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あかおんな 03

 夜道を歩く事は、割合少ない生活だと気が付いた。  僕はあまり夜中に出歩かない。気分転換に散歩に行く時も、買い出しに行く時も大抵が昼間か夕方だ。夜中に帰宅するようなサラリーマンの経験はない。  静かな住宅街には、街灯も少ない。コンビニも無いし、夜に出向くような施設もないのだから当然かもしれない。  ちらりと見やった時計の針は、午後十時を指していた。  深夜というほどでもないのに、住宅街はしんと静まり返っている。週末の夜ならばもう少し、賑わっているのだろうか。日曜日の夜は静かで、普段ならば静寂が愛おしくも感じられるものなのだが。  ――背中に感じる空気が、どうにも気持ちが悪く、僕の足は自然と速まった。  電車の中で、僕はそれに気がついた。  満員電車の奥の方から、無表情にのぞいている顔が見える……。それは、今日の打ち上げ会場で僕を凝視していたあの女性に見えた。  奇しくも椿さんと別れた後だった。引き返して追いかける程親しくはないし、僕は彼がどこに住んでいるのかわからない。くろゆりさんの事務所ならば場所はわかるが、こんな時間に行っても営業はしていないだろう。  電話をかけるべきか否か。  迷っているうちに、電車は僕の家の最寄り駅に着いた。少しだけ思案し、一駅分だけ乗り過ごすことにした。買い物などに便利な比較的大きな駅で降り、しばらく量販店で時間をつぶした。  その際にも、視界の端にあの女性が映る。  いい加減、気のせいだとは思えない。確かに僕は、誰かに後をつけられている。それが、ストーカーなのか、それ以外の何かなのかは、わからないが……。  駅の店をうろうろとさまよい、比較的雑多な飲み屋街を歩いた。客引きや酔っぱらいの雑踏に紛れ、人通りの多い細い路地を早足に進んだ。  そこで僕は視線から解放された。  振り返ってもそれらしい怪しい人間はいない。どこにもいない。それで安心とは言えなかったが、とりあえず帰路につくことにしたのだが。……暗い住宅街に入ってから、また、あの不気味な視線のような気配を感じ始めた。  もう振り返ることはできはい。見てはいけない、という気がする。気がついてはいけない。だから、何も知らないふりをして、家に駆け込むしかないと思っていた。  こういうときにはマンションやアパートの方がセキュリティ的にはしっかりしているのかもしれないが、僕が間借りしている一軒家は比較的窓も小さく、防犯的には安心できる作りである。隣家の夫婦もまだ若いので、いつも僕が寝る時間まで電気はついていた。  とにかく、早く家に入りたい。その一心で、僕は足を早め、角を曲がった……が。 「………っひ!?」  その道の先にぼんやりと佇む赤い傘の女が目に入り、思わず声があがった。  雨は降っていない。それなのに、その人は傘をさしている。僕が曲がった角から、おそらく五十メートルくらい向こうだ。顔は見えない。傘で隠れている。だが、こちらを向いている。  慌てて僕は進路を変更した。曲がるはずだった道を、そのまままっすぐに進む。  最早早足を心がける、なんて平常心はない。走るような速さで暗い住宅街を進む。  ……なんだあれ。僕の後ろにいたんじゃなかったのか。完全に、追いかけられている気でいた。どうして先回りしているのか。やっぱり、僕の家を知っているストーカーなのか、それとも……。  ふるえそうになる手を握り、どうにか携帯を出して、少し迷って蓼丸さんに電話をかける。  出ない。  仕事中なら、そうそう携帯を気にしている時間もないだろう。ため息をついているほどの余裕はない。仕方なく僕はくろゆりさんに連絡をするか迷い、結局先ほど登録したばかりに椿くんの携帯番号を押した。  ――ところで、道の先に佇む、赤い女が見えた。 「……………、………っ」  今度は声も出なかった。  ぶわりと鳥肌が立ち、息が止まる。血の気がひく、というのはこういう感覚なのだろう。内蔵を冷たい手でなでられたような、最高に気持ちが悪い悪寒が指先までぞくりとおそう。  こちらを向いて、赤い傘をさした女が立っている。  僕は携帯を握ったまま、思い切りきびすを返して走り出した。  どう考えてもおかしい。住宅街は碁盤状に道が通っているし、先回りすることも不可能ではないが、それにしても場所が離れすぎている。走っている僕に対して先回りすることなんかできる訳がない。  見間違いという可能性は低い。赤い傘の女は街灯の下に居て、しっかりと影まで確認できた。別の人間という可能性もないだろう。雨も降っていないのに同じ色の傘をさした人物が、二人もこの近距離に現れるわけがない。  アレは、何だ。  考えても恐怖しか湧きあがらない。  真っ白になった頭は、暫く走ってからようやく、手に握った携帯の存在を思い出した。  足もとも怪しい闇の中、煌々と光る携帯の画面を見ると目がくらむ。急いで僕は表示されている椿さんの番号に電話をかける。  駅まで戻ろうかと思ったが、まっすぐ先にまた赤い傘が見えて、とっさに左に曲がった。その先には、僕の家がある。  四回程コールして、電話は繋がった。 『――はい』  耳元で気持ちの悪い声が……ということは無かったが、聞こえてきたのは椿さんとは別の声だったので、思わず口ごもってしまう。  誰だ、と訊いていいものか。これは、人間だろうか。そんなことを考えた僕はもう訳がわからないくらい動悸がしていて、口もうまく回らない。 『杜環さん、ですね?』 「……く、ろゆり、さん……?」  僕の名前を呼んだのは、呪い屋の男性だった。  つっかえつっかえに声を出そうとして息が上がって噎せて、顔に熱が上がって死にそうになる。 『すいません、春日くんより僕の方が適任かと思いまして、携帯を拝借しました。杜環さん、今は外ですか?』 「は、い……っ、あの、外なんです、が……、赤い傘の……女性が、さっきから、僕の行き先に、」 『逃げてください。家が近いならば、中に入って鍵をかけて。今から僕もそちらに参ります。杜環さんが何に追いかけられているのかわかりませんが、よろしくない傾向です。赤い色というのは、あまりいいものではない。電話は切らない方がいいですね』  逃げろ、と言われるが、勿論それ以外にできることがない。僕の家はもうすぐそこだ。  喋る事もできない程喉が痛い。  生垣を曲がり、遠くに見える赤を無視して敷地内に走り込む。電話を持ったまま荷物を漁り、鍵を取り出して鍵穴に――差し込む、前に僕は思わず止まった。  俯いた僕の視界に、かぶさるように、赤い色が映り込んだ。  傘だ。僕の頭の上に、傘が掲げられている。 「――――――っ」  心臓が止まるかと思った。  呼吸は止まったと思う。叫びそうになる言葉と一緒に息も呑み込み、そのまま、数秒は何が起こっているのか分からずに固まった。  うなじのあたりに痛いほどの視線を感じる。耳の後ろに感じる生温かい風は、これは、……息だ。  後ろに居るのだ。僕の、すぐ後ろに。  全身の血液が、ざあああっと、引くような感覚がした。動悸がおかしい。くろゆりさんが何かを喋っているような気がするが、わからない。聞こえない。  耳がおかしくなる程の無音だった。  僕の手が震え、鍵穴に差し込む前の鍵がノブに当たり、カタカタと鳴る。自分の心臓の音と、金属が触れ合うカタカタという音だけが、狂ったように耳に届く。  赤い傘は僕の上に掲げられ、そして、ゆっくりと前の方に傾いてくる。動けない僕はどうする事も出来ず、ただドアノブだけを見ていた。  傘が傾く。  僕は動けない。  どうしていいかわからない。 『……――杜環さん?』  くろゆりさんの声が聞こえた。その瞬間。  僕の視界に、急に、腰を折り曲げ下から覗きこむように見上げてくる女が映った。  表情のない女だった。妙に目の位置が離れている気がした。見てはいけない、と思った。それなのに僕の目は、その女が何かをぶつぶつと呟いている口元を捉えていた。  僕を斜め下から覗きこみ、表情を変えない目の離れた女は、何かをひたすらに呟く。声は聞こえない。くしゃくしゃと、息が漏れるような音は聞こえる。何を言っているのかわからない。 『杜環さん!』  くろゆりさんの声を聴きながら、僕の意識はそこでふっと途切れた。

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