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第17話

 日常はゆっくりと訪れ、そして静かに定着していく。 「チー、午後から新規が一人来るから、書類頼んだぞ。わかんなけりゃ海燕に訊け。それでもわかんなけりゃ最悪後で連絡でもいいからその旨だけ客に説明したらいい。連絡先は絶対に控え忘れるなよ、まぁ、大丈夫だと思うけどよ」 「はい、わかりました。集金は三件でしたっけ?」 「まあすくねぇ方だけどよ、如何せん遠いもんでな……車出しちまうし、多分夕方までに帰って来れねえから時間になったら締めていい。鍵の場所わかるな?」 「大丈夫です。昨日締めて確認したんで」 「ちょっとちょっとちょっとシャチョーなんですか春さんばっかり! ねぇボクは!? ボクに何か一言ないんですか!?」 「おめーは勤続六年のベテランだろ勝手に仕事してろ。働きはじめ二カ月の新人の世話してろ。じゃあ行ってくる、頑張れよ、チー。……あ、海燕、一個あったわ」 「何ですか? 追加のお仕事ですか? 労いのお言葉ですか? 掃除以外なら喜んで承りますよボク今日暇なんで!」 「チーに無理させんなボケナスが。うちの家政婦兼事務員の足腰慮れ」  じゃあなと言い放ち、思わず真っ赤になって固まる二人を残し轟はコートを羽織って出かけて行った。  季節はすっかり冬に差しかかっていた。  暖房の設定が怪しいツバメキャッシングの事務所は常に微妙に肌寒く、もっと寒くなる二月には追加で石油ストーブが出されるらしい。  その寒い事務所の中で、千春は茹る思いで椅子に座った。  実は立っているのが少し辛くて、ただ座るのも別の意味で辛くて、更に昨晩の事を思い出して熱が上がってしまう。  内腿の筋肉が痛い。腰の上あたりも痛む気がする。何より身体が重い。けれど座ってしまうとどうも、昨日散々弄られた個所を意識してしまう。 「……だからやだって言ったじゃん……もー、恥ずかしい……ただでさえ社長黙認してくれてるのに恥ずかしい、なんで海燕ってさー、仕事中は馬鹿真面目なのに一回休日モード入ると我儘になんの……」  昼食の食器を避け、書類を出しながら、横目で睨むと当の海燕は赤さの残る顔でそっぽを向く。  照れた時や分が悪くなった時に海燕は視線を斜め上にずらす、と言う事に最近気がついた。 「全面的に何の言い訳もできませんねぇ……でも今日はほら、立てないとかじゃないでしょ? ボク昨日随分我慢しましたよ?」 「してくんなきゃ困る。もう暫く泊まりに行かない。ていうか昨日も泊まらない筈だった」 「……だって春さんが帰るとか言うから。やーですよぅ、先週だってキャバからヘルプ入ったって行って夜のバイト行っちゃったじゃないですかぁー。二週間我慢とか無理です絶対に無理。構ってくれなきゃーやですもんー」 「……かわいく駄々こねればちょっと許してもらえるって思ってるっしょ……」 「えへ」  すっかり年下男子然としていて、大変ずるいし、とても困る。  ツバメキャッシングで正式に雇用され、とりあえず肩書は事務員として書類を管理する作業を任されるようになり、二カ月がたった。  仕事は思っていたよりも膨大で、よく今まで二人きりで回していたものだと関心を通り越して呆れてしまう程だ。相変わらず昼食は千春が作り、轟と海燕は忙しく動き回っている。  海燕の怪我はすっかり治り、リハビリも終えていた。  元通りの日常で変わった事といえば、千春が社員見習いになったことと、正式に海燕と恋人という形に収まったことだ。  仕事中の海燕は、想像以上に真面目でストイックだったが、一度タガが外れるとすぐに甘えにかかってくる。格好つけていた最初の頃の方がまだ、千春も躱せたかもしれない。  仕事のできるきっちりした男に甘えた声で『ねー春さん』と袖を引かれる度に、なんでも許してしまいそうになるから始末に負えなかった。  甘える事を覚えた男はひどくずるい。  それでも、今まで誰かに甘えようなどとまったく考えなかった海燕だから、千春は結局許してしまう。  お前のお陰で、アレも随分素直になったわ。と、ふと轟に言われた時には、うっかり涙ぐみそうになった。  この二人がどうやって生きてきたか。どんな環境で生きてきたか、聞いた話しか知らない千春ですら、壮絶だと想像している。  そんな事を考え始めると、またずるずると海燕に甘くなってしまうことに気がついて、頭を振って今は事務所だということを繰り返し言い聞かせた。  昼食の後の煙草を咥える海燕の方は、なるべく見ないように努める。  薄い唇がゆるく煙草を咥える様は本当に見惚れてしまう程格好よく色っぽくて、仕事中だということを忘れそうになるからだ。 「はやく春さんウチに引っ越してきてくれないかなー。もうボク耐えられる気がしませんよーこれから冬ですよ? 寒くて寂しくて泣いちゃいますよ」 「……今までおれ居なかったじゃん」 「それはそれ、人生は一人でも結構ですと思い込んでいましたので。春さんがボクのベッドの中でオハヨってキスしてくれる朝を経験しちゃうともう駄目ですよ、麻薬です、麻薬」 「なんで今日そんなに耳に痒いの。仕事中なのに」 「休憩中です。……今日比較的暇だしたまにはイイデショ」  シャチョーも居ないし、と言われてしまえば千春に反論はできない。  確かに最近忙しく、尚且つリリカから人手が足りないと要請をうけて、辞めた筈のMISS・LIPSを手伝いに出ることも多かった。  新しい仕事を始めた上に夜も働くというのは、中々に体力と精神力を使う。  結局このところ家には寝に帰るだけのような生活で、海燕の部屋に泊まったのも確かに久しぶりだった。  眠いし帰るという千春を引き留めるために、海燕が全力で駄々を捏ねたことを思い出しそうになり、あーあーと記憶を断つ。壮絶に可愛かったし、その後の夜も甘かった。けれどその甘さの代償で今千春は筋肉痛と身体の違和感と戦っている。  ただでさえ性的な行為には少々敏感な性質なのに。  このままでは全身開発されそうだ。  それでも拒めない自分が悪い。と、反省はするものの、本人を目の前にするとやはり千春は甘くなってしまう。 「あ。そういえば一昨日あの人来ましたよ」  千春が悶々と海燕の可愛さと自分の意思の弱さについて反省していると、当の海燕が煙を吐きつつ声を上げる。 「……誰? おれの知ってる人? あ、城内さん?」 「あんなこんわい人間がホイホイ来たらたまりませんよ、もう二度とお世話になりたくない。違います違いますええとね、あー……ある意味キューピット? ボクにしてみたらまあ、恋の仲介人ですが春さんにとっては悪魔ちゃんかも」 「…………え。加藤さん……?」 「正解でーす」  そういえばそんな人も居た。  千春が仕事をやめ、そして借金を背負わされツバメキャッシングで家政婦として働きはじめたのは、たしかに加藤という女性のせいだった。  海燕とうっかり甘い関係になったり、その海燕が拉致されたりと、とても非日常すぎることの連続ですっかり忘れていたが、そういえば千春は元々この界隈の住人ではない。  きちんとした会社で黙々と日々をこなす会社員だった。  その生活を一気に崩した加藤には、恨みはある。  最終的に今の生活は楽しいし、人生で一番充実していると思うが、それとこれとは別である。  思わず眉を寄せる千春に、海燕はふわりと苦笑を洩らした。 「春さんイケメンなんだから睨むと怖いからダメですってー。まーそのお気持わかりますけどねぇ。いやぁ、よくぞ春さん鬱とかにならなかったですねぇっていう事案ですもんね。会社内四面楚歌とか想像しただけで胃がやられますよー」 「軽い鬱診断出たからすんなり辞めれたんだけどさ……トラウマだよ。何しに来たの? おれに用事じゃないよね?」 「うん、春さんがここで働いてることは知らなかったみたい。普通に金借りに来ました」 「え。……え、だって、自己破産……」 「はいしましたねぇ。自己破産するとね、ブラックリストに載りましてね、普通の金融会社ではお金貸してくれなくなるんですね。まあそりゃそうでしょう、だって一回借金チャラにしてるんだもの。そんな借りた金魔法みたいに消す人間に貸せませんよねぇ、普通は。だから普通じゃないところに行くしかないんですよね。しかも自己破産してから七年は、再度自己破産することもできない」  その辺の知識について千春はまだ勉強中だが、ぼんやりと説明されたことを思い出していた。 「ええと、じゃあ、あの、まさか、夏の終わりに自己破産して借金チャラになったのに、またお金が必要になったってこと?」 「そうみたいですねぇ。どうやらトキワ金融に随分としつこく追われてるみたいで、それこそ鬱まっしぐらみたいな顔してましたよ。お仕事辞めちゃったみたいで。新しいお仕事見つかるまでの資金がほしいんですってさめざめ泣いてらっしゃったのでー」 「うん。貸したの?」 「まさか。ソウデスカタイヘンデスネーって言ってお帰りいただきました」  思わずその様子を想像してしまい、笑っていいのか泣いていいのかわからなくなる。  微妙な表情の千春に対し、煙草を吸い終えた海燕は机に頬杖をついて言葉を繋げた。 「ボクね、春さんが木村さんのこと死ねばいいって言ったの、思い出した。なんかねー、めそめそしてるくせにブランドのコート着て、奇麗に化粧して、宝石のブローチしてるあの女のせいで春さんが死ぬほどつらい思いをしたかと思うとね、もう久しぶりに笑顔も作れませんでしたね。お金ほしいならAVがオススメですよ今お安くなってるそうですけど最低日当十万はいけるんじゃないですかねーって助言させていただきました。…………軽蔑する?」 「……するわけないじゃん。まあ、あの、褒められる助言じゃないけど。……するわけないよ」  ありがとう、と言うのは違うかもしれない。でも、何か言おうと思って、結局『好き』という言葉しか見つからなくて、泣きたいようなもどかしい気持ちのままそのまま口から出た感情のせいで、海燕は目を見開いて照れてしまっていた。  報復したいとは思わない。  けれど、できればこの先関わりたくは無いというのは本心で、千春は運が良かったのだろうと現状に感謝をした。  時折リリカから連絡が入り、マキの家で料理教室が開かれる。  相変わらずキャバクラは忙しく、辞めた筈なのに駆り出されては飲めないドリンクを作っている。けれど、キャバ嬢達と喋るのは楽しく、そして海燕が迎えに来てくれるのが実はかなり嬉しい。  轟は相変わらずで、ぶっきらぼうで優しく、時折笑ってくれるようになった。目を細める時の皺が、可愛い人だと知った。今度留子の見舞いに連れて行ってくれると言う。  時折街で城内のような姿をみかけるが、話かけたことはない。できれば関わりあいになりたくないが、悪い人ではなかったことは知っていた。  日常は変わってしまった。  これが、今の千春の日常だ。 「ねーねー、春さんって、あれですねーふんわりした春っぽい人と見せかけて結構芯が強いって言うか、怖いもの知らずっていうかー……春の嵐みたいな人ですよねぇ」  肌寒い事務所の中で、ぽやぽやと春のような口調で、海燕はそんな事を呟いた。  ぼうっとしてたら、春が過ぎた。  その後来たのは台風で、それはとても刺激的で素晴らしい日常をもたらした。  その台風は、自分の事を棚に上げて千春を春の嵐のようだと笑う。 「ねーもし、ボクと春さんに子供ができたらね、いや違いますよさすがに春さんが妊娠できるとかそんな血迷った妄想はしてませんよでも今は養子とか色々あるじゃないですかぁ。それでね、もし子供に縁があったらね、名前は野分にしましょうよ」  日本では台風の事を、野分と称することがある。それを思い出しながら、千春は言葉を返した。 「野分、海燕、春嵐?」 「あはは、そうそう! 嵐まみれで素敵な一家じゃないですか。すごく、わくわくしますねぇ。嵐の前って、ボク、好きです」  そんな風に笑う海燕は、やっと家族というしがらみをふっ切ったのか、随分と幸せそうに見えた。  家族から逃げられなかった子供は、家族なんていらないと一人で生きてきたのだろう。けれどまたそれを構築してもいいと思ってくれているのなら、どんなに馬鹿げた話だって、養子だってなんだって検討しようと思えた。  嵐のように、唐突に現れて、千春の人生ごと攫って行った男は、幸せそうに、確認するように春さんが大好きですと囁く。  それは嵐のように滅茶苦茶で、そして唐突なものばかり。  野分。海燕。春嵐。 end

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