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あめがふるのではるあらし 01

【あまだれにおもいはせるすいようび】  今年はよく雨が降る。  ばたばたと窓を叩く雨音を聞きながら、千春は年が明けてから晴れていた日なんてあったかなぁとぼんやり考えた。  雪よりはマシだけど、と笑ったマキは新潟県出身で、全くその通りだと同意したリリカは長野県出身だった。 「年間積雪量とかあったまおっかしいからねー長野新潟山間部。中部扱いなのに生活は東北じゃん。最近はそうでもないみたいだけど、うちのおかーちゃん時代には雪で玄関埋まるから二階から出るとかよく言ったもんだよ。なにそれファンタジー」 「あー……聞いたことあるなぁそれ、うちもそうだったみたい。私も経験はないけどね」 「あの冷たいもさもさした白い塊に比べたら、雨なんかどんなに降ろうが積もらないし固まらないし気温もそこまで下がらないし最高。東京最高」 「じゃあリリちゃん春雨買い足してきてよ」 「いやだよ。なんでこんな雨の中せっせと歩かなきゃいけないのーいやいや絶対いやー」 「雪よりマシでしょ?」 「ここにないものと比べても仕方がないのだよマキチ。環境と条件を考えてみたまえ一月の雨とかうざい以外の何物でもないわ」 「結局雨嫌いなんじゃないの」  くすくす笑って、マキは白い鍋の中に白菜の葉を投入した。  こっくりとしたパイタンスープに浸かった野菜は、もう大半煮えている。シイタケにはきちんと飾り切りが入っていて、人参も花型だ。奇麗で美味しそうな鍋に足りないものは、うっかり三人とも忘れていて買い逃した春雨だけだと思う。  マキチと鍋するから春ちゃんもウチ集合。と、千春に声がかかったのは昨日の夜の事だった。  珍しくマキとリリカの休みが被ったらしい。ついでに轟も誘ってみたが、今日は顧客と会う用事があるとのことで断られてしまった。海燕は、二日前から東京にいない。  よって、三人だけの鍋会になってしまったわけだけれど。千春がキャバクラの仕事を辞めてしまってからはほとんど会うこともなく、たまにバイトで手伝うにしてもやはりゆっくりしている時間もない為、この二人と夕食を共にできる機会は単純に嬉しいものだった。  たまにマキの家の夕飯に招かれ、海燕と共に顔を出すこともある。そういえば今日はお子さん居ないんですねと、浮いてきた鳥団子を沈めながら声を掛けると、年下の母親はふわりと笑う。  マキの笑顔は静かで好きだ。リリカの派手な笑顔も、勿論好きだけれど。 「お子さんたちはね、今日は元旦那の実家。お正月何処にも行けなかったから、ゆっくりおじいちゃんおばあちゃんと観光してると思うよ。冬休み最後のお楽しみだね」 「あー。そうか小学生は冬休み長いですよね。まだお休みなのか」 「でも、チーちゃんとお鍋なんていうイベントがあるなら、こっちの方がよかったかもね。麻奈はすっかりチーちゃんのお嫁さんになる気でいるもんね」 「……汐音ちゃんは海燕のお嫁さんですけどね」  今はここに居ないマキの子供たちにすっかり懐かれ、時折訪問するとべったりと横につかれる。帰る時には必ず泣きそうな目で見つめられてしまうので、毎回次の予定を取りつけ慰めて帰路につくことになった。 「え、何何、春ちゃんのライバルってばマキチのお子なの? なにそれやっだーかんわいいー! 幼女に懐かれるホモかわいいっ!」 「え。かわいいですか? いや、マキさんのお子さんはかわいいですけど……あ、これ火弱めます? ていうか煮えた気がする」 「ほらリリちゃん食べていいよー。三人しか居ないんだからもりもり食べて白菜消費しちゃってね。春雨ないけど多分おいしいから」 「いいのいいの、春雨なんて所詮脇役ですよ。よっしゃ食べるよー! ここにいないお子さんと轟さんと胡散臭い金貸し口八丁ホモの分まで食べるよー!」  リリカは散々、春雨が無いと鍋の魅力が半減すると言っていたのに。やはりこの雨の中外に出るのは嫌らしく、そういう正直な子供っぽいところもかわいいと思えた。  女性は何を考えているのかわかりにくくて苦手だった千春だが、リリカとマキとは気負いせずに喋ることができる。  キャバ嬢達はとてもストレートに言葉を吐きだすから付き合い安い。普通の男性からしたら、少し開けっ広げ過ぎると思うのかもしれないけれど。  千春はこのくらい明け透けに会話してくれる方が好きだった。我儘をきくのも特別苦だとは思わない。ただ、春雨の為に傘をさして外出するのは千春も嫌だったので、マキ特製パイタン鍋は結局春雨抜きに落ち着いた。  葱の入った鳥団子は、生姜が効いていておいしい。  きっちりと横で作り方を教わったので、海燕が帰ってきたら鳥団子鍋でもいいな、と思う。 「鍋でもいいけど、甘辛く煮つけてもおいしいよ。あとシチューに入れても良いかなぁ。その場合は生姜抜くといいかも」 「甘辛煮、おいしそうですね。ていうか好きそう。なんかこう、汁物よりも煮物とか照り焼きとかそういうの好きっぽいんですよねー」 「え、ぽいって何よ春ちゃんたら。彼氏とはお付き合い良好なんでしょ? あんだけぺらぺらぺらぺら聞いても無いこと喋りまくってる男が、かんわいい恋人ちゃんのお料理の感想述べないなんてことあんの?」 「いや述べないっていうか全部美味しいって煩いから逆によくわっかんない……」 「やだ……うっかりのろけきいちゃった気分……てか海燕うっざ……」 「リリちゃん出てる出てる。心の声も出てるけど口から白菜も出てる」 「ぎゃあああ」  はみ出した白菜を口に押し込めるリリカは少々はしたないが、マキも千春も笑って許した。気心の知れた相手と一緒に取る食事は、多少羽目を外しても楽しい。  海燕が居たらもっと楽しかったかな、と考えて、千春の視線は自然と窓の外に向かった。  雨は嫌いではない。あまり外を歩きまわる仕事を経験してこなかったからかもしれないが、室内から見ている分には、その音は風流だと思えた。  低気圧に惑わされる事も無い千春は、体調が悪くなることもない。ただ少し寒いのは嫌だなァと思う程度だ。  それでも、一人でぼんやり眺めていると、唐突に物足りないような感覚になることはある。それは二日前から顕著で、ああそうか、これが寂しいってことなのかと、千春はどうも落ち着かない感覚を持て余した。  そこまで毎日ずっと一緒に居たわけではない。そう思っていたけれど、職場も同じでその上べたべたと甘えるのが好きな恋人だ。思い返せばほぼ毎日、千春の隣には海燕がいた。  そこに居ないと死んでしまう、なんてこれっぽっちも思わないのに、そこに居ないと確実に、少し、寂しい。結構惚れているんだなぁと認識することは恥ずかしくて、そして本人が居ない今は、やはり少し寂しい感情だった。  そんな千春の感情を見抜いたかのように、リリカは豆腐を啜りながら箸をカツカツ鳴らした。 「ところでそのうざい海燕、いつ帰ってくるんだっけ? 週末?」  うざいは余計だと、自信をもって否定できない千春は苦笑した。 「あー……週末くらい、って聞いてるけど、ちょっと正確にはいつになるかわっかんないみたいで……」 「え、連絡来てないの? うっそ春ちゃんに連絡ナシなの? あの春さん居ないともう空気吸うのも意味無いみたいな男が?」 「いや一応短いメールは来てるけどなんかこう、向こうの対応があやふやらしくてうまいこと予定が組めないっぽくて。あと微妙に携帯の電波が怪しいらしくて、社長のところには固定電話から連絡が来るって」 「でんぱ……え、沖縄でしょ? 沖縄って電波ないの? ていうかあいつ何つかってんの?」 「白いお犬様。沖縄では少数派っていう話で。繋がらないっていうのは稀みたいだけど地域に寄るんもんなんだなぁって実感した。この辺に住んでたら、電波ないとかそんな状況地下以外ではないし」 「いやうん……確かにニーガターの山奥の家とか、トイレの中しか電波無いとかそういうのあるっちゃあるけど、また辺境の地まで大変ねぇ……海道さんちは本当になんかこう、大変って一言で済まないもんねぇ……」  素直に同情を示すリリカに、マキも同意する。千春はと言えば、全くその通りだと溜息をつくことしかできなかった。  海燕が沖縄に行く事が決まったのは年明けの事だった。  三が日の休みを終え、仕事始めに神棚に手を合わせ、さてと整理した年賀状を轟に渡し、事務所の電話の留守電を確認した時、少々古い電子声は『三十三件のメッセージがあります』というとんでもない言葉を告げた。ほとんど鳴らない事務所の電話だったので、こんなことは異例だ。  そのうち四件は年末年始の営業の問い合わせで、あとの全ては海道陣宛てのメッセージだった。  電話は沖縄からだった。  海道猛の母親が急逝したとの知らせで、伝言の内容は、最初は猛の居場所を求めるものだったが、次第に陣でもいいから葬式に来てくれとの要求に変わっていた。とにかく折り返し連絡が欲しいと何度も訴える声は一人ではなく、何度か親戚総出で連絡を取ろうとしていたことが伺える。  仕方なく轟から連絡を取り、猛の居場所は知らない旨と、陣の母親は猛の母親とは別の人物であることを告げたが、それでも葬式には来てほしいとごねられた。  仕舞には正月早々事務所の電話が鳴りっぱなしになる事態まで発展し、ついに海燕が折れた形となった。 「そりゃあ付き合いもない、会った記憶もぼんやり、その上あの海道一家関連のお話なんて死ぬほど御遠慮願いたいですがねー、だってもうこれ電話線抜くしかないじゃないですかぁ。さくっと葬式出てさくっと弔ってさくっとあちらとの縁も終わらせてさくっと帰ってきますよー」  と、いつものように朗々と語った割には、比較的げっそりしていたことを覚えている。轟が代わりに行くことも提案したが、海燕がそれを断った。  ただし、何か起こってからでは遅いということで、沖縄行きの海燕には吾妻組から数人、同行することになった。母親の急逝をききつけて、猛が姿を見せる可能性も無くはない。  どうにか無理をしてでも付いて行こうと思っていた千春だったが、吾妻組の人間が一緒に行くならば自分は邪魔だろうと判断した。  海燕には何かあった時に、自分の身を一番に守ってほしい。世界の中心は轟と千春だと信じている節があるまだ精神の若い青年が、何かのはずみで千春をかばうことは容易に想像できた。  そんな剣呑な妄想は不必要かもしれない。けれど、絶対に無いとは言い切れない。  飛行機はいつ何時落ちるかわからないし、交通事故は突然襲ってくる。自分だけは平気だという考えは、この事務所に勤め始めてからは捨てた。  人生、何があるかわからない。用心しすぎて悪い事は無い。  そんなわけでとても嫌そうな海燕を、轟と一緒に吾妻組の事務所まで送ったのが一昨日のことだった。  本当は空港まで同行したかったが、極道の皆様と共に移動する勇気が無かった。彼らに見守られていってらっしゃいと微笑むのもどうかと思う。空港でするキスや抱擁というシチュエーションは、きっと好きだろうなと思ったけれど。それは社長の目もあるので、前日に散々済ませておいた。  朝一番で溶けるようなキスをして、春さんも連れて行きたいなぁ今度は二人でどっか旅行行きましょうねぇ、ボクご飯が美味しいところがいいから海辺が良いなァ、などと甘く囁く海燕に、おれだって付いていきたいよ馬鹿という言葉をぐっと飲み込んだ。  不安だ。不安で仕方ない。吾妻組の人達のことは信頼している。特に海燕は組長吾妻その人に大変気に入られていたし、怪我をしたり監禁されたりということはないだろう。けれど海燕は、思いのほか精神的に脆い。  ふとした瞬間に海燕が隣に居ないことに気がつくと、元気かなぁと心配になる。疲れているだろうし、面倒くさい事だろう。せめて食事だけでもきちんと取って、ゆっくり寝てどうにかすべての用事をこなして無事に帰ってきてほしい。  ぐつぐつと湯気をたてる白いスープの鍋を眺めながら、千春は帰ってきたらやっぱり鍋にしようと思った。  マキ直伝のパイタンスープもおいしいけれど、海燕は貝類が好きだったと思う。辛いものを好んで食べていたので、チゲでもいいだろう。スンドゥブスープの素もスーパーで見かけた。あれを試してみるのもいい。 「海燕も居ないしーお子さんちゃんたちも居ないしーアタシには彼氏も居ないしーやだぁ寂しい鍋会じゃん! どうする? 今日リリカ様のおうちに泊まっちゃう? 夜通し人生ゲームしちゃう?」  鍋の中身を消費しつつ今日もカラカラと明るい声をだすリリカだが、海燕が沖縄に行くと決まった時に一番心配していたのは彼女かもしれない。  暇を見つけて空港まで行って見送ったというのだから、なんだかんだと文句を言いつつも出来の悪い弟を心配しているような様子だった。 「人生ゲームは良いけどさ、女二人に男一人ってちょっとアレな感じじゃないかな……イヤ別に、チーちゃんが私達と浮気なんかこれっぽっちも心配してないし、そういう意味では全く意識してないけどさ……」 「おれもそのー、根本的にそういう対象じゃないんで問題はないですけど。リリカさん平気なの?」 「彼氏居ないって言ってんじゃんばーかばーか! ていうか年末前にお別れしましたちくしょうですよ!」 「え、彼氏居たんですか!?」 「ちょっと春ちゃんなによそのリアクション! リリカ様に彼氏が居ったら不満かね!?」 「えー……いや、あの、だっておれリリカさんはそのー、……社長の事が好きなのかなって、」 「ごふッ!?」 「うわ、ちょ」  思い切り酒を吹き出したリリカの斜向かいで、マキはほんのりと笑った。千春は台拭きを慌てて探す。 「チーちゃんってなんでちょっと鋭いんだろうね。海燕くんは結構そういう機微には鈍感なのにね。まあ、ちょうどいいカップルなのかなー。リリちゃんもほら、カップル見習っていい加減轟さんに告白しなよ」 「マキチ人ごとだからって軽く言うのやめなさいし! けしかけんなし! 絶対振られるし! やだ! こわい! ぜったいやだ! いいのお墓までこのときめきは持って行くって決めてるからお金持ちIT社長誘惑して玉の輿に乗るのが今の夢なの……!」  口元をウエットティッシュで拭いつつも、ほんのりと赤くなっているリリカは可愛い。なんとなくそんな気がする、と思っていたのはやはり正解だったらしく、微笑ましいようなもどかしいような気分になった。  轟の感情は千春にも読みにくい。彼がリリカの事をどう思っているのかは、千春にはわからないけれど。 「やっぱり強引にでも今日社長連れてきたらよかったです?」 「……ご飯の味が半減するから勘弁してちょうだい。みんなが思ってる以上にこの件に関しては女子高生なのよリリカちゃん」  噎せたせいかお酒のせいか、それとも女子高生心が騒いでいるのか、首筋まで赤いリリカを眺めながら、千春はまた雨の音を聞いた。  沖縄も雨だろうか。  海燕は、今日何を食べたのだろう。葬儀は終わっただろうか。いつ、帰ってくるのだろうか。  雨の音は嫌いではないけれど、一人で聞くのは少し虚しい。今日リリカとマキに誘われて良かったと思う。  家に帰れば、冷たい部屋と雨音が待っている。  泊まるのは流石にどうかと思うけれど、終電時間くらいまでなら、人生ゲームに付き合ってもいいかもしれない。あまり、そういうパーティゲームが好きではない千春は、珍しくそんな事を考えた。  雨が降る。音が響く。  キミが隣に居ない雨音は少し寂しい、だなんて。 (……言ったら、すごく喜びそう)  かわいい恋人は甘い言葉にとても弱くて尚かわいい。  早く帰ってくればいいのにと、それだけを繰り返し考えた。

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