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おしぼのさま 06
六章 坂木春日
都会ってほんと恵まれてんだなぁ、と、そればっかり実感する。
人は無くしてから気がつく、なんてかっこいい言葉が浮かんできたがまさにその通りだ。把羽見村に着いてまだ丸一日も経っていないが、すでに俺は都会の恩恵を感じていた。
月曜日。ゆっくりと目を覚ました俺は、ツネばあちゃんがいそいそと支給してくれた朝飯をぼんやりと食い、蔵と家を調べるというくろゆりさんと分かれて、村の散策をすることにした。
部屋に篭もっていても、特別やることもない。携帯端末は相変わらず繋がらない。なんか手伝うことはないのかと珍しく声をかけた俺に、こちらも珍しく忙しそうなくろゆりさんは、素敵な雑用を任せてくださった。
「春日くんはお手隙でしたらぜひ、この村で圏外にならない場所、またはインターネットに接続できる場所を調べてきてくださいませんか」
わお、それ外に出ろってことじゃん? と一瞬ひるんだが、外はまぶしいくらいの天気だったし、一晩明けて若干除雪もされているようだった。玄関からちょっと出て葦切家の塀の外をちら見し、道が確保されていることを確認すると、くろゆりさんに簡単な地図とペンを渡された。
冒険家よろしく、電波状況をマーキングしろということらしい。
いやでもこれはこれで楽しい。実はあんまり旅行とか経験ない。絵に描いたような田舎風景はわりと珍しく、ふつうに歩いているだけでもおもしろい。
相変わらず葦切家の周辺は生臭かったが、家を離れてしまうとすっかりその臭いは消えた。村全体、というわけではなく、やはり葦切家だけがいやに生臭い。
獣の臭いかと思ったが違う。もっと、生魚が腐ったような、冷たい異臭だ。
あの臭いの元は、何なんだろう。昨日は死んだように寝てしまったので、くろゆりさんに訊くタイミングを逃してしまった。夜型の生活をしている俺が、零時前に寝落ちてしまうなんて希なことだ。相当疲れていたらしい。ただ、夢うつつに天井裏を走り回る音を聞いたような、気がしないでもない。
今晩、気になることを訊いてみよう。いろんなものが居るからあまり気にするなとは言われたが、一応自分で見たものと感じたことは報告しておくべきだろう。本業のくろゆりさんよりも、俺の方が霊感的には強いらしいし。くろゆりさんにはわからないけど、俺だけ感じていることがあるかもしれない。
まあ、俺の霊感なんてあって無いようなものだけどさ。
そんなことはともかく、わりと本気で地図と携帯眺めつつ二時間程雪の寒村をうろうろとして、ようやく辿りついたのはバス停だった。この掘っ建て小屋みたいなバス停の上の方はなんとか電波が入る。気がする。
図書館には昔はネットが引いてあった、というか個人的にどうにかこうにかしてルーター置いてた人が居た様だが、二年前に図書館は閉館したらしい。そもそも小学校とか中学校とかも無いらしい。子供や若い世代が居ないのならば、図書館を利用する人間もあまり居ないのだろう。
このふんわりした知識は、バス停の横の寄り合い所に居たじいさんばあさんに聞いた。
自己紹介する前から明らかに異色の目で眺められ、寄り合い所に居た数人は飲みかけのお茶もそのままに颯爽と帰ってしまった。村以外の人間が厭われているのか、それとも、葦切の家に問題があるのかはわからない。
しかし、言葉少なに俺の質問に答えてくれたじいさんは、最後に小さく『……に、見つからぬように気をつけろ』と呟いた。
何に見つからないようになのか。聞きとれなかったが、振り返った時にはもう、じいさんは帰り支度を始めていた。この村ではなく、隣村に住んでいる配達員で、バスで通っているらしい。村の人間じゃなかったから、多少でも俺の質問に答えてくれたのかもしれなかった。
杷羽見村は、とにかく静かで寒い。山で囲まれた集落は雪にすっぽりと埋もれてしまい、人の気配なんて微塵も感じなかった。雪は音を吸収する、とくろゆりさんは言ってたけど本当だ。何も聞こえない。時折、陽に当たり溶けた雪が、どさりと屋根から落ちる音がする。そのほかは生き物の気配すらなかった。
晴れていて明るいのに、妙に暗い印象の場所だった。
人間を見かけないことはない。除雪の為に玄関先に出ている人も居た。けれど、俺がひょこひょこと足場に気を取られつつ歩いているうちに、いつの間にか家の中に入ってしまう。歓迎されても困るけど、ここまであからさまに避けられると、なんかこう、微妙な気分だ。
民家以外に特別な公共施設や店も見当たらないし、散策を切り上げて帰ることにした。
相変わらず生臭い葦切家の玄関を一応ノックして、ガラガラと戸をあける。やっぱり、玄関先の隅からギィ、ギィ、と変な音がしたが、聞かなかったことにした。
ただいま、と声をかけていいものか。お邪魔しますってのもなぁ、と迷っているうちに、廊下の奥からひょこひょことツネばあちゃんが顔を出した。
「まぁまぁ、お帰りなさいませ。そないな薄着じゃ寒かろうて」
曲がった腰を更に曲げて、ツネばあちゃんは俺の靴を揃えて仕舞ってくれる。ゆっくり歩く彼女に付いて薄暗い廊下を歩き、昨日通された応接間の向かいの部屋に入った。多分、家人の為の居間だ。
今は鈴子夫人しか居ない家だし、夫人は自室がある。その割にはなんか妙に生活感がある部屋だなぁと思っていたら、いつもはツネばあちゃんが居る部屋だと教えられた。
あーわかる、なんかこう、ばあちゃんの部屋って感じの雰囲気だ。こたつの上にミカンがあって、座布団はちょっと古臭い柄だ。
暖かいこたつの中に足を入れると、身体が冷え切っていた事を知る。真冬に二時間もうろうろと外出していればそりゃ冷える。あったかいほうじ茶を出してもらい、ふうふうと息を吹きかけながら、くろゆりさんの所在を尋ねてみた。
「黒先生は、奥様と一緒に裏の蔵でお調べ物しとります。旦那様は、特に掃除が好きな方で、古い書物や骨董などはぜんぶ、蔵に仕舞いこんでありますんで。と言うても、あまり高価なものを置いているわけでもないもんで、蔵の保管状態は、まぁまぁひどいもんですわ。鍵はあっても普段は施錠してないもんで、夏は田舎に遊びに来た子供たちの格好の探検場所になるくらいで……」
「あーわかりますわかりますー。田舎の蔵とか倉庫とか、もう最高に楽しいもんなぁ。それじゃあクソガキ共が遊びつくして、文献もめっちゃくちゃな可能性あるわけだ。蔵って、物置以外には使わないんすか?」
「随分昔には、神事にも使われていたような話をききますけども、今はもう神主のお役目も返上しておりますこって」
「え。神社なんすか葦切家って」
「神社というわけでは……。儀式を行うモンとして、便宜的に神主さまと呼ばれていただけらしい、という話で……。不作の年に、雨をお祈りするような事が主な神事だったようですわ。いまはその作芽祈願は、婁川の上の祠様で行われておるはずです」
「つくめきがん……へー。なんか、そういうのって本当にあるんすねぇ……すげー。漫画みたい」
そんな頭の悪い感想を垂れ流しているが、そう言えば俺の名前にもあんまりよろしくない呪が掛っているという話だし、世の中まだまだ祈祷とかしきたりとか迷信で溢れているのかもしれない。
その作芽祈願祭は、今は儀式といえるようなものではなく、なんとなくふんわりとした伝統として年に一度、豊作祈願がてら春に軽い神事が行われるだけらしい。
「観光客を呼べる行事にして、村おこしを、なんて言うてる子ぉたちも、昔は居ましたけどね……もう、誰も人を呼ぶ元気なんてありゃしません。ひっそりと、慎ましやかに生きるだけです。わたしはね、奥様がいらっしゃるから、毎日それでも賑やかに、楽しく生きておりますけれど」
「鈴子さんって、後妻なんでしょ? てことはツネさんとも出会ったの、わりと最近?」
ずけずけと訊いてしまう俺にも、ツネばあちゃんはまったりのんびり笑って答えてくれる。
「奥様が葦切家に嫁入りしなさったのは、三年前ですなぁ。雪の降る寒い日で、細い足が真っ赤になってそれはそれは可哀想で、すぐに湯たんぽをあっためて差し上げました。こんなおいぼれの婆に、あんなに上品な笑顔を向けてくださるのは奥様だけじゃ。旦那様の前の奥様は、十年前にお亡くなりになっておりますんで……この家に、女人が入るのは、本当に久しぶりの事でした」
ツネばあちゃんは、本当に鈴子さんの事が好きらしい。勝手なイメージで、こういう田舎の村に嫁いできた後妻なんて苛めの対象なんじゃないかと思っていたけれど、少なくとも、このばあちゃんは鈴子さんを歓迎していたようだ。
鈴子さんは街で暮らす事も考えたが、ツネさんは足が悪く、住み込みのお手伝いを解雇されたら行き場が無くなってしまう。都会で新生活を始めるような歳でもない。
迷った鈴子さんは結局、この静かな村で生きる事を決めた。しかし、鴻偲さんの遺書には、気になる文章があったという。
この家を捨てなさい。
鴻偲さんは、一体何を知っていたのか。この簡潔な遺言からは、何の情報も読み取れない。
今ごろ寒い蔵の中で、くろゆりさんはせっせと古文書まがいの文献を漁って、この家の成り立ちとかそういうのを探っていることだろう。
残っているのは三年前に都会から嫁いできた後妻と、ほとんど家から出ることのない足の悪いお手伝いのおばあちゃんだ。村人は排他的だし、鴻偲さんの伯父である儀一という人物も村内に住んでいるとのことだが、あまり、仲はよくないらしい。この家の歴史が知りたければもう、古い書物を漁るくらいしか手はない。
また圏外になってしまったスマホを弄るのも面倒で、結局俺はツネばあちゃんとどうでもいいような話をして午後を過ごした。
ばあちゃんは世話好きで、ちょっと可愛い。歳を考えたら、俺は孫くらいなんだろうか。ツネさんに家族はいるのか聞いたが、今はひとりきりだと言われた。だから余計に、鈴子さんの事が気がかりなんだろう。
ミカンを食べて、お茶を飲んで、俺もくろゆりさんみたいに本でも持ってきたらよかったなぁーっていうか図書館が開いてたらそれこそ活用できたのに、とぼんやりしているうちに眠くなった。
うつらうつら。こたつで船をこぎ出した俺に、ツネばあちゃんは上着を掛けてくれる。
「昼寝をすると、夜寝れなくなりますで」
「なんか、いつも夕方仮眠しちゃうから、癖になってるのかも……寝るのなんて、いつも三時過ぎだしなぁ」
「丑三つ時じゃありませんか。夜が更ける前に、目を瞑らなりゃなりません。そうしないと、おしぼのさまが探しにきますで」
「…………おしぼのさま……」
おしぼのさまに、見つからぬように気をつけろ。
急に、今日寄り合い所でじいさんに言われた言葉がよみがえった。なんて言ったかちゃんと聞こえなかったけれど、多分、今の言葉に違いない。
おしぼのさま。それが何か、訊きたいのに、頭が暖かさに負ける。
「って、何……?」
かろうじて声を捻りだすと、ツネばあちゃんは、怖い話を言い聞かせるように少しだけ声をひそめた。
「この土地に伝わる、恐ろしいものですよ。夜更かしをすると、おしぼのさまが探しに来る。そう言われて、このあたりの子供は躾けられるのです」
「それ、ユウレイ?」
「さあ、どうでしょうなぁ。そうかもしれない。違うかもしれない。ただ、おしぼのさまに見つけられるともうこちらに帰って来れないと言われていますので。夜更かしは止めることですよ。……そろそろ、おふた方も帰ってきてもらわんと、夕餉の時間がずれ込んでまうなぁ」
それじゃあ俺が眠気覚ましがてら呼びに行こう、という事になって、部屋を出てツネばあちゃんと別れた。
薄暗い廊下を歩く。ぎし、ぎし、と床ではなく天井が鳴っている気がする。それがどうにも気持ちが悪かったが、どうしてか俺はさっきの話の方に言い様のない気持ち悪さを感じていた。
おしぼのさまが探しにくる。
おしぼのさまに見つからぬように気をつけろ。
――それは一体、何だというのだろう。
「……おしぼのさまは、何を探してんだろう」
ふと思い立った疑問は、答える人間も聞く人間も居ないまま、ぎしぎしと不気味な音を立てる廊下に静かに消えた。
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