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第16話

 好きな人の体に触るのは、とても幸せな行為だと思う。  柄にもなく緊張してしまい、震えそうな指先を誤魔化しながら、湿気が残る愛しい人の髪の毛を梳いた。  千春の髪はいつも洒落た今風の色とカットが施してある。最初に見たときには、ニートの癖に髪をおしゃれに切る余裕はあるのかと、いけ好かない気分になったことを思い出した。  軽いキスの合間にそれを告げると、甘い声で千春が笑う。  少し眉を下げて、ふわりと微笑むのが好きだ。 「友達がね、美容師なんだよ。だから毎回売り上げ貢献しろよっていわれて、そこで切ってもらってんの。実験台だと思ってるらしくてさ、結構好き勝手にいじられる」 「わあ。春さんの髪の毛をいじくり回すお仕事だなんてうらやましいかぎりじゃないですか。転職するなら美容師さん、悪くないですねぇ」 「……同僚より、客のおれの方がいい?」  色っぽく目を細められて、首を傾げられて、海燕は血液が沸騰して死ぬかと思った。  自分は絶対に、こんなにチョロい男ではなかった筈だ。それなりに遊んでいて、セフレとまではいかないが誘えばベッドの上に乗ってくれる人間も居た。最近は仕事が忙しくて本当に左手が友達だったけれど、別段恋がしたいとか愛が足りないとか思ってはいなかった。  それなのに、ちょっと笑い掛けられただけでこのザマだ。  もしかしたら海燕は、遊び慣れた男ぶっていただけなのかもしれない。一人でも生きていけるとアピールするために、年不相応な虚勢を張っていたような気もした。 「そりゃ勿論毎日一緒に居られるほうがいいですよう! でも春さん、仕事中はすんごく真面目じゃないですか」 「こっちの台詞だっての。病室でだって一日一回キスするくらいだったじゃん」 「……だって触っちゃったら止まらなくなるから。どんだけ好きだと思ってるんですか、もう、ほんと、アホみたいに好きなんですよ。春さんに触ってるだけでね、もーね、胸がぎゅっとなる。ああもうすき、だいすきって、そればっかりで馬鹿になりそう。だからぶっちゃけるとストイックにお仕事できるのか若干の不安が、まぁ、ないことはないですねぇ」 「週末は泊まりに行くよ。あ、うち来ても良いけど、お隣さん女性みたいだし、うーん迷惑かなどうだろ……そしたら触り溜めとけばいいじゃん」 「……触り溜めってなにそれエロい。ボク自重しませんよ? 年下のゲイを侮らないでくださいね? なめてかかると後悔しますよボク本気ですから」 「舐めてもないし侮ってもないよ。……惚れてはいる、けど」  言ってから恥ずかしくなったらしく、そっぽを向いてもごもごと喋る。ほんのりと赤くなった首すじが可愛くて、思わず火照る肌にキスを落とした。  カーテンを閉めた薄暗い部屋は、ほとんどの家具は残っておらず、ベッドもない。  床に直に敷いた布団の上で、昼間から裸になって抱き合うなんて破廉恥だと二人で笑う。一度だけ体を合わせた記憶はあるものの、その後の生きるか死ぬかの騒動で、すっかり感触は忘れてしまっていた。  春さんの身体、こんなに熱かったっけ。こんなに汗ばむ人だったっけ。こんなに潤んだ視線だったっけ。  思いだそうにも、あの監禁されていたベッドの上のいやな記憶が邪魔をする。  ゆっくりと押し倒し見下ろす視線になると、腕の中に怯えた女性の顔がフラッシュバックしそうになった。  ごめんね、と、そればかりを繰り返した。彼女は今どうしているのだろうか。産まれて初めて女性に挿入したが、快感などこれっぽっちも感じなかった。多少は自業自得とはいえ、亜里奈には謝罪の言葉しか出てこない。  その後どうなったのか、実は消息がつかめていない。  キャバクラの方も唐突に顔を出さなくなったままで、どこかほかの店に入ったという話もなかった。ただ、壱条会界隈で見かけたと言う目撃情報があるようだったが、何にしても本人を確認できた知人はいなかった。  吐きそうな記憶を思い出し、加害者なのに吐きそうとか相当屑だなと自嘲したところを、ばっちり千春に見られてしまった。  気まずく仕切り直そうとしたが、伸びてきた温かい手に頬を掴まれ引き寄せられた。  鼻の先が触れる。こつん、と、額がぶるかる。 「……誰かとセックスするの、まだしんどい?」  病室で、覚えている全てを千春にだけは話していた。  自分一人で溜めこんでいるには重すぎて、申し訳ないけれど誰かに打ち明けてしまいたくて、吐きだした。滔々と海燕が話している間、千春はずっと手を握っていてくれた。  甘い言葉をかけて慰めないところが好きだ。うまいこと言えなくてごめんと言ってくれるだけで、ああ、ちゃんと聞いてくれたんだな、と思う。  自分が痛めつけられることはある程度覚悟を決めていた。そんな海燕が、最初に心を折られたのは亜里奈の一件だ。  正直、思い出さないとは言えない。記憶そのものが辛いものだったし、その上自分は今一番好きな人と触れ合っている。泣き叫ぶ女の子を強姦しておいて、自分だけこんな風に幸せな気分に浸るのは罪のような気がして、素直にその旨を打ち明けると千春は息を洩らすように笑った。 「海燕の考えてる事とか、結構わかるけどさ。でも、なんていうか……あー。本音、言っていい?」 「え、うん、怖い振り方しますねぇ、でも、聞きます、どうぞ」 「あんな女死ねばいいと思った」 「…………春さん、あの、」 「わかってるよ。可哀想だし、ちょっと頭がゆるかっただけでさ、確かに悪気のない子だった。騙されてたんだろうし、まさか海燕が死ぬ寸前まで暴行を受けるなんて考えてなかったんだろうなって、わかってるよ。でも、おれは死ねばいいと思った。海燕が今しんどいのも、あの女のせいじゃんって、ちょっと思ってるよ。……だっておれ、海燕が大事だよ。いつもみたいに笑っててほしいよ。カラ元気でもさ、轟さんとけらけら笑って、どうでもいいことばっかり喋りながら楽しそうに働いてる海燕が好きだよ」  だからしねばいいと思ってる、と、千春は弱々しい声で零す。  少し不安そうなのは、海燕の出方を窺っているのかもしれない。強い言葉を口にする時は不安になる。好きな人の前なら尚更だ。誰だって、嫌われたくは無い。  そんな不安感と、きっぱりと隠さずに提示された本音に、何かが吹っ切れたような気がした。  申し訳ないとは思う。可哀想だとは思う。でも、自分はそれ以上に、この人を大切にしたい。この人が好きだ。ツバメキャッシングの仕事も好きだし、轟が好きだ。あの場所が好きだ。辛い、可哀想だ、と引きずられていては、今目の前に居る人を大切にできない。  どこかでいつか、亜里奈に出会うことがあったら、気が済むまで殴られよう。  それだけ決意し、あとは千春を抱きしめることに専念した。 「……春さんだいすき。すきすぎて涙出そう。あーあーもう……春さんが、うっかり保証人の欄にサインしちゃうちょっとぼけっとしたおバカさんで良かったなぁ……」 「契約書の見方も種類も書き方も教わったからもうそういううっかりはしないよ……」 「まあこれからどんなうっかりがあっても、ボクが一緒に居るわけですから多少は安心ですけどね? ってのは言い過ぎ?」 「まさか。ちょう頼りにしてるよ。……ところで、ちょっと寒くない?」 「…………熱いもうヤダって言うまでとろとろになりましょう」  浮いた鎖骨を指でなぞって、形の良い耳にキスを落とす。くすぐったそうに逃げる腰を膝で挟み込み、骨盤を引っ掻くと喉が反れた。浮いた喉仏に噛み付きたくなる。  千春はセックスに入る時の空気が、とても自然で少し悔しいと思ってしまう。  雨の日に抱きついてきた時もたまらなかった。恋愛には奥手そうな顔をしているのに、経験は海燕よりもあるのかもしれない。  そういえば、と、海燕は一カ月前のセックスまがいの時に疑問に思った事をふと口にする。 「ねーねー春さん、やっぱり受ける側の方が多かったんです?」 「…………え。なんで?」 「いや、随分と中の方がそのー……敏感な感じだったので」  海燕自身は特別どちらでも構わなかったが、大概のベッドの相手はネコの方を希望したので、あまり後ろの経験はない。一番新しい受け手の記憶は、忘れてしまいたい三宮の暴力的なセックスだ。  一応経験したことがある身としては、世にいう程前立腺で快感を得ることは簡単ではないということを知っている。  しかし蕩けるような甘い夜の記憶をぼんやりと思い出すと、ちょっと指で刺激しただけで随分と千春は感じていたように思う。準備不足でそこを使ったセックスまではできなかったが、そもそも海燕はオーラルセックスでも構わない方だった。  長く続いた恋人も居ないので、そこで快感を得られるまで頑張る必要もなかったのだが。 「もしかして春さん、ドライとかできる人だったり……?」 「………………まあ、…………できなく、は」 「まじで。え、まじですか。何それちょう嫉妬です。誰ですか春さんをそこまで開発した憎らしい男。いや紹介されても出会い頭に殴る以外の選択肢ないんですけどね? ていうかボク、ドライってあのー、遭遇したことないんですけど、え、それボクでも春さんにできます……?」 「あの、ええとね、海燕、あー……でき、なくはないと思うけど、嫌」 「あ、やっぱり辛い?」 「そうじゃなくて、まあ辛いっちゃ辛いんだけどそうじゃなくて気持ちいいんだよ、うん、そのー……すんごく気持ち良くて、さ。……一回ドライしちゃうと、三日間くらい服着るのも腰が引けちゃうくらい、身体が駄目になる、から、…………ちょ、待っ、やっ、馬鹿ッ、やだって……っ、ん、……ふ……っ」 「……だってそんなとろとろの春さん想像しただけでやばい」  制止する弱々しい力の手を押しのけ、内腿に手を滑り込ませると、拒むように股を閉じられたが、首筋に歯を立てると力が弱まる。その隙に敏感なところを撫で上げ、出来るだけ甘い声を耳に吹き込んだ。  誘い込んだのは千春だ。  そして火をつけたのも千春だ。  火照った身体を手のひらでなぞり、指で刺激する度に熱い息が漏れる。  それが可愛くてたまらなくて好きでどうしようもなくて、普段は保ってる理性のタガが外れた気がした。  それでもちらりと明日は土曜だし月曜まで休みだし、と、沸騰した頭で考える。  そもそも、海燕と轟の二人で切り盛りしていた事務所だ。千春がしばらく風邪で寝込んだとしても、多少は怪しまれるかもしれないが仕事が回らないことはきっとない。  海燕はまた、月曜からツバメキャッシングの仕事に復帰できるのだから。  そこまで思考が行くと、もう後は千春のことしか考えられなかった。 「ね、春さん、だめ……? ボク、とろっとろになっちゃう春さんと一緒にぐっちゃぐちゃになっちゃいたいです」 「……だって、しごと……、ほんと、立てなくなんの。すっごいずっとあっついまんまだし、なんかほら、動物のさ、発情期? みたいになっちゃって、だからきっと迷惑かけるし、ぁ、っ、ばっか、だめだって……あとあの、ほんと何も考えられなくなっちゃうからすんごい変なこと口走ったりしそうだし、」 「いいじゃないですか。真昼間でお隣さん達もいらっしゃらないようですし、好きなだけ言ったらいいです。ボクしか聞いてない。まあ、ボクは聞いてますけど。ねーねー春さんー」 「……わざとやってるでしょ。おれがさーそういう可愛い海燕に弱いの知っててさー……」 「うへへ。年下ぶるのも、中々良い手ですよねぇ。格好つけるだけが口説き文句じゃないって、気がついたかなって。ガキっぽいボクのこと、嫌いじゃないでしょ?」 「すきだよばか……どうなっても知らないからほんと……」  ついに降参した千春に抱きしめられてもう一度キスをしながら、ああもう、と海燕は甘い溜息をつく。  こんなことでは自分の方がとろとろに溶かされてしまいそうだ。  好きな人がいるというのは、とても、温かいことだ。  触れるのには、少しだけ勇気がいるけれど、握られた手は暖かくて、甘いような、痒いような幸せに浸りながら、この一カ月何度も思った事を口にだした。 「……生きてて、よかった」  若干洒落にならない実感が籠った自信がある。  苦笑のような、柔らかい笑顔の千春は、泣いているようにも見えた。泣いていたのは、海燕の方かもしれないけれど。  今まで生きてて良かった。  殴られても、舌を噛まなくて良かった。  轟を信じて良かった。あの骨ばった手をとって、ついてきてよかった。  仕事を続けてきてよかった。日本人じゃないでしょ、と、声を掛けられる度に笑ったらいいのかどうしたらいいのかわかなくなる時もあった。それでも、いままで、カラカラと笑いながら生きてきた。  カラ元気は多分、海燕の源だ。  鬱々と世界を呪いながら生きるよりも、海燕は笑っている方を選んだ。  その選択は、決して前向きな理由では無かったけれど、間違ってはないと思う。  千春が好きだと言ってくれた笑顔で何度もキスをして、抱きしめて、感動の合間に甘いキスを返されてそういえば致している途中だと思い出した。  感動するのはいいが、とろとろに溶けた千春もぜひ体験したい。これも譲れない気持ちだ。 「立てなくなったら、おれのためにご飯作ってね」  かわいい恋人のかわいい台詞にまた溶けそうになった。

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