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おしぼのさま 05

   五章 杜環  家の中は、まだ日が暮れても居ないというのに、うっすらと暗く冷たかった。  普段意識しないような物影が、酷く暗く感じる。この家は、こんなに陽が射さない作りだっただろうか――。そんな風に考えてしまうのは、深夜の怪異のせいだろう。  喫茶店を出た僕と蓼丸さんは、寄り道もせずにまっすぐ僕の家に向かった。自宅とはいえ、不気味な現象が毎晩起こる場所に帰るのは、どうも気が進まない。どうにか恐怖を押さえる事が出来たのは恐らく、怖いと言う割に淡々としている蓼丸さんのお陰だろう。  表情が読みにくいので、友人としては付き合い辛いような気がするが、現状ではとても頼りになる。不安が前面に出ている僕はただの情けない男でしかないが、ポーカーフェイスの蓼丸さんは頼りがいのある人間に見えた。 「あんまり、奇麗でもないですが」  玄関を開け、そう前置きするのは本心だ。一応、毎日ざっくり掃除はしている。それでも、主婦が管理する一軒家と我が家では、清潔感も違うだろう。 「一人暮らしの男性の自宅にしては、十分すぎる程奇麗だと思うよ。靴もちゃんと揃えてあるし、玄関も奇麗だし。やっぱり、編集さんとかが原稿取りに来たりするの?」 「いえ、最近は原稿と言ってもほとんどデータなので、直に受け渡しすることは無くなりました。打ち合わせにちょっと寄る、ということも稀なので……連載をもっている方とかだと、もうちょっと短いスパンで打ち合わせが入るんでしょうけど、僕の場合は一年に数本単位でしか企画が動かないですから」 「ふうん。じゃあ、単に杜環くんがきれい好きなだけだね。お邪魔します」  しっかり挨拶をして靴を揃える蓼丸さんも、きっちりした人だ。益々、不思議な好感が沸く。  どう見ても怖い外見だというのに、まったりと喋るし、礼儀正しい柔らかい人だった。変な人に声をかけられてしまい、のっぴきならない事情から会う約束までしてしまったけれど、大丈夫だろうか……そんな不安は、最早残っていない。  喫茶店を出る前にと、肩に下げた鞄から本当に僕の本を取り出しサインをくださいと差し出してきた時は、恥ずかしくて消えてしまいたいと思ったけれど。  持ち歩いているペンケースからマジックを出して、慣れないサインをした。もしかしたら字が震えてしまったかもしれない。僕の汚い字を見て、蓼丸さんは初めて明確に表情を和らげ『やった』と呟いた。  ああ、だめだ、この人は可愛い。  そんな、不気味な現象とは別の不穏な感情が湧きあがる。薄々と気がついてはいたのだが、どうやら僕の恋愛指向は同性愛寄りらしい。自分でも、まだはっきりとはわからないのが悩みの種だった。  何人かと付き合ってみた事はある。僕自身は引きこもりだが、幸いと周りが声を掛けてくれる。流されるように付き合った女性も、男性も居たが、男性の方が心を動かされる事が多かった。もしかしたらただ単に女性が苦手というだけかもしれないけれど。  そんな性的指向が燻っている為、なるべくなら魅力的な男性には近づかないでおこうと思っていた。弱小作家の恋人が同性でもたいしたスキャンダルにはならないだろうが、僕の場合は恋をすると私生活が引きずられる。その上作品にまで影響が出てしまう。いまはなるべく何も考えずに書くことに集中できる環境を維持していたかった。  蓼丸さんは、顔は奇麗だけれど、格好が非常にアバンギャルドだ。僕には理解できないファッションだし、ピアスもかっこいいというよりは痛そうだ。  良い人と、好みの人は別だ。蓼丸さんは見た目の印象とは違い大変良い人だけれど、僕の好みでは無い筈だ。そう思っていたのに。  大事にするね、と僕の本を抱えて首を傾げる様を見て、失敗したと内心頭を抱えた。この人は真面目で可愛い人だ。それこそ、僕の好みのど真ん中だった。  真面目で可愛い人という好みを主張する度に、そんなヤマトナデシコ現れる前に歳を取って死んでしまうぞと笑うのはいつも那津忌だった。そういえば、那津忌の現状はどうなっているのだろう。訊きたいことが山ほどあるのだけれど、あまり頻繁に行っても迷惑だろうと思い、最初の一度しか見舞いには行っていない。自殺未遂をする程の精神状態の彼に、僕がどう声をかけていいのかわからない、というのもあった。  元気になったら連絡が欲しい旨のメッセージを携帯に残したが、事件から一週間たった今も、那津忌からの連絡はない。  あの原稿は何なのか。日記は、本当に那津忌の創作なのか。どうして左足を切ったのか。――アレは、もしかして、那津忌の所にも現れたのではないか。  その疑問をぶつける事が出来ぬまま、蓼丸さんと落ち合う日になってしまった。  彼は約束通りに知り合いだという霊能者に話を聞いてくれた。なんでも、文字を媒体にして感染する呪いは、存在しないことはないらしい。ただ、何が要因になっているのか、それは実際に調べてみないとわからないとの事だった。もっともだ。話を聞いただけで全てをずばりと見通せるならば、それは霊能者ではなく予言者か超能力者だ。  実際に来る事ができない霊能者の代わりに、蓼丸さんは数枚のお札と簡単な魔除けを教わって来たという。全くもって頭が上がらないし、本当にいい人で困った。 「明るいうちに家の隅に塩を盛ろうか。あとは、外にお札を貼ってくるね。一応、簡単な祝詞は教えてもらったけれど、ぼくがやって成功するのかはわからないから気休めだと思ってください。不安だったら誰かと一緒に過ごすのが一番良いって言ってたよ。わりとこういうものは気の持ちようが大きいから、不安になったりパニックになったりすると一気に良くない方向に傾いちゃうんだって」 「確かに……幽霊とか、楽しい話には寄って来ない、とか聞いた事があるような気が」 「あと煙草の煙に弱いとか聞いたかなぁ。杜環くん、煙草吸う?」 「いえ、僕はあんまり気管支が強くないので」 「指長いしかっこいいから、煙草似合いそうだけどね」  さらり、と褒められてどう返していいか分からず、口ごもってしまうから僕は駄目だ。  緊張すると、益々口が重くなる。パソコンに文字を打ち込む時はすらすらと書ける歯の浮くような台詞も、実際はどこで使って良いのかすらわからない。現実世界の空気の流れはとても早くて、僕はいつも付いていけない。  これだから恋愛もうまく続かないのだ。  そんなどうでも良い事を考えつつ台所で粗塩の用意をしていると、蓼丸さんがこちらをじっと見つめていた。  僕の後ろに何か居るのだろうか……そんな不安感から、思わず後ろを振り返ってしまうが、そこには薄暗い壁しかない。 「あ、ごめん、違う、壁じゃなくて、杜環くんを見てたんだけどね」 「僕? が、何かしましたか?」 「何もしてないけど、なんかどっかで見たなぁってこの前からずっと思っててさ。テレビとかにも出ないって言うから、じゃあきっとリアルでどっかで見たんだろうなって、ずーっと考えてて」 「……僕なんて、特別特徴のない地味な顔ですし、そんな、記憶に残るものですか……?」 「残るよ。キミ、格好良いじゃない。背も高いし、腕も長くて格好いい。重い前髪もぼくは好きだな。色っぽくてさ。鼻もすっと通ってるし。わりと印象的な顔だと思うんだよね。あ、いや、ぼくが個人的に好きな顔ってだけかもしれないけど」  急に一気に褒められて、僕はもう何か言葉を探すどころではなかったが、更に僕の息を止めるような言葉を、蓼丸さんは紡ぐ。 「それで今思い出したんだよ。たぶんぼく、キミを地下クラブのバーで見てる。あの、ほら、この前のスタジオの近くの、ちょっと奥の通りの……なんていうかアングラな。半年前くらいに。ちょっと年上のおじさんと一緒に居た、ような気がする」 「…………え、」 「見間違いじゃないと思うんだよな。あーぼく好みのイケメンがいるなぁって思った記憶があるし。だからこの前スタジオで見かけたとき、目が行ったんだよね。どっかで見たなっていうのと、好きな顔の男だなって思って」  思わず、息が止まる。血液が引いていくような感覚も、心臓が急に煩くなるような感覚も一緒だ。これは恐怖だ。そしてそんな僕の反応をじっと窺った蓼丸さんは、ふと表情を緩めて笑ったような気配がした。 「……いや、別に誰に言いふらそうとか、そういう事は思って無いよ。ぼくだって十分人様に言えないような交際関係持ってきたものだし。ただ、あのおじさんは誰だったのかなってちょっと気になっただけ」 「…………たまたま、友人のバーに顔を出したら、居た方で。あの、彼とはあれ以来特に、何も……」 「うん、ごめんね、別に怖がらせるつもりはなくて、ほんとに悪気なくて、えーと。いや、杜環くん男の人平気なんだなって思ったらつい口から出ちゃったっていうか。あー。すいません、軽率に他人の事情に踏みこみすぎました。ごめん、許して。ぼくは何も訊かなかった事にしたい」  そう謝られてしまうと、動揺しすぎていている自分がひどく大げさに思えた。  蓼丸さんは、友人でもなんでもない。そんな彼が僕をどこそこで見かけた、という話をするのは別に不自然な事では無い。口ぶりからすると、彼も恋人の性別にはあまりこだわりが無い人のようだった。  ごめんねと何度か謝られ、僕はようやく弱々しく笑って首を振る。 「ちょっと、びっくりしただけですし、事実そこに居たのは僕なので、あの、こちらこそすいません。まさか蓼丸さんに見られているなんて思ってもいなくて」 「うん。ぼくもまさか半年前に見かけたイケメンくんとこうして縁が出来るとは思ってもみなかったかなぁ、と思って」 「イケメンでは、ないですけどね」 「イケメンでしょ。今度雑誌に載るんだってね。きっと、女性ファンが増えちゃうよ」 「……個人的には、女性ファンよりも、たまに珈琲を飲んで喋ってくれる友人の方が、欲しいんですけど」  感情が上がったり下がったりしたせいで、自分でもよくわからなくなっていた。普段なら絶対に口にしない事をぼろりと零した自覚はあった。けれど、一度吐きだした言葉はどんなに後悔しようとも戻せない。  反応を見るのが怖くて視線を逸らしたので、蓼丸さんが、どんな顔をしていたのかはわからない。意図をくみ取っては貰えず、流されるかとも思ったが。 「それ、この騒動がさっぱりさっくり奇麗に片付いた後も、ぼくはたまに杜環くんと珈琲飲んでお喋りするチャンスがあるってこと、であってるかな?」  首を傾げた気配だけは伝わってきて、今顔を見たら恥ずかしくて倒れるかもしれないから絶対にやめようと思った。その声はどう聞いても至極嬉しそうで、僕は勘違いしそうになる。その上顔まで見てしまったら、一瞬で沼に転がり落ちる気がした。  今はそれどころでは無いのに。蓼丸さんが家に来てくれたのは、僕の周りに起こっている不可解な現象の解決の為なのに。  僕は、そんなことよりも彼をどうやって夕飯に誘おう、だなんて不謹慎な事ばかり考えていた。  落ちないぞと心に強く思った時には、もうすでに落ちているものだ――よく、自分の小説に使う一節が頭をよぎり、自ら作った文言だというのに、まったくその通りだと苦笑した。

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