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おしぼのさま 07

   七章 杜環  蓼丸さんから連絡があったのは、彼が僕の家に来てお札を貼った、その翌日のことだった。 「……ごめん、急に。ていうか、ほんと、お邪魔じゃなかった? だいじょうぶ、かな?」  夜十一時過ぎ。約束通り僕の家のチャイムを鳴らした蓼丸さんを招き入れ、とんでもないですと首を横に振る。急ぎの原稿は無かったし、どうせ一人で居ても例の怪現象が気になり、仕事も読書も手がつかない。  とにかく明るい気分を保つように、とのアドバイスを元に昼間に数本のDVDを借りてきてみた。SFもののアニメ映画と洋画のコメディを選び、気になっていた邦画のサスペンスものは渋々諦めた。張りつめた映画の雰囲気は、僕の趣向を満たすかもしれないが、気分を明るくはしてくれないだろう。  外に出たついでに久しぶりにスーパーにも寄った。最近は横着をしてネットスーパーを利用してしまうようになっていて、よくない。せっかく背格好がかっこいい、と言われたのだから、家でうだうだとしていないで少しでも歩くべきだ。なんて、早速僕は蓼丸さんの何気ない言葉に影響されていた。  細かいものと食料を買い込んで、キャベツの重さに早くも後悔し始めた帰路で、僕の携帯が鳴った。それは蓼丸さんからの『今晩お邪魔してもいい?』という些か唐突で、個人的には嬉しい連絡だった。  蓼丸さんは昨日、一通りの処置を終え、夕飯前には帰ってしまった。  周辺に外食できるような店はないし、僕の家の冷蔵庫には大した食料が入っていなかった。しくじった。いつもは、白菜とキャベツと卵くらいは常備しているのに。  この失態を繰り返さない為にも、と意気揚々と食材を調達したことは秘密にしたが、蓼丸さんからはかなり遅くなるからご飯はいらないよと言われてしまった。仕事帰りに直接僕の家に来るらしい。  言われたとおりに一人で夕食をとり、いつも通りキーボードを叩いていた、つもりだが、どうにもそわそわしてしまう。  一晩寝て、夢見心地は更に深まってしまった。昨晩は足を引きずる徘徊者の気配は無かったような気がする。お札と祝詞の成果なのか、それとも僕が勝手に浮足立っていたからなのか、わからない。  ただ、浮かれてばかりもいられない。  表情に出にくい、と本人も言う程の蓼丸さんだが、日付変更前に僕の家のドアを叩いた彼の顔は、明らかに青ざめていた。  ともかくリビングに通そうと促したが、蓼丸さんはできれば二階の部屋が良いと言う。二階には僕が寝室として使っている部屋と、あとは伯父の荷物が押し込んである物置部屋しかない。別段隠すものもないので、個人的な寝室でよければと言い置いてから案内した。  すでに仕事をする気など毛頭なかったので、書斎の電気は消えている。電気ケトルとマグカップを持って階段を上がり、小さなソファーとベッドしかない寝室に彼を招き入れた。  休日に寛ぐ時に、僕はリビングよりも寝室に居る事が多い。リビングはどちらかと言うと応接間として使っていたので、なんとなく、ゆっくりと羽を伸ばしにくかった。  趣味の本棚と簡素な机と、脱ぎっぱなしの寝まきが乗ったままのソファーを慌てて片づけ、どこに座ってもらうのが一番いいのか考えていると、蓼丸さんが弱々しく声を出した。 「ごめんね、ほんと。あー……ぼくのことは気にしないでどうぞお仕事しててもいいんだけど、正直一緒に居てほしいから、ええと、ここでも杜環くんのお仕事ってできる?」 「え。いや、ここでもできなくはないですけど、本当に急ぎの仕事は抱えてないんで、三日間くらいなら何もせずに遊んでいても平気です。基本締め切りは守っているんで」 「……勤勉。杜環くん真面目。かっこいい。じゃあ、お言葉に甘えて、ちょっと杜環くんの時間もらっていい?」 「はい、どうぞ、いくらでも」  結局蓼丸さんには窓際のソファーに座ってもらい、僕はベッドに腰掛けることにした。 「ココアか珈琲か紅茶か、それしかないんですけど……」 「ココアがいいかな。カフェインにはわりと強い気がするんだけど、寝れなくなったら嫌だなって思うし。昨日、寝れてないから」 「……昨日」 「うん、杜環くんから貰った、例の日記原稿のデータを、読んでたんだけどね」  やっぱり、その話か。予想はしていたけれど、顔が強張るのが自分でもわかった。  昨日、一応例の那津忌の原稿が見たい、と言われたので、文章データを渡していたのだ。他人の完成前原稿だったので、流石に悩んだが、正直背に腹は代えられないと判断した。一応読み終わったらデータを削除してほしい旨を伝え、それを了承してもらい、僕は彼用にUSBメモリに原稿データをコピーした。 「結論から言うと、うちにも、アレ、来ました」 「……嘘。え、蓼丸さんの家に、え?」 「うち、アパートなんだけどね。一人暮らし用の。ずっと長屋みたいなぼろアパートに住んでたんだけど、去年引っ越して、ちょっとちゃんとしたところに今は住んでるんだよね。セキュリティとかわりとちゃんとしてて、OLさんとかも安心して住めますよ、みたいな宣伝文句だった気がする。変質者が紛れこんだりは、無いと思うんだよね」  そのアパートの扉の外、つまり廊下に、アレは現れたのだという。時間は零時過ぎ。丁度時計を見て、例の時間だなと思ったんだと、蓼丸さんは息を吐いた。  ココアを手渡しながら、僕も息を飲む。 「気のせいかなって思ったのは、最初の一往復目。部屋の前を、片足引きずってるみたいな、ずる、ずる、って足音が聞こえて、そして一番奥まで行ったら引き返してきた。あ、これもしかしてやばいのかなって思ったのは二往復目。三往復目からは、もう気がつかなかった振りして寝るしかないと思って電気付けたままヘッドフォンして音楽掛けたんだけど」  そのヘッドフォンから流れてきたのは、音楽では無く、唸り声だったという。 「女の人、だったと思う。唸り声っていうか、唸るみたいな息っていうか……すごく、苦しそうな。うぅー……うぅー……みたいな感じで。あーこれホント駄目やばいって思いまして、ヘッドフォンはすぐ取ったんだけど、でもまだ聞こえるの。部屋の中で。うぅーって声が」 「………………鳥肌、立った」 「ね。ほんと、心臓止まるかと思ったよ」  自嘲的に笑うが、似たような経験をしている僕にとっては、笑いごとではない。蓼丸さんが経験した恐怖を追体験しているようで、喉がかわくような気分だった。 「幸いっていうか、ぼくの部屋一回わりと本気の心霊現象に見舞われてて、その時お世話になった人――杜環くんの家用にお札をくれた人だね。彼に魔除けの色々を教わって実践してたから、音がして声がするくらいであとは何もなかったかな。でも、流石に寝れなかったよ。気が付いたら朝で、いつ、あの足音が無くなっていたのか覚えていなかったけど……郵便受けに、長い髪の毛がごっそり突っ込まれてて、朝一から泣くかと思ったなぁ」  想像だけで僕は泣きそうだ。蓼丸さんは相変わらず青い顔をしているし若干具合も悪そうだが、言葉の内容に反して表情が変わらない。  じっと顔を窺っている僕に気が付き、ココアを飲んだ彼は少しだけ眉を下げた。 「言ったでしょ。顔に出ないタイプなんです。ものすごくビビってるよ。仕事中の杜環くんの家に深夜に押し掛けちゃうくらいにはね。流石に昨日の今日で迷惑だよねって思って、別のトモダチのところ行こうかなとも思ったんだけど。でも、もしかしてアレが、ぼくに付いてきちゃったら、困るなって。そしたら、杜環くんに頼るしかなくてさ。ごめんね。でも、ほんと、久しぶりに怖い。邪魔かもしれないけど、朝まで一緒に居てもらって良い? 勿論、普通に寝てていいです。ぼくもこのソファー貸してもらえればいいんで」 「そんな。来客用の布団も、たしかどこかにあった筈なんで、僕の部屋でよければどうぞ寛いでください」  家族でさえもほとんど泊まらないので、布団のセットが何処にあるのか正直わからない。この家を借りてもう三年になるというのに、開けた事のないクローゼットまであった。他人の家を間借りしている、という気持ちで生活しているために、どうも、寝室以外に手を入れにくい。  布団を探してこようかなと腰を上げると、蓼丸さんが僕の服の裾を引っ張る。その仕草最高に好きなので本当に勘弁してほしい。 「……あの、布団を、」 「うん。わかる。でも、あのね、杜環くん、僕の気のせいじゃないと、思うんだよね、ほら、時間――」 「え」  そう言われ、見やった壁掛け時計は、零時を指してた。  ――ずる……、ずる……、ずる………………、と。確かに。  何かが徘徊する気配がした。耳を澄まさないとわからない。しんと静まり返った夜とはいえ、僕達が今居る部屋は二階だった。  ずる……、たん、ずる……、たん、ずる……とん、とん、とん……ずる……、たん……。  足を引きずる。もう片方の足を踏み出す。足を引きずる。足を踏み出す。そしてその合間に、固く乾いた音が響く。  壁を、叩く音だ。 「……昨日は、来た?」 「…………覚えていません。早くに寝てしまったし、今までも、二階まで被害があった事はないので、零時前に仕事部屋から引き揚げてしまえば、あとはあまり気にした事はなかった、ので」 「どうしよう。これ、ぼくと、杜環くんと、どっちなんだろう。もしくは、どっちも、なのか。やっぱりあの原稿……アヤエの日記を読むと、アレに目をつけられちゃうのかな」  蓼丸さんの家にまで、アレが現れたということは、きっとその可能性が高い。原因が何であるのか、僕と蓼丸さんではそれを突きとめることは困難だ。僕には霊感もなければ、このような事態に対する経験もない。 「お札をくれた人に、一応、メールを入れてみたんだけど……どうも、電波も怪しい田舎に仕事に行っちゃってるみたいで。連絡がつかないんだよね。せめて、アレが有害なのかとか、どう対処した方がいいのかくらいはご意見いただきたいところだよね」 「その人は、いつ、お戻りに?」 「わかんない。一週間くらい休みを取るって言ってたかな。最悪、週明けにならないと、連絡取れないんじゃないかって――」  その時、ギシィ、と音がした。思わず俺と蓼丸さんは、音のした方に顔を向ける。  天井だった。  僕達の真上より少し、ずれた、部屋の隅あたりから聞こえた。 「…………………え?」 「え。え?」  訳がわからなくて、おかしな声が出る。喉に貼りついたような乾いた声が重なったが、それ以上の言葉が見つからない。  気のせいかも知れない。そう思いたいのに、続けて、天井の上から音が響く。  ギシィ……ギシィ……ズッ……ギシィ……ズッ……、と、ゆっくりと、ソレは移動する。  思わず、窓にカーテンが引かれている事を確かめた。上に居る何かが、にゅう、と顔を覗かせる想像をしてしまった為だ。  きっちりと閉まったカーテンは確認したが、天井、というか屋根の上に何が居るのかはわからない。ズッ、ズッ、と擦るような音が足を引きずる音だとしたら。 「下のアレ……上に、来ちゃった……?」  掠れるような蓼丸さんの呟きに、思わず息を飲み浮かせた腰を下ろした。そのタイミングで、蓼丸さんも窓際のソファーからそそくさとベッドの上に移動してくる。  何が起こっているのかわからない。わかりたくない。心臓がどきどきと煩い。残念ながら、隣に居る蓼丸さんのせいではなく、意味もわからず降りかかった恐怖のせいだ。  ホラーはあえて自分から見ないし苦手な方だが、まさかこれしきの事で動けなくなるほど動揺するとは思ってもいなかった。実際何かを見たわけでもない。ホラー映画にあるような、髪の長い女が恨めしそうな顔で……とか、そういうそのものズバリな状況ではない。  たかが音だ。それ以上の実害はない。  けれど、自分に置き換えて考えてみてほしい。夜中、決まって同じ時間に家の周りを徘徊する音がする――。もし、今晩、そんな音が聞こえたら、気のせいだと言い聞かせて眠ることはできるだろうか。  しかも音は、屋根の上に移動している。  この家に天井裏があるのかはわからない。故に、ソレが居るのが、屋根の上なのか、それとも天井裏なのかは、わからない。出来れば前者であってほしいと願う。それにしたって、もう二階だから平気だと高をくくって居られなくなった。  徘徊者は一定の速度で、一度家の端まで行った後に、また、引き返してくる。時折足音が止まる。その瞬間は僕達の息も止まる思いだった。  恐怖に耐えかね、隣の蓼丸さんに出来るだけ近づいてしまう。いきなり抱きついたりは、流石に、女の子でもないし、と思っていたら手を握られて跳び上がる程驚いた。  喉の奥でヒィ、と声が上がってしまって、肩もびくりと揺れる。僕の反応に驚いたらしい蓼丸さんは、一呼吸置いてから苦笑して小さな声でごめんと言った。 「ごめん、あの、そうかそりゃびっくりするよね、いや、流石にぼくも恐怖が最高潮で……これ、うそでしょ。このまま寝るの? アレ、降りてこない? 気が付いたら部屋の廊下にズッ……タン、コンコン、とか、ない、よね?」 「こわいこといわないでください想像したやめてください血圧上がってしにそう」 「うん。ぼくもさっきから心臓ばくばくしてますしにそう。やだ、もう、あー……別に、ホラー耐性ないっていうのに。なんで、巻き込まれちゃうかなぁ。あ、いや違う、杜環くんが悪いんじゃなくて。勝手に首を突っ込んだのはぼくなんで、今のは自分に対してのアレ、うん、その、文句っていうか……ごめんもうちょっとくっついていい?」  すでにわりと近い位置に居て、しかも手を繋いでいるというのに、これ以上くっついたらそれこそ腕を絡めるしかないのではないか。そう思っていたら、蓼丸さんはまさに恋人のように僕に寄り添ってきた。  べったりとくっついた肌から熱が伝わる。先ほどとは別の意味で心拍数が上がりそうで、大変心臓に悪い。耳がきーんとしているような気がするのは、天井上のアレのせいか。それとも、隣の蓼丸さんのせいなのかわからない。  じっとりと手が汗ばみそうで、こんなことで上がってしまう自分が恥ずかしくなる。蓼丸さんは多分年上だろう。彼からしてみれば、僕なんて青臭くて面倒な男なんじゃないだろうか。いまどき手を握っているだけで動揺するなんて、自分でもどうかと思う。  怖いのか嬉しいのかよくわからなくてパニックも最高潮になった頃、温くなったココアを一気に飲み干した蓼丸さんは、一回だけ深呼吸をすると僕の名前を呼んだ。 「杜環くん。お願いがあるんだけど」 「え、はい。何でしょうか」 「あのね、えっちなことしよう」 「は……、は?」  蓼丸さんの言葉がうまく頭に入って来なくて、僕はなにか聞き間違えをしたのではないかと思った。  蓼丸さんは、至極真面目な顔をしていた。感情が出ていないだけなのか、それとも本当に真剣なのか、全く判断がつかない。 「楽しい事を考えてると幽霊が来ないって、ぼく言ったでしょ? あと煙草の煙とか。それと一緒。セックスしてると幽霊って近寄って来ないんだって、きいたもので」 「せっくす……」 「すごくよろしくない動機だしこんなきっかけでベッドに誘うの正直とんでもないなと思うけどぼくは怖さの限界です。ね、杜環くん、ちょっと我慢してぼくに付き合って。気持ち悪いことは、しないから」  おねがいします、と僕の方に頬を寄せる蓼丸さんの耳が赤く見えて、僕は本当にどういう気持ちになったら正解なのかまったくわからないまま、ただ同じように顔が熱くなるのを感じた。

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