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第15話
ハイエンの入院は一カ月にわたった。
各々骨折の治療は二週間程でめどがつくという話ではあったが、松葉杖をついてツバメキャッシングのビルを上り下りする事を考えれば、なるべく完治してから退院してはどうかという話になったわけだ。
更に軽い肺炎も併発していたというおまけもあり、大人しくベッドの上の生活を送ってもらった。
吾妻組の息がかかった病院に担ぎ込まれたハイエンが目を覚ましたのは、救出された日の翌日の事で、意識が戻り彼が口を動かすまで、千春は気が気ではなかった。
さらに轟に至っては、ベッドの上で包帯を巻かれ点滴に繋がれた状態を見ていることも辛かったらしく、早々に根をあげて退室した。この一件でわかった事だが、轟は大変情に厚く涙もろい。
ハイエンを無事保護した後も、毎日情報集めに走り回った千春に、涙ながらに礼を言ってくれた。
轟自身も寝る間を惜しんで猛の情報を探しまわっていた。
十年一緒に生活してきた、息子のような男が死ぬかもしれない。死んでいるかもしれない。その間際にあれば、その心労は計り知れない。
轟と千春が必死に情報を探しまわり、そして吾妻組が手を貸してくれたお陰で、捜索六日目にして猛が出入りしているラブホテルが特定された。
調べてみればトキワ金融が経営にかかわっている場所で、随分とアングラな営業をしている場末感漂うホテルだった。半日張り込みをした吾妻組から、ついに三宮を捕えたとの報告が入ったのが、丁度七日目になる時間だった。
「……まったくアレですねー、ボクってばそんなに信用ないですかねぇー」
病院の受付で退院の手続きをする轟を待ちながら、すっかりなじみになった看護師に『くれぐれも安静に』と念を押されるハイエンは、苦笑いで頷いていた。
「吾妻組の関係者だと思われてるなら仕方ないんじゃないかなー。なんか、おれが通ってる時も何人かソレっぽい人担ぎ込まれて、無理矢理帰っちゃって揉めてたみたいだし」
「それにしたって大変大人しく慎ましく生活してたのに。リハビリも積極的に参加しましたし。薄い味付けのお食事も文句ひとつなく残さずいただいたというのにー。まあ、個室だったのはありがたかったですけれど。いやーヤクザさんの影響力ってすさまじいですねぇ」
リハビリを始める程度には回復したハイエンだが、まだ歩き方がぎこちない。
左足の骨折が尾を引いているらしく、ギブスは取れていたし大して痛くは無いということだが、非常に歩きにくそうだった。
肩は脱臼した上に上腕あたりの骨にはヒビが入っていたし、肋骨だけではなく鎖骨も折れていた。全身あの状態で、よく耐えていたと思う。そして、よくここまで復活したものだ。
素直にその感想を述べると、ハイエンはふふふと笑う。
「もー一刻も早く帰りたいが為ですよう。この病院確かに親切ですしナースのお姉さんたちは比較的美人ですけどねぇ、ボクは美人が何人いようがイケメンが何人いようが知ったこっちゃないって話ですからね。もーもー、早く我が家に帰ってシャチョーにこき使われつつ春さんとイチャイチャする日常に戻りたいばっかりに全力で回復することだけに費やした一カ月でしたねー」
「……十分いちゃいちゃしてたじゃん……」
「まぁ心外ですね。言葉遊びだけじゃないですか。あとかるーいキスだけ」
「だってちゃんとすると肋骨も鎖骨も痛そうだったじゃん」
「後半治ってましたよーせっかく個室だったのに春さんの貞操観念強固すぎて本音を言うとそういうくそ真面目なところ大好きですけどーもー」
千春も、口では甘えた事を言う癖にきちんと良識が守れるハイエンの事が好きだったので、お互い様だ。
少し甘い空気になってしまって、ふわりと赤くなる千春とハイエンの後ろから、聞きなれた女性の声がかかった。
「あ、ちょっと何いちゃついてんのホモップル! 周りのおじーちゃんおばーちゃんに悪影響でしょ、離れろ離れろー」
少しばかり甘めの会話に割って入って来たのは、リリカだ。
荷物持ちが必要だろうと、轟と一緒に千春を迎えにきたリリカは、荷物の事など放り出して売店を物色していた。
結局、溜まったタオルや下着が入った紙袋は、千春とハイエン本人が持っている。
それでも何のために来たのか、などと呆れた気持ちにはならない。リリカもずっと、ハイエンを心配していた。一週間に一度は見舞いに来て、その度に他のキャバ嬢達が持ってきた見舞いの品を食い散らかして行ったが、それもハイエンにとっては楽しい時間だった筈だ。
比較的頻繁に顔を出していたが、千春も毎日顔を出せたわけではない。
夜のキャバクラの仕事は休ませてもらっていたが、轟の昼食を作る仕事があったし、何よりハイエンが抜けたことで急に忙しくなったツバメキャッシングの仕事を任されていたからだ。
簡単な書類整理と顧客名簿の作成、そして帳簿の管理くらいしかできないが、ここ数日は契約書の作り方も学んでいる。
もう面倒くさいから夜の仕事は辞めてウチに就職しろ、と、言うくらいには轟は千春の働きを評価してくれているらしい。
同じ職場に恋人がいるという状況は、どうなのだろう。
別に千春は構わないが、ハイエンや轟的に気まずくはないのだろうか。そんなことをそっと伺った千春に対し、ハイエンは『ボクも千春さんも病室でディープキスすらしなかった生真面目さんですよ、仕事は仕事っていう線引き、別に苦じゃないですよ?』と笑われた。
全くその通りだと思い、千春も笑ってしまった。
「いやーしかし奇麗に五体満足に戻ったじゃんー良かった良かった! あんなズタボロな状態からよくぞ人間に戻ったもんだよ。人体の回復力って素晴らしいわぁ。それとも春ちゃんの献身の介助のお陰かなー?」
「リリカさん、発言がセクハラ上司っぽいですよー。人体はまあ、そこそこ回復しましたけどねぇ、中々のトラウマ持ちになりましたよー。やっと幼少期のトラウマがなんとか薄れてきた頃だっていうのに、もー、暫くラブホテルとか近寄りたくないですねぇ」
「でも三宮って奴は捕まったんでしょ?」
「……らしいですねぇ。まー、警察には突き出されてないことでしょうし、そこらへんはボクもくわしくは伺ってないですけれども」
入院中、一度だけ吾妻本人が面会に来た。
その時のハイエンはまだ全身包帯とギブスまみれで、熱も下がっていなかったが、折れた骨などものともせずにハイエンは無理矢理深く頭を下げた。
揃いも揃って頭下げやがって、良いから寝てろと豪快に笑った吾妻は、後ろに控える城内に軽く説明をさせた後、ハイエンの頭をぐしゃりと撫でてサングラスを取った。
「俺ァ、テメーの運命、悪くねェと思うぜ。死ぬ思いをして耐えきって、おめーはクソアニキとオヤジに勝ったんだ。スゲェじゃねーか。この先転職を考えたらな、ウチの門を叩きやがれ。即決で採用してやらァ」
と、些か不穏な口説き文句を残して、吾妻組の組長は去って行った。
どうやら、ハイエンは気に入られたらしい。
それを追うように城内は、『親父の言葉は大抵本気ですが、酷く迷惑な言葉は聞かなかった事にしても腹をたてないおおらかさもお持ちですのでお気になさらず』と、きっちりとしたお辞儀を残して去って行った。
ハイエンも、城内も、吾妻も、果てはリリカまで。この秋から関わった人間はみな台風のように訪れて去っていく。最初はそれに毎度掻きまわされていた千春も、目まぐるしく様々なことが起こる日常に慣れてきていた。
吾妻と城内が訪れた際に、事の始末をさっくりと説明された。
三宮は吾妻組が確保し、金の流れや繋がりを洗っている最中だという。尋問、などという生ぬるい手段を用いているわけではないだろうことは、容易に想像がつく。
三宮が吐いた猛のドヤに、本人が戻ってくることはなかった。猛はトキワ金融から相当額を持ち出していたらしく、吾妻組と、更に壱条会にも追われる身になっていた。
もしかしたら、もう壱条会に捕らわれているかもしれない、というのが城内の推測だ。三宮の話ではハイエンが救出される前日に、猛は姿を消したという。吾妻組が動き出した事によって、壱条会も自分のシマで何が起こっているのか、詮索しだしたのかもしれない。
生きていたとしてももうこの界隈に姿を現すことはないだろう。
それと、もうひとつ。猛が潜伏しているのではないか、と、吾妻組の構成員が訪れたハイエンの父親の家には、庄治と思われる変死体があったとの事だった。
葬儀は行われなかった。
警察にも通報していない。ほとんど溶けたような死体は、吾妻組の手で秘密裏に焼かれ、海道家の庭に埋められた。死体の痕跡の後片付けだけは入念に行い、家は轟が処分することになった。
この話を聞いたハイエンは、静かに、『殺される確率が三分の一くらい減った』と呟いた。
恐らくそれは、庄治、猛、勝のことなのだろう。
「なんにしても死ななくて良かったですよほんと。こうやって病院のすがすがしい消毒液の匂いに満たされるのも本日で最後ですしねぇ。まあ、リハビリには通わなきゃなんですけど、それは近所の接骨院で良いとのお話でしたし。いやー解放感! リリカさんボク今とても焼き肉が食べたいです」
普段さっぱりしたものを好んで食べるハイエンが、珍しくそんな事を言う。それに対してリリカは失笑気味に手を振った。
「生言ってんじゃないっての病み上がり。そういう派手な退院パーティは週末明けに開催してあげるから、今日はおとなしく帰りやがりなさい」
「え。せっかく四人集まってるのに、大人しく帰るんです? まー焼き肉は言い過ぎましたけど、昼食くらい一緒に食べませんか。ボクねー一カ月缶詰で今とっても人間が恋しいんですよー例えそれがリリカ嬢であってもー」
「失礼すぎる言い方に切れないリリカ様ってば素敵って思うわぁあたしってば大人。ていうか今日はいいの、元々あたしは轟社長の付き添い。日常復活のお祝いにパーっとやりたいのは山々だけど、本日は春ちゃんに譲るわぁー」
「え。……え?」
「そんなわけだからあとよろしく春ちゃん。あ、海燕、社長から伝言。『別に反対しねーけど職場一緒なんだから面倒くせぇ喧嘩だけはすんなよ』だってさ。良かったねー叔父様公認だねー」
「…………え」
絶句するハイエンを置いて、じゃあねと笑ってリリカは荷物を奪って歩き出した。その先には、退院手続きを終えた轟が居る。
早く行け、と手を払うジェスチャーをされ、千春は一礼してから目を白黒させているハイエンの手を取った。
「じゃ、行こうか」
「え。行くって、え、まさかボクたち歩いて帰るんです?」
「まさか。病み上がりに流石に無理言わないよ、タクシーってもんがあるでしょ病院なんだからさ」
「そらそうですけど社長の車で帰った方が経済的では……」
「……ツバ金に帰って仕事したい? それともおれとデートしたい?」
「春さんといちゃいちゃしたい」
「じゃあ、こっち」
わかっていたけれど即答されると少しばかり照れてしまう。
タクシー乗り場でハイエンを先に座らせて、千春はドライバーに行き先を告げた。
「……あれ、春さんその住所って、春さんが住んでたアパートじゃないです? え、もしかして今そこで生活してるんです?」
「まー、家賃勿体無いし、夜の仕事なければ終電間に合うし……あと、猛って人居なくなったし」
「…………シャチョー、ばらしましたねー」
「うん。全部聞いたよ」
入院中のハイエンの部屋で寝起きするのも、気が引ける。そう思った千春は、そういえば前のアパートがそのままだったことをやっと思いだし、轟に一度帰りたい旨を伝えた。
その時に、轟は千春がハイエンの家で生活するようになった理由を教えてくれた。
「加藤さんの借金、ツバ金だけじゃなくて、トキワ金融からも相当借りてたんだってね。おれが保証人になったのはツバ金だけだけど、勝手に保証人にされてる場合もあるし、そうじゃなくても他会社の保証人だからってだけで脅しに来たりする可能性があるからってさ。しかも相手は海道猛がいるトキワ金融だからって、それで轟さん、おれをツバ金で一時保護したって。まー、昼飯作れる人間探してたのが大半の理由だって言ってたけど」
「……お部屋、無事でした?」
「無事じゃなかった。身に覚えのないトキワ金融からの督促状が突っ込まれまくってた。ご近所さんにちょっと聞いたら、ヤクザっぽい人間が結構うろうろしてたみたい。窓も破られてたみたいで中も酷い有様でさ、やっとこの前硝子の交換終わったんだよ。城内さんが安い業者紹介してくれてホント助かったよ……まあ、印鑑とかそういうのは最初に持ち出してたから、大した被害ないんだけど、あそこで寝起きしてたらおれも拉致られてたかも」
「あー……そっか。やっぱりそうですよねぇ。いやー春さんうちで保護して良かったです。お味噌汁も美味しいし。高野豆腐の煮漬けも美味しいし」
「ハイエンって料理褒める時いつも味噌汁から褒めるけど、なんかトラウマでもあんの……?」
「トラウマっていうか思い出ですよ。味噌汁は不味くても美味くてもボクの思い出料理です」
そんな事を話しているうちに、車は懐かしい景色の場所に到着する。
何年住んでいたのかあまり覚えていないし、特別な思い出は無いが、それでもやはり懐かしい。轟に付き添われてとんでもない惨状の部屋を見た時は絶望したものだが、取られて困る思い出の品もあまりない事に気が付き、命が無事だったことにまず感謝することができた。
古びたコンクリートの廊下を歩き、見なれた扉の鍵を開け、その中に通すとハイエンは目を見張った。
「…………春さん、お引越し、なさるんです?」
その中は、すっかり奇麗に片づけられた部屋と、積み上げられた段ボールがあった。
必要最低限の布団や生活用品以外は、全て段ボールの中だ。明日には業者が来て、全て運んで行ってもらえる。
「うーん。ご近所さんにも迷惑かけたし、加藤さんが借金してたの、トキワとツバ金だけじゃないかもしれないしさ。無理してここに住むこともないかなーって」
「まさか、田舎に帰るとか仰るんじゃ……」
「まさか。田舎に帰ったところで借金返せる当てもないし、ハイエンのメシ作らなきゃ利子が増えてく一方じゃんか」
「……ボクが肩代わりしますよ、五百万。命の恩人から、お金絞り取るなんぞできません」
「それ社長にも言われたんだけど、まあその話は後々きっかりしないとなーとは、思うけど、まーその、だって、田舎に帰ったらハイエン居ないし。もうちょっと近くに引っ越すよ」
「…………ウチに来たらいいのに」
「だめ。一日中一緒っておれ絶対甘えちゃう。新居、結構ツバ金に近いから、それで許し、うぐっ」
「うーあー……なんだろう、謎の感動が今ボクを襲ってます……」
急に抱きしめられ、息も詰まるが気持ちもぎゅっと握られたような気分になる。
「……一緒に住もうって、めっちゃ言われるかと思った」
「え。うん、それは我儘言っていいなら一緒に住みたいですけど、まーおいおいボクが春さんを口説いていけばいい話で、そのうち一緒じゃないと死んじゃうってくらいメロメロにしたらいいわけですよ。うん。そんなことより春さんが超前向きに人生歩んでるのが、なんかこう……なんでしょうねぇ。ボク、なんでこんなに春さんのこと好きなんだろ」
「おれも、なんでこんなにハイエンの事好きなのかなって、最近ずっと思ってたよ。仕事もがらりと変わってさ、環境も、住む場所も。全部変わったって、ハイエンがそこにいるなら別に怖くないなぁって思うし。これってさ、すごいよね。……すごい好きだなって」
もう一度好きだよと言うと、言葉の代わりに唇を塞がれた。
いつもニコニコと笑い、いつもだらりと言葉を垂れ流す口が、甘く千春の唇を食む。
「もしかして春さん、えっちなことするためにボクをここに連れ込んだんです?」
「……だってさ、ハイエンの部屋の下って、ツバ金の事務所で、この時間社長は仕事してるじゃん……いや、そこまで煩くは、しないと思うけど、なんかこう、気分の問題というか」
「わかりますわかります、ボクも流石にシャチョーの真上で事に及ぶ度胸はないです。まぁ、こんな真昼間っからナニをいたそうとしている人間の言う言葉じゃないとは思うんですけどねぇ、それとこれとは別というかー」
「おれたちって即物的……? あ、映画とか行って普通にいちゃいちゃしたかった?」
「それはそれで別の日に所望しますが、ボク結構我慢したと思うんですよ。即物的でも構わないじゃないですか、だって今ここにはボクと春さんしかいないわけです。……ボクは春さんとえっちなことがしたい」
「…………それ、だめ、きゅんとした……」
「うっふふー春さん、結構わかりやすく甘い言葉に弱いですよねー。なんとなく把握してきました。じゃあ耳にも甘いセックスを心がけましょうか。なんかもー、どろっどろにしたいしなりたい」
「……ちょっとこわい」
「え。優しくいたしますよ?」
「いやそれは、知ってるけど……おれ、溶けちゃうかもしんない」
立てなくなったら明日の仕事変わってねとキスをして、千春はカーテンを引いて床の布団にハイエンを導いた。
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