰り海燕を殴った。ありがたいのはホモフォビア気味らしい猛には、性的な要求や虐待をされなかったことだけだ。女性をレイプしろと要求されたのも、最初のあの日だけだ。
しかしその分、時々訪れる三宮という男にはフェラチオを要求されたり、身体をまさぐられたりと不快な思いをさせられた。
暴力と性的虐待、どちらがマシかなんてわからない。どちらも吐き気がするほど嫌いだ。
「…………あー…………」
弱くなったな、と思う。
昔は、こんな程度で泣くような事はなかった。
そもそも、泣く事の意味がわからなかった。殴られれば痛いとは思ったけれど、悲しいとは思わなかった。物心がつく前は反射的に泣き叫ぶ事もあったがしかし、学校に通い出してから海燕は泣かなくなった。
感情が死んでいたのだと思う。殴られるのが当然で、痛いのが当たり前だった。理不尽が日常に溢れていた。世界のすべては父親で、彼の言うことに逆らうことは考えられなかった。
それが今は、たったの数日でこのザマだ。
悔しくて涙が出る。辛くて涙が出る。不安で発狂しそうで、叫びたくなる度に唇を噛んでただひたすらに一から順に数を数えた。何かに集中している時は、思考も比較的緩やかに進行してくれる。そうすれば急激に死にたくなる事も、笑い叫びたくなる事も、どうにか回避できた。
もう、どこが痛いのかよくわからない。
左頬が痛いのは思い切り殴られたからだ。口の中が傷だらけなのは、その時に氷を口に含まされていたからだったと思う。痛すぎて、あまり記憶にない。
そっと舌で触れた歯は左の犬歯が折れていた。前歯でなくて良かった、と、思ってから、もう外に出る事はないかもしれない可能性が過って、痛む歯を食いしばった。
肋は何本折れているのだろう。
幸いにも呼吸が辛くなったりはしていないし、血管を傷つけている気配もない。恐らく、ヒビが入っているだけなのだろうが、だからと言って痛みがなくなるわけではない。
息をすると痛む上に、咳など出た日には苦痛で吐きそうだった。
何度か無意識に暴れたせいで、手錠で拘束された手首の皮膚も擦り切れて肉に血が滲んでいる。同様に、鎖に繋がれた足首も酷い痣になっていた。
何日経ったのか、わからない。ただ、海燕の記憶上最後に訪れた猛には、左の足の指を折られた。
爪をはがされるよりは痛みはマシだ。固定すらされず放置された足はすっかり腫れあがり、不格好なモンスターのようになってしまっていた。変な方向に骨がくっついてしまって歩けなくなると困るな、と思う。
骨が下手にくっ付いてしまうと直す手術が大変だ、ときいたような気がするけれど、どうなのだろう。
手術には、どのくらいの金がかかるのだろう。
海燕自身の貯金で賄えなければ、轟に借りる事になるかもしれない。入院することになったら、千春は見舞いに通ってくれるだろうか、と。そこまでぼんやりと考えて、虚しい妄想に涙が零れた。
もう会えないかもしれないのに。
そんな可能性を考えるだけで、舌を噛みそうになる。どっちにしろ、こんな生活を送っていたら一週間で衰弱死しそうだった。監禁などという生ぬるいものではない。
猛に海燕を『飼う』気があるにしても、やり方が酷過ぎた。これは、緩やかな殺人だ。
十年前、轟に助けられ、いろいろな物を教わった。
直接あれこれと指導してくるような、口数のある人ではなかった。ただ、間違っていれば正してくれたし、そっと道を示してくれた。仕事の手伝いもさせてくれた。最初はままごとのような海燕の仕事は、高校を卒業してからは本格的なものへと変わっていった。
そしてその仕事で、千春に出会うことができた。
轟との十年、千春との数週間。比べられるものではない。どちらも大切だ。
ついでに言うならずっと昼食を作り続けてくれた留子も、オーナーに金を貸したよしみで知り合ったリリカもマキもそのほかのキャバ嬢も、大切な人たちだ。海燕が海燕としてツバメキャッシングで生活をしていくには、誰ひとりかけてはいけないものだと思う。
深く息を吸い、痛む骨に耐えながらゆっくりと、吐きだす。
震える息が熱く感じるのは恐らく熱がある為だろう。連日暴力にさらされ監禁され、睡眠も満足に取れない。その上傷の手当てはほとんどない状態では、健康を保つのは難しい。
父親に殴られた時は、こんな怪我をしただろうか。
あの人は派手な暴力が好きだった。泣きわめく声は嫌いだった。だから、ネチネチと指の骨を折るような事はなく、いつも派手に殴られ蹴られたような記憶がうっすらと残っていた。
猛も、殴られた筈だ。
海燕がまだ一人で台所にも立てなかった幼少時代、世話を焼いてくれたのは年配の女性で、そして代わりに殴られていたのは少し年上の男の子だったような気がした。あれは、きっと猛だ。
小学校に上がった頃の記憶は混濁していて、周りの人間の記憶が危うい。一緒に住んでいたのは父親だけだったような気がするが、時折、目の前で殴られる少年の記憶が混じった。
後々調べてみれば、父親と同居していたのは海燕だけで、二人の兄はそれぞれ母親と一緒に暮らしていた筈だが、時折母親が子を連れてきては預けて行ったらしい。成程その時に何度か会い、そして同じように暴力にさらされたのかと納得した。
……逃げればよかったのに。
何度も何度も、そればかりを考える。
自分は轟が手を差し伸べてくれた。
それはとても幸運で、もしかしたら他の兄弟に妬まれる要因になってしまったのかもしれない。
けれど海燕が轟に救われた年、猛は高校を卒業し、その上の兄は成人していた。
逃げれば、良かったのに。
海道なんて名前は、捨ててしまえばよかったのに。
兄は、猛は一体何に縛られているのだろう。何をあんなに憎んでいるのだろう。もう正常な思考能力がないのかもしれない。ただ誰かを憎んで殴り殺したいだけなのかもしれない。そしてその対象になったのが、一番身近で尚且つ立場が下である『弟』という存在だったのだろうか。
迷惑な話すぎて笑いも出ない。
笑う代わりに、悔しくて涙が出た。
猛には言葉が通じなかった。こんなことをして、何になるのかと声をあげる度に殴られた。ただひたすら黙れと叫ばれた。思考が停止している。目の前のことしか見えていない。
きちんと生活している成人男性を拉致し、監禁し暴力をふるって、どうしてバレないと思っているのか。
その上暴力団に所属しているのならば、組の問題もあるに違いない。三宮を匿って手助けしているのも、恐らく海燕を拉致するために使えると踏んだからなのだろうが、その行為が後にどんな事態を招くのか、本当にわかっていないようだった。
血を分けた兄弟が馬鹿すぎて、涙が出るし、迷惑すぎてもう、何から恨んだらいいのかわからない。
あんな馬鹿に殺されたくない。
せめて最後に泡を吹かせて刺し違えて殺そうか、と、何度か頭を過ったが、その度に轟のしかめっ面が思い浮かんだ。
駄目だ。死ねない。
きっと轟は必死に海燕を探している。そして千春も、自分の帰りを待っていてくれていると信じている。
頭が痛い。肺も痛い。足も、腕も痛い。背中も痛い。吐き気がする。
水が飲みたいが、立ち上がる気力がない。
それでも、死ねない。死にたくない。死ぬわけにはいかない。
助けが来なければ、自分でどうにか逃げ出さなくてはいけない。食欲がなくても投げ渡されるブロック食料を呑み込み、なるべく抵抗しないように努めているのは、逃げる機会を逃さないためだ。
何度か挑戦したが、手錠は外せそうにない。機会があるとすればバスルームからベッドに移動させられる時だが、最近猛はそれすらも面倒になったらしく、海燕の鎖を解くことはなかった。
(……まずい。あたま、働かない……)
このままでは逃げる云々の前に衰弱してしまう。
正気を保つ為に数えていた数が一万を超えたところで取りやめ、せめて水を飲もうと身体を動かし、全身の痛みに息をつめた。
起き上った際に頭がぐらりと痛む。
何度か細く息を吸い、吐き、それを繰り返して痛みと熱を誤魔化した。
まだ身体は動く。どうにか息をして、そして血液は循環している。生きている。死んではいない。死ねない。死なない。大丈夫。大丈夫。
何度も頭の中で繰り返さないと、突発的に命を絶ってしまいそうだった。
繰り返される理不尽な暴力に耐えられる無垢な心は捨ててしまった。時折、亜里奈の泣き叫ぶ声が耳に蘇り、死にそうな程の吐き気がこみ上げる。
泣いていた。泣き叫んでいた。可哀想で、それでも自分が助かる為には命令に逆らえなくて、死ぬわけじゃないんだから我慢してなんて都合のいい事を言いながら、泣いて謝りながら行為に及んだ。
自分が助かる為に、あまりにも酷い事をした。
その後彼女がどうなったのか、海燕は知らない。
一緒に監禁されるのかとも思ったが、失神した亜里奈は三宮に抱えあげられ荷物のように運び出された。
殺されていないと良いと思う。どこまで猛が馬鹿かわからない。平気で一人くらい殺してしまいそうで怖い。
こんなことまでして生きていたいのかと、何度か自問した。
その度に、どんな事をしても、死ねないという結論にしかならなかった。
ごめんなさい、と心の中で繰り返す。
(ごめんなさい。ごめんなさい。でも、ぼくは生きたいです)
(もう一度、しゃちょうに会いたいです。もう一度、春さんに、あいたいです)
心など、すでに折れている。
それでも海燕は、舌を噛むことだけは、出来なかった。
気が付けばだらだらと頬を生暖かい液体が伝う。
泣いても何も解決しない。そんなことはわかりきっていても、壊れた感情はひたすらに涙を止めることができなかった。
何度謝ったかわからない。
身体が熱く、ぼんやりとしてくる。喉が渇いて、そうだ水、と思ったところで、扉が開く音がした。
思わずびくりと身体が跳び上がり、その反動で肋が痛み噎せてしまった。
げほげほと、身体を折り曲げ咳をする度に痛くて痛くて吐きそうになる。余計に体温が上がり、頭が沸騰しそうになって脳味噌が溶けるんじゃないかと思った。
猛だろうか。三宮だろうか。
どちらにしても、海燕はこの後数時間、ただひたすら耐えるだけの時間が続くに違いない。
痛みと咳と熱で潤んだ視界は、うまく世界を捉えてくれない。
やっと見えたのは黒のスラックスで、このスーツを自分は長い事見続けていた事に、ぼんやりと気が付いた。
ああ。これは、大好きな叔父のものだ。
毎日、毎日街を練り歩き、そして事務所を持ち、一人で切り盛りしている格好いい男の、年季の入ったスーツだ。そして頬に触れる節くれだった指は、年を重ねた良く知る男のものだった。
「……しゃちょー……ぼく、これ……生きて、ます?」
「死んでるわけねーだろ馬鹿野郎。死んでたらな、俺たちが許さねーよ。……生きてるよ、海燕。生きてる」
懐かしい怖い顔の中年男性は、ぐっと眉に力が入っていて怒っているような顔になっていたが、海燕は知っている。これは、轟が泣きそうになっている時の顔だ。
轟の後ろから現れたインテリ風の男にも見覚えがある。眼鏡を掛けた男は海燕の拘束を解き、そして『担架を』と叫んだ。
助かったのだろうか。
判断力が低下した脳味噌は、うまく状況を掴んでくれない。
ただ、海燕の肩に額を乗せる轟が泣いていることはわかった。
「……しゃちょ、おトメさんちのネコが死んだ時も、泣いてましたよねー……」
「馬鹿かおめー、ありゃ泣いてるトメさんに引っ張られただけだし、てめえは死んでねーよ、よく見ろなんかえらい事になってるけど五体満足で喋れるじゃねーか」
「結構死ぬ間際でしたよ……すいませんもう一回訊いていいですか」
「なんだよ」
「……ボク、生きてますよね?」
その問いに、真っ赤な目をした轟は涙を隠しもせずに『生きてる』と力強く答えた。
「…………っあー駄目だ、これ思ってた以上にくるわ……つれぇ。心の弱い老体にはしんどすぎる。おめーよく耐えたなすげえな、三日で舌食いちぎるかと思ってたわ。よく生きてたよ。よく、頑張った。……駄目だ見てらんねぇ……チー、すまん俺ぁちょっと向こうで城内さん手伝って三宮回り見てくるわ。……海燕を、頼む」
その言葉に虚ろに頭をあげると、轟の後ろに立っていた愛おしい人が懐かしい声で、小さく返事をするのが聞こえた。
轟が部屋を出て行き、そちらを見やると、数人のヤクザじみた男が部屋を捜索していた。うまく頭が回らず、とりあえず助けられたらしいということしか理解できない。
海燕の目の前にしゃがみ込んだ千春は、擦り切れた手首にそっと触れて目を伏せた。
「どうしよう。……なんて言ったらいいか、全然分かんない」
優しい声が耳に届く。千春の声だ。千春の体温だ。そう思うと、愛おしくて仕方がない。
「あー……そう、ですね。それはボクも一緒です。でもボク、今、結構朦朧としていて、よくわかんなくなっちゃってるから、思った事を、何の脈絡もなく、そのまま言葉にしちゃうかもしれない。春さんも、それでいいんじゃないかなって、思います」
笑ったつもりだったが、うまく表情が作れたかわからない。
生きている実感がわかなくて、都合のいい夢なんじゃないかと思う。幻覚は、こんなにやさしく手を握ってはくれないだろうと思うから、どうにか現実だと思えた。
涙をこらえるような顔で、千春は海燕の手を優しく握り、顔を伏せた。
「…………生きてて、良かった。死んでたらどうしようって、ずっと、思って……」
「うん。……ボクも、何度か、死んだ方がマシかなって思いました。でもね、だって、死ねるわけないじゃないですか。ボクはまだ、社長に、恩を返してないんです。あと春さんに、ちゃんと言いたい事を言ってない」
「言いたい事?」
「はい。あのね、好きです」
何も考えてなどいなかった。
もう体力的にも精神的にも倒れる寸前で、でも担架が来てしまう前に、言いたい事を言ってしまおうと思っただけだった。
「勿論社長も好きです。大好きです。多分一生頭が上がらない。一生ボクの憧れは轟金造です。リリカさんも、おトメさんも、好きです大好きです。でもね、隣で手を繋いでいて欲しいのは、春さんなんです」
びっくりしたように顔をあげた千春は、何度か瞬きをしてからじわりと目を潤ませた。
かわいい。やっぱり好きだと思う。死ななくて良かったと、心から思う。
「ボクと一緒に、手を繋いでてもらえますか。死ぬまでなんて、重い事は言いませんから。飽きるまでで結構です。……手を繋いで、キスをしてほしいんです。春さんが、好きなんです」
自分でも何を言っているのかよくわからないくらいには、意識が怪しい。
助かったという安堵感がじわりと浸食してきて、そう言えばこのところまともに眠れていなかった事を思い出した。熱と眠気でうまく頭が回らない。
言いたい事だけ言った海燕に対し、暫く言葉を探していた千春は、意を決したように口を開いた。
「……おれ、そんなに良い男でもないよ。ちょっと料理はまともになって来たけど、流されまくって生きてきたし、金銭感覚ずぼらだし、変な女に引っかかって身に覚えのない借金しちゃうくらいのアホだし」
「あはは……そういやそうでしたねぇ。まー、金銭感覚なんぞ、どうでもいいですよ。ボクが一緒に居ればいいことです。こんな、アヤシイ商売をしている、キチガイ一家の末弟は、嫌です?」
「ハイエンはマトモじゃんか。一緒にすんなよあんな拉致男と。仕事だってちゃんとしてるよ。だから、ええと、そういうんじゃなくて……ああ、もー」
ぎゅっと、手を握って。
千春は震える声で、海燕が欲しがった言葉をくれた。
「……おれも、ハイエンと手を繋いでたいよ」
もうそれだけで十分だった。
嬉しくて、幸せで、倒れそうで、笑いながら泣いてしまった。
その後なだれ込んできた担架とスーツの男たちに担ぎあげられて、あまりの痛さに気を失った。救急隊員と救急車が来るのかと思ったら違ったらしい。頭気をつけてと慌てる千春の声は、なんとなく覚えていた。
ああ、死ななくて良かった。
自分はどうやら、生きているらしい。
大したこともない人生だと思っていたが、生まれて初めて、その人生の価値を理解したような気がした。
世界は、思っていたよりも、幸福で溢れているのかもしれない。
その事に、やっと気が付いたのは、意識を手放してからだった。
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