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おしぼのさま 01

   一章 杜環 「ねえ、霊感あるってほんと?」  ふと耳に入った言葉は僕に向けられたものではなかった。  雑多な会話が入り乱れる中、どうしてその声を拾ってしまったのかはわからない。暇つぶしにと手渡された雑誌を眺めつつも、ここ数日の寝不足の原因をぼんやりと探っていたせいかもしれない。  部屋の角に置かれた椅子に腰掛けた僕は、誰にも気がつかれないように、そっと顔を上げて周りを窺う。  重い前髪の隙間から見える部屋は広い。会議室程度の広さだろうか。勤め人の経験がない僕にはわからないので、高校や中学の特別教室程度ではないか、としか表現できない。しかし室内はオフィスや教室よりも乱雑で、色と匂いと人間で溢れていた。  某スタジオの控え室である。控え室と言ってもそこはメイクルームも兼ねているようで、大きな鏡が備え付けられ、メイク道具と思しき小瓶やら刷毛やらが、あちこちに散乱している。飛び交う会話も、化粧を施されている人間もみな派手だ。  僕とは、縁がない場所だった。  その分色々と物珍しく、取材気分で散策をしたいところであったが、ふらりと歩くには人が多すぎて断念した。業界の人間でもない僕がうろうろと徘徊しても邪魔になるだけだろう。だからと言って女性が化粧をしている様を眺めているのも申し訳ないのだが、彼女達は慣れているのか、それとも部屋の隅に居る僕の事など眼中にないのか、特に邪険にされることもないので大人しく座っている事にした。  僕がメディアにもよく顔を出す大御所作家だったなら、サイン攻めにあっていたんだろうか。などと考えるのは虚しいだけなので、大人しく、見本として渡された女性誌をぱらぱらとめくっていたところだった。 「いや、ないよ。ないない。たぶん、ない」 「ええー。だって、なんかすっごい心霊体験したんでしょ? ちょっと相談に乗ってよぉ、うち今家鳴り? ラップ音? スゴくってさァ。これって先祖霊の祟り?」 「だから、ぼくは霊感なんてないって言ってるでしょ」  続いて聞こえた会話の主は、入り口付近の鏡前の男女のようだ。女性はタレントかモデルらしく、椅子に座り口だけを動かしている。対して男性の方は細やかに動き回り、彼女の顔を彩っている途中だった。  女性は今風の美人だったが、そんなことよりも男性の奇抜な外見に目が行ってしまう。地味が服を着ているような僕とはまさに正反対ともいえる。  髪の毛は黒で、所々金色が混じり、後頭部で多少括っているくらいには長髪だ。鏡に映る顔は端正だ。けれど、耳と眉に開いたピアスが、整った顔のイメージを完全に壊している。  見るからにアンダーグラウンド系の人だ。メイクアップアーティストやヘアアーティストは奇抜で独特な人が多い、という僕の偏見をそのまま具体的に三次元化したとしか思えない。  そんな彼は、表情を変えることなく、淡々と静かな声で女性に応じていた。 「ぼくは霊感ないけどね、ぼくの友達の彼氏さんがそっち関係の本職さんだよ。あんまり交流はないけど、本気で悩んでるなら相談してみる? 紹介で料金安くなったりするほど、親しくないけど」 「えーお金取るのぉ?」 「とるでしょ、そりゃ、お仕事なんだもの。ぼくだって自分で出来る人にはお化粧したりしません。お仕事としてお願いしてもらったから、こうしてはるばる来てるわけです。技術のおこぼれをもらうにはお金がかかるもんなの。幽霊退治だって一緒でしょ? はい、上向いて」 「じゃあタデちゃん修行して幽霊退治能力取得してよ~」 「無茶言ってるとほっぺたにらくがきしちゃうよ」  タデちゃんと呼ばれた男性の、抑揚のない軽口にも慣れたものなのか、女性は軽快な笑い声を上げた。甲高い女性の声と対照的な、ぼそぼそと平坦な男性の声が印象に残る。  本格的に彼らに意識を傾け始めた頃合いで、控室の入り口が派手な音を立てて開いた。 「ごめん、杜環君、待たせた!」  自分の名前に反応して顔を上げると、息を切らせて駆け込んできたスーツの女性が、目の前の椅子に腰かけた所だった。  メイク中の他人の話から頭を切り替え、なけなしの余所行きの笑顔をどうにか絞りだす。笑う事が苦手というわけではないけれど、笑うべきところで笑う行為は、少しだけ僕には難しい。 「いやぁ、もう、機材トラブルばっかりで全然進まなくって、結局抜けてきちゃったよ。こんなところまで来てもらったのに放置しちゃってごめんねー……」 「いえ、普段御縁がない場所で、雰囲気を味わえて楽しかったです」 「あら。杜環先生の新作インスピレーション沸いちゃった?」 「え……げ、芸能界モノは、ちょっと、ハードルが……あ、雑誌も拝見しました、どうもありがとうございます。僕の記事が載るなんて想像がつかないような感じなんですが、ほんとに大丈夫でしょうか」  社交辞令でも謙遜でも何でもなく、心底不安で、それをそのままなるべくストレートに伝えてみたのだが、雑誌編集者はけらけらと笑うばかりだった。  この、どう見ても出来る女という面持ちの加賀見女史と僕の縁は、深いのか軽いのかよくわからない。懇意にしている、と表現することにしているが、彼女の今の仕事は働く世代の女性に向けたファッション誌の担当で、現代文学に青春小説とミステリを混ぜたようなよくわらかない作風の作家とは仕事が被る筈もない。  それでも時折声を掛けてもらえるのは、彼女の古巣が僕の現在お世話になっている出版社である牡丹籠社である事と、共通の友人がいる事が理由だろう。  まさか、女性誌に写真付きのインタビューとエッセイを、なんて依頼を受けるとは思ってもみなかったが。  大ヒットもなく地味に作品を出し続けている若手作家としては、広告になるのならば自分の顔でもありがたいとは思う。思うが、どうも人前は苦手だ。これは性分の様なもので、今更どうにもならない。  泣く程売れないわけではない。だが、売れているわけでもない。そんな生活するのもぎりぎりという状態では、やはり地道なエッセイや連載の原稿料も馬鹿にできない。崇高に作品だけ書いて居れば良い、と言い切れる程世の中は甘くは無い。というより、僕に実力と運がない。  売れるものは売ったらいいではないか。大した顔でもない。もったいぶって覆面作家を気取っているわけではないし、どうせ僕の読者層は女性向けファッション雑誌などチェックしないだろう。一部の女性読者が偶然目にする程度に違いない。  言い訳のようにそう言い聞かせるのは、媒体が何にしろ顔を晒したくないという本心が根強く残っているからだろう。  加賀見女史からの依頼の電話に渋々ながら承諾し、とりあえず会って打ち合わせをと日取りを決めたのは先週の事だった。本来は喫茶店で落ち合う筈だったが、どうしても変更できない予定が彼女の方に入ってしまった。僕としては特別な用事もない毎日なので、日付を遅らせても困らなかったし、彼女の予定に合わせて動いても問題は無い。結局、また改めて時間を設けるよりも、加賀見女史の仕事場に直接伺ってさっさと用件を済ませてしまおう、という話で落ちついた。  タレントの撮影の立ち会いから抜けてきた加賀見女史は、乱雑な控室の机の上の荷物をざっくりと端に寄せると、テキパキと連載と撮影の算段を決めて行った。僕はただ頷いて返事をするだけの機械のようなものだ。 「それじゃあ撮影は再来週……ねえ杜環君、それまでに美容院行ってきてね。これ絶対だからね。他人の趣味嗜好に口出しはしないけど、別に髪型こだわってるわけでもないんでしょ? じゃあそのもっさりした前髪どうにかしちゃおうよ。背格好は最高なんだし、若いんだし、顔も悪くないじゃん。ね、顔出してこ?」  そんな風に軽く言われても、僕は苦笑するしかない。モノ書きの割に口下手な僕は、美容院や床屋の雰囲気も苦手だった。 「ええと、時間を見つけられたら行きます、けど……いや、本当は今日の午前中行こうかなと思っていたんです。本当です。でも、そのー……那津忌さんのお見舞いに行っていたもので……」  話題を逸らそうと思ったわけではないが、流れで共通の友人の名前を出すと、女史の顔色がさっと曇った。多忙な彼女は、病院に行く暇も無い筈だ。  那津忌が自殺未遂をして緊急搬送された、という連絡が僕の所に来たのは、昨日の深夜の事だった。  彼の故郷は四国で、両親は健在だが身体が不自由だと聞いた。病院に駆け付けたのは那津忌の懇意にしている担当編集者だった。編集者がすぐに僕に連絡を取ったのは、那津忌の新作のアドバイザーに、僕こと杜環という作家が関わっている事を聞いていたからだろう。他に彼と親しい人物は居なかったのかもしれない。  那津忌幸彦はホラーミステリーを得意とする怪異作家だ。有名かどうかで言えば、僕も那津忌も大して変わらないだろう。要するに二人とも売れてはいない。その上ジャンルも別物であった為、僕達の共通点などはあってないようなものだ。  那津忌は三十二歳だった筈だ。僕よりも五つ年上になる。出身地も違えば、出入りしている出版社も違う。ただ、時折開かれる文字書きの会合や飲み会に無理矢理連れられ顔を出した際に、なんとなく意気投合し連絡先を交換し、それからたまに時間と気分が合えば雑談や気分転換を共にするような仲になった。  時折その会に加賀見女史も参加したが、彼女がどういう経緯で僕達に合流するようになったのかはあまり覚えていない。那津忌経由で紹介されたような気がする。那津忌と加賀見女史には二人だけの何かしらの関係があったのかもしれないが、二人ともそんな雰囲気を感じさせないさっぱりとした人間だったので、僕は気がつかないふりをして友人関係を優先させた。  那津忌は少々気難しい人間で、僕以上に友人が少ないという話をよくしていた。確かに彼は趣味嗜好が偏っており、思考主張も少々強めだ。時代が時代なら、それこそ投獄も免れないのではないかと思う程の力強さで政治や世の中を批判する事も多々あった。  ただし過激さはあれどほとんどが正論だった為、僕は苦笑いで諌めつつも頷く事が多い。自分の意見をはっきりと主張するのが苦手な僕にとって、那津忌との会話は非常に刺激を受けるものだった。  彼に特定の友人が少なかったのは、連絡がとりにくいという点もあったかもしれない。那津忌はよく趣味と実益を兼ねた民俗学的取材で、ふらりと消息を絶つことがあった。僕は筆不精で出不精な方だったので、そんな那津忌はむしろ思いだした頃に気晴らしに付き合ってくれる良い友人だと思っていたが、連絡しても繋がらない人間は嫌だと愛想をつかされても仕方ないだろう。  そんな彼に、執筆を手伝ってもらえないかという依頼を受けたのはいつの事だっただろうか。夏の終わりごろだった、かもしれない。  ジャンルが全く違う僕に、彼の書くおどろおどろしい怪奇小説のアドバイスなど出来る筈もない。ライトなミステリーならば多少齧ってはいるが、ホラーは媒体が何にしろすべからく苦手だった。趣味の悪い冗談だと思って笑って流そうとしたが、那津忌は本気で僕に助言を求めていた。  構想はある。書き切る自信もある。けれど今回の話は少し、恋愛小説的な描写が必要になる。それのアドバイスを、杜環にしてほしい。  相変わらずの真摯な言葉で熱心に口説かれ、感想を言うくらいでいいなら、と助言の仕事を承諾した。僕は本当に助言程の気持ちだったが、彼は担当編集者に杜環がアドバイザーになると報告までしていたことを、奇しくも那津忌の緊急搬送の連絡で知ることとなった。 「ナツ君、大丈夫なの?」  僕や那津忌よりも年上の加賀見女史は、那津忌の事も気軽に愛称で呼ぶ。快活な彼女が笑顔を消すと、急に老けたように感じる。 「命に別状はないそうです。僕が行った時には寝ていましたが、意識も一応あるそうで……幸いにも、というべきではないんでしょうけど、頚部の圧迫や頭部への損傷は無いので、脳への影響はほとんどないようです」 「麻痺や不随の心配は無いってことか。でも、なんでまた、足なんか切ったわけ? 普通自殺って言ったら、手首でしょうに」 「それは、本人ではないのでなんとも……遺書らしきものも、あるにはあったらしいんですが、流石にそこまで僕は拝見していないんです」 「……悩んでいるようなそぶり、あったかな。私最近新しい雑誌の担当になっちゃって、全然連絡取れて無かったんだよね……言い訳みたいだけど、飲みにすら行っていないし」 「御多忙ですから、仕方ないですよ。僕も彼の原稿を受け取ってはいましたが、それに関する連絡も滞っていましたから。いえ、あの、僕は相変わらず暇を持て余しているんですが、那津忌さんの方が少し、多忙そうで。連絡をしても返事が来ない状態でしたよ」 「あ、杜環君もそうだったの? 私も、ちょっと空いた時間に声でも聞いてやろうかなって思った時が、何度かあったんだけど。全然繋がらなくてさ。こりゃもしかして愛想つかされたか、若い女の子でも捕まえたのかなぁなんて思ってた所だったんだよね。……自殺する程、何かに追い詰められてたなんて、わかんなかったなぁ……」  どうして気がついてあげられなかったのだろう。そう、女史は重い息と共に吐き出すが、僕はうまい言葉が見つからずにただ黙ることしかできなかった。  全くもって同じ気持ちだ、と言いたい所だが、実は他に思う事もあった。  彼女には話していない。話さないと決めている。アレが、どの程度の範囲で影響を及ぼすのか――……いや、アレが原因であるのかわからないが、何にしても無駄に他人を巻き込む事もない。  押し黙ってしまった僕を女史は気づかい、あえて笑顔で那津忌が退院したら飲みに行こうと明るく締めくくった。  勿論、友人が自殺未遂をした事実に打ちのめされてはいるし、慣れない病院の空気に疲れてしまったのは事実だ。しかしそれ以上に僕を悩ませているモノがあることに、彼女は気付かずにいてくれた。  重い話題は終わりだとばかりに、それから加賀見女史はさくさくと予定を決めた。電話でも良かったのではないかと言う程、僕が口を挟む暇がない。最後に軽口程度にその事を洩らすと、たまには杜環君に会いたいと思ったんだよと笑われてしまった。彼女の僕に対する愛情は確実に友情止まりである事を知っていたので、こちらも気負わずに有り難くその言葉を受け取った。  乱雑な控室での打ち合わせは一時間もせずに終わった。時間が押しているらしい女史は、慌ただしく次の予定の為に退席し、残された僕は一応見学がてらスタジオ内を一周しようかな、と隅の椅子から立った――ところで、こちらを見つめる視線とかちあった。  あの、派手な外見の男性だった。  化粧は終わったのか、すでに女性の姿はない。彼も帰る支度をしている最中らしく、黒いバッグに荷物を詰め込んでいる途中だった。  じっと見つめられていたわけではない。ふいに、二人の視線が交わったという雰囲気だ。  思わず、少しだけ息を飲む。気がつけば他に、控室に人は居ない。いつの間に二人きりになってしまったのだろう。  特別知り合いでもないが、会釈をしてその場を立ち去るのが無難だろう、と判断して軽く頭を下げると、彼も表情を動かさずにひょこっと頭を下げた。……無表情が、少し、怖い。奇麗な顔をしているので、妙な迫力がある。  彼の横を通り過ぎようとした時、唐突に腕を引かれて僕は驚きすぎて変な声を出してしまいそうだった。あからさまに動揺した僕に、タデさんと呼ばれていた彼は、相変わらずの無表情でだらりと言葉を零す。 「ああ、ごめんなさい、ええと……あのね、すいません、ちょっと気になるというか。お節介かもしれないんだけど」 「はい?」 「…………左足。付け根のあたり。ちょっと、気をつけた方がいいかなって、思って」  ざあ、っと、全身の血が引いたような感覚がした。  那津忌が自殺未遂の為に切ったのは、左足の付け根だった。その話を僕は加賀見女史にしていない。女史は足を切ったとしか聞いていない筈だ。彼が僕達の話に聞き耳を立てていたとしても、この事実を知る筈がない。  固まるように黙り込む僕に、男性は思い直したかのように少し柔らかい声を出した。僕が不審に思った故に黙ったと勘違いをしたらしい。 「あー、これぼくちょっと電波かな、怪しいですね、やっぱり忘れてください」 「あの、僕の、足に、何か見えたり……とか?」 「いやはっきりとどうって感じじゃないんですけど。ぼく、ちょっとよくない感じに知り合いが増えてて、変な風に第六感みたいなの、移ってきてる気がしてて。あーいや、この説明も怪しいかな。怪しいついでになんですけど、もし何か心当たりあったりするなら、本業の人に相談とかもできるんで。ここで会ったのも、多分、縁だし……だめだ、どう言っても怪しいなぁ……」  やっぱり忘れてくださいと言う彼を見つめ、僕が口を開くまで、僕の心臓は煩い程に鳴っていた。恐怖と緊張で、手が冷たくなる。指先が痺れるような悪寒を振り払うように、意を決して言葉を選んだ。 「あの………」 「はい」 「――呪いの日記、というものを、信じますか?」  それが、この一連の騒動の明確な発端であり、蓼丸という人物と縁を持った初めての機会だった。

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