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おしぼのさま 11
十一章 杜環
目が覚めた時に、ぼんやりと部屋の中が明るい事に安堵した。
ホラー作品で多いのは、ふと目が覚めた瞬間が丑三つ時だった、というような話だ。そう言う場合は大概、自分ひとりだけで恐怖と対峙しなければならない。これは創作ではなく現実なのだから、実際にそういうことが起こるものなのかはわからないが、何にしろきちんと夜が明けている事に自然と息が漏れた。
そして次に、隣で寝息を立てる人が目に入る。
長いまつ毛を眺めていたら、昨晩の痴態を思い出してしまった。布団を掴んで引き上げ、顔まで全て隠してしまいたい衝動に駆られる。しかし同じ布団に蓼丸さんも入っていたので、身動きは取れなかった。
お互い服も着替えずそのままベッドに潜り込んでいた。何時頃に寝たのか、記憶はない。気が付いたら天井の音は止んでいて、僕も蓼丸さんも体液でべったりと濡れていた。
風呂に、と思ったが流石に一階に下りる勇気はなく、ケトルに残っていたお湯とタオルで身体を拭いた。拭いている最中にくすぐったいと言いながら僕の鎖骨にキスマークをつけようとするものだから、そこで無駄な体力を使ってしまった。非常に可愛かったけれど。
思い出して、じわりと羞恥が襲う。
怖かった。確かに昨日の現象は、今までと違った。あの日記原稿を介してかはわからないが、アレは蓼丸さんの所にも現れた。そして、家の周りを徘徊するだけではなく――、天井の上にも、現れた。
一体何を探しているのか。目的は、僕なのか。蓼丸さんなのか。それとも、別のものなのか。考えてもわからない。恐怖だけが這い寄る。
しかし人間というものは現金なもので、太陽の光を浴びると多少は理性が戻る。アレが来る時間は、今のところ決まって零時過ぎだった。とりあえずは今すぐ何かが襲ってくるということはないだろうと思える。
そうなると僕の理性は、今度は恐怖以外の事を直視し始める。流されるままに卑猥な行為に及んだ、僕と蓼丸さんのアレコレに関してだ。
抜きあった程度とはいえ、立派な性行為だ。普通の友人は、性器をさらして手でしごきあったりはしない。それに確実に僕達の間には、憎からずという感情があった。
目を閉じている蓼丸さんは、本当に美人だ。動いていると無表情と装飾に目が行ってしまうが、静かに寝息をたてている彼はすっきりと整った輪郭や美しいパーツが目立つ。
美人なのに、変な人だと思う。僕なんかを格好良いと言う人は、本当に稀だ。昨日耳からたらしこむように囁かれた甘い言葉が、まだ身体の奥で燻っている。
それがベッドの上のサービスだとしても僕は浮かれてしまう。勘違いしないように、と理性は諌める。でも、嫌いな人とはセックスまがいのことをしないでしょ? と、言い訳のように考えてしまう。僕は、相当この人に参ってしまっているらしい。
お昼くらいまで、このまま見つめていたい。というか、目を覚まさないでほしい。
蓼丸さんが目を覚まして、昨日の行為は恐怖に対する対策であって、別にキミのことが好きなわけじゃないから勘違いしないでね? だなんて言ってしまったら、僕は泣いてしまうかもしれない。いや、泣かなくても、多分とてもへこんでしまう。
別に、恋人ではないのだし、まだ会って数日の人とこんな事になってしまっている事自体、特殊だということはわかっているのだけれど。
そんなことをもんもんと考えていたが、ついに蓼丸さんが薄く目を開いた。
静かに覚醒したらしい彼は、三度程瞬きを繰り返すと、ぼんやりとした目で僕を見た。
「……あー……あー。あー…………おはよ…………」
くわ、と小さな欠伸をして、おはようと言った癖にもう一度目を閉じて寄り添ってくる。かわいいけれど、今日の予定は平気なのかと問うと、仕事は夜からだからともだもだした声で返された。
「蓼丸さんって、メイクのお仕事が本業じゃないんですか? 昨日も遅くまで、お仕事だったみたいですけど」
「んー……メイクも、するけど、基本、なんでもする……アーティストって言うと格好良いから、そういう風に言ってるけど、ただの節操ないダメな夜のおにーさんだよね……バーを手伝ったり。衣装作ったり。なんか、そういうの……ねえ、壮絶にネムイんだけど、寝不足と久しぶりにえっちなことしたからかなぁ……」
ああいうのって体力つかうよね、と同意を求められたが頷いていいのかわからず、言葉を飲みこんでしまう。
「杜環くんは朝からかわいいねー……いいなぁ。ぼく、朝誰かと一緒に目がさめたの、久しぶりだ。人の体温って、なんでこんなにきもちいいんだろうねー……」
「……蓼丸さん、そのー、お付き合いしてる方とかは、居ないんですよね?」
「うん。いないです。ぼくはわりと節操ないけど、流石に恋人がいるのに他の人といちゃいちゃしたりは、しないもの。杜環くんも、ぼくが迫った時に恋人が居ますからと拒否しなかったから、勝手にフリーの人だと思ってるけど。……かっこいいのにね、杜環くん。かわいいし。あったかいし」
「あったかいのは、そのー、誰でも、だと思いますけど。あの、あんまり、近寄ると僕昨日風呂入って無いし、ちょっと……」
「そんなのぼくも一緒だけどね。確かに、衛生的じゃないかなー……お風呂、借りても良い? あ、一緒に入る?」
「それは、えーと、怖いからですか?」
「半分くらいはね」
じゃあ残りの半分は何なんだ、と聞けない自分が情けない。こんなに甘い雰囲気で、ベッドの中で会話をしているというのに、僕はうまく一歩を踏み出せない。
今は、零時に来るアレのこともあるし、とにかく怪奇現象を解決してからじゃないと何も始まらない。そう言い聞かせて、甘く絡んでくる蓼丸さんの骨ばった指を丁寧に解いていった。
「杜環くん、起きちゃうの?」
「珈琲でも淹れようかと思って。もうお昼近いですし、これ以上布団の中にいたらまた寝てしまいそうで。昼寝なんかしたら、夜寝れなくて嫌な思いをしそうでしょう」
「確かに。言われてみればそうだ。……ぼくも起きようかな」
僕が着替えている間しばらく携帯をチェックしていた蓼丸さんは、猫のように欠伸をした後、起こしてと甘えてくる。見た目はクールなのに、本当に変なところで甘痒い人で困る。
にやけそうになる顔をどうにか押さえつつ、本当にまだ眠いらしい蓼丸さんを支えるように階段を下りた。とりあえず廊下に異常はない。やっぱり、アレは外を徘徊するだけのものなのか。家の中に居る限りは、安全なのだろうか。
そう思ったのだが――。
「………………うわぁ」
一階に降り、キッチンに行く前に郵便受けを確認しよう、と思い玄関に足を向けた。そして、三メートル程手前で、足が止まった。
この家の郵便受けは、ドアの横の表札下に埋め込まれている。胸の高さ程の郵便受けから、何か、黒い水のようなものが滴っているように見えた。それが一体何かわからず、目を細めて気がついた。
髪の毛だ。長い、黒い髪の毛が、郵便受けから溢れるように垂れ下がっている。
異常に長いことは見てわかる。胸の高さ程の郵便受けから伸びたそれは、方々に枝のように広がりながらも床に付く程の長さだった。とても、人間のものとは思えない。
時代劇で見るような、艶やかな黒髪ではない。
汚れ、絡まる髪の毛は、見ているだけでも不快で、何よりも最高に気持ち悪かった。
僕の腕を掴む蓼丸さんも、息を呑んだ気配がする。すっかり、目が覚めてしまったらしい。寝起きの衝撃としては、相当なものだ。
「…………全然、無事じゃないじゃない、これ。中、入ってきてる、よね?」
「一応、ええと、郵便受けは確かに、外と繋がっているところではありますから、厳格には室内っていうわけではないでしょうけど」
「あの中、指とか目とか入って無いよね?」
「こわいこというのほんとやめてください泣きそうです」
そうは言っても、あれをそのままにしておくわけにもいかない。何が影響を及ぼすかわからない。日中の明るいうちに、ゴミ袋に纏めて外に出しておきたい。絶対にそうするべきだ。
意を決して玄関に近づいた僕は、恐る恐る郵便受けの中を覗いた。真黒だ。ぐしゃぐしゃに丸まった髪の毛の束みたいなものが入っている。枝や泥が纏わり付いていてとても嫌な匂いがした。
その中に、髪の毛ではないものが見えた。
昨日の夕方には何も入って居なかった筈だ。朝、届いたものだろうか。僕は新聞を取っていないので、毎朝郵便受けを覗く習慣はない。最近の配送業者は随分と朝早くから仕事をしている事を知っていたので、午前中に荷物が届いていることには特別疑問は覚えなかった。
髪の毛の奥に見える、小包の様なものを引き上げる為に手を入れる。もし、この中から手が出てきて掴まれたりしたら……と嫌な想像をしてしまったが、それは幸い杞憂に終わった。
髪の毛に埋もれていたのは、ノートサイズ程の封書だった。何重にもなったガムテープで封がしてあった。妙に汚れていたが、それが髪の毛のせいなのか、僕の家に投函された時からその状態なのかはわからない。
掠れた宛名の字は酷く汚い。裏返し、差出人の名前に那津忌幸彦の字を見つけ、思わず眉が寄った。
那津忌の字は少々独特だが、几帳面で奇麗な字だ。こんなに乱れた字を書くような男だっただろうか?
彼は今入院中ではないのか。いつの間にか退院していたのだろうか。いや、これはもしや彼が自殺未遂をする前に、僕の所に送ったものではないのか……。
嫌な想像がよぎり、生唾を飲む。
とりあえずキッチンに引き返すと大掃除で使った黒いごみ袋を引っ張り出してきた。ゴム手袋をして、髪の毛をすべて、その中に放り込む。蓼丸さんは玄関用の箒で、床に散らばる髪の毛を集めてくれた。
ゴム手袋ごとゴミ袋に詰め込むと、何重にも口を結び、更にもう一枚ゴミ袋を重ねる。サンダルを履き、外に出ると玄関から裏手に回りなるべく家から遠い所にソレを投げた。
僕の家の扉には無数の手形がついていたが、正直そのくらいでは驚かなくなっていた。郵便受けから溢れる髪の毛を見た後では、手形のインパクトは薄い。
これも後で雑巾をかけることにして、ひとまずキッチンで手を洗った。
ダイニングの椅子に座り、珈琲を淹れてからひと思いに小包を開けた。後回しにしても、胃が痛むだけだ。
那津忌から送られてきた封書に入っていたのは、一冊の古びた帳面だった。
糸でかがられた紙の束の表紙には、何もかかれていない。
しかし僕と蓼丸さんは、すぐにそれが何かわかった。
「アヤエの、日記…………」
やはり、アヤエの日記は創作ではなく、存在したのだ。試しに開いた一ページ目には、何度か目を通してすっかり覚えてしまった文字が、読みにくい平仮名と片仮名で綴られていた。たしか、那津忌の原稿の序文では読みやすく記帳し直したという断りがあった筈だ。たしかに漢字がほとんどないいびつな文字の文章は、読みにくいという他ない。
だんなサマにカミをいただいた。いらなくなったモノだという。
――それは、確かにアヤエの日記という体で僕が那津忌から貰った原稿と、全く同じ文章だった。
「杜環くん、なんか、他に紙入ってるよ。那津忌さん、の手紙かな?」
蓼丸さんに指摘され、封筒の中に一枚のノートの切れ端が残っていたことに気がついた。
大学ノートを掴んで破いたかのようだった。そこには乱れた字で、一言だけ綴られていた。
「おしぼのさまが、探しに来る――」
背筋に、ぞわり、と悪寒が走るのがわかった。
おしぼのさまというものは、毎晩零時に来る、アレではないのか。そしてそれはやはり、那津忌の元にも訪れたのではないだろうか。
そうするとこの日記は、全ての元凶ともいえる、それこそ呪われた日記と言えるのではないか。その事に思い当たり、流石に抛りだしはしなかったが思わずそっと机の上に置いた。
ノートの切れ端のメモと、古い帳面を暫く眺めた。重い沈黙を破ったのは蓼丸さんだった。
「ちょっと……偶然っていうか、縁っていうか、ぼく、その、おしぼのさまっていうのに、ちょっと心当たりがあるんだけど」
それは、思いもよらない告白だった。
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