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おしぼのさま 15

   十五章 杜環  まずくろゆりさんに指示されたのは、術式に使う道具の準備だった。 「酒と塩と刃物を用意してください。塩は粗塩でなくてはいけないのですが、この際食卓塩でなければなんでもいいです。後は和紙。障子紙でもいい。筆と竈の炭か灰。探す事に時間が掛りそうならばいっそ、ツネさんか鈴子さんを先に見つけた方がいいかもしれない。葦切家の玄関は引き戸です。思いっきり蹴れば開く筈だ」  それは壊せということだろう。今更躊躇している時間も無く、言われたものを片っ端からスマホにメモすると、雪道を蓼丸さんと走った。  先ほど庭に居た女の様なものは消えていた。何処に行ったのか……と、上を見上げて、屋根の上に乗っている何かを見つけて、慌てて視線を外した。  昔ながらの横にスライドする扉は、縦方向の力に弱い。弱いと言っても、発泡スチロールや硝子とは訳が違う。  何度か挑戦し、やっと二人でドアを蹴破り、土足のまま葦切家の中を走った。  明かりが無いとはいえ、気味の悪いほどに暗い。  外はそれでも、月の明かりと雪の反射で明るかったのだと思い知る。蓼丸さんの携帯のライトが唯一の明かりだ。  やたらと暗いのは、窓がないからだ。雨戸のような頑丈なもので窓がほとんど隠されている。ほんの数カ所、小さな窓が天井付近に備え付けられてあった、が。 「――ッヒ……!」  そこにべったりと、覗きこむように女が張りついていたのを見た僕は、流石に足を止めそうになった。何かを喋っているのか、口らしき空間がもごもごと動いている。ぐっと窓に押しつけた顔と張りついた手が気持ち悪すぎる。  蓼丸さんも一瞬引いたが、すぐに持ち直したらしく僕の手を引いた。  ぎゅっと掴んでくれた体温のお陰で、見なかったことにはできないがとりあえず先を急ぐ事が出来た。流石に隣を通り過ぎる時は泣くかと思った。 「平屋で、二階はない。椿くんたちが泊まっていた離れの客室には、簡単な押入れも無い。隠れるところは何も無し。母屋の、奥の寝室かな。地下に何かあるってカンジでもないしね」  蓼丸さんの言葉通り、母屋の奥の部屋に進み、押し入れの中で縛られ失神している葦切夫人らしき女性を見つけた。  勝手に電気をつけ、そこが仏間だと知る。彼女の拘束を取った蓼丸さんは、結構容赦なく夫人の頬を叩いて意識を呼び覚ました。  目を覚ました夫人は、いきなり目の前に現れた見知らぬ男に動揺することはなく、むしろ安堵の表情を浮かべて泣きだした。  なんでも、押し入れに入れられた時は手足を縛られ、口枷をされていただけで意識はあったらしい。  彼女が気絶したのは、押し入れに入れられてから幾ばくか経ってから。ほんの五センチ程開いていた押し入れの隙間の地面すれすれのところに、にゅうっ、と、何かの顔が現れ、目があったからだという。  想像するだけでも怖い。どれだけ恐怖体験をしようが、怖いものは怖かった。 「今まで、おかしな事も多い家でしたが……あんなふうな、ものが、直接、というか……こんなに近くに出てきたのは、初めてです……何が、起こっているんでしょうか? ツネは? 黒百合さん達は?」 「その、ツネさんという方は一緒じゃないんですか?」 「私は一人で板の間に居るところを襲われました……ツネはその時、薪を取りに勝手口裏に行ったと思います」 「家の周りは、特別誰も居なかったと思うけど。じゃあ、別口でどこかに放り投げられているのかもね。僕はツネさんを探すから、杜環くんはご夫人と一緒にくろゆりさんに言われたものを集めて。あ、そうだまずは蔵の鍵。ご夫人、蔵の鍵はどこ?」  夫人に案内された箪笥の中には、結論から言うと蔵の鍵は見当たらなかった。ツネさんが持っているのか、それともくろゆりさんを監禁した人間が持ち去ったのか。おそらく後者だろうということで、ひとまず僕達は術式の準備をすることにした。  言われたモノを集めながら、夫人が片っ端から電気をつけて行く。  しかし、気がつくとその内数か所はいつの間にか電気が消えている。真っ暗な部屋の隅には黒い影が揺らめいている。電気をつけると消えるそれは、またいつの間にか暗くなっている部屋の隅で姿を現した。  実害のない怪奇現象はもう、無視するほかない。  くろゆりさんに言われたもののメモを三回見直し、見落としがないことを確かめ、全てのものを持って蔵の裏手に戻った。防寒具を着こんで懐中電灯を持った葦切夫人も一緒だ。  結局ツネさんは家の何処にも居なかった。彼女の安否は心配だったが、時間を割いてはいられない。どこかで生きてると信じるしかない。  窓に全ての材料を揃えた事と、夫人を見つけた事、そしてツネさんの所在がわからないことを告げると、くろゆりさんと思われる蔵の中の人は固い声で応じた。 「そうですか。ツネさんは、恐らく、家の中に監禁されていると思っていましたが……夫人の身を案じて、自ら逃げ出したのかもしれませんね」 「私の……?」 「ツネさんは葦切家の、というか、おしぼのさまの生餌だと考えられます。彼女がこの家から出なかったのは、足が悪いからではないでしょう。家の結界の外に出る事が出来なかった。憑女に見つかってしまいますからね。今、この家の結界は意図的に破られている。僕と春日くんを襲い鈴子さんを監禁した人間の仕業でしょう。この状況では、おしぼのさまが家の中に侵入し、ツネさんを探して災いを家に持ち込んでしまう」  イキジ、という響きには聞き覚えがあった。鞄に入ったままのアヤエの日記を思い出す。確かに、イキジとツクメという記載があった筈だ。 「彼女自身がそういう因果ではないのでしょう。生まれた時から、そういう血筋だったと考えるのが自然です。代々葦切家に奉仕している家系だと聞きました。生餌は代々その役割を子に移して継がれる、と、儀一氏が仰っていた」 「……待って、ください。おしぼのさまは、女性、ですよね?」  妙に引っかかった。おしぼのさまはツクメで間違いはないだろう。先ほど庭で見た着物の女がおしぼのさまではあることも、恐らく、間違いない。  アヤエの日記の三木という人物が葦切の家系だとすれば、アヤエは住み込みの手伝いとなる。ツネはアヤエの血族だと考えるべきだろう。  しかし、そうするとおかしな事が出てくる。  三木とアヤエは引き裂かれ、片方がイキジ、片方がツクメになった。アヤエがイキジとなったのならば、では、三木がツクメになった筈だ。  正式には女でなくともいい、と、くろゆりさんを襲った男達は言っていたらしいが、おしぼのさまに関しては男には見えない。あれは、女性だ。  三木は女性だった?  いや、しかし、アヤエと男女の仲になったような記述があった筈だ。三木もアヤエも女性という事は無い。奥さまと呼ばれる人物は、この二人が子を成すことを恐れていた。そこまで考え、はたと、アヤエの性別がどこにも書かれていない事に気がついた。  すっかり女性だと思い込んでいた。田舎の旧家の家政婦だと、勝手にアヤエの位置づけをしていた。  僕が慌てて鞄から日記を出すと、同じように黙り込んでいた蓼丸さんが隣から覗きこんできた。  最初の頁をめくる。酷く読みづらい、平仮名と片仮名ばかりの文字が並ぶ。 「…………あ」  唐突に声を上げた蓼丸さんが、ちょっと貸してと日記を手に取った。  ぱらぱらと捲り、細い指で、日記の一部分を指す。そこには、崩れたような『三木』の字がある。 「これ、漢字じゃないんじゃないかな。よく見たら、漢字なんてほとんど使って無いんだよ、この日記。名前だけ漢字だなんて、不自然だ」 「確かに、そうですけど……じゃあ、これは、」 「――シホさま、じゃない?」  シホ。確かに、言われてみればそう見える。『三』は角度があまりついていない不格好な『シ』に、『木』は繋がったような『ホ』に見えないことも、ない。  シホさま。しほさま。 「しぼさま……おしぼの、さま……?」  ぞわり、とうなじに鳥肌が立った。  那津忌の小説で読んだ事がある。地名や苗字は悪い意味等を隠す為、時折転じて似たような音や漢字に変わることがある。忌まれる名が、そのままの発音ではなく歪められて現世に伝わる可能性も、無くはないだろう。  シホさまは、アヤエを探している。  蓼丸さんは手に持っていた日記を、そっと蔵の壁に立てかけた。 「……供養とかした方がいいのかもしれないけど。今、それどころじゃないし。でも、持って行くの、絶対止めたほうがいいかなって思う、これ。とりあえず、置いとこ」  その意見には賛成だった。今はそれどころじゃない、というところも、まさにその通りだ。  シホさまだろうがなんだろうが、くろゆりさんの指示に従い術を返せないことには、僕と蓼丸さんの怪現象も解決しないだろう。どちらがどちらを巻き込んだのか。それとも、どちらも発端で、それが繋がっただけなのか、そんなものはもうどうでもいい。一蓮托生だ。  くろゆりさんに言われるままに、雪の上に酒を捲き、障子紙を広げる。キッチンにあったボールに酒と灰を入れて混ぜ、その液体を指になすりつけた。 「あの、この術ってぼく、必要?」  僕と鈴子夫人が言われるままに作業している途中、くろゆりさんに話かけたのは蓼丸さんだった。 「人を使う術ではないので、僕の手足の代わりに誰か一人いらっしゃればいいです。蓼丸さん、どこかに御用事ですか? 正直、この呪術返しをした後に、憑女やこの土地にいるものがどういう状況になるのかわからないので、一緒にいらっしゃったほうがいいとは思いますが」 「いや、でも、鍵無いと結局くろゆりさんそっから出れないですよね? 椿くんをうまい事奪還したとしても。石蔵の壁も扉も、古いとはいえ流石に蹴り破れないと思う……」 「それは、確かに――」 「この裏の山の上が祠でしょ?」  蔵の裏手の林を見上げる蓼丸さんに、嫌な予感がした。  雪の上には人が踏みしめた道が残っている。恐らく、その椿くんという人と、くろゆりさんを監禁した男達が通った跡だろう。 「蓼丸さん、まさか、殴り込みに、いくとか、言いませんよね……?」 「椿くんを助けに、なんて度胸はね、正直ないんだけどさ。儀式してる最中の人の中に、ここの鍵持ってる人がいるかもしれないんでしょ? じゃあ、まあ、様子見てくるのも有かなって思うから、行ってきます」  大丈夫武器は持って行くと言うけれど、そういう問題じゃない。酒と灰に濡れた手のまま、思わず引き止めそうになり、慌てて雪で拭った。 「ちょ、あの、無茶、です何言ってんですか……!」 「無茶かな。わりとなんとかなりそうかなって思うけど。いや、まあ、なんとかならなそうだったら帰ってきます。とりあえず見てくるだけだから、ほら杜環くん離して」 「僕も付いて――」 「だめ。ご夫人に何かあったらどうするの。大丈夫、ぼくはやばいと思ったらのこのこ帰ってくるから。ね。平気だから、杜環くんはここでくろゆりさんのお手伝いをしていてください」  窘められ、ぽんぽんと肩を叩かれると情けないことに鼻の奥が痛んだ。僕だけが情けない。でも手を離したくなくて辛い。  蓼丸さんは平気だというが、相手は男二人を襲って監禁している。常識が通じない人間だ。それに、人間じゃないモノも、確実に徘徊している。それに出会わないとも限らない。  行かせたくない。一緒に居てほしい。でも、そんなのは僕の勝手な我儘だし、今言い争う事じゃない。  どうにか納得するまで数十秒、その後十秒くらい蓼丸さんを抱きしめて、気をつけてとキスをした。 「……え、すごい、ときめく。何いまの。すごい。ちょっとどうしよう、めっちゃやる気になってきた」 「やる気出さなくていいんで、ほんと偵察だけにとどめてください。僕ももし扉が破れそうなら、くろゆりさんを助けて蓼丸さんに合流します」 「真剣な杜環くんかっこいいね。……別に死ぬ気とか命投げ出す気全然無かったけど、より一層ちゃんと帰ってこなきゃって思った」  行ってきますともう一度キスをして、蓼丸さんは飄々と雪道を歩いて葦切家に向かった。まずは、何か武器になるものを探すのだろう。  気を取り直してボールの中身に筆を浸す。鈴子夫人が恥ずかしそうにもぞもぞとしていたけれど、こっちも恥ずかしいので気がつかないふりをした。  僕達の会話が聞こえていたらしく、壁の向こうからくろゆりさんも声をかけてくる。 「蓼丸さんは本当にフットワークが軽い方ですね。僕は基本的に他人の恋路など興味はありませんが、杜環さんがもし蓼丸さんと何かしらの仲になりえそうだというのならば、僕は全力で応援いたします」 「……ありがとう、ございます?」 「どういたしまして。さあ、準備は整いましたかね。これから僕の言う字を、そちらに書いていただきます。ここからは杜環さん、そして鈴子さんも声を漏らしてはいけません。字を書きうつした後は、紙の四隅に塩を盛り、上部に刃物を置いてください。そこからは僕の仕事だ」  手が震える。寒さの為か、緊張の為かわからない。心臓がおかしな程鳴っているのに、何故か、頭はすっきりとしていた。蓼丸さんが一人で行ってしまったことで、僕もしっかりしなければと、自分を叱咤したせいかもしれない。  母屋の方から、唸り声が聞こえる。ちかちかと、付けっぱなしだった筈の電気が点灯している。嫌な気配が濃厚になり、鈴子夫人がしゃがみ込んで手を組み、祈るように目をつぶった。 「これより、術式を始めます」  それが、合図だった。

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