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おしぼのさま 16
十六章 坂木春日
頬を叩く誰かの手が、冷たかった。
というか、痛い。割と、全力で叩いてくる。くろゆりさんじゃない、と思ってから、そういや俺どうなったんだ、と考えた。
痛いということは生きているらしい。瞼が開かないので一晩経ったのかどうかわからない。身体は重い。熱はさらに上がっているようで、猛烈な寒気がする。
身体のだるさを自覚すると、感覚も戻ってくる。
寒い。風の音は、相変わらずだ。どうやら、すべて夢で今は自宅のベッドの上的な夢落ちは期待できないらしい。
起きなさい、と声がする。
ああ、俺、この声知ってるなぁと、やっと薄く眼を開けることができた。俺を膝の上に乗せ、ぺしぺしと頬を叩いていた人が泣きそうな顔で笑う。
「……ツネ、ばあちゃん……?」
「ああ、良がった。良がった。……生きておった……。良がった……っ」
じわりと潤んだばあちゃんの目から、ぼろりと涙が零れた。ぼろぼろとばあちゃんは泣く。もう俺は目が覚めているし生きてるのに、ほっぺたを叩かれて痛くて笑えた。
「ちょ、ばあちゃん、痛……生きてる、から、落ちついて、」
「……良がった……生きておった……間に合って良がった………」
笑ったら、変な所に空気が入ったらしくて噎せてしまう。
咳をしたら、急に熱が上がった感覚がした。肺と節々が痛い。一応生きてはいるけど、結構死にかけかもしれない。一刻も早く、せめて、上着を羽織りたい。
寒い、と呟いたらばあちゃんが自分の上着を俺にかけようとしたから、いやいや、ばあちゃんが凍死するから落ち着けよって押しかえす。俺の着替えた服は、一体どこに行ったんだ。
というか。……あの、爺さんたちはどうしたんだ、ツネばあちゃん。
まさか殺してきたとか言わないだろうなと不安になっていた所に、もうひとつ聞き覚えのある声が響いた。
「椿っ、くんっ、生きてるっ?」
「…………たでさん………………?」
暗い祠の中をライトで照らす人影は、間違いなく蓼丸サンだった。東京に居る筈の蓼丸サンが、なんで杷羽見村にいるのかわからない。わからないが、そんな事言ったら今何がどうなってるのか、さっぱりだった。
俺は憑女祈願だとかで祠に置き去りにされた。暫く寒さに耐えながら、どうやって逃げようか考えていた。ふと、蝋燭が消えたのは覚えている。
その直前に、俺の真後ろに佇んだ、あの、嫌な気配も。
アレがおしぼのさまなのだろうか。俺は、憑かれなかったのか。……考えたくても頭がぼんやりしてよく思い出せない。
「ああ、死んでないけど死にそうだね、ちょっと、大丈夫? 思ってたより酷いじゃないか。ほら、ぼくのジャケット着ときなさい」
「たでさんが、凍死する……」
「しませんよこのくらいじゃ。ぼくはね、いま運動したばっかりだし、ちょっとわりとなんでもできそうなテンションなの。ていうか、外やばいよ。早く戻って、キミの彼氏を蔵から出さないと。ツネさん、歩けますか」
俺に自分のジャケットを着せた蓼丸サンは、いくよと声をかけて肩まで貸してくれる。足に付いていた枷を外し、ツネばあちゃんと蓼丸サンに挟まれるように歩いた。洞窟は短い。すぐに出口に到達する。
夜はまだ明けていなかった。暗い闇を、月と雪の反射がぼんやりと明るくしている。
出口に二人の爺さんが倒れていた。洞窟に近い方にうつ伏せに倒れているのは儀一のようだ。
思わず、蓼丸サンを見たらぼくじゃないよとすぐさま否定された。
「いや、まあ、半分くらいぼくだけど。死んでないから大丈夫。たぶん、死んでない、はず。この洞窟の手前まで来たところで、このおばあちゃんが、一人で戦ってるのが見えてね。慌てて加勢して思いっきり腰とか足とかぶんなぐっちゃったの。頭は避けたから痛みで気絶してるだけじゃないかな、ていうかそうだと嬉しい」
まあついでに蔵の鍵も奪えたし、結果オーライオーライ、といつも通りのテンションで喋る蓼丸サンの横で、ツネばあちゃんは拝むように腰を折って頭を下げた。
「このおにいちゃんが来てくれなんだら、ツネは爺共を殺していたかもしれませんて……老いぼれ一人、全力でやらな、こっちが死んでまう」
「そらそうだ……ていうか、なんで、ツネばあちゃんがここに……?」
「椿くんを助けに来たんでしょ。ツネさんは、多分、鈴子さんが襲われるのを見てとっさに身を隠したんじゃないかな。そして機会を見て、みんなを助けようと思った……んだけど、大変な事にくろゆりさんの監禁されている蔵の鍵は無いし、鈴子さんが押し入れに居る事がわからなかった。だから、キミを助けに来たんだと思うよ」
今、何がどうなっているのか、蓼丸サンは珍しい早口でさっと説明してくれる。
鈴子さんは母屋の奥の押し入れに縛られたまま放置され、ツネばあちゃんは行方不明だったらしい。ばあちゃんは蓼丸サンの言った通り、客間の物置に潜んで儀一たちをやり過ごし、そして俺を助けにきたのだという。
「ツネさんはすごいよ。あの家から出て、動けば、おしぼのさまが追いかけてくるのを知ってたのに。よく、椿くんを助けなきゃって思えたと思う」
「え。おしぼの……?」
「椿くんも見たんじゃない? 長い髪の着物の女の人っぽいアレ。アレの、餌っていうか、こう、アレが寄ってくるキーがツネさんの家系っていうか……いいや、詳しい話も説明も生きて帰ってからにしよ。とにかく今は帰ること。ちなみにキミの彼氏が、今、わりとヤバい呪術を決行しているみたいで、この村どうなるかわっかんないらしいので一刻も早く戻ろう」
「……くろゆりさん何してんの……」
「冷静装ってたけどわりとキレてたよ、アレ」
だから一刻も早く帰ろう、と蓼丸サンが俺の手を引く。しかし俺も、ツネばあちゃんも、洞窟前から動かない。
動けない。――俺の右足と、ツネばあちゃんの左足は、洞窟からずるりと伸びた手に掴まれていた。
最早恐怖よりもフザケンナという怒りが沸き上がる。
ふざけんな。何が儀式だ。知るかよ。関係ねえよ。俺もくろゆりさんも関係ない。鈴子さんだって関係ない。鈴子さんは、鴻偲さんに惚れて結婚しただけだ。ツネばあちゃんは関係あるのか知らんけど、こんな良いばあちゃんが、幽霊だか妖怪だか憑きものだかのせいでこんなに疲労してるのは絶対におかしい。
ツネばあちゃんは優しい。食後のお茶は、ちょっと温めで淹れてくれる。舌を火傷すると困るからと笑う皺が可愛くて、好きだ。
手を振り切るように足を進めると、俺を捕まえることを諦めたらしいソレは、ツネばあちゃんの両足を掴む。
誰が渡すか、ばあちゃんの人生は、ばあちゃんのもんだ。
「ふっざけんな……っ、離、せ!」
後にも先にも、幽霊らしきものの手を思いっきり踏んづけたのはこれが最初で最後だと思う。しかも俺は裸足だった。妙にぬるり、とした嫌な感触がした。冷たくも暖かくもない、まるで濡れた木のような感触の長い手がばあちゃんの足を離した瞬間、蓼丸サンと二人でばあちゃんを引きぬく。
「ちょっと、蓼丸サンばあちゃん背負って!」
「……がんばってみるけど、ぼく体力要員じゃないから、途中で転んだらごめん」
「地面雪でもっさもさしてっからしなねーよ平気だって。つか俺の靴何処だよ!?」
不安な事を言いつつも、黒いセーター一枚の蓼丸サンはツネばあちゃんを軽々と背負う。
「明日筋肉痛だなぁこれ……」
「明日が無事に来ればいいよな。なんか、すんげーざわざわしない? 後ろとか。あと、なんか、木の上になんか見える気がするし、時々、なんかぶら下がって無い?」
「気のせいだよって言いたかったなぁ。ぼく、わりと鈍感だと思ってたんだけどね、椿くんとくろゆりさんに会ってから、随分と敏感になっちゃってさぁ」
「なにそれ俺も被害者側に混ぜてよ。つか、くろゆりさん何したの!」
「呪いを跳ね返すってさ。葦切に集まった憑女の呪いを、全部奇麗に徹底的に跳ね返して混乱を――……あ、いやまって喋ってる場合じゃない、な?」
ばあちゃんを背負ったままの蓼丸サンが、急ぎ足で山を下り始めた。慌ててそれについていくと、後ろから俺達を追いかける人の声がした。
幽霊とかそういうのじゃない、生身の人間だ。どうやら、あの二人以外の爺さん達が追いかけてくるらしい。
「椿くん、下まで行けば、みんな、居るから! ツネさんを、他の人に任せたら、背負って行ってあげるから、ちょっと下行くまで、がんばって、ついてきて……っ」
言われなくてもそのつもりだ。
頭は痛い。ぐわんぐわんする。熱いのに寒気はするし、指の震えは止まらない。最高に具合が悪いことなんて分かりきっている。そのうえ裸足だ。
それでも俺は走るしかない。
雪道のコンディションは最悪だ。一回溶けた雪が夜の低温でまた固まり、ざらざらした氷の結晶が足の裏につきささる。まるで砂利の上を走っているようだ。なりふり構わず走っているせいで、もしかしたら皮膚が切れているかもしれない。痛みなんて感じている暇はないし、後ろを振りかえっている余裕もない。
前だけを見て走った。蓼丸サンに背負われているツネばあちゃんが、必死に何かを唱えているのは聞こえた。
必死に走って、つまずいて、手をついて、また走って、ふらついて枝にぶつかりながら、やっと蔵が見えてきた所で蓼丸サンが叫んだ。
この人が声を張り上げるのを、初めて聞いたかもしれない。人生初の体験が盛りだくさん過ぎて、お腹がいっぱいだ。
「鈴子さん! 鍵!」
ばあちゃんを背負ったまま、蓼丸サンが器用に投げた何かを、蔵の横に居た鈴子夫人が見事受け取る。
蔵の表へと走る鈴子夫人の背中を見ていたら、急に安心したのか俺は膝から崩れ落ちた。
鈴子さんの横に居た男性が、駆け寄り俺を背負ってくれる。誰だか知らないけれど、他人の体温は酷く暖かく、まるで魚にでもなったような気分だった。
「春日くん……!」
蔵からやっと出て来れたらしいくろゆりさんに呼ばれて、なんとか意識を手放さずに顔を上げる。
珍しすぎる真剣な顔に、笑ってやりたいのに顔の筋肉が凍った様に動かない。
助けに来るとか言ったのにこのざまで、結局俺はツネばあちゃんと蓼丸サンに助けられたけど、とりあえず生きて帰って来たし、くろゆりさんも死んでないし、上々なんじゃないのかなぁと思った。
上々だ。誰も死んでない。あとは、死なないまま、こんなクソみたいな村を捨てるだけだった。
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