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あかおんな 01

  「サイン会……え? サイン会?」  思わず問い返した僕の顔は、さぞ間抜けだっただろうと思う。  何なら声も言葉も間抜けだった。作家なんだからもっと頭のいい言葉使いを心がけようなんて思ってはいても、実際は理想通りにいかない。 「なんでそんなびびってんですか杜環先生。やったことあるでしょサイン会。処女ぶるのやめてくださいよ誰も食いやしねーからこの機会を全力で利用してやろうぜくらいの肉食系作家目指しましょ。というわけでこれが要項」  はい、と渡されたA4サイズの書類には、『桐鉦書店・牡丹籠社共催 「幽霊探偵マコト」発売記念サイン会』の文字がかなり大きく印刷してあった。 「サイン会……」 「現実さっさと受け止めてさくっと読んでください先生。すげー嫌ならやめますけどそんなことないんだろ知ってんだからな」  僕の間抜けな声と、上機嫌な担当編集の声が、牡丹籠社の応接室にささやかに響く。  応接室、といっても、パーテンションで区切ってあるだけの空間に、ソファーと机が並んでいるだけだ。  少し出かける用事があったので、今日は風合瀬さんにご足労いただかずに、僕が出版社に足を運んだ。人の多いところは苦手だが、牡丹籠社は大変小さな出版社であったし、働いている方々も物静かで居心地がいい。たぶん、一番賑やかなのが僕の担当編集者の風合瀬氏だと思う。  牡丹籠社さんとのおつきあいは僕が作家としてデビューしてからかれこれ五年以上に及ぶ。そもそも、特別な特徴もない僕の作品に目をかけ、最初に本として出版してくださったのが牡丹籠社さんだった。  大学に残るかそれともおとなしく就職活動をするか、とぎりぎりまで悩んでいた僕は、運良く作家という職業を名乗る権利を手に入れたわけだ。  作家と言っても弱小だし、コンスタントにエッセイや小さな記事を書いてやっと生きていける、くらいのものだが、それでもほかの仕事はせずにどうにか暮らしている。文字を書くことと本を読むこと以外の趣味がほぼないのも、僕の慎ましい生活を支えている要因だろう。  最近は、ほんのちょっとだけ交際費が増えたけれど。  サイン会の書類を目で追いながら、思わず先日できたばかりの恋人のことを考えてしまい、胸の内だけで頭を振った。  ただでさえ混乱していて目が滑るのに、蓼丸さんのことを考えると僕は全くダメな人間になる。今は、とりあえず風合瀬さんに怒られないように文字を追うことに集中した。  今日もスーツではなく、だらりとしたおしゃれな服装に派手な色の弦の眼鏡をかけた風合瀬さんは、僕がなんとか読み終えたタイミングでにっこりと笑った。  大変さわやかな笑顔でとても怖い。何かを企んでいる顔ではない。素直に機嫌がいいことがわかる。正直僕的には、それが一番怖かった。  風合瀬さんはおべっかを言わない。ものすごく素直でストレートな人だ。その人が本気でにこにこしているのは、彼が僕の最新作シリーズ『幽霊探偵マコト』を大変、それはもうとんでもなく評価してくれているからだということを知っている。  僕はずっと細々と自分が好きな文章だけを製造してきた。ファンだと言ってくれる方も多少はいたが、地味な現代文学のファンの方々はとても静かで、大々的に熱いファンレターやファンコールを送ってくださる方は少ない。  故に僕は感想というものに慣れていない。例え担当編集者といえど、こんな風に手放しで好きだと褒められるとどうしていいかわからず、挙動不審になってしまう。  この春先から着手したホラー風ラノベ小説『幽霊探偵マコト』は、牡丹籠社が新創刊したライト系雑誌に連載されていた。  女子大生と女装青年のコンビが幽霊の青年に導かれて事件を解決する――という、なんとも無茶苦茶な設定の小説だったが、ホラー描写がやたらと生々しいとの評判で、滑り出しは上々だった。この小説の一番のファンとも言える人間が、目の前の懇意にしている担当編集者であることは隠さずともバレていることだろう。  風合瀬さんは基本的に僕の作品を好意的に見てくれているようだったが、最近のライトノベル調の作風は特に、異常なくらいに評価してくれている。もうこれは担当だからとかそういうのを抜きにして、本当に好きなんだなぁと人ごとのように感心していた。 「いやぁ、ねー、もうほんとこの機会にめっちゃアピールしていきまっしょーよマジ絶対いけるから。書店大賞は流石に狙えねーかもしんないですけど、『このラノ』くらいはいけるんじゃないっすかね! 杜環先生も割合人気あるって事をこのサイン会で、肌で体感してほしいわけですよ。ちやほやされるとわかりやすくやる気になる人っしょ。知ってんすからね」 「……仰るとおり、ですけど……いやでも、サイン会って、わりと、ハードルが……」 「デブでも不細工でもないじゃないっすか。男の顔に興味ないんでアレですけどギリギリイケメンじゃないかと思いますよ、いけるいける。雑誌読者は大学生くらいから二十代のオタクが多いっすからね。女の子もけっこーいると思うし、いっそその普段晒さない顔全力で活用していきまっしょ! というわけで当日はそこそこのお洒落をしてきてくださいこれお願いとかじゃないんで。仕事なんで。服装含めて仕事なんで」 「おしゃれ……」  人生で一番無縁な単語ではないかな、と思う。  僕は目立つ事が苦手で、他人の目線も苦手だ。だから根暗にならない程度に地味な、ごく一般的な服装を心がけている。地味な色のカットソーと綿のパンツを見下ろし、お洒落ってどの程度のお洒落なんだろうと頭を抱えた。  作家なんて個人作業だし、僕はあまり同業者の友人がいない。他の作家のサイン会を拝見したこともない。どういう服装が適切なのか、まったく予想がつかない。  まあ、服装のことは蓼丸さんに相談することにして、一旦棚上げした。 「あと、文庫発売記念に当社のサイトの方にインタビューかそれともショートストーリーかどっちかがほしいなぁって話なんですけど」  眼鏡を押し上げながらさくさくと話を進める風合瀬さんに、僕は『短編書きます』と即答した。 「……と、言うと思いましたけどね。ほんっと相変わらず世間にビビってますね杜環先生」 「いや、だって僕のインタビューとか別に、大して面白い事も言えないでしょうし」 「キャラクターの成り立ちとかわりと興味あると思いますけどねー。あとリアルな恐怖演出が売りっすから、心霊体験あるのかどうかとかそういう話も面白そうだし。まー、無理して前に出ろとは言わないっすけど。ただサイン会はガツンと我慢して全力で爽やか笑顔貼りつけて頑張ってください。世間に媚びを売って本も売りましょ!」  すこぶるいい笑顔を見せた僕の担当は、そういうことでお願いしますねお洒落忘れんな、と最後にきっちりとくぎを刺すことも忘れなかった。  いただいた書類を鞄の中のファイルに仕舞い込み、僕が牡丹籠社の入っている雑居ビルを後にしたのは夕方の事だ。  家を出てきたのは昼前だったのですっかり空腹だったが、時計を見て足を速める。待ち合わせのコーヒーショップには、予定の時間丁度くらいに着いた。  角の席に探していた人物を見つけると、ショートサイズの珈琲を頼んで足早に読書中の彼に近づいた。  真剣に目を落とす文庫本は、カバーが掛っていたが多分、献本分で届いた僕の新作だろう。邪魔をしないように椅子を引くと、僕に気が付いた蓼丸さんがいつもの少し気だるげな視線を寄こした。 「お疲れ様。思ったより早かったね。お話、長引かなかった?」 「ええと、はい、打ち合わせと言っても、担当さんがひたすら喋っていただけなので……蓼丸さんもお疲れ様です。お仕事帰りに我儘言ってすいません」 「僕も今日は打ち合わせだけだったからね。ていうか、杜環くんに会いに出てきたみたいなもんだから。いいね、なんかこう、街中で待ち合わせって。ちょっとデートっぽい。いつも家に直接行っちゃうからなぁ……まあ、結局一緒に家に帰るんだけどね」  街中でいちゃいちゃできないしなぁ、と呟く蓼丸さんの言葉に、僕は盛大に照れつつも苦笑いを返した。  この奇抜な格好の割に出来た人間性を持った不思議な男性、蓼丸さんとお付き合いする事になったのは、冬の終わりのある一件がきっかけだった。  少々不純というか、あまり大声で言えないような経緯を経て、僕たちはこの関係に落ち着いたのだが、今のところおつきあいは順調だ。  蓼丸さんの仕事は朝から夜中まで不定期だったけれど、幸い僕は時間に融通が利く。僕は夜中の十二時に蓼丸さんが玄関の呼び鈴を押したって大歓迎だ。好きで就いた職種だが、まさかこんなところで作家業に感謝するとは思ってもいなかった。  同性の恋人ができるとも思っていなかったし、なんだったら自分がライトノベル調の本を出版するなんて考えてもいなかった。このところの僕の生活の変化は、すべて二月の終わりから始まった一連の怪異と事件に関係することを思えば、あのリアルに死を感じた恐怖体験の数々も、まあ、恨む程ではないのではないか、なんて思っているのは喉元すぎているからだろう。  今もあの『呪い』に苦しめられている人たちは、こんな風にのうのうと珈琲を飲んでいる場合ではないのかもしれない。  世の中の大半は他人である。  他人の人生は、所詮他人のものであるし、僕が憂いだところでおそらく何も変わらない。  だから、他人の不幸に思いを馳せることは一度やめて、気持ちを切り替えて自分に降りかかっている現実を見ることにした。  そう、僕には来月訪れることが確定している試練がある。  鞄の中の資料を取り出し、蓼丸さんに読んでもらうと、珍しく目を見開いた彼は踊るような声を出した。 「……サイン会。すごいじゃない。え、ほんとすごい。いやでも、おもしろいもんなぁ幽霊探偵。ぼく、あんまりラノベ系読まないけど、本当にさくさく読めるし続き気になるし、怖いし」 「ありがとう、ございます、あの、ほんと嬉しい、です……でも、サイン会当日はおしゃれしてこいって念を押されちゃいました……」 「あー。んー。別に、普通でも杜環くんかっこいいけどね? まあ、たしかに取っつきにくい感じはするけど。じゃあ、今度買い物行こうよ。ぼくの持ってるフォーマルっぽい洋服貸せたらいいんだけど、ちょっと肩幅が怪しいんだよなぁ……杜環くん、背高いし」  次のデートは買い物だね、と首を傾げる蓼丸さんのかわいさは、それはもう、本当にとんでもなくて、僕の語彙力を見事にさらっていってしまうほどだった。  かわいい、としか言えない。ほかの言葉がでてこない。だってかわいいんだから仕方がない。なんと表現しようとも、その一言につきる。  僕が相変わらず蓼丸さんに萌えていると、無表情を少し崩して頬杖をつく。その仕草もとてもかわいい。 「杜環くん、ぜんっぜんぼくに慣れないねぇ。そういうとこもかわいいんだけどさ」 「これでも、どうにか目を見て会話できるようにはなったんです……まだちょっと恥ずかしいですけど」 「えっちなことはわりと積極的なのにね?」 「……むっつりすけべってよく言われる……」 「いいじゃないの人間なんてすけべな生き物だよ。すけべな杜環くん大歓迎だもの。じゃあ、さくっとおうちに帰って人目気にせずいちゃいちゃしてえっちなことしよ」  ささやくような小声で『ね?』と首を傾げる蓼丸さんは、やっぱりかわいいという言葉以外では表現できないほど可愛らしく、僕は人もまばらな珈琲ショップのすみっこで熱い頬を抱えることになった。

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