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あかおんな 02

 その日の僕を見た編集者は、開口一番、『やればできるじゃないの!』と上機嫌に手を叩いた。 「いやーいやー、前言撤回しますわ、なんとなくイケメンじゃない、普通にイケメンじゃん! つか先生、前髪いつもそうやってあげてたらどうっすかね? いいぞいいぞ俳優みたいだぞ。最高だぞ。うちの杜環先生最高だぞ、って気分になってきた」 「どうも、ありがとうございます……?」 「礼を言うときなんで疑問系なんだよって毎回思うけどまあいいやイケメンだから許す。思ってたよりラフに決めてきたなってかんじっすけど、お堅い感じよりいいと思いますわ。柄物似合うなくっそイケメンめ。ちゃらくなんないのがまたずっりーっす。それ杜環先生のコーディネイトじゃないっしょ? 協力者いるっしょ? ちょっとかなりハイパーなセンスの持ち主だな友達になりてえ」  僕の今日の装いを決め、髪型をセットしてくれたのはもちろん蓼丸さんだった。  今日はどうしてもはずせない仕事があるから、サイン会にはいけないけど、と残念そうにしていた。最初は話半分くらいで聞いていたけれど、毎日盛大にため息をつくので本当に残念で仕方がないんだなぁと実感した。  週の半分くらいは一緒に居るのに、特別なイベントはやっぱり参加したいらしい。  珍しく休みたいと連呼する蓼丸さんと別れ、サイン会会場の書店に入った僕は、簡素な控え室で色紙にサインをして、後は言われるがままに用意された机に座り、ひたすら深呼吸を繰り返した。  大丈夫、僕は別に芸能人ではない。  所詮ただの物書きだ。サインをもらう方も、過度な期待はしていないはずだ。風合瀬さんに誉められたということは、身だしなみも悪くはないだろう。  いつも目にかかるかかからないかというくらいに伸ばしている前髪が無いせいで、視界が広くて若干怖い。  他人の視線がどうにも苦手で、挙動不審になってしまう。ともすれば上擦った声が出そうな緊張を、風合瀬さんは時折けなしつつ持ち上げつつどうにか和らげてくれた。  見た目に反して優しい人だ。だから僕は、この人が結構好きなのだけれど。  サイン会は至極和やかに、特別なこともなく終わった。慌てる程盛況だったわけでもないが、恥ずかしくなる程暇だったわけでもない。たぶん、上々だったと思う。  打ち上げという名前の酒の席で風合瀬さんは大変な上機嫌で、僕よりも嬉しそうだった。  本人には言っていないが、僕は風合瀬さんが担当になってくれて大変ありがたいと思っている。僕の作品を真剣に読んでくれて、言葉を惜しまず批評してくれる懇意の編集者がこんなに喜んでくれるのならば、僕の稚拙なサインも覚束ないトークも、出し惜しみせず活用していこうと思えた。  サイン会では特に何もなかった、と表現したが、個人的にびっくりした出来事はあった。  それは、蓼丸さんの代理だと言って、椿さんが来てくれたことだ。  坂木春日という本名に椿という源氏名を持つ彼は、普段はごく普通の茶髪の青年だが、夜はオカマパブで勤める職業オカマという不思議な人だ。蓼丸さんの伝手で出会った彼だが、実は僕はあまりきちんと話した事はない。どちらかと言えば、椿さんと親しい霊媒師さんの方と連絡を取り合っている。  それでも顔見知りには変わらない。  これ幸いにと椿くんを捕まえた僕の些か強引なお願いを快く聞き入れ、彼は、打ち上げにも参加してくれた。正直風合瀬さん以外に知り合いがいない席でどう過ごしたらいいのか、不安しかなかったのだ。  初対面の人間は苦手で、何を喋ったらいいのか考えているうちに会話は川のように流れてしまう。結局黙ってはりついたような笑顔で相槌をうつだけしかできない。それでも構わないのだけれど、知り合いは一人でも多い方が良い、ということに変わりはない。 「つーかホント俺混じって良かったの……? なんかこう、高尚ぎみな会話が聞こえるんだけどあっちの席。杜環サン混じんなくていいの?」  前衛作家と巨匠の新刊の感想を言い合っている書店員と出版社メンバーを眺めつつ、端の席に陣取った僕達はひたすらに酒を飲みつつ料理を食べていた。  好んで飲まないが、酒に弱いこともない。  蓼丸さんと僕の関係を知っている人だという安心感も手伝って、いつもよりも少し早いペースでグラスを空けていた。 「あー……読書は好きですけど。あんまり、考察したりとか感想言い合ったりとかする方じゃないですし。ていうか、酒の席が、苦手で……」 「がっつがつ飲んでんじゃん。めっちゃ強いじゃん。うちの店に来る酔っぱらいのオッサンどもより断然強いじゃん。まー煩い所きらいっぽい感じめっちゃするけどなー杜環サン。そんだけ飲めてそんだけ背高くて作家さんとかさーちょうモッテモテ案件でしょ? 今日も女の子きゃーきゃー言ってたじゃーん」 「……女の子も苦手で……」 「うはは、わっかりやっすーぅ。わかるわかる、そんな感じするーっていうか世界人類大概苦手なんじゃねーの? 蓼サン以外に心許して無い感じある」 「え。えーと。でも、僕は椿さんの事かなり好きです。すごくお話しやすいですし」 「えーやだーほんとー? っていうかわりとそれ本気で嬉しいなー。俺も杜環サンのこと好きよ? なんかねー、蓼サンは頼れるにーちゃんって感じなんだけど、杜環サンはねーちゃんって感じする」 「ねーちゃん……」 「おおらかっての? でも、いざとなったらかっこいい感じ。いやーあの蓼サンがまさかこんな真面目なイケメンひっかけるなんて思ってなかったからさー。もうほんと面白いし楽しいし嬉しいし、そうだ連絡先交換しよ、連絡先」  うきうきとした様子で携帯を取り出す椿さんは、確かにかわいい弟といった雰囲気で、思わず頬が緩んでしまう。  出会った時は自己紹介どころではなかったので、僕は彼についてほとんど知らない。今度お店にも来てよーとにこにこ笑う顔は愛嬌がある。つんと澄ましていると少し怖いけれど、笑うと若干幼くなる。きっちりと化粧をした椿さんがどんな外見になるのか、ぜひとも拝見してみたい。  そんな事を思いながら急かされ携帯を取り出したところで、椿さんに袖を引かれた。 「――ちょっとごめん、このまま喋っていい?」  思わず前のめりになってしまったが、机の下で携帯を覗いているようにしか見えないだろう。ひそひそと声をひそめる椿さんに、僕は何食わぬ顔を心がけて頷いた。 「さっきから、っていうか正直サイン会の時からずーっと気になってんだけど、俺の勘違いだったらアレかなと思ってたんだよね。杜環サン、そっからあのー……角、のあたり見える?」 「角……奥の、方?」 「そう。――ずーっとこっち見てる女、いない?」  できるだけ自然に、できるだけ顔を動かさない様にちらりと視線を馳せた先には、半個室を仕切るパーテンションと、奥の壁と、数人の談笑している人間と……確かに、ぽつんと座る女性が見えた。  ほんの一瞬視線を上げただけだから確かではないが、こちらを見ているような気がする。その視線を明確に感じた時に、身に覚えのあるぞくりとした感覚が襲った。 「たぶんさ、杜環サンはファンの人達と喋るのにいっぱいいっぱいだっただろうし、書店の人とか担当の眼鏡のおにーちゃんとかも、人を裁くので忙しかったんだろうけどさ。俺はほら、途中から杜環サン待ちだったじゃない? 割合暇だったから、壁際でぼけーっと人間観察してたんだよね。そしたら、なんか変な女がいんの。列に並ぶでもなく、ちょっと離れた棚の後ろからずーっと杜環サンの方見てる女」  その女性は赤い服を着ていて、ただひたすらに無表情に僕を見つめていたらしい。  一人でいるのだから、にたにたと笑うことも泣く事もないのは当たり前の事だ。しかし、赤い彼女は椿さんがその存在に気が付いてから三十分、ただただ無表情に僕を見つめていたのだという。  それだけならまだ、奥手な人かまたはストーカー気質なファンか、どちらかだろうということで何とか納得はできる。しかし、赤い女性は打ち上げの居酒屋にまで姿を現した。 「いやー……俺もさっき気が付いたの。トイレに立ったでしょ? そんときに、なんか視界に赤いの映ったなーと思ったら、うはは昼間いたあのこええ女じゃんって思ってさ。杜環サン、あれ何、知り合い? 飼いストーカー?」 「飼いストーカー……いえ、そんな、たいそうなファンが付くようなものでも……僕は芸能人ではないですし、ストーカー的な被害もありませんし……」 「でもさ、完璧な覆面作家ってわけじゃないんでしょ。前もサイン会やったことあるとか言ってたじゃん。その時は変な奴居なかった?」  ……居ただろうか。  僕は初めて生で聴く読者の感想に舞い上がってしまい、周りの事などほとんど覚えていない。どうやって帰ったかもあやふやな程だ。  まったく覚えていない旨を申し訳なく伝えると、椿さんは謝らなくてもいいんだけどと苦笑を漏らして僕の腕を離してくれた。  さも親しい人間がじゃれあうように、頬杖をついて顔を近づけてくる。ただし、会話は酷く小さな声だし、内容も嬉しいものではない。 「ただのストーカーならさ、別にいいんだけど、いやよくねーけど杜環サンも健康な成人男子じゃん? 蓼サンも居るし、金もあるだろうし、どうにもならずにいきなり刺されるとかそういう心配はあんまりしてないんだけどさぁ……なんか、嫌な感じすんだよなーって」 「――それは、椿さんの霊感的な、アレで、ですか……?」 「うーん俺別に『感じます……!』って事もないし見るっちゃ見るけど見るだけだし、でもさーあの女さーあー……まばたき、してない気がすんだよね」  ぞわり、と、鳥肌が立った。  勿論、椿さんの勘違いという事もあるが。……じっと動かず、ただひたすらに僕を眺める赤い服の女性を思い浮かべ、その目が一切のまばたきをしない様子を想像すると、かなり異質だ。  ぜひとも椿さんの勘違いであってほしいところだ、が。もし、本当にアレが少しおかしな何かだとしたら、僕はどうしたらいいのだろう。  蓼丸さんはかなり遅い時間までバーの手伝いで帰れないと言っていた。まさか椿さんに一緒に帰ってくれと頼むわけにはいかない。風合瀬さんは飲んだ後にも関わらず出版社に戻って仕事があると喚いていた。  鳥肌を立てたまま、僕は結局一人で帰らなくてはいけないのではないか。  不自然な程ぎこちなく固まる僕を見やり、椿さんは眉を下げる。 「いや、見間違いかもしんないし、ただの熱狂的で迷惑なストーカーちゃんかもしれないし。ちらっと見た感じ飲み物とお通しもテーブルにあったから、少なくとも店員にも見えてるってことでしょ? こういうときにくろゆりさんって本気役に立たないしなー。電話してきいてもいいけど、あの人も感じる系の霊能者じゃないからさー。結局は実際来てもらわねーとなんも出来ないんだよな」  椿さんが懇意にしている……と表現していいのかちょっとよくわからない霊能者の男性を、彼は『くろゆりさん』と呼ぶ。  僕的にはくろゆりさんの方の心情を慮り、彼らを恋人と表現したいのだけれど。どうにも二人の関係は、一言では言い表せないもののようだ。  黒澤鑑定事務所の所長であるかの男性は、黒百合西東という名前で霊能者のような仕事を生業にしている。霊能者というのはわかりやすいイメージ的な言葉であって、正式なところ、くろゆりさんは『呪い屋』だと言われた。  それがどんなものなのか、実のところ僕はあまりよく知らない。  ただ、くろゆりさんが大変有能なこと。心霊現象や呪いなどに詳しいこと。商売としての除霊や呪いはできるが霊感はあまり無いこと。等々をご本人や椿さん、また、椿さんの友人である蓼丸さんから伺っている。  僕の想像する霊能者は、電話口からでも一発で異変を感じとり、なにやらお経のような呪文を唱えて電話越しに除霊をしてしまう、というイメージだ。勿論、そういう方々もいるのかもしれない。  しかしくろゆりさんは、職業としてのノウハウはあるが、一般的に霊感と呼ばれるものはそれほど鋭くはない、と仰っていた。  きっと今電話をしても、僕達が容姿を伝える以上の情報は彼には伝わらないだろうし、そこから導き出される対処法も『見間違いかもしれないしストーカーかもしれないし、不安なら誰かと一緒に居る事』くらいのものだろう。僕だって同じ相談をされたらそう返す。 「椿さん的には、そのー……変な感じが、するんですか?」  最早味もよくわかない酒でどうにか喉を湿らせながら、店の奥を意識しないように努める。そちらに向かいそうになる視線を必死に手元に固定した。 「うーん。うーん……あー……するっちゃするし、なんかこえーなって感じはする、けど、どうかなー……俺わりと夜の仕事で人間としてヤバい感じの奴ら見てるし、そういう奴にも『こえー感じ』ってするし。生身の人間かなんかこうそういうモンかっての、ぶっちゃけ俺もわっかんないんだよな。いっそ蓼サンの方が敏感かもよ。もう蓼サンの仕事終わるまで時間潰してたらいいんじゃね? そのくらいなら俺も付き合うけど」 「いや、でも、それは流石に……たぶん、大丈夫だとは思います。たぶん」  個人的にはぜひ椿さんにお付き合いしてほしい所だったが、蓼丸さんの今日の仕事は何時に終わるかわからない、と聞いていた。お世話になっている方の誕生日パーティが開かれているとのことで、三次会くらいまでは付き合わないといけないかもしれない、と言っていた。  何時になるかわからない相手を待つ為に、椿さんを拘束するわけにもいかない。  それに実は僕は、帰ってからやりたい仕事があった。サイト用の宣伝短編の評判が良く、そのままサイトにショートショート連載を持つ事になったのだ。運よく今日そのネタが降ってわいたので、形にできそうなうちに書いておきたい。やりたいときにやらなければ、僕の筆はいきなり進まなくなる。  元々酔いやすい方でもないのに、すっかり酔いもさめてしまった頃に一次会は解散になった。出版社サイドはこれから戻って仕事だと肩を落とし、書店員の皆さんは二次会に行くらしい。  僕はお誘いを辞退し、駅まで一緒に歩いてくれた椿さんに手を振った。 「……一応、くろゆりさんには聞いてみるよ。まー『拝見してみないとわかりませんが』って言われるとは思うけど。なんかわかったら連絡する。連絡先ゲットしたしねー」  蓼サンに自慢すんだ、と笑う椿さんに思わずほっこりした気分になり僕も笑い返す。  また良かったらご飯でも、と言ったのはおべっかではなく本心だ。ぜひくろゆりさんも、と付け足した僕に、椿さんは微妙な顔をしていたけれど。  手を振りホームで別れた、その雑踏の中に。  ――赤い、女が見えたような気がしたが、気のせいだと思って頭を振った。

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