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おしぼのさま 17

   十七章 杜環  蓼丸さんの声が聞こえた時、僕は震える鈴子さんを抱えるように支え、蔵の壁を背にくろゆりさんの唱える呪文のような声を聞いていた。  彼の言うとおりに術式は完了した、筈だった。  言われた通りのカナと漢字を雪の上に広げた紙の上に書いた。紙は次第に雪で濡れて、灰を溶いただけの液もほぼ色がなく扱い辛かったが、見えなくてもいいからとにかく書けと言われた。  全ての準備を終わらせた段で、くろゆりさんが何かを唱えた。それは、今までの緩やかな文言とは違う、確実に何か力を持った言葉だったと思う。  僕には霊感なんてものは無い。第六感は存在しているかもしれないが、個人的に感じた事は無い。それでも、この時は確かに空気が変わる瞬間を感じた。  一瞬、ざわついていた夜の空気がシン……っと静まった。そしてその後、術式開始以上にざわめきが強くなった。  風もないのに、木々が揺らぎ木の葉がざわめく音がする。裏の山の上からそのざわめきは駆け抜けるように村に降りてきた。ひたり、と首の後ろに冷たさを感じたのはその時だ。  同時に、夫人の小さな悲鳴が聞こえた。首を動かさずに彼女の方に視線を向けると、彼女は蔵の上を凝視していた。その後、僕の方を見てまた悲鳴を呑み込んだ。どうやら、僕の後ろにも何かがいるらしい。  その後に聞こえてきたくろゆりさんの呪文のようなモノのお陰か、後ろの気配も首筋の冷たさも、蔵の上に居たらしいモノも無くなり、僕と夫人は震えるように蔵を背に抱き合った。蔵の中にはくろゆりさんが居る。蔵方面から、何かが襲ってくることはないだろうと考えた。  呪いを返す。その事が、何を招くのか。やっと僕の脳味噌は考え始める。  人を呪わば穴二つ、という言葉がある。これは、人を呪う時はその呪いが返り自分も死ぬ覚悟で、墓穴を二つ掘っておけという意味らしい。この事を僕はネットで知ったのか、それとも何かの本で読んだのか、那津忌に酒の肴に聞いたのか、覚えてはいないが……。  呪いとは跳ね返るものだ。決して、無くなったりはしない。呪いをかけた相手がその呪いを逃れた時は、行き場の無くなった呪いは呪った方に返ってくる。と、そう聞いた。  くろゆりさんは今、何の呪いを跳ね返したのか。  それが、この葦切という家に掛けられた、歴代の憑女祈願の呪いだとしたら。葦切家は、この村は、どうなってしまうのか。うすら寒い妄想にとりつかれ鈴子夫人の腕を強く掴んだ時に、山の上から蓼丸さんの声がしたのだった。  彼は誰かを背負っていた。その後ろから、たどたどしい足取りで走る青年も見える。背負っている人物が椿さんだと思っていたので、僕は思わず首を傾げてしまった。  鍵をキャッチした夫人は、すぐさま蔵の表に回る。駆け寄ると、蓼丸さんが背負っているのはお婆さんだということに気がついた。お手伝いの、ツネさんに違いない。 「杜環くん、ごめ……ちょ、しんどい、椿くん、助けてあげて……」  息も絶え絶えに山を降りてきた蓼丸さんの指示に従い、着物の青年に駆け寄り背負った。肩を貸すとかそういう次元じゃなかった。この極寒の中、彼は裸足だった。  手足は氷のように冷たいのに、吐く息が熱く肩に触れる。  どうもすいません、と弱々しく喋っては居たが、相当体力を消耗している様子だった。 「春日くん……!」  凛、とした声が響いた。  その声に、僕が背負った青年が反応する。顔を上げたらしい彼は、声の主である黒い服の男性を見やると、安堵したように笑った。 「……生きてんじゃん」 「僕は元々殺される予定ではありませんよ。キミこそ生きていますね? どこかおかしなところはありませんか?」 「あー……あるかも。なんか、くろゆりさんがわりと必死な顔してるとことか、個人的に夢かも感ある」 「夢ではなく現実ですし事実驚く程必死です。他人の生命をこんなに心配したのは恥ずかしながら人生で初めての経験です。それだけ喋れるのならばとりあえずは大丈夫と判断します。僕がキミに膝をついて謝るのは帰ってからですね。まさか、本気で生死をかけた冒険になってしまうとは思ってもみませんでしたが、こうなれば一蓮托生の勢いで皆さんにはもう少し頑張っていただきます」  この黒い服のやたらと美形な男性が、くろゆりさんで間違いない筈だった。  寒い中、黒いシャツと黒いスラックスだけだったが、椿さんに上着を貸しているらしい蓼丸さんもセーター一枚だ。馬鹿みたいに寒そうでこっちが辛くなってくる。それでも、上着を取りに家に戻っている場合ではないことくらいは分かる。  各々再会を喜んでいる場合ではなかった。肩で息をする蓼丸さんが、申し訳なさそうに皆を敷地の外に促す。 「若さだけで巻いてきたけど、追手がかかってるんだよね……いつ、儀一さんとやらの仲間が追いつくかわからない」 「その上僕が全力で返した呪いが村に影響を与え始めています。僕と杜環くんで車まで走ります。幸い、僕達は多少体力が残っている筈ですから。蓼丸さんは、申し訳ない。少し辛いでしょうが、春日くんとツネさんをお願いします。夫人は、その間に身の回りのものを――」  テキパキと指示するくろゆりさんに、名指しされたご夫人は、蓼丸さんが背負っているお婆さんの手を握りながらきっぱりと言った。 「持って行くものなど、命とツネ以外にありません」 「……ならば話は早いです。僕達の荷物も捨てて行きます。すぐに動けるのならば走らなくて結構なので、できればバス停までなるべく移動してください。ツネさんは、声を出してはいけません。息を止める必要はありませんが、絶対に、喋ってはいけません。いいですね。……春日くん、生きてますね?」 「……いきてる。くっそさむいけど、これ死んでたらさむいとか感じねーよな……? 現実まじくそさむい……」 「生きた心地がしないのはこちらの方です。無理はしないこと。全力で蓼丸さんと鈴子さんを頼りなさい」  全ての電灯をつけたはずの葦切家は、今はすっかり真っ暗だった。あの中に籠城しても、たぶん、良い結果にはならないだろう。家ごと捨てる事になる。それでも、鈴子夫人はお婆さんの手だけをしっかりとにぎっていた。  僕とくろゆりさんで車を取りに走り、無事、停めた状態そのままのレンタカーまで辿りついた。エンジンが掛ることを確かめると、すぐに走って来た道を引き返す。  呼吸がなんとか整うと、少し、落ちついてくる。それに、くろゆりさんという人物の存在は、僕の心に余裕を与えてくれた。  術者というものが、どの程度信頼できるものか僕にはわからない。  心霊番組は昔から苦手であまり見ない。子供の頃に母がおもしろがって見ていたホラー特集のバラエティでは、いかにもというような霊能者がよく出演していた。  霊に共感し、時には話を聞くように頷き、彼らの声を聞くようなそぶりを見せる。子供ながらに、うさんくささを覚えていたものだが、実際目の前に居る男性は、僕のイメージする霊能者とは随分とかけ離れていた。  人目を引くような、俳優かモデルのような顔立ちだった。手足が長く、頭が小さい。同性から見ても美しいと評すしかないと思う。  霊能者というのは地味で冴えない外見の中年男性、または女性、と思っていたので、くろゆりさんの外見は僕を驚かせた。  蓼丸さんの口ぶりから、若い人らしいというのは察していたが。那津忌と同じくらいの歳かもしれない。  くろゆりさんは僕に見えない事象を説明したりしない。何処に、誰がいて、どう思っているかなどは言わない。そんな説明をしている暇がなかったと言えばそれまでなのだが、霊能者というものはもっと、感覚的に喋る人達だと思っていた。  車を慎重に急がせながら、そんな事を簡潔に呟くと、助手席のくろゆりさんが応えた。 「僕は、皆さんが思うような霊感と言うモノがわりと少ない方なんですよ。誰がどこにいらして何を訴えているのか、などほとんどわかりませんね。そういう能力が備わった人も、世の中にはいらっしゃるのかもしれませんが、とりあえず僕にはできない。感覚的に、何かいるなというくらいには敏感ですが、少々鋭敏な子供程度でしょう」 「それで、霊能者になれるんですか?」 「正確には僕は呪い屋ですが――、なれるかなれないかと言われれば職業とするのは可能です。事実僕はそれなりに繁盛していますし、きちんと仕事をこなせている。除霊と言ってもそれは経験則で方法さえわかればただの作業ですからね。そこに居る何かが何を訴えているのかわからなくても、その何かを追い払ったり、縁を切ったりということは可能です。まあ、漢方みたいなものですね。何が作用しているのか原因は何なのかわからなくても、個々の症状に効くと言われている漢方が処方される」  彼の説明は、わからなくもないものだったが……漢方と、幽霊退治を一緒にしていいものか、僕は少し首を傾げる思いだった。この辺の事は少し興味深いので、後で、蓼丸さんにも聞いてみたいことだった。  そういえば蓼丸さんも少し、霊感のようなものが移って来た、と言っていたことを思い出した。 「僕よりも、春日くんの方が余程霊感がありますね。彼はわかりやすく目にするタイプです」 「ええと、椿さん、ですよね。くろゆりさんは、感じる。椿さんが、目にする? そういう役割分担?」 「いいえ、お仕事のパートナーではありません。ただ、僕が彼に隣にいてほしくて連れ回しているだけです」 「……それは、えっと。恋人、とかそういう……?」 「そんなつもりは毛頭なかったんですけどね。どうも僕は、彼を手放す気が無いようなので、少し、今後の人生というものを練り直さなくてはいけないかもしれない事態ですよ。まずは、今後の人生というものを継続させていく為に、こちらの村から無事逃げ出すことが、第一ですがね。貴方と蓼丸さんの為にもね」 「くろゆりさんは、蓼丸さんと親しいんですか?」 「いいえ。特別親しいということはありませんね。個人的な繋がりとしては、無数にいる知り合いと依頼人の中間くらいの位置です。ただ、春日くんが妙に懐いているので非常に腹立たしいだけですよ。大変ストレートなただの嫉妬ですのでどうぞ全力で彼を落として下さいね」  ずっと真剣だったくろゆりさんが、この時だけ一瞬笑った気配がした。僕は前を見て運転していたので、彼の顔を直視していない。それなのに声色だけで赤面してしまいそうだったので、美形というものはすごいな、と、モノ書きらしからぬ端的な感想を抱いたものだった。  そうこうしているうちに、もつれるように固まって歩く二つの影を見つけた。  ツネさんは鈴子さんに、椿さんは蓼丸さんに背負われている。背負っている二人はもう体力の限界なのか、相当にふらふらしていたが、それでも足を進めていた。  もしどこかで迷ったら困る、という判断で、多少の食糧と毛布を持ってきていた。後部座席に倒れるように乗り込んだ椿さんは毛布にくるまり、くろゆりさんの代わりに助手席に座った蓼丸さんは水を一気に飲み干した。 「…………大運動会した……命をかけた大運動会とか、ほんと、ごめんこうむりたいよ……」 「お疲れ様です……大丈夫ですか、あの、怪我とかは……っ?」 「わっかんない。どっかすりむいたり打ったりとかはしてそう、だけど、折ったとか動かないとかそういうのは無い筈……いや、わかんないけど。そんなことより、寒いし、怖い。なんか、ぞわぞわするんだよ。空気がずっとぞわぞわしてて、民家もね、真っ暗なのにその暗闇の隙間から何かがもごもご動いてるのが見えるもんだから、もうほんと、ここは地獄かって感じで……」  僕達が一息ついている間に、外に出たくろゆりさんは先ほど掴んできた酒を口に含み、和紙に吹きかける。それを、車のドアの隙間にべたべたと貼り始めた。  その作業が一通り終わると、定員オーバーでぎゅうぎゅうの後部座席に乗り込み、中からもドアに和紙を貼る。 「……正式なお札が全て荷物の中なので、気休めですが、やらないよりはマシでしょう。僕は、先ほどお話したとおり知識はありますが、霊感と言うような個人の特殊能力は非常に低いです。要するに、道具がないと非常に心もとない。魔除けの呪文くらいは言えますがね。そんなわけで、ここからが皆さんの正念場です」  くろゆりさんの指示で、僕は車のアクセルを踏んだ。普段は絶対にしない速度で切り返し、来た道を出来うる限りの速さで戻る。知らない山間の村で、しかも雪道だった為にアクセル全開とはいかないのが、もどかしい。 「これから僕達はこの杷羽見村を出ます。村と、下界の境界線まで行けば、恐らくそのまま逃れられる。ただ、そこまでは確実に追いかけてくる筈です。こちらには、生餌がいる」 「――おしぼのさまが、探し当てて、追いかけてくる……?」 「まさにその通りですよ、蓼丸さん。おしぼのさまは、ツネさんを探している。先ほど葦切家に貼ってあったお札を少々拝借してきましたので、気休めに車に貼っておきました。多少は効果があるかもしれませんが、わかりません。ツネさん、憑女避けの祝詞を僕に教えてください。その後は、貴方は一言もしゃべってはいけない。春日くん、鈴子さん、なるべくツネさんを覆うように抱きしめていてください。彼女を連れて行かれたくないのならば、離してはいけない。杜環くんは運転の際に行き先を塞がれるかもしれませんが、相手は人間ではありません。決して、惑わされないように」 「あの、くろゆりさん、ぼくに何かできることは?」  助手席の蓼丸さんがようやく落ちついたらしい声で問いかけると、くろゆりさんは間髪入れずに応じた。 「蓼丸さんは杜環くんの手でも握っていてください。少々浮かれたくらいが、怪異には強くなれる」 「…………なるほど」  素直に僕の手を握ろうとするものだから、事故るんでほんと止めてくださいと懇願する羽目になった。  椿さんがふははと笑う声がする。鈴子さんがどんな顔をしているのか確認するのは怖かったが、座席の後ろからじんわりと見守るような雰囲気を感じてより一層恥ずかしくなった。  僕はあまり楽観主義では無い筈なのに、大丈夫、どうにかなると思えた。

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