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うしくびまがい 03

「あれーぇ、椿ちゃんってー、お酒飲めたっけぇ?」  カラン、と冷たい音が響いて、ふわふわした気分に心地良い。その上ふわふわしたフユちゃんの声がまた気持ち良くて、手もとの梅酒水割り氷入りをカラカラ回した。 「飲めるよーまーそんな強くないけどさー」 「そら飲めるでしょ。フユだって仕事で飲むでしょう」 「ワタシはぁーお酒好きだもんー。でも椿ちゃんって、お客さんに奢ってもらう時ってお酒じゃなくてーご飯ばっかり食べてるからー」 「それは食費削減だよね?」  あはは正解。ふわふわフユちゃんの綿あめみたいな声に容赦なく横やりを入れるのは蓼丸サンで、俺はと言えばあんまり飲まない酒を流し込んであはははと笑うだけの簡単なお仕事に興じていた。  家のクーラーが壊れたんだよねという話は、うちの職場のオカマ達に大ウケして、散々弄られた末にめっちゃ憐れまれていつでも泊まりに来いと大概のオカマから肩を叩かれた。  フユちゃんはそのうちの一人だ。まあ、元々わりと仲が良い。結構年上が多い職場で、フユちゃんはほぼ同い年だったからかもしれない。  わりとつるんでいるのは、フユちゃんが見た目のふわふわ感を裏切るさっぱり男子だという理由もある。  男性客に大人気のふわふわおっぱいは見事なシリコンバストと詰めモノの合わせ技だし、ホルモン注射もしてない。女の子になりたいんじゃねーの? って訊いた時に、『だってホルモン注射すると性欲なくなるってきいたからいやーなのー。ワタシ、イケメンをよがらせてぇ、ガンガン掘るのが趣味なんだもんっ』と言い放ったそのとんでもねえ性格と性癖はぶっとびすぎててなんかもうよくわかんないけど好きだなコイツって思った。  俺の事を攻略対象だと思って無いところも良い。フユちゃんの好みはホストみたいな自意識過剰なイケメンだ。自分かっこいぜみたいな男を滅茶苦茶にして責めまくるのがお好みらしい。全くもって別の世界の住人だ。  そんで、フユちゃんと個人的に仲良くしてたら、フユちゃんのトモダチだっていう蓼丸サンともじわじわ仲良くなっていった。  蓼丸サンはバンドだか俳優だかのメイクだか衣装だかヘアアーティストだかをやっている中々アバンギャルドな格好のおにーさんだ。ピアスはぼこぼこ開いてるし、髪の毛は大概アシンメトリー気味だし、だらりと片方に垂らした前髪は黒にピンクが混じっている。先月までは真緑だったしその前は銀色だった。いつか毛根死ぬと思う。毛根は死ぬと思うしひっくい声でだらだら喋る蓼丸サンは一見めちゃくちゃ怖いパンクヤンキーだが、これまた俺に優しいさっぱりメンズだった。  ぐっちゃりどろりとした人間関係が苦手だ。別に、人は嫌いじゃないけど、どうも依存系女子男子に好かれる体質で、それで何度か酷い目に合っている。  トモダチでもコイビトでも、さっぱりとお付き合いしてくれる人が良い、と思い始めたのはわりと最近の事で、その好みにぴったり合ったお付き合いができるのがこの二人の素晴らしいところだった。  ……いやまあ、くろゆりさんもべったりどろりとしてない、っていう部分では付き合い安くないこともないんだけど。あの人との関係には肉体労働と心霊現象がセットで付いてきて別の意味で疲労するから別問題だろう。  ここんとこ、そのくろゆりさんの小間使いやらお手伝いやらですっかりあの事務所に入り浸っていて、仕事以外でフユちゃんとだらだらすんのは久しぶりだ。  名目はフユちゃんが失恋というか、イケメン彼氏捕まえたのにおっぱいが詰めモノだと分かった途端にフられたザマァ残念会と、蓼丸サンの引越し祝いと、そして俺の家のクーラーお陀仏会というごった煮で集まった。俺とフユちゃんの仕事が終わってから集まったから、時間はもう一時を過ぎている。  場所は勿論、蓼丸サンの新居だ。  稼ぎがどのくらいかなんて知らないけれど、蓼丸サンは何故か今まで昭和の苦学生が身を寄せ合うような下宿感溢れる長屋で生活していた。  しかしその古き良き汚き長屋がついにガタがきて解体されるとのことで、思いきって普通の1Kアパートに引っ越しを決めたらしい。  うちのアパート空いてるとアピールしてみたものの、地味に心霊現象に悩まされていることを打ち明けてしまっていた為に拒否された。しくじった。何も言わずに引っ張り込むべきだった。  新しい家といっても、別に新築ってわけでもない。なんというか、ウチと似たり寄ったりなごく普通のアパートだ。ちょっとだけ街灯がお洒落で、OLさんとかが多そうな感じではあるけれど、見た目に反して非常に女性っぽい蓼丸さんに似合ってない事もない。 「あーんもう蓼ちゃんがぁーこの新居ですてっきーなイケメンと出会ってぇ、そんでワタシに紹介してくれたらいいんだぁー……」 「ぼくよりもフユの方が出会いのチャンス多いでしょう。同じアパートにフユの彼氏がいるとか絶対嫌だな」  その蓼丸サンは、ウォッカ片手に淡々とフユちゃんのだらだらトークにつっこんでいる。このコンビは見ていて楽しいから好きだ。 「ていうかいい加減一人に落ち着きなよ、フユ」 「きゃー蓼ちゃんだってコイビトいない癖にえらそうえらそうー。傷心のフユに追撃ダメージおやめくださーいー。じゃあじゃあ蓼ちゃん紹介してよー椿ちゃんでもいいからーイケメンたーべーたーいー」 「フユちゃんに献上できるようなイケメン知り合いにいねーっての……」   物騒なこと言う見た目ふわふわ女子なゲイ男子に苦笑いを返したところで、蓼丸サンが『あっ』と声を上げる。 「イケメンといえばそういえばぼく、この前駅で椿くん見たよ。なんか、黒いシャツの芸能人みたいなイケメンと歩いてたけど。随分親しそうだったし、椿くんってノンケじゃなかったっけ? って訝しんだんだけど、アレ何、彼氏?」 「かれ、ブホッ!」 「ちょ! 椿ちゃん汚い! 汚い! お洋服に! かかった!」 「……っ、ふ、あ、ごめ……俺も、喉に、入って、死ぬかと思っ……ゲホ、っ」 「フユ、タオルはそっち。そんなに動揺するってことはガチで彼氏……」 「ちが! 違うから! なんかちょっとアレな関係ではあるけど彼氏じゃないから!」 「じゃあセフレ?」 「いや、ええと、そういうんでもないというか、うーんと……ええと、副業の上司? みたいな?」 「バイト先の上司と不倫?」 「蓼サンなんで不埒な発想しかしねーの!?」 「いやほんと雰囲気が不埒だったの。だから、あれー椿くんって女の子のおっぱいが好きだって豪語してなかったっけなーと思って。おっぱいなさそうなイケメンといちゃいちゃしてたから」 「いちゃ……いやいやしてないしてない。断じてしてないし彼氏じゃないしセフレでもないし不倫でもないあの人独身の筈だし」 「独身! イケメン! 彼氏じゃないなら紹介してよつーばーきーちゃーん!」 「えええ……フユちゃんに紹介ってハードルたけえ……」  正直トモダチでもないしセフレかって言ったらそうなんだろうけど、俺とくろゆりさんの微妙な関係を真摯に打ち明けるのも勇気がいるので、えーやだどうやってかわそうってぐるぐるしてた、その時だった。  ピンポーン、と、チャイムが鳴った。  全員の肩がびくっと跳びはねた。……だって、もうすぐ二時だ。もし友人が訪ねてくるにしたって、チャイムを鳴らす時間じゃない。携帯電話が普及したこの時代、深夜に鳴るチャイムなんてホラーか嫌がらせ以外の何物でもないだろう。 「……………」  なんとなしに、息を飲む。さっきまでだらだらと喋っていた内容も、ふんわり飲んでいた酔いも、どこかに行ってしまった。音を立ててはいけない気がして、動けない。  こんな時間にピンポンダッシュか? なんて無理矢理笑おうとしたところで、もう一回チャイムが鳴って本当に泣きそうになった。  二回目のチャイムで、立ち上がったのは蓼丸サンだ。  蓼丸サンの新居はインターホンじゃない。だから扉のところまで行って、覗き穴を見ないといけない。  普段ホラー現象にまみれて生きているわりにそういう慣れが一切ない俺は、どうにか深呼吸をするとやっと苦笑をもらした。  蓼丸サンはすごい。すたすた歩いて行って、帰ってきて、誰もいなかったよと言う。すごい。その度胸俺とフユちゃんに分けてほしい。 「蓼ちゃんすご……惚れるぅ……」 「いや結構だよ勘弁して。ていうか、覗いた瞬間血まみれの女とかだったらどうしようかと思ったから、なんか、誰も居ない方がほっとした」 「怖い事言うのやぁだぁよ~ワタシ怖い話好きだけど実際ホラーに遭遇したこととかないしフラレタし一人寝なんだからぁやだやだやめてよ椿ちゃんがアパートから連れて来ちゃったんじゃない?」 「え。何俺のせい……っあ」 「あ?」  ふと、昼間の事を思い出した。  段ボール裏に貼られた血まみれのお札。その中に入った牛の頭蓋骨。  思い出して尻ポケットに入れていた財布を取り出す。無造作に和紙袋のまま入れてあったお札を出すと、もらった時よりも紙の色が濃くなっているような気がした。端の方が、黒く染まっているような気もする。最初からこうだったのか、覚えていない。でも、嫌な感じがする。 「ちょっと、椿ちゃん何、それガチなお札……?」 「ごめ。俺のせいかも。ていうか、俺のせいじゃないんだけど……巻き込まれた、かも」  どう説明したもんか、全くわからない。  テンパってお札握りしめて、いやこれまずくろゆりさんに連絡しようそうしよう特別何も起こって無いけどどうにもならなくなる前に声だけでも聴いておこうと、慌ててスマホを手にした。  くろゆりさんはあんまり電話で連絡してこない。だから着歴にも発信履歴にも名前がなくてああもうめんどうくせえアドレス帳開くのめんどうくせえと思って苛々してたらいきなり目の前が暗くなった。  電気が消えた。  それにびっくりして、フユちゃんがちょっと叫んだ。 「な、に……っ、なに、電気、なんで、誰っ」 「……消して無いよぼく。ていうか、付かない。……うーわ」 「もおおおお蓼ちゃんなんでそんなに冷静なの!?」 「十分ビビってるよ……でも、焦ったところで電気はつかないしさ、コレ何、椿くん、ホラーってやつ? ガチで?」 「電気系統の故障であってほしいけどわりとガチっぽいから専門家を今呼……」  あ。あった。番号あった。くろゆりさんの番号あった。  ていうか電気と一緒にスマホも電源落ちてたらどうしようかと思った。お札が効いているのかそもそもただの停電で怪奇現象なんか全然関係ないのかわっかんないけど、俺のスマホはとりあえず煌々と光っている生きてる良かったでもこういうのって電話かけようとしたら向こうから女の声とかそういうのが聞こえたりしない大丈夫なのねえコレかけて平気ですかでもどうしようもねえ!  もうよくわかんないパニックのまま通話ボタンを押す。  二時ってあの人寝てるんじゃないかとか、そんなの気にしていられなかった。  空気が、ぞわぞわする。やばい。真っ暗闇の中で、何かが動く気配がする。後ろは振り向けない。動くものが、蓼丸サンであってほしいと祈ることしかできない。  繋がれ、と願う間もなく呆気なく電話は繋がった。 『――…はい』  その声は、まぎれもなくくろゆりさんで、うっかり安心して溜息を吐きそうになった時、窓ガラスが音を立てた。  バン! バン! と、激しく叩くような音が二回。  思わずヒッと息が詰まる。ついでにびびりすぎたらしいフユちゃんらしき人物が俺の腕に抱きついて来て死ぬかと思った。大丈夫フユちゃんだ。小さく『うそでしょうそでしょやだやだばかばか』と呟いているフユちゃんだ。これはこれで怖いけど人間だったから許そう。 『春日くん? ……春日くんで合っていますよね。もしかして現在あまり、よろしくない状態ですか?』 「……よ、ろしくない、かもしれない、なんか、ピンポンされて、出なかったんだけど、電気消えて、窓ガラスバンバンされて……ええと、あと認めたくないけど部屋に気配増えてるしなんか変な声聞こえる……」 「うそ!? え、なにそれ椿ちゃんワタシ何も聞こえないよ……っ」 「あー……ごめん、ぼく聞こえる。なんか、これ……なんて言ってるの? おん……び、あ……うん、けん……わか?」  後ろの蓼丸サンの言葉が聞こえたらしく、電話向こうのくろゆりさんが早口で応じた。 『阿毘羅吽欠蘇婆訶。真言ですね。あれもこれも盛り込み過ぎていて僕も訳がわからなくなってきました。とりあえずそちらに向かいます。住所を教えてください』  住所住所と叫ぶと蓼丸サンが電話を代わってくれる。新居なのにソラで住所言えちゃう蓼丸サンがかっこいい。惚れる。  ちなみにその間も、よくわかんない声は聞こえていた。時折窓がバンバン叩かれる。声は聞こえないらしいけれど窓の音はしっかり聞こえてしまっているらしく、音が響く度にフユちゃんの偽物の胸が密着した。  どうしよう全然嬉しくないし軽口も出ない。  気が付いたら通話は切れていて、フユちゃんが居ない方の隣に蓼丸サンが寄りそってきた。 「……声は聞くなってさ。何言ってるのか聞こうとするとそっちにもっていかれるから、なるべく何も考えるなって、電話の人が」 「そんなこと、言われても。だって、声、でっかくなってね……?」 「なってる。なんだろうな、あー……言って良い?」 「嫌だけど、どうぞ」 「……天井、這ってきてない?」  あ。  ……本当だ。  これ、天井這いずってる。  言われてその感覚に気がついて、真っ暗なのになんでそんな事わかるんだよんなわけねーだろ天井這いずってる人間に遭遇した事なんかないじゃんなんだよこれ、と理性は突っ込むものの、本能はしっかりその存在を感じていた。  上に、何かが居る。  ぎゅっと、お札を握る。その手が湿っているのは汗のせいだ。  今まで怖い所を訪れたことはあれど、いつもくろゆりさんが隣に居た。くろゆりさんの力がどれほどかっていうのは知らないし、霊能者的な腕前なんてまったく実感できてないけれど、それでもあの人が隣でさらりと微笑んでいるだけで相当安心できる、という嫌な事実にも気がついた。  普段、俺が住んでいるアパートだって相当なホラー部屋だ。  でも、こんな風に這い寄られた事は無い。この感覚なんか最近覚えがあるぞ……と思い返すとくろゆりさんに夜中這い寄る真っ黒な『師匠』にひどく似ていることに気がついたし気が付きたくなかった。  近づいてくる、ということが怖い。  何が目的なのか分からないのも怖い。  俺はくろゆりさんじゃないのに。なんで俺のところに来るんだこの幽霊みたいなやつは。人違いも甚だしいし迷惑すぎて涙が出る。  ぎゅっと、蓼丸サンまで俺の腕を掴む。その腕がひんやりと冷えている上に震えていて、緊張が伝わってきて勘弁してほしかった。 「……フユ、生きてる?」  隣から、蓼丸サンが声をかける。フユちゃんは、ぜいぜいと息をしながら首をカクカクと縦に振った。 「生きてる、ってさ……蓼サンは、これ、平気なの」 「平気じゃないかもしれないんだよね。あの、椿くん、ほっぺた、痒くない?」  ……言われてみれば痒いというか、なんだか変な気配がする。クモの巣かなんかみたいだと思ってから、冷静に、いや違うこれそんなもんじゃないわと、すごく嫌な想像が頭をかすめたのに。  蓼丸サンは容赦なく言葉にした。 「ねえこれ――髪の毛、だよ、ね?」  ああ、もう、ほら。……声が真上から聞こえてくるんだけど。  これはもうだめだ失神する怖すぎる。でも意識は上に行く。絶対に見たくないのに、視線が徐々に天井に向いてしまう。何も居ないに決まっている。何もいなければきっと動ける。  でも、何かいたら気絶する。  そろり、と、頬に当たる髪の毛のようなものを感じながら、上を――。  向こうとした時に俺の携帯が鳴った。それは、待ち望んだくろゆりさんからの連絡だった。  上に上がりそうだった視線をスマホに戻し、慌てて耳に当てると扉を開けてと早口に告げられる。俺より先に動いたのは蓼丸サンで、暗闇の中疾走するようにドアに辿りつき、扉を開けた。  ……ていうか、扉開くのに、なんで俺たちはここで震えて待ってたんだ。そうは思うが、その時は逃げようなんて考えられなくて、ただパニックだったんだと思う。  挨拶もそこそこにわりとすごい勢いで部屋に入ってきたくろゆりさんは、なんかよくわかんない液体を俺にぶっかけると、電気のスイッチを入れた。  さっき、何度やっても付かなかった部屋の照明があっけなく付く。  明るくなった部屋には、失神寸前のフユちゃんと、茫然としている蓼丸サンと、そしてわけわかんなくなっている俺と、場違いなイケメンだけが居た。ただ、部屋の床は髪の毛で埋もれていた。それはもう、足の踏み場なんて無いほどに。 「ひっ……ぃぃいいあああ……なになにこれうそでしょばかぁ……っ!」  暗闇と音の恐怖からは立ち直れたらしいフユちゃんだけど、今度は纏わりつく髪の毛にビビってしまって泣きそうになっていた。あわててベッドの上に飛び乗っている。  蓼丸サンも、あーあーなんて言いながらベッドの上に避難している。俺もそっちに行きたいのは山々だけど、さっきぶっかけられた液体――これ、酒だな。酒のせいでシーツの上に行くのをためらった。そんな事言ったらフユちゃんにもかかってる気がするけども。  腰が抜けそうな俺の前にかがみこんで、くろゆりさんが珍しく真剣な顔で首を傾げる。頬に添えられた手が冷たくてきもちいい。あ、黒い手袋してないからだ、と気がついて、よくよく見てみればいつもの黒い服じゃないことにも気がついた。  寝巻なんだろうか。ごく普通のロングティーシャツがやたら不思議に映る。いつもいつも狂ったように同じ黒いシャツだからだろう。 「春日くん、平気ですか? 僕が誰だかわかりますよね?」 「…………くろゆり、さん、なにあれマジカヨ馬鹿全然大丈夫じゃないじゃん馬鹿死ね遅い死ぬかと思った泣くかと思っ、馬鹿……ッ!」 「うん。ごめんなさい。まさか、全部春日くんのところに行ってしまうとは思いませんでした。僕が一緒に居ようか迷ったんですが、逆に迷惑をかけてしまうかと思いまして……すいません。深呼吸できますか?」  吸って吐いて、と言われて、言われるがままに吸う。酒の匂いが強い。さっきまで俺も飲んでいたけれど、甘ったるい梅酒と、本格的な日本酒ではもう匂いも全然違った。  噎せそうになって、涙がにじむ。今更鳥肌が立つ。安心したのか何なのか、急にぼろりと涙が零れて、ついでに吐きそうになって前かがみになったら、くろゆりさんに上を向かされた。  あ、と思う前にちゅーされた。  息が、ふう、と吹き込んでくる。舌が絡むと落ち着いて、ぎゅっと抱きしめられてそのまま縋った。 「……ん、……ぅ……」 「……春日くん、落ち着いた?」 「…………………………落ち着いた、……ここが、蓼丸サンちだって思い出すくらいには落ち着いた死にたい……」 「まあ、緊急事態ですから、後でどうにでもご説明してください。僕としては間に合ってよかったですし、僕程度でも対抗できるモノで良かったという気持ちで柄にもなく安心してしまって少し膝が笑っています」  髪の毛片づけないとですね、とほほ笑むくろゆりさんは本当にいつも通りで、俺も力が抜けてもうどうにでもなれと思ってしなだれかかってしまった。  めっちゃ後ろから視線を感じる。フユちゃんと蓼丸サンの視線を感じる。でも生きてる人間の視線なんて、さっきの恐怖に比べたら些細なもんだ。  くろゆりさんがわりと俺の事大切にしてくれててホント良かった。  まあ、そもそも出会わなきゃこんな恐怖に付き合わされることなんてなかったんだけど。そこはとりあえず目をつぶることにして、どうしよう抱きついたこの手離すタイミングがマジ無いんだけどどうしよう、と、徐々にあっつくなる体温を感じつつ途方にくれた。

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