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名の呪のはなし 04
喉が張り付くような渇きを覚えた。
目が覚めた時は真っ暗で、自分がどこにいるかなんてわからない。ぼんやりとした頭は、とにかく喉の渇きによる焦燥感で満ちている。
水が飲みたい。でも、動くのは面倒だ。眠い。身体は痛いし、動きたくない。それに、真っ暗だ。
うちは安い遮光カーテンのせいで、夜中でもそこまで真っ暗にはならない。
違和感に気づきぼんやりと身じろぐと、素肌に当たる他人に体温に気がついた。
――あ、そっか。ここラブホだ。
そう気がついた時には若干目も醒めてきた。安らかな顔で眠るくろゆりさんの頭の上の小さな電子表示の時計は、夜中の三時を指している。
世に言う丑三つ時ってやつだ。そう思うと気持ち悪くもなるが、元々爆睡するタイプではないしとにかく喉が渇いていたので、恐怖よりも「如何に隣に眠っているくろゆりさんを起こさずに水を飲みに立つか」が問題だった。
今目を覚まさせたら、またちょっかい出されそうで怖い。
ラブホでお風呂セックスしてベッドの上でもう一回セックスして疲れ果てて一緒に寝る、だなんてどんならぶらぶカップルだと思う。白眼剥きそうだ。笑えない。面白すぎて笑えない。
結局ちらちらと幽霊っぽいものは見える気がするんだけど、こう、決め手となるような何かは無い。
リユ嬢は、本当に霊障を受けて体調不良になってんだろうか。
女の子って具合悪くなりやすい、みたいなヘンな偏見があって、多分うちの妹がちょくちょく入院してたからだろうけど、なんかそういう普通に具合悪いみたいな事なんじゃないかなぁと思わなくもない。それは、この調査が終わった後にくろゆりさんが判断してくれるんだと思う。
ちゃらんぽらんでいい加減なイケメンだけど、仕事はきちんとする事を知っている。
くろゆりさんの言動はいつだって怪しいが、うちの天井の揺れる足は、くろゆりさんが来るようになってから格段に減った。霊感がなくても除霊ができる、というのは本当らしい。
俺はくろゆりさん以外の霊能者を知らないから、なんとも言えないけど、他の奴らもわりと見えて無かったりすんのかな。
くろゆりさんはよく、自分と自分の師匠以外はあまり知らないとか言うけれど。
この人の師匠っていう人間は、一体どんな化け物なんだ、と思う。
息をするように人間を口説くし、食事感覚でセックスする屑だし、やっぱ師匠って人ともできてんのかなぁとか、そんなよくわからない方向に思考を持って行ってしまって春日アナタ疲れてるのよとりあえず水飲んで寝ろ、と自分に言い聞かせた。
でもくろゆりさんめっちゃ寝てるし。なんか微妙にホールドされてるし。これ、俺が動いたら確実に起きるよなーえーやだーこんな深夜に三回戦目したくないでも起きたら絶対えろいことされる、みたいなよくわかんない確信があって、もぞもぞ、もやもや、ごねごね、一人で考えていた時だった。
ぼんやりと見ていたくろゆりさんの向こう側の壁が、ずるり、と動いた。
「…………ッ」
危うく口から出そうになった叫びを息ごとぐっと飲み込む。
一瞬本当に息するのを忘れて、心臓がどくんと鳴った。
ずっとぼんやり眺めていたのに、気がつかなかった。窓の無い暗い部屋だ。ベッドの端だって闇にまぎれてあやふやに見える。
その闇の中に、黒い何かが居る。居るし、その上、……こちらに向かってずるずると、這うように進んでいる、ように見える。
え、なに、ちょっと、あれ、何?
今日のメイン幽霊さん?
待って待ってうそでしょ俺の身体動かないし声も出無いんだけど金縛り機能搭載とか中々本気出してホラーじゃんなんだよお札唾液キス全然効いてないんじゃないのおいくろゆりテメエ起きろよこういう時の霊能者だろ本業だろ何セックスにつかれて寝てんだよクソが。
という言葉も全部出無い。口が動かない。息はどうにか出来ているらしい。でも、息しかできない。
そのうちに、むわり、とおかしな臭いが漂っていることに気がつく。
泥のような。下水のような。焦げたような。なんていうか動物的で腐ったような臭いだ。
なにこれ。
ああ、何っていうか、そうね、あの黒い何かがずるっ……と這い寄る度に、この臭いは強くなる。
真っ暗な中で、足を引きずり這い寄るどろどろに溶けた腐った人間を想像してしまい、酸っぱいものがこみ上げる。ダメだ。俺ある程度恐怖は平気になってきたつもりだったけれど、スプラッタとかそういうのはダメだ。腐敗臭もダメだ。元から臭い系には強くない。
金縛り中でも吐くことってできんのかな。
そんな事を考えてしまうのは確実に現実逃避で、笑いの代わりに冷や汗が出た。
ずるり、と、そいつは壁から這い出してきたように近づく。
腐敗したような泥っぽい嫌な臭いも部屋に立ちこめる。
水音のようなものも聞こえる。何も見えない。真っ暗だ。真っ暗なのに、ぴちゃり、と、嫌な音をたてて液化した人体が零れ落ちる想像は容易くて、自分の貧相かつ気持ち悪い想像力に吐き気を堪えた。
真っ暗なのにわかる。真っ黒なのにわかる。
あいつ、こっち見てる。
それに気がついた時流石に鳥肌が立って、そんで急に手を握られて金縛りなうじゃなかったら絶叫してたと思った。
「……春日くん、大丈夫です。息、出来ますよ。吸って。吐いて」
思わず、呼吸を止めていたらしいことに言われて気がつく。
思いっきり吸って吐くと、胸と肩が上下して、ふっと力が入るようになった。くろゆりさんに握られた手をぎゅっと握り返しながら、その後ろに見える黒いものを凝視していた。
もう随分と近いのに、それが何なのか分からない。
何も見えない。真っ黒な何かが、ずるずると近づいてくる。
「くろゆり、さ、……なんか、くろいの、あれ、なに……」
「害は無いものです。五分もしたら消えます」
「え、くろゆりさんにも、わかんの……てか、見えて、るの?」
「残念ながら、あれだけは僕は無視できないもので」
「何言ってるのか全然わかんねーけど吐きそうな事だけは確かだし五分もしたらこっちに辿りつくじゃんなんだよコレ……っ」
「春日くんも、彼女の干渉を受けてしまうんですねぇ……目を閉じてキスでもしていたら、多分やり過ごせますよ」
そんな口説き文句にひっかかるかよ、なんて抵抗は勿論できず、縋るようにくろゆりさんに抱きついてキスをした。
自分で言ったくせに一回びっくりみたいに硬直するのが解せない。でもすぐに悪戯な舌がうごめいて、ぬるりと口内に浸食してくる。
くろゆりさんのキスは上手い。上手いし、何でか知らないけど甘い。お札ってやつは、甘いのかもしれない。
ぬるぬるした舌が器用に動いて、あっつい息も一緒に食われるみたいなキスをする。
貪る、っていう表現がぴったりだ。俺はくろゆりさんの唾液を貪り、くろゆりさんは俺の息を貪る。食う。食われる。そんなキス。
異臭は消えない。どんどん強くなっていく。こわい、という感情よりも単純に臭気として耐えられない。
それを誤魔化すように素足をくろゆりさんに絡ませた。ぎゅっと、抱きついている方がまだマシだ。もっと抱きしめてほしくてキスの合間にぎゅっとしてとねだる時に、若干甘い声を出してしまったことは後々一応反省した。
ホモだ。とんだホモだ。でも、心霊体験よりはホモ体験の方がマシだ。
「……ふ、……春日くんは、こういう時だけかわいいのが、すごく良いですよねぇ……」
「うるっせーよ使えるもんは使う主義なんだよ良いからぎゅっとしてちゅーしろバカ」
「うん。それがかわいい。かわいいんですが、気配はまだしますか?」
言われて、そういえばあの吐きそうな臭いが薄れていることに気がついた。
こんな密封された部屋に充満していた臭いが、喚起もせずにいきなり無くなるなんておかしい。おかしいと言うなら壁から黒い何かが出てきて這い寄って来た、なんて方がもっとおかしいので俺の頭は混乱していた。
「え。……居なくなった……?」
「五分もしたら消えると言ったでしょう」
「……五分もチューしてた? あー、いや、してたかも……唇の感覚がヘン……」
「そうでしょうとも。僕も少しじりじりしますね。つい、夢中になってしまいました。……しかし、こんなところでもやっぱり追いかけてくるものですねぇ。赤舌日ではないので少しだけ気を抜いていました」
「しゃくぜ……は?」
「陰陽道の凶日の事ですよ。仏滅とか、大安とかあるでしょう? 僕の師匠は、酷く陰陽道に引きずられていましたから」
「師匠……」
「はい。また、起きたらお話しますが。先ほどのアレは、僕の師匠です」
「………………は?」
さっきのどろどろした黒い何かが、くろゆりさんの呪い屋稼業の師匠って一体どういう事だ、というのはこの丑三つ時のホテル内ではあまり口にしたくなくて、それ以上は飲みこんだ。起きてからとても詳しく訊きたくない。でも、きっと、大事な話なんだろうなぁと思う。
とりあえず絶句する俺の頭を撫でたくろゆりさんは「春日くんは寝て良いですよ」と笑った。
「なんだそれ……くろゆりさんは寝ねーの?」
「はい。僕が寝ると、また、アレが来てしまいますので」
「……どんな呪いだよそれ」
「あはは。まさに、呪い屋の業ですかね。とても、仕事熱心な人でしたから」
過去形になっているのが凄く嫌で、なんかこう、その柔らかい口調も嫌で、口から出すべき言葉を全部飲んで、握ったままだった手をぎゅっと握りしめた。
俺の部屋も、俺自身もきっと大概なもんだけど、この人だってやっぱヤバいんだろうなって、今更な事を考えた。
まずい人間に関わった。でも、今更無かったことに出来ない。縁ってやつは、一度繋ぐとわりと解くのは難しい。
「……寝てる間にヘンなことすんなよ?」
「しませんよ。寝顔を拝見する程度です」
「くろゆりさんが言うとマジで変態くさいな?」
「まあ、相違ないでしょうねぇ。どうせなら、春日くんも起きてこのホテルの大きなベッドを存分に楽しみますか? スプリングの効いたベッドの騎乗位の素晴らしさをもう一度体感、」
「黙れ変態寝かせろ変態口ふさぐぞど変態」
そんな言葉遊びのような日常会話をわざと楽しんでほっとしている自分には、勿論気が付いていた。
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