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おしぼのさま 19
十九章 杜環
蓼丸さんと再会したのは、例の一件から一カ月後のことだった。
正直、ここまで会えないものだとは思っていなかった。杷羽見村から逃げ帰った日、帰宅したのは夜が明ける頃だった。
道順を考えて、まずは蓼丸さんを送り、その後にくろゆりさんの事務所に他の皆さんを降ろした。流石に、他の人の前で蓼丸さんを口説くわけにもいかず、次の約束は出来ないまま別れた。
僕は比較的時間が自由な職業だったし、蓼丸さんもフットワークが軽い人だ。他県に住んでいるわけでもないし、会おうと思えばすぐに会える。そう思っていたのに、中々、連絡をするタイミングがつかめなかった。それは単に僕が奥手で、電話が苦手だという事だけではない。
あの村から帰った翌日、寝て起きてを繰り返し一日を消費した。僕が外出したのは、天井がへこんでしまったレンタカーを返しに行った時だけだ。ちなみに天井のへこみは保険免責で想像以上に安い料金で許してもらえた。
きっと皆、そんな状態だったのではないか。僕は珍しい長距離運転でへとへとだったし、助手席でずっと起きていてくれた蓼丸さんは更に辛かったことだろう。何と言っても、人間を背負って雪山を駆け下りてきたのだ。
一日を睡眠で費やし、次の日の昼ごろに蓼丸さんに電話を入れてみた。個人的には随分と勇気を振り絞った選択だった。こんなに早く連絡を入れるなんてがっついていると思われるだろうか、と、携帯電話と三十分見つめ合ったが、結局恥ずかしい奴だと思われても良いから会いたいと思った。
十数回コール音を聞き、結局蓼丸さんの声は聞けないまま電話を切った。彼から折り返しの電話が来たのはその夜の事で、僕は運悪く入浴中だった。
留守番電話に残っていたのは、『インフルエンザにかかりましたのでちょっとおうちでねてますごめんね』というふわふわした声のメッセージだった。
お見舞いに、とも思ったが、ウィルスを貰ってきても逆に迷惑なのではないかと思って踏みとどまった。医者には行ったようだし、体調もそこまで悪くは無いという旨も伝言メモに入っていた。電話以外の連絡先を聞き損ねていたので、とりあえず来週また連絡してみよう。そう思ってひとまずは仕事に精を出すことにしたのだが――。
その数日後、那津忌の失踪が知らされた。
この一件のおかげで、僕の方に暇が無くなってしまった。彼の失踪を知らせて来たのは警察だった、というか、警察の捜査の一環で僕に声が掛ったらしい。
那津忌が入院先の病院から姿を消したのは、自殺未遂をした翌日の事だったのだという。僕が見舞いに顔を出した時には、まだ彼はベッドの上に居た。その後に那津忌は、誰に目撃される事も無く夕方の検診までに姿を消していた。
病院側では入院患者が勝手に帰ってしまうことはよくあるらしく、家族に連絡してそれだけだったのだという。那津忌の入院費は担当編集者が払ったので、病院からの通報はなく、結局そこかしこを調べまわりどうしようもなくなった編集者がやっと、警察に連絡したとのことだった。
特に那津忌は、取材と称してふらりと連絡を絶つことが多かった。自殺未遂で緊急搬送、などという事件の後でなければ、担当編集者も放っておいたに違いない。
やっと動いた警察は、最新作の共同作業者である僕に連絡を取って来た。最後に彼に会ったのは僕で、しかも、最期の仕事を手伝っていたのも僕だった。友人と言っても、結婚式に招かれる程ではないだろう、などと僕は思っていたのだが、どうやら彼にとって僕は、相当仲が良い人間の一人であったらしい。
ほとんど最重要参考人扱いで警察に引っ張られ、数日間心当たりを一緒に探すハメになった。
それに加え、急きょ新しい雑誌への寄稿が決まった。他の作家が急に降りたとのことで、かなりタイトなスケジュールが組まれた。
僕は一度原稿を書き始めると、本当にそれしかしなくなる。朝起きて、夜寝るまで、食事と最低限の移動以外はほとんどキーボードに向かっている、という生活をするものだから、蓼丸さんに連絡をしたくてもできない日々が続いた。
声を聞く時間くらいはあるが、会う時間は確実に取れない。一度声を聞いてしまえば絶対に会いたくなると知っていたので、脱稿までの数日間は涙を飲んで原稿に集中した。
結局、那津忌の手掛かりは一切見つからず行方は分からぬまま、僕の新作は無事脱稿した。
それが一週間前の事だ。それから慌てて蓼丸さんに電話して、忘れられてたらどうしようかと思ったと笑う彼に、いつなら暇かと予定を擦り合わせてやっと今日を迎えた。
蓼丸さんの家は、本当に奇麗なアパートだった。女性がターゲットなのだろうなぁと思う洒落たエントランスと厳重なロックシステムに、今度何か書く時は参考にしようと思ってしまう。
インターフォンを鳴らし、杜環ですと名乗ると床を走る音が聞こえる。夕飯を一緒に、という算段だったので、僕は手土産にワインを下げていた。
シャンパンはちょっと張りきりすぎだし、日本酒は渋すぎると思って、少し気障だけどワインで妥協した。人づきあいの経験が浅いと、こういう手土産一つでも半日迷ってしまう事になる。
扉の先に居る蓼丸さんは、何故か一瞬止まった様に見えた。
「こんにちは、あの……あの、どうかしましたか?」
まさか僕の後ろに何か良からぬものが見えたりしたのだろうか……と不安になったが、すぐに視線を逸らしながら大変恥ずかしそうにいや、と続けた。
「ちがう、えーと。あれ、杜環くんこんなにイケメンだったっけ? ていうかぼくちょっと浮かれすぎだなぁ落ちついた方が良いなぁって思ったら急に恥ずかしくなっちゃってさ、あ、今日はわざわざ来てもらってありがとう。とりあえず入って。狭い部屋だけど」
いきなりそんな可愛らしいことを言われてしまって、僕もどうしていいかわからない。玄関先で赤面するのも申し訳ない。お言葉に甘えて靴を脱ぎ揃え、奇麗に整頓されている部屋にお邪魔した。
僕の家は奇麗というか、あんまり物を散らかさないようにしているだけで別に整理整頓されているわけではない。対する蓼丸さんの部屋は、インテリアの趣味が格好良くて、センスの良さを感じる。
壁際にはローソファーが据えられているのが見えた。あれが最近買ったと言う高いソファーだろう。僕の家の家具屋でたたき売られていたソファーとは、確かに風格が違う。
なんてことを思っていたら、急に抱きつかれて壁に背を打ち、危うく変な声が出そうになった。
「ちょっと、ごめん、もー……あー。待って。ぼくが落ちつけない」
僕の肩口に鼻を埋めてもごもご喋る蓼丸さんに、否応なく体温が上がってしまう。
「いや、この格好僕も落ちつけな……蓼丸さん、あの、」
「ちょっと杜環くん堪能させてください。一カ月って長いね。いやぼくがインフルエンザウイルスに見事やられたのがまず悪いんだけど……杜環くんがぼくのこと忘れちゃったらどうしようかって気持ち悪い心配してたんだよね、ずっと。おかしいなぁ、ぼく、こんな未練たらしいタイプじゃなかった筈なんだけど。杜環くんってさ、適度に甘くてかわいくてかっこいいから、癖になるっていうか。うーん」
「……蓼丸さんは今日も僕に甘い」
「甘いかな。……甘いかも」
ふふ、と甘く笑った彼は、そのまま僕の唇に柔らかくキスをした。ほんの一瞬驚いたけれど、流れるように自然に唇が重なったので、僕も自然にそれを受け入れた。
蓼丸さんの舌がぬるりと動いて、少し苦いような甘いような味を残す。煙草を吸っていたのかもしれない。
官能的で甘いキスの合間に、僕は蓼丸さんの細い腰を抱きよせる。女性程細くは無いし、筋肉も付いている。骨ばった感触は男性のものだ。でも、とても色っぽいし奇麗だと思う。
お互いの身体も絡み始めた段階で、甘い音を残して蓼丸さんの唇は離れた。額をくっつけ、至近距離で笑う息が酷く艶めかしいのに何故かかわいい。本当に不思議な人だ。
「……壁際でキスっていうの、ちょっと、やってみたかったんだよね。あざといっていうか、官能的っていうか?」
「他に、やってみたいこととか、ありますか?」
息も整わない声で僕が訊くと、濡れた唇で仄かに笑った蓼丸さんは目を細めた。
「ソファーの上に押し倒されて告白、とか?」
「…………ハードル下げられませんか……」
「随分と低めに設定したんだけど。ダメ?」
僕の首に腕を巻きつけたまま、こくん、と首を傾げられるともうだめだった。理性なんて大層なもの、この部屋に入る時に捨てる勇気はできていた。
お姫様だっこできたらちょっと面白かったかもしれないけれど、落としたら大変なのでキスをしながら蓼丸さんを誘導し、ローソファーの上に座ってもらう。そのまま、ゆっくり押しかかると、僕を見上げた蓼丸さんがちょっとと声を掛けてきた。
「思った以上に、ちょっと、アレ、うん、待って待って」
「待ってたら多分もう一生勇気でないんで待ちません」
恥ずかしくて顔は見れない。覆いかぶさるようにぎゅっと抱きしめた。
「この一カ月会いたくて会えなくておかしくなるかと思いました。いつでも蓼丸さんに会える権利を、僕にください。……あなたを、僕だけのものにしたい」
最後にほんの少しの勇気を振り絞って、掠れるような小さな声で好きですとつけたすと、蓼丸さんの熱い頬が僕の首筋に擦りつけられた。
熱い。かわいい。……とてもかわいい。
モノ書きなのに、他に言葉が出てこなくて馬鹿みたいだ。
「……期待以上すぎて死にそうだよ、もう……あーあーもー……かわいい。好きです。ぼくも好き。なんか、杜環くんって丁度いいって言ったら失礼なんだけどさ。丁度良くかわいいのに、真面目で、格好良くて気持ちいいんだよなぁ何かなぁこれって、最近考えてたんだけど。結局、ぼくが君に惚れちゃってて、そんで、相性が良いってだけなのかもね」
相性、と言われてなんだかとても納得してしまった。蓼丸さんは今まで僕の周りに居なかったタイプで、今でも外見は派手だと思うし、なんで好きになったのかなぁと不思議に思う瞬間がある。
でも、隣に居るとすっと馴染む。自然に手が伸びてしまうようなこの感情はやっぱり恋とか愛とかそういうもので、お互いにそうだというのならばそれは相性なのかもしれない。
僕の首筋に悪戯にキスをしかけてくるものだから、仕返しに腰を撫でると『えっち』だなんて言う。足を擦り寄せてくる癖に。
「幽霊騒動で恋人が出来た、って、事実は小説より奇なり?」
「ほんとに。文芸っていうよりは、ライトノベルかなって感じですけど。でも今、ライトノベルに文芸層を取り込んでいこうっていう流れ結構あるし……」
「急に入った仕事って、結構若者向けの新レーベルの雑誌の仕事でしょ。杜環くんの小説が載るなら買おうかなぁ」
「いや、あの、だめ。だめです。結構今回無茶苦茶に書いたんで、あんまり僕っぽくないというか……っ」
「え。でも他の本全部読んじゃったし」
「全部。読んだ?」
「読んだよ。寝こんでいる間暇だったし。元々二冊くらい持ってたんだけど、それの再読と、既刊全部ネット書店で頼んで読んだよ。あ、後でサインください。蓼丸さんへ、でもいいけどどうせなら本名がいいかなぁ。ぼくのこの名前、すっかり板についたけどあだ名だったってこと思い出した」
「あ。そう言えば、僕もペンネームだ」
「……自己紹介から始めようか?」
ふははと笑った蓼丸さんは、でも、その前にもう一回キスしようと僕の首に腕を絡めた。
後味の悪い一件だった。くろゆりさんからはあの後、丁寧に今回の一件の説明をいただいていた。葦切家も、杷羽見村も、どうなったのかわからない。縁が繋がるとまた何か良からぬものを引っ張る事もあるので、なるべく杷羽見村に纏わるものには関わらない方が良いとの、助言をいただいた。
那津忌幸彦は失踪したままだ。僕は定期的に、彼の行方を探す警察に協力することになるだろう。アヤエの日記を書き起こし、僕に共作を依頼した事にどんな意図があったのか、それを考えると純粋に友人として彼の行方を追うことも難しかった。
暫く一人で引きこもっていたいと思わせる程疲れた数日間だった。それでも、少しくらいは浮かれても良いのではないか。
多分これは言い訳だ。わかっている。わかっているけれど、ぬるりと動く舌に溺れてしまう僕は、意志が弱いのかもしれない。
怪異から始まり、そして僕は蓼丸さんに恋をした。どうしてそうなったのかとか、もうどうでも良い気がする。大事なのは彼がここに居る事だった。
「ごはん、何にするかまだ考えてないんだけど。何食べるにしてもさ、先に、お互いを食べたい」
「…………蓼丸さんはその、なんていうか、言葉遣いがあけすけで大変えっちでもうほんと、好きです」
「うはは褒められた。ね、食べさせて?」
首を傾げる可愛い人に、逆らえる筈もなかった。
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