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おしぼのさま 10

   十章 坂木春日  翌朝は、絵にかいたような寝不足だった。  頭が痛い。うまく起きれなくて布団から出るのが苦痛だった。明確な仕事はないし、俺なんてただのお付き合いで同行している使えない助手だし、一日寝ていても誰にも文句は言われないんだろうけれど、一人で離れに寝ているのが妙に恐ろしく思えて無理矢理身体を起こした。  夜、渡り廊下から目があった、塀の向こうの何かの話はくろゆりさんにすぐにした。震える俺を部屋に残し、廊下に出たくろゆりさんは神妙な顔で戻って来たが、何も見えなかったらしい。  塀の外は葦切家の結界の外だと言う。招き入れませんでしたよね? なんて恐ろしい問いかけをされたが、目があった気配はしたが俺はそのまま全力で逃げただけだという事を伝えた。  あんなものに入って良いですか? と尋ねられて素直にイイデスヨと言うわけがない。この家には妙なものが沢山いるし、妙な体験をちまちまとしているけれど、そんなこざかしいあれそれとは比べ物にならないものだ。  勘というやつを、俺は案外信じている。感覚なんてものは体調や感情によって随分と変わる。人間なんて所詮動物だ。疲労している時にナーバスになれば、揺れている影は幽霊にだって見える。  そういう感性とは別の部分で、アレはヤバい絶対ヤバいと俺の勘がバシバシと警告してくる。  しっかりと顔がわかったわけではない。なんとなく輪郭さえもぼんやりしていたような気がする。目や鼻もきちんと存在していたか、おぼろげだ。それでもそれが女だと思った。髪の長い女だ。髪の長さなんて塀に隠れてわかる筈もないのに、俺はそう確信していた。  部屋に戻ってきても、アレを見た時に感じた悪寒が拭えず、結局昨日もくろゆりさんの布団に潜り込んでしまった。風邪でもひいたんじゃないかと思う程に背中が寒かった。  何かに触れていないと不安で、くろゆりさんの身体に巻きつくように四肢を絡めると、いつもなら茶化して手を出してくるシチュエーションだろうに、暗闇の中でぎゅっと抱きしめられてしまった。安心したと同時に、普段と違うアクションに気味の悪さが沸き上がったが、あえて考えない事にした。  頭も痛いしダルい。若干熱っぽい気がする。本当に風邪をひいただけならまだマシだ。  ふらふらしている俺を見かねたツネばあちゃんは、居間で暖かくして寝ていたらどうかと提案してきたが、今はくろゆりさんと片時も離れたくなかった。俺の身体の平穏の為には動かず部屋でぼうっとしていた方が良いとは思うけれど、精神の安定の為にはくろゆりさんと離れるわけにいかない。  結局、寄り合い所横のバス停に行くというくろゆりさんにひっついて、俺はようやく歩きやすくなった田舎道を歩いた。持ってきた暖かそうな服を着こめるだけ着こんだというのに、這いあがるような寒気は止まらない。  でも、くろゆりさんにひっついてる時だけはちょっと落ちつくから、本当に風邪かどうかは微妙なところだった。 「……寝ていた方が良かったんじゃないですかね」  震えつつぼんやりしつつ外聞気にする余裕なくべったりとくろゆりさんに絡みつく俺を見かねて、ついに本人からもそんな労いの言葉が漏れた。  くろゆりさんが他人を心配するなんて稀すぎる。相手が俺だからか、それともあまりにも俺が酷い状態だったからかは、わからない。確かにふらふらはするし悪寒はするが、歩けないとか吐きそうとかそういうしんどさはない。  万年金欠貧乏性だもんで、体調管理には厳しい方だ。なんてったって医者にかかると金がかかる。体調崩しそうだと思った瞬間飯食って寝れば大概は医者に行くほどこじれない。これはやばい、という状態にはわりと敏感だが、イマイチ今まで経験した風邪とか体調不良とは違う気配がしていた。 「霊障ですかね。何かに触れて熱が出る、というのは良く聞く話です。よくないモノに魅入られると特に高熱が続く場合もある。実際にその何かの影響である場合もあるでしょうし、ただ単に急な体調不良を『呪い』や『祟り』のせいにしたという場合もあるでしょう。春日くんは比較的敏感な方なので、葦切家の様々なモノや結界に影響されたという考え方もできます。あとは素直に考察するなら、昨日キミが見かけたという塀の向こうの何か、のせいだというのが怪談話的には一番ストレートでしょうね」 「嫌な事言うなよ思い出すだろー……なんでくろゆりさん肝心な時に一緒に居ないんだよまじで……」 「僕を振り切って厠へと行ったのはキミでしょうに。ああ、あちらが唯一電波の通じる例の寄り合い所ですね。公民館と道の駅のあいの子のようなものですかね」  道の駅とくろゆりさんが言うのは、入口に若干売店みたいなのがあるからだろう。見た目としては無人販売所って感じに近い。申し訳程度の山菜とか白菜とか大根や乾物が並んでいるその奥に、囲炉裏とストーブが並び、中は結構あったかい。  硝子戸からひょっこりと中を覗いたくろゆりさんは、寄り合い所の中には入らずに隣のバス停に足を進めた。  バス停と言っても、吹きっ晒しの小屋に椅子が並んでいるだけだ。  その椅子の上らへんで背伸びをすると、なんとか携帯は圏外から復活する。暫くその体勢を保っていたくろゆりさんは、データの送受信を終えた頃に椅子に腰をおろし、携帯をちまちまと弄っていた。この寒いのに手袋もせずにこの人は本当に人間かと疑いたくなる。  くろゆりさんは暫く真剣な顔でスマホを眺めた後、何かを打ちこみまた背伸びをして電波を探っていた。 「ネット環境がない、というのは非常に不便ですねぇ。調べ物もまともにできない。この寒さの中、ここで気の済むまで事務作業をこなすというわけにもいきませんし。何より連絡が取り辛い」 「え。誰かと連絡取りあってたりすんの? 他の依頼人?」 「依頼人と言えば依頼人でしょう」  さらりと答えたくろゆりさんは、その相手が蓼丸サンだと言う事を明かした。そういえば、この村に来る前に蓼丸サンは呪いの文章がどうとか言ってた気がする。 「どうやら、例の呪いの日記のせいで、随分とまずい状況の御様子です」 「え。まじで。それ大丈夫なの」 「昨日の夜の時点では、幸い命に関わるようなものでは無いようです。電波が届かないせいでタイムラグがありますし、今現在どうなっているのかはわかりませんが。蓼丸さんが、非常に論理的で落ちついていらっしゃるのが、大変有り難いです。お札や祝詞などと言うものは所詮気休めですからね。原因がわからないのに処方される痛み止の薬のようなものですよ。対処療法は原因の解決にはならない。……問題の引き金ではないか、という原稿を送っていただきたいのは山々なんですが。ここは通信手段の状況が非常によろしくない」  ぎりぎり圏外じゃないというだけで、抜群に電波状況がいいというわけではない。時折途切れるような不安定な通信状況では、会話程度のやりとりはできるだろうが、文章データのやりとりは難しいのかもしれない。 「とりあえず冒頭だけでも受け取れたらいいんですが、春日くん、隣の寄り合い所で休んでいてもいいんですよ。あと数分はかかります」 「……いい。一緒に居る方が身体楽な気がする」 「僕のマフラーを、と言いたいところですが、もうそれ以上防寒具を纏うところもありませんしねぇ」  もこもこと着こんだ俺を見やり、珍しく眉を下げて苦笑する。いつもの胡散臭い笑顔よりも人間っぽい顔で、不覚にもどきりとしてしまった。  それを隠そうとしてこれでもかと巻いたマフラーに口元を埋めた。顔が熱いのは熱のせいに違いない。 「帰ったらツネさんにお茶を淹れていただきましょう。キミは、葛湯の方がいいかもしれないですね。もう少し僕は寄りたいところがあるんですが、大丈夫ですか?」 「大丈夫じゃなくても付いてくけど一応訊くわ、寄りたいところって何処よ」 「川の上流にあるらしい祈祷所です。ツネさんの話では作芽祈願や祭事はそこで行われていたらしいとのことなので。今は、村の入り口の神社で行われているそうですが。この村の風土についてほとんど情報がないので、とりあえずは場所を一度拝見しておこうと思いまして」 「川上……遠そう……」 「近くはないですね。先に帰りますか?」  数秒悩んだが、結局俺はくろゆりさんの手を握る結論を出した。男二人で手を繋いで歩く図はかなりやばいとは思うが、もうどうにでもなれという気分だ。  どうせ、最初から奇異の目で見られている。葦切家を見る村人の目は冷ややかだ。  手を繋いで、真っ白い雪道を歩く。舗装されていた道はまだマシだった。行く手は段々と山道になり、その内に道なんだか山なんだかわからなくなる。雪のせいで、道はあって無いようなものだ。  これ以上奥に行くなら、ちょっと本当にここで待ってるって言った方が俺の身体の為なんじゃないだろうか、と思い始めた時、目の前が急に開けた。  若干登っている感じがあったが、その感覚はあっていたらしい。小さな山の中腹、と言った景色の中にぽっかりと穴をあけた祠のようなものが見える。そして祠に向かう俺達の後ろには、杷羽見村を見下ろす景色が広がっていた。 「地図が無かったので、文献通りに歩いてきたんですが……ぐるりと村を回り込んだようですね。あれは、葦切家ですね」  くろゆりさんが指さす眼下の家は、確かに俺達が滞在している葦切家に見えた。母屋と離れを繋ぐ渡り廊下も見える。蔵の奥に見えた雑木林がこの小さな山に繋がっていたらしい。  実際葦切家の裏から道が続いているのかはわからないが、距離的には随分と近いように感じる。 「葦切家は神事における神主的な意味を兼ねていたようですから、こちらの祈祷所から直接道があっても、不思議ではないでしょうね」 「でも、最近はしてないんでしょ。あ、いやまあ、できる人が居なくなったってのもあるだろうけど。鈴子さんの旦那さんの鴻偲さんって人は、祈祷とか祭事とかあんまやらなかったのかね」 「村における祭事の役割は、すっかり伯父の儀一さんが行っているようですからね。儀一さんは鴻偲さんの父である葦切允泰氏の弟にあたります。ただ、儀一さんは養子であった為、葦切の血という意味では受け継いでいませんね。現在は荻嵩家に婿養子に入っているため、家系的にも葦切との縁は無い状態です」 「なんかそれ、追い出されたってカンジだよなぁ……なんかしたのかね、その儀一って人」 「さあ、どうでしょう。追い出されたのか、はたまた自分で出て行ったのか。しかし儀一氏が婿養子となった為、允泰氏、そして鴻偲氏亡き今、葦切家に残っているのは血を継がぬ鈴子さんと、お手伝いのツネさんだけです。葦切家は単純に考えて続く事は無い」 「鴻偲さんは、葦切を断絶したかった?」 「……遺書と鴻偲氏の日記を拝見しましたが、そのように取れる文章がありました。葦切の呪いをもう残したくはない、というような事が時折書かれている。確かにあの家はおかしな気配に満ちています。住民からも恐れられている。一体、彼らは何を恐れているのか。葦切は何に魅入られているのか。……おしぼのさま、という存在が、少なからず関係しているようには思うのですが。これはもう、手当たり次第に住民の方に当たってみるしかないかもしれないですね。人の口に戸は立てられない。一人くらいは、お節介に情報を洩らす人間も、居るかもしれない」  何にしても、祠を拝見したら一度帰りましょう、と話を切り上げたのは多分俺の体調不良のせいだろう。別に勝手に付いてきたわけでもないし、ていうか勝手に連れてこられただけだからアレなんだけど、やっぱり申し訳ない気分にはなる。  でもごめんとか言うのもどうかと思ったから、手繋いだまま寄り添って頭をくっつけた。 「……春日くん、やっぱり熱ありますよ。大丈夫ですか」 「うはは、くろゆりさんから心配されたら世も末だわー。まあふらっふらはしますけど。いやでも、倒れる程じゃない筈、だし。あー……くろゆりさんのちゅーって、解熱効果とかないの?」 「どうでしょうねぇ。キミのその熱の要因が、なにかしら禍々しいモノに触れたせいならば、僕の飲んでいるお札の効力はあるかもしれませんが、息も辛そうですし口をふさぐのはどうかと思いますよ」 「何。今日めっちゃ人道的じゃん」 「背負って帰るのが嫌なのでと言いたいところですが、自分でも驚くほど心配しています。キミに隣にいてほしくて連れてきたのに、キミが倒れてしまっては元も子もない」  確かにそうだなぁうははと笑って、流れる動作でキスをねだった。祠の中は真っ暗で中々、迫力がある。こんなとこに入るんだから、ちょっと景気づけにちゅーしてからでもいいだろう。  素直に俺の腰を抱いてキスをくれたくろゆりさんは、唇を離した後に『一体何枚着こんでいるんですか』と呆れたように呟いた。  何枚だったかなぁ。タンクトップの上に冬用のインナー着て、その上にロングティーシャツ着て、あとセーター着て、無理矢理カーディガン羽織ってる気がする。その上にパーカー着て、そんでダウンジャケット着てるから、そら今の俺は半分洋服みたいなもんだ。  一、二、三……と素直に着ている洋服の枚数を数えていた所、くろゆりさんはずかずかと祈祷所の中に入って行く。手を繋いでいる俺も、引っ張られるようにその中に入った。  入口から少し入ったところに注連縄が張られ、いかにもそれっぽい雰囲気があった。  暗い。真っ暗だ。なんだか、わりと奥まで続いているような感じがする。洞窟状の祠は、何処に続いているのか、ごうごうと風の音がする。いかにも、という感じで、ちょっとというか、かなり嫌だ。  さっさと調べて早く帰ってお茶飲もうよ、と、壁を調べているくろゆりさんに声を掛けようとしたところで。 「――…………っ、う……!」  急に、隣のくろゆりさんの身体が前に傾いた。とっさにソレを支えようとして、手を出した俺の後頭部に鈍痛が走る。痛い、とかそんな感覚じゃない。バッと頭の中が一瞬白で埋め尽くされたようになって、世界がゆっくりと落ちて行った。  誰かに、後ろから何かで殴られた。  俺が覚えているのは、そこまでだった。

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