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あかおんな 04
気が付いた時、僕は道路を見ていた。
外だった。身体を揺さぶられ、引きずられ、視界が復活した。意識を失っていたという感覚はなく、ぼんやりと眠りから覚めたような感じだった。
「杜環くん、っあー……もう、大丈夫? ね、ちょっと、ほら、なんか喋って!」
僕の身体をぐわんぐわんと揺さぶるのは、珍しく必死な顔をした蓼丸さんだった。
寝起きのようなぼんやりした意識が、どうにかはっきりしてくる。はっきりしてくると、『あれ、なんで僕こんな道路の真ん中にいるんだろう』という疑問が湧いてきた。
肌寒い空気と薄暗い街灯の光を感じながら、あたりを見回す。少し首を巡らすと、真っ暗な僕の家の玄関が見えた。
僕の正面には、膝をついた蓼丸さんが居る。どうやら僕も、道路に膝をついて屈みこんでいたらしい。隣には椿さんの姿も見えた。
椿さんの顔を見て、昼間の出来事がフラッシュバックする。途端悪寒が僕の背中を這いあがり、思わず吐きそうになった。口元を押さえてしゃがみ込む僕の頭を、蓼丸さんが抱えて撫でてくれる。
あったかい体温を感じ、どうにか、吐かずに堪えた。ちらちらと赤い傘とあの女の顔が脳裏によみがえり、鳥肌が収まらない。
――どうして僕は今道路の真ん中で膝をついているのだろう。どうして蓼丸さんと椿さんが居るのだろう。あれから、どうなったんだ。
僕が口を開く前に、とりあえずと言ったのは椿さんだった。別れた時と違うコートを着ているから、きっと一度帰ってから再度出てきたのだろう。
「暗いしアレだしこのままここにいるのあんま良くないみたいなことさらっと言われたし、中入って電気つけて杜環サンなんかこう、あったかいもんでも飲んだ方がいいんじゃね?」
全くその通りだ。と頷いたのは蓼丸さんで、立てる? と優しく首を傾げてくる。まるで子供に対するような対応だったが、思わずちょっとときめいてしまい、暗闇の中で頬に熱が集まり平常心がじわりと戻って来た。
恋愛というものはすごい。恐怖をこんなにもやわらげてしまう。僕がふらふらと立ちあがると、家の裏手から真っ黒な服を着た男性が姿を現した。
くろゆりさんだ。暗闇に紛れるような黒い上下の服に、黒い手袋に、今日はサングラスはしていないが黒いジャケットを羽織っている。顔だけが浮かび上がるようで一瞬叫びそうになったが、僕よりも先に椿さんが一瞬声を上げた。
「……っくりした知り合いだったー……もうほんとそのどんぴしゃ中二みたいな真っ黒衣装どうにかしろよ馬鹿かよやめろよ乙女みたいに叫ぶとこだった……」
「春日くんはいい加減慣れていただきたいと思いますし、割合毎回女子のように叫んでますよ。裏手に一応護符を貼ってきました。杜環さん、気が付きましたね? あまり外にいるのはよろしくないので、歩けるのならば家の中に……すいません、こんな時間ですが僕達も少々お邪魔させていただきます」
それはもうぜひそうしてください、とうまく言えずに結局こくこくと壊れた人形のように首を縦に振った。
べったりと蓼丸さんに付き添われて、鍵を探す。幸い何処にも落としてはおらず、ポケットの中に入っていた。どういう経緯で手に持っていた鍵がポケットの中に入ったのかは、よくわからないし考えたくない。
家の中は真っ暗だったが、外よりは幾分か心が落ち着いた。
しっかりと施錠し、最後にくろゆりさんが郵便受けとドアノブに何かを貼っていた。多分魔除けのような何かだろう。
僕を襲った怪異は終わっていないのか、と思ったら再度鳥肌が立ったが、今のところ三人もつき添ってくれているので、どうにか泣きそうになるくらいで耐えることができた。
意識すると妙に寒いように思える。
気のせいだと言い聞かせて、蓼丸さんの手をぎゅっと握ってダイニングキッチンにどうにか辿りついた。
電灯をつけた瞬間、さっと目の前の窓に赤い何かがよぎった気がした、が、心が弱っているせいで見間違えたのかもしれない。そうにちがいない。一人だったら叫んでいただろうが、人間とは不思議なもので、誰かが一緒で更に明かりの下だと、割合強気になるものだ。
四人分の湯を沸かし、ココアか珈琲か迷ったが、結局全員分珈琲にした。
僕はすっかり眠れるようなテンションではないし、くろゆりさんは少しやりたい事があるので徹夜かもしれない、とのことだった。
「すいません……あの、巻きこんで、というか、来ていただいて、本当に申し訳ないです……」
やっと声が出るようになった僕が珈琲を啜りながら頭を下げると、ふわりと笑った美丈夫は親しげに目を細める。すごい。前から思っていたけれど、イケメンはこんな些細な仕草でも目を引く。
「とんでもないです。僕程度でよろしければ、いくらでも馳せ参じます。なんといっても冬の一件では、杜環さんの運転に随分と助けられましたので。それに、春日くんが珍しく他人を心配していたものですから」
「ちょっとちょっと何言ってんのその言い草よろしくないっつーの、俺が他人に対して大変冷たい人間みたいじゃん。言い方。言い方考えろ」
「事実でしょうに。キミは割合、他人に対してドライですよ。ですので、大変付き合いやすいのですけれどね」
どうやら図星らしく、椿さんは眉を寄せて不満そうにぐっと押し黙る。不服そうな顔が可愛く思えて、思わず笑いを零した。
そんな僕達の様子に、やっと息を吐いたのは蓼丸さんだった。キッチンのスツールに座り、凭れるように僕の肩に頭を乗せるのがかわいらしい。
「あー……よかった、何もなくて、よかった、ほんと、椿くんから連絡あったときは、肝が冷えたよー……一体、何を引き当てちゃったの、杜環くん」
それは、僕も知りたい。
あの赤い女はなんだったのか。そもそも、人だったのか、それ以外のものだったのか。もうアレはどこかに行ってしまったのか。
考えるのも怖いが、放置しておくわけにはいかない。
ソファーに落ちついたくろゆりさんは、来客用のカップを奇麗に傾けながら滔々と言葉を零す。
「うっかり杜環さんが何かをどこかでひっかけた――という可能性も無くはないですが、追いかけてくる執念深さから察するに、杜環さん自体にかかった呪でしょうね。顔も名前も外に出る職業です。こんなにも呪を掛けやすいものはない」
「……ペンネームでも、呪いというのはかかるものですか?」
「かかりますよ。まあ、本名の方がより一層効果は高いですが。あだ名であっても、それは他人と自分を区別する記号です。呪いの標的になるのは大概身体の一部か名前です。呪いを避けたいのならば、偽名を多く持つことで多少は抑止できるでしょう。杜環さんは特に作家さんとして他人には無いような文字の並びの名前ですから、より一層個人特定がしやすくなる」
「……では、僕にかかった、呪い……ということ、ですか」
「伺った話や雰囲気的に、生霊に近いのではないかと思いますので、ひとつ拝見したいものがあります」
くろゆりさんが見たい、と言ったものは、僕宛てに送られたファンレターだった。
実はこれは、かなり少ない。それは僕が弱小作家である、ということも関係しているのだろうが、このご時世わざわざ切手を貼って投函する、ということが本当に稀なのだろう。
郵送されてくるものは本当に少なく、むしろサイン会でいただいた手紙の方が圧倒的に多い。それらも全て、というお話だったので、僕は今日いただいた手紙を含め家にある分すべてをくろゆりさんにお渡しした。
本来、僕宛ての手紙を他人に見せることはよくないことなのだとは思う。思うが、専門家の要求を突っぱねて、それであの赤い女がまた現れても困る。
今までの分を二階の自室から。今日の分を鞄から取り出し、ダイニングのテーブルに並べた。
「中身は、すべて目を通してありますね?」
「はい、それは、一応」
「目に見えて怪しいものはないでしょうね。おかしな脅迫などがあれば、僕が見る前に杜環さんの方で対処している筈です。春日くん、お手伝いしていただいていいですか? バイト代は出しますし、明日のお仕事上がりには兼ねてからのご希望のホテルのビュッフェを御馳走してもいいです」
「え。え? まじで? まじで言ってるの? ほんと? うっそめっちゃうれしいいやそんなご褒美なくても、杜環サンのアレコレの原因究明なら別に普通に付き合うけど、いただけるものは貰いたい」
「……春日くん、いつの間にそんなに杜環さんに懐いてしまったんですか」
「今日ずっと一緒だったもん。そら仲良くもなりますよ。ホテルビュッフェ、ホントだな? 約束だぞ? 嘘付いたら針千本は流石に痛いだろうからデコピンすっからな」
「大変可愛らしい報復ですね……嘘はつきませんよ。些か嫉妬深い僕が騒いでいますが今回は緊急事態ですし、不問にいたします」
どろり、と僕達には向けないような甘い笑顔を向けたくろゆりさんに、椿さんは一瞬ひるんだように見えた。この二人も、はたから見ていれば微笑ましく可愛いと思えるので、僕の感覚はちょっと狂ってきているのかもしれない。
手紙を調べる作業を手伝うと申し出たのだが、できるだけ僕は触らない方がいいと言われてしまった。
さりとて、眠気はすっかり冷めてしまっている。
どうぞ僕達は気にしませんので別室で二人だけの時間を過ごしてもいいのですよ、なんて言うくろゆりさんに、蓼丸さんは珍しくほんのり赤くなって『いたしません』と言い返していた。かわいい。かわいくて、僕の恐怖心はまた和らぐ。
作業を開始する二人とは少し離れた位置にあるソファーに座り、手持無沙汰に頬杖をつく。
ずっとべったりとくっついている蓼丸さんは、やっぱり僕にくっついていた。相当に心配をかけてしまったらしく、蓼丸さんにも申し訳なく思う。
最初に、声を上げたのは椿さんだった。
「……なんか、これ、ぱりぱりしてんだけど」
そう言う彼が手にしている封筒は、見覚えのあるものだ。ファンレターを送ってくれる人の中には、ありがたいことに常連さんといえる方々がいる。その人たちは、大概毎回同じ便せんと封筒を使っていた。
その桃色の封筒は、新刊を出す度に郵送されてくるものだ。橘さん、という女性の方だったように思う。実際に彼女に会ったことはないが、とても丁寧で熱心に感想を伝えてくれる読者の一人だった。
そういえば、今日も似たような色の封筒をいただいた気がする。直接お客さんから渡していただいたものの中にはなかったので、後々風合瀬さんや書店の方に託していただいたのだろう。
以前いただいた開封済みの封筒を電灯の方に掲げ、椿さんは首をひねる。
「この封筒二枚構造な気がする……これ、ばらしてもいいやつ?」
「はい、あの、僕はファンレターにお返事を出すタイプではないので、正直中身以外はあまり必要ないですし、かまいませんが……」
「……っあーくろゆりさんやばいやばいやばい、これ当たりだ、やだやだ代わって!」
騒ぎだす椿さんの様子がなんというか、本気すぎて僕も体を引いてしまう。そんな僕の代わりに身を乗り出した蓼丸さんは、くろゆりさんの手元をのぞき込んで、うわあと声を上げていた。
相変わらずテンションがフラットすぎて、全く感慨が伝わってこないが、どうやら、かなり引いている、という気配はする。
どうにかしてくださいとお願いをしたのは僕だ。くろゆりさんを呼び出したのも僕だし、怖いからといって見ない振りをするわけにはいかない。
意を決して、蓼丸さんの横に並んだ僕の視界に入ってきたのは――、真っ赤に塗られた紙だった。
「…………うわぁ………」
封筒は二枚構造になっていた。書類を送るときの二重封筒のような感じだったのだろう。きっちりと糊付けしてあった為か、僕が鈍感な為か、それに気がつくことは今までなかった。
真っ赤といっても、きれいに赤い訳ではない。塗りつぶした、という表現がふさわしいように、乱雑に赤い顔料をぶちまけて拭ってぐりぐりと塗り込めた、というようなひどく気持ちの悪い赤色だった。
その中に、ぽつぽつと針のような、黒い繊維のようなものが見える。目を凝らして僕は、それの正体を知り、またうなじに鳥肌を感じた。
「…………髪の毛……」
「そうですね。おそらくは、ご本人のものでしょう。顔料は血ではないですね。ただの絵の具でしょうが……少量くらいは血液が混ざっているかもしれません。この白い粒は爪でしょうかね」
「あの……思っていた以上に、ホラーなんですが……こんなの、ずっと僕の家にあったんですか?」
「やっている本人はホラーのつもりではないかもしれませんよ。意中の人物の贈り物に、少量の自分の体の一部を混ぜる、というのは古くから恋いまじないとして存在します。呪う、または害を願ってのものとは限りません。まあ、本気で杜環さんに懸想してどうしてもと呪術やまじないに頼った、というご事情なのかもしれませんが、それは今のところわかりませんね」
わかる必要はないと思いますよ、と、くろゆりさんは淡々と言う。
「おそらくはこれが原因だ、ということがわかればそれで結構です。杜環さんは金輪際、この方からの贈り物はいっさい手にしないでください。縁を切ってしまいましょう。お家の方にはこの方が入れないように呪術を敷きます。実際生身の彼女が来てしまうと無効となりますが、赤い女くらいは避けられるでしょう」
「……あの、赤い女は、やっぱり人ではない、んですかね」
「そう考えるのが妥当です。僕が先ほど家の裏手に行った時は、向かいの家の屋根の上にいらっしゃいましたよ。普通の女性なら、いくらストーカーといえど他人の家の屋根の上には登らないでしょう」
大変聞きたくない情報をさらりとこぼしたくろゆりさんに、僕よりもげっそりしていたのは椿さんだった。
「スーパー聞きたくなかったわそれ……今もこの周りにいるってこと? なーそれ大丈夫? くろゆりさんの護符ちゃんと効いてんの?」
「家の中までは入ってきませんよ。一人になったらもしかしたら何かアクションがあるかもしれませんが……暫く家を離れるか、誰かと一緒に居た方が安全かもしれませんね。蓼丸さんの御自宅でお仕事ができるならば、一週間ほどそちらを間借りさせていただくことを提案します」
「……新しい、手紙も。赤く塗られているんでしょうか」
「確かめたいのでしたら、破ってみてもいいですが。僕はあまりオススメしません」
今回の呪いは、少し強いかもしれませんので。そう言ったくろゆりさんの後ろの窓に、赤い傘がちらりと映った気がして、僕はやめておきますと身体を引いた。
結局あの赤い女はなんだったのかわからない。多分、何かしらの生霊か呪術ではないかということしかわからないが、僕に害がないのならば知る必要はないと思うしかない。
知ることで繋がる縁がある。
そのことを、僕は、くろゆりという呪い屋に会って知った。
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