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おしぼのさま 03

   三章 杜環  作家には少なからず馴染みの喫茶店というものが存在する。  別にお洒落を気取っている訳ではない。担当編集者と打ちあわせをする際、どうしても椅子と机と珈琲と、数時間それを占領していても文句を言われない空間が必要になる。  ファミレスだと煩すぎる。僕は特に外出が得意ではない。さりとて家に人を招くのも苦手で、結局、散歩程度の距離にある老舗の喫茶店に入り浸る事が多くなった。  最近は特に、毎日のように家を出て喫茶店に顔を出す。普段構想やプロットを練る時に少々活用する事はあっても、連日入り浸ることは無かったので、顔見知りのマスターは『暖房器具でも壊れたのか』と笑った程だった。  それに対して僕は曖昧に苦笑いを返すことしかできない。ええ、まあ、ちょっと最近隣の家の子供が良く泣くもので、などと勝手に架空の隣人に罪を着せてしまった。右隣は若い夫婦で子供はいないし、左隣は空き家だったが、マスターに僕の嘘がばれる事はないだろう。  寝不足でふらふらとする頭をどうにか支え、頭痛を珈琲で誤魔化して身支度を整えてきた。普段はあまり気にしないが、今日は人に会うので一応鏡を覗きこんだ。鏡の中には虚ろな目をして疲れ切った男が映っていた。  まるで原稿の締め切り明けのような顔だ。基本的には締め切りを過ぎる事無く提出しているが、早めの原稿締め切りに間に合わせる為に、早めに修羅場を迎えているだけだ。結局、徹夜は僕の身体を苛む訳なので、健康的とは程遠い。  急ぎの原稿は無いのに、僕がこんなにも疲れきっている原因は、単純に言ってしまえば寝不足だった。  夜、眠れない。  出勤する必要もないので、夜眠れないのならば日中寝れば良いのだが、昼ごろまで惰眠をむさぼってしまうと、その日の夜の眠気がどんどんと遠のいてしまう。  同居人は居ない。両親は健在だが北海道の実家で暮らしている。僕が生活している一軒家は伯父から譲り受けたもので、伯父は今海外にいた。そんなわけで例え僕の昼夜が完全に逆転しても、誰にも迷惑を掛けないわけだが。  どうしても、夜、起きていたくない。  その要因を今日、初めて他人に打ち明ける。そう思うと自然と足は重くなり、馴染みの喫茶店の扉も、酷く重いものに感じた。  からん、と鳴る喫茶店のベルにすらびくついてしまう。店に入るという行為が苦手だ。誰も気にはしていないと分かっていても、その空間に入る瞬間、視線が突き刺さるような気分になる。自意識過剰も良いところだろう。僕のような特徴のない男が、他人の注目を浴びることはほとんどない。一瞥されることはあっても、すぐに記憶から流れ落ちてしまうことだろう。  しかし、今日待ち合わせている人物は、確実にほとんどの人間の記憶に残ると思う。  時間より三十分早めに店に入った僕は、気分を落ちつけるためにフレーバーティーを頼んだ。ここのところ珈琲の飲み過ぎで、胃が荒れている自覚があった。  カモミールの香りを吸い込んでもリラックスはできないが、多少は気分が落ちついてくる。時間をかけて頭の中を整理している間に、いつの間にか約束の時間の十分前になった。  からん、と軽快にドアベルが鳴った。思わず顔を上げた僕の視線の先に、記憶にあるままの奇抜な外見の男性が見えた。すぐに僕に気がついた彼は、喫茶店の主に小さく会釈をするとまっすぐに僕の座る窓際の席まで歩いた。 「こんにちは。……寒くて、少し早足になったみたいで、結構早く着いちゃったと思ったんだけど。もしかしてお待たせした?」  流れるような軽やかさで僕の向かいの席に腰をおろした彼は、今日は髪の毛を全て後ろで括り、前髪をだらりと片方に流していた。ピアスの数は相変わらずだ。よく見れば、唇にも穴が見える。黒を基調とした私服は、何系というのだろう。  ファッションに疎い僕は後々様々な雑誌を立ち読みし、彼のファッションがモード系に近い、というくらいの認識を得る事ができたが、自分では到底真似できないと思った。僕が着たら、それこそ笑いものにしかならないだろう。 「いえ、僕はかなり早めに出てきたので、どうぞお気になさらずに」  蓼丸、と自己紹介された彼の本名を僕は知らない。けれど僕も杜環というペンネームしか名乗っていないのだから、大差ないことだ。必要なのは名前でも素性でもなく、彼が信頼に足りる人物かどうかということだ。  蓼丸さんは珈琲を注文すると、ゆるく息を吸って長く吐いた。 「いいところだね。さっぱりした匂いがするお店だ。静かだし、作家さんはこういうところで構想練ってたりしそう。あ、今日はわざわざ時間を割いてもらって、ありがとう。あんな、怪しい声かけしたのにちゃんと本気にしてもらえてよかったというか、うん」  怪しくてほんとごめんね、と首を傾げるが表情は相変わらずあまり変わらない。なんとなく無表情が怖いのだが、言葉はとても柔らかいので嫌われているということはないのだろう、と思う。多分、この人はあまり表情が変わらない人なのだ。  蓼丸さんは、不思議な一定のテンションで言葉を紡ぐ人だった。声が低い訳ではないのだけれど、抑揚があまりないせいでとてもローテンションに聞こえる。見た目が派手なだけに、そのギャップはとても不思議だった。  僕の用件に付き合っていただいているのに何故か蓼丸さんに礼を言われた事に気が付き、慌ててとんでもないと頭を下げる。 「いえ、本当に、僕こそご足労いただいてしまって……蓼丸さんのご予定は大丈夫だったでしょうか」 「うん。平気です。今週は夜しか仕事入れてないし、今日はお休みなので。早速本題に……とは思うけど、ちょっと珈琲飲んで落ちついてもいいかな。なんかこう、緊張しながらお互いに話をするのも、疲れちゃうだろうし」  その意見には僕も大いに賛成だった。昼間の時間ならいくらでもある。  僕の用件はかいつまんでも三十分もあれば話し終わってしまうだろうし、まだ昼を過ぎた程の時間だ。一度話す決意を固めたとはいえ、いきなり切り出すにはやはり勇気がいる。  運ばれてきた珈琲を一口飲みこんだ蓼丸さんは、特に気負った様子もなく、思い出したように声を出した。 「あ。そう言えば、なんか聞き覚えあるなと思って本棚漁ったら、杜環くんの御本、ぼくの家にありました」 「え、は?」 「いや、すぐにわからなくて申し訳なかったな。そっか杜環くん、『逆さまと貝の木』の人か。字面で覚えているから、トワって聞いてすぐにわからなかったんだよね。あ、御本持ってきたんで暇なタイミングでサインしてください」 「いや、いやいや、あの、ええと、サインだなんて、とんでもない……!」 「え、ダメ?」 「だめ、じゃないです、けれどっ!」  急に自作品の話を振られ、しかも読まれていた事実が受け止められずに前が見れなくなってしまう。顔を覆う手が熱い。頬も熱い。お世辞や社交辞令かもしれないのに、こんな風に動揺してしまうから本当に僕は自意識過剰すぎる。  でも嬉しいし恥ずかしい。引きこもりで売れない作家は、ファンレターを貰うことすら稀で、読者の方と触れ合う機会なんてほとんど無い。  数少ない友人は新作が出る度に目を通して感想を言ってくれるが、友人からの言葉は読者の感想とはまた別口だと思っている節がある。もちろん、嬉しいのだけれど。ああでも、どうしたらいいのだろう僕は今色々な事を全て忘れてしまう程に舞い上がっていた。 「……すいません、普段、本当にただひたすらに書いているって感じなので、あんまり読者さんに会う事も無くて」 「あー。文芸の作家さんって、そういえばあんまり表に出ないイメージあるかなぁ。個人的には嬉しい御縁だとは思うけど、理由が不気味な現象っていうのは、杜環くんの心身にはよろしくないよね。さっさと片付けて、ゆっくりと御本の感想を語るのも有りかもしれないな、っていう気分になって来た」  それはそれで僕の精神を削りそうだが、たしかに魅惑的な提案だった。まだ会って一時間にも満たないが、僕はこの蓼丸という人物に好感を持ち始めていた。決して作品の好意的な読者であるから、という理由ではないとは言い切れないが、彼の淡々としているわりに柔らかい声が耳に心地よい事に気がついたからだ。  馴染みの喫茶店で、読者から直に感想を貰うだなんて夢のようだ。ただ、その夢のような時間の前には、こなさなければいけない事がある。  今、僕の家に何が起こっているのか。そしてそれは、何がきっかけであると考えられるのか。それを説明する為に、僕は覚悟を決め、気分を少しでも落ちつける為に紅茶を一口飲んだ。  蓼丸さんは、すでに聞く体勢になっている。あとは、僕が言葉を探すだけだ。 「はじまりは、この間簡単にご説明したとおり、那津忌幸彦から預かった原稿でした」 「那津忌幸彦氏の作品は読んだ事は無いけど、ちょっと調べたよ。村とか祟りとか、なんていうかそういうある意味正統派な猟奇殺人ミステリーと怪奇談と融合させた、ホラーともいえるような作風、みたいな印象だったかな」 「はい、全くその通りだと思います。今回僕は、彼の新作の一部をいち早く読み、相談に乗るというような立場でこの原稿を受け取りました」  それは、日記形式の原稿だった。  まずは最初のページに、那津忌自身の前書きの様なものが差し込まれていた。注意書き、と言ってもいいかもしれない。それは以下のような文章だった。  様々な怪異を求め、時には山奥の集落に辿りつく事もある。これは、そんな集落の一つで、私が実際に手にした日記から構想を得た物語だ。体験談であると言っても過言ではない。  これを読んだ読者が、どういう結末を導き出すのか。一種の実験小説のようなものであると私は考えている。本書は二部構成になっている。まずは某村から私が持ち帰った古い帳面の文章を全文記す事にする。  尚、帳面の文字は一部方言や読みにくい文字があった為、そちらは私の独断で読者が理解しやすいようにある程度書きなおしている部分があることを明記しておく。また同じ理由で平仮名に漢字をあてている場面が多々あるが、内容に関してはほとんどそのままである。  この文章から、那津忌の原稿は始まる。これは那津忌がよく用いる手法で、メタ的作風を演出する為に書き添えられることが多かった。ただ、一連の不可思議な現象を体験している僕としては、もしかしてこの序文は本当なのではないか――つまり、これは那津忌の創作ではなく、実際にこの帳面というものは存在していたのではないか、と勘繰るようになった。  原稿は書きかけだった。これで帳面のパートは終わったのか、それともまだ続きがあるのか、それすらわからない。那津忌からこの原稿が届いたのは一カ月前の事で、丁度その時僕は長編小説の締め切りを抱えていた。  寝る間も惜しんで作業をする中、那津忌の原稿をすぐ読むことはできなかった。本人にも、原稿に目を通すのは一週間後くらいになる、と伝え了解を得ていた。その言葉通り、僕が全てのページに目を通したのは二十日程前になる。  目を通し終わった時、僕は何とも言えぬもやもやを抱えた。内容は貧しい村の女中らしき少女の日記のようだった。その文章は奇妙に拙く、彼女の目にしている世界はいびつで、恐ろしい。少女は少し言葉が足らない印象がある。それがまた不気味で、それ故に奉公先の青年への真摯な恋愛感情を引きたてるような印象も受けた。一言で表すならば、報われない身分差の恋の話だろう。  しかし、内容よりも僕が気になったのは、少女の日記が唐突に終わっている事だ。特に説明もなく、中途半端に原稿は途切れる。  恐らく作品としてまだ完成はされていないのだろう。途中まで書いたがこれでいいのかと僕に確認を取る気持ちだったのではないか、と自分に言い聞かせ、とりあえず那津忌に目を通した旨の連絡を入れた。  電話をしたが出ないので、仕方なくメールを入れた。しかし、それに対する返事は無く、訝しんでいた所に、那津忌の自殺未遂の連絡が来た。  それだけならば僕は、こんなにも気味の悪い悪寒に襲われたりはしない。  異変は、那津忌が自ら足を切る、その十日ほど前に遡る。 「僕は幸いにも一軒家で暮らしていまして、周りも閑静な住宅街です。昼間はそれなりに子供や主婦の声が響く場所ですが、夜になるとすっかり静かになる。若者も居なければ、コンビニなども遠く離れている。不便と言えば不便ですが、創作活動には適している場所です。夜に物音がするのは、朝方の新聞配達のバイクの音がせいぜい、という毎日なんです」  しかし、その日の夜、十二時を過ぎたころだった。  書きかけの原稿を一度保存し、就寝の為に寝室に暖房を入れようと席を立った。僕の家は小さいながらも二階建てだ。部屋数は少ないが、それでも一人で住むには十分な広さである。  仕事部屋は一階の角部屋だったが、寝室は二階だった。ひんやりと冷えた廊下に出て、寒さに震えながら階段を上がろうとしたところで、妙な物音を聞いた。  何かを引きずっているような音がした。  ずる……ずる……と、布が地面を擦るような音だ。  最初は聞き間違えだと思った。確認した時計は深夜の零時過ぎだ。こんな時間に帰宅するような人間は近所に居なかったし、ちょっとコンビニへ、というような道でもないが、人気のない山中というわけでもないし、何かしらの用事で外に出る人間は居ないとも限らない。  一瞬息を呑んだが、そう考えなおすと幾分か楽になった。が、しかし、暫くしてその何かを引きずる音が、まったく遠ざからない事に気がついた。  ずる……、たん、ずる……、たん、と、引きずるような音の間に軽い足音が混じる事にも気がついた。  ああ、これは、足を引きずっているのだ。片足を引きずり、もう一方の足に無理に合わせようとしてこんなおかしな足音になっている。そしてそれは、おそらく、いや確実に、この家の周りをぐるぐると回っている……そう気がついた時に、全身に鳥肌が立った。  ぶわり、と首筋まで一気に駆け抜けた鳥肌の次に、心臓の音が耳まで響く。どくどくと打つ鼓動が、息まで乱す。  それが例え生きている人間であっても、狂っていることに違いない。しかも僕はまだその時一階に居た。壁一枚隔てた向こうに居る何かの気配を、濃厚に感じた。  足を止めて、息を忍ばせてからしまったと後悔した。何も気がつかないふりをして二階まで行くべきだった。止まってしまった足を、動かすタイミングが全く分からず、暗い廊下で立ち止まったままになる。  ずる……、たん、ずる……、たん、ずる……。  音は一定間隔に遠ざかり、そしてまた壁の向こうに現れる。周回している。その事実は、あまりにも恐ろしすぎた。  どのくらいそこに立っていただろう。寒さで足の感覚が無くなる頃、流石にこのままではいけないと冷静になった。  音にならないように息を吸う。ゆっくりと静かに吐き出す。そうしていると次第に、理性が戻ってくる。少し頭のおかしい浮浪者か酔っぱらいが、ただ徘徊しているだけに違いない。窓はきちんと施錠してある。どこからも侵入される筈がない。まさか窓ガラスをたたき割ってくる事もないだろう。  何も恐れる事は無い。僕はただ、書斎の電気を消し、寝室に上がって布団の中に入るだけでいい。頭ではそう思っているのだが、ついぞ書斎に戻る勇気はなく、結局暗闇の中寝室まで駆け上がり、仕事部屋の明かりを煌々と付けたまま布団の中で目を閉じた。  二階に上がってしまうと、急に徘徊する音が遠のいた気がした。もしかしたら幻聴か、何かの聞き間違いだったのかもしれない。そう思いながら気がつけば寝入ってしまった。  日が昇ると人間は急に心が強くなる。目を覚ました僕はすっかり昨夜の事を幻聴だと決めつけていた。その日の夜、零時過ぎに、またあの片足を引きずる音を聞くまでは――……。 「その音は、今も毎日聞こえる?」  僕の話をじっと聞いていた蓼丸さんは、特別疑っている様子も、だからと言って恐怖しているような気配もない。 「はい。昨日も、零時過ぎに、同じように聞こえました。しかも、その……僕の、思い違いでなければ、段々と周回する速度が、早くなっているような気がして。最近は、壁を叩くような音も混じるようになって、それがどうにも、何かを、探しているような気がしてならないんです」 「何か、っていうか、あー……やっぱり、誰か、かな?」  そうだ、きっとアレは、僕を探している。そう確信したのは、ここ数日、書斎の壁を叩く音がしたあと、引きずる足音がそこで立ち止まる事が多くなったからだ。  早く寝てしまえばいいと思うのに、早くに布団に入っても、零時前になると、はたと目が覚めてしまう。今では二階に居ても、家の周りを回る音が聞こえてくるようになった。 「外を確認したことはありません。だから、本当はそこに何がいるのか、僕にはわからない。何も居ないのかもしれないし、本当にただ、頭のおかしい人間が徘徊してるだけなのかもしれない。でも確かめる勇気は、もう無いです」 「外泊しても、無駄なのかな?」 「試して無いです。僕はあまり友人が多い方でもないし、ホテルよりは自宅の方がまだ、安心というか……実際、何かを見たとかされたとか、そういうことはまだ、無いですし。でも、いい加減睡眠不足で、最近は食欲も失せてきてしまって。もし、これが人間以外の何かの影響なら、専門的な方に相談した方がいいのかな、と思ってきています」 「うん。ぼくも、ぜひ連れてきたかったんだけど、ちょっと当人が遠出する予定で難しかったんだよね。ただ、帰って来てから真っ先に見てくれるそうです。それまではどうにかこれでって、お札と簡単なおまじないを教えてもらったから、ええと、とりあえずちょっと落ちついたら、家に行ってみようかな」 「……蓼丸さん、僕の話を信じてくださるんですね」 「え? あー、うん。だって、相当参ってるの見てればわかるし、ぼくも若干信じられないような経験をしたことがあるので。信じるよ。あとぼく、あんまり顔に出ないタイプだから普段通りに見えるかもしれないけど、結構いまビビってはいるからね? やだよ、家の周りを這いまわる何かとか。最高に嫌だ」  それでも、全然関係もない僕の為に知り合いの霊能者に話をつけてくれたこの人は、見た目を裏切る良い人なんだな、と感じた。  ピアスは何個空いているのか数えられない程だし。ちらりと見えた舌にまでピアスが見えた気がするけれど。  人は見た目じゃない、なんていう道徳の標語みたいな事を、この時の僕は実感していた。

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