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ことのはのろい 02
「夜分に御足労いただき、申し訳ありません」
その家の居間に通され、疲れ切った様子の中年女性が席を立ったタイミングで、隣にきっちりと正座した美貌の男性が改まったようにぼくに声をかけてきた。
黒いスラックスに黒いシャツに黒いジャケット。いつものサングラスをしていないのは、室内だからなのか夜だからなのかはわからないが、相変わらず黒い皮手袋は着用していらしたので、異様な雰囲気はぬぐえない。どう見ても怪しいこの全身真っ黒のおにーさんが通報されないのは恐らく、大概の人が息をのむような美男子だからなんだろうなぁ、と思う。
対するぼくも人の事は言えず、黒を基調とした割と攻めたファッションなんだけど、まあまあ歩いていると職質される。そういう時にぼくの怪しい『アーティスト』名義の名刺を出しても大概火に油を注ぐだけなので、おとなしくたまに手伝っているバーを勤め先として申告することにしていた。世の中はなんでか、フリーという人間に対して世知辛い。
ぼくの本日のお洋服と髪型が少々アバンギャルドなのは、仕事帰りなので仕方がない。着替える時間もなく飛んできたのだから許してほしいところだけれど、きっと隣の男性は他人の衣服や外見なんてこれっぽっちも気にしていないのだろうし、疲れ切った家人の女性は縋るものが藁でも猫でもアバンギャルドな外見の男でもなんでもかまわない感出してたから、まあ、自分の外見はとりあえずは問題にならなそうだ。
この隣に鎮座した真っ黒できれいな男性を僕たちは、くろゆりさん、と呼んでいる。
名刺に印刷してある名前なのだからその名で呼んでかまわないのだろうけれど、どう聞いても偽名なその名の響きはやっぱりすこし、おもしろい。ぼくだって蓼丸なんていうあだ名で通しているので、人の事は言えないのだけれど。
前途した通り、ぼくは仕事帰りに直接この清水家に駆けつけてきた。すでに居間でお茶を飲んでいたくろゆりさんと合流したのはついさっきのことで、座って早々にこの家に起こっている怪異や異常を聞かされ、清水のり子と自己紹介した女性が、そういえばお茶を淹れ忘れていたと虚ろな顔で席を立った後、今さらながらくろゆりさんに挨拶をされたわけだ。
「いや、あの、ぼくこそほいほいと紹介してしまって、えーと、ご迷惑でなければいいけどって、思ってはいたんですけど、まさか直々に招集されるとは思っていなかったので、あー……やっぱり、ご迷惑でした?」
「いえとんでもない。閑散期ですからね、お声をかけていただくのは大変ありがたいことですよ」
「……閑散期とかあるんですか。あれですか、やっぱり夏とかお盆あたりが繁盛期……?」
「ズバリ言ってしまえばその通りですね。実際にその期間になると霊障が増えるのも事実ですが、例えば肝試しに行く若者や羽目を外す人間が多いのは夏でしょう。寒い中外に出向いて遭難でもしたら大変ですし、まあ要するに冬は皆家の中でおとなしくするものなので、騒ぎ立てる人間があまりいないんですね」
「はあ……そういう、ものですか」
「そういうものですよ。結局人間が動かなければ、霊障なんてものはないんですからね。当たり前のことですが幽霊側から依頼などないので、人間が騒ぎ立てなければ僕の仕事は発生しません。その程度の理由でも、やはり二月三月は閑散期となりますね。みなさん、呪いやら霊やらそれどころではないのでしょう」
確かに、年末から年度末はせわしないイメージがある。ぼくの仕事は年度末関係ないけれど、バレンタインやらなにやら、派手な行事も多くイベントも多いので、二月前半はメイクの仕事がどっさり舞い込む。
相当ガチでやばい事がなければ、確かにスルーしてしまうだろう。寒いし。寒いと確かに、必要な事以外はしたくないし。
直々に呼び出されたものだから、もしかしてぼくが紹介した清水家の案件は非常に迷惑で面倒なものだったのだろうか、とびくついていたのだが、少なくとも迷惑ではなかったらしい。
おずおずとその旨を口にすると、さらりと微笑んだくろゆりさんは春日くんが捕まらなかったので、と、ぼくの友人の名を出した。
「助手というわけでもないですし、春日くんが居なくても勿論お仕事はこなしますし、あまり大事な仕事でなければ一人で十分なのですが。蓼丸さんがご紹介してくださった方は、のり子さんの妹さんで、直接はこの家族に関係のない方だと伺っています。そうするとその方にご説明していただくために、蓼丸さんにはご同行いただけた方が後々楽ではないかな、と思いまして」
一応の理由を提示され、ぼくはなるほどと納得した。
くろゆりさんはぼくとは別ベクトルで表情が変わらない。いつもさわやかにほほ笑んでいるけれど、大概ずっとその顔なので、何を考えているのかはまったくわからない。けれどこの人は感情を隠す人でもないので、言葉をストレートに信じることができた。
まあ、だからちょっと、怖いなぁとか、苦手かなぁと、思うんだけど。
ぼくが率先してくろゆりさんを紹介しないのは、霊やら呪いやらというようなものと距離をとりたいという理由ももちろんあったけれど、この人が単純に怖いと思っているからというとても個人的な理由もあった。
なんだろうなぁ、こわい。どうしてこわいのか、なにがこわいのか、いまいちよくわらかないし、別にくろゆりさんが嫌いというわけではないのだけれど。
会う度になんとなくなんで苦手なんだろう、と首を傾げていたのだけれど、単品のくろゆりさんに会ってなんとなく理解した。
この人の言葉は飾らないし偽らないからこわい。この人は自分以外に興味がないのがわかるからこわい。ぼくの事をどうでもいい、と思っている人が隣にいるのは、少し、というか、かなり、不思議な気分だし、ちょっとくらいは気を使ってほしいなんて我儘な気持ちにもなる。
椿くんと一緒に居る時のくろゆりさんは、もうちょっとだけ柔らかいような気がする。それは多分気のせいじゃなくて、本人も自覚があるらしく、春日くんも居ないのにすいませんと謝られてしまった。
「ミルクシェルは、二月三月はバレンタイン、ホワイトデー月間で毎日イベントですよね。椿くん大忙しだろうし、そういえばフユもしんどい休みがないお肌が荒れるってぷりぷりしてたなぁ……」
「春日くんも毎日割合ぐったりなさっていますね。本日も深夜までお仕事だそうです。蓼丸さんには申し訳ないですが、今晩だけ僕にお付き合いいただけたらと思います」
「ぼくで、よろしければ」
とはいっても、霊感など微々たるものだ。確かに幽霊みたいなものに関わることが多くなってから、変なものを見ることは多くなった。やたら暗い場所や、やたら寒い場所に出会うこともある。そういう時はちょっと遠回りするようになったけれど、例えば何かを訴える幽霊の声が聞こえたりとか、そんなことはない。ほんのちょっとだけ敏感になったような、ほんのちょっとだけ異変に気が付きやすくなったような。感覚的にはそんな感じだ。
「依頼人の家で言うことではないのですが、僕もあまり鋭敏な方ではありません。おそらく見えるものだけならば春日くんの方がきっちり見えているのだと思いますよ。蓼丸さんは、感覚的に感じているようですね。ちなみに僕はふんわりとこの家は暗いような気がする、といった印象しかないのですが、蓼丸さんはいかがですか?」
「あー……暗い……確かに、なんだか隅が暗いですよね。天井の隅も妙に影があるっていうか。あと、寒いような。背中の上の方を、ぞわぞわ撫でられるような嫌な寒気がある、気がしますけど、心霊系のお仕事に同行しているっていう先入観も、あるのかも」
「人間は思い込みで世界を変えてしまいますからね。その自覚がある分、蓼丸さんは客観的なのでしょう。……確かに寒くて暗いですね。後は、重い」
わかる。この家の空気は、妙に重くてずっしりとしている。
吸い込むのも躊躇するような、息をするのも疲れるような、じっとりと沈むような気配に満ちていた。勿論これもぼくの思い込みかもしれない。
僕たちがそんな風に家の空気を感じていると、お盆に急須を乗せたのり子さんが帰ってきた。
急に襖が開いてびくっとしてしまったけれど、ぼくがこんな事に一々びくついているのも、くろゆりさんのお仕事だし幽霊がいる家なのだろうという先入観があるからに違いない。
このご夫人の顔色の悪さも、家の禍々しい雰囲気を増している要因だと思う。いかにも疲れてもうどうしようもない、といった顔だ。
ライさんから事前に聞いた話によれば、清水家の大黒柱であるご主人は現在長期の出張中で、半ば単身赴任のような状態らしい。この一軒家に住むのは長女の知里さんと、主婦ののり子さんだけだという。
「あの、本当に、お布団のご用意はいいのでしょうか……仰ったように毛布と座布団のご用意はいたしましたし、水筒にお茶だけ入れさせていただきましたが……」
「結構ですよ。ありがとうございます。ご迷惑かとは思いますが、どうぞ一晩だけご辛抱ください」
「…………やはり、知里には、その……よくないものが、憑いているのでしょうか……」
「それをまずは確かめさせていただきます」
この人は感覚的な霊能者ではない。だから、家に一歩入って『先祖霊の祟りです』と言うタイプではなくて、様々な角度から検討して経験則から判断する人だと伺っている。ぼくなどはくろゆりさんのお仕事を何度か拝見して説明も受けているのである程度の安心感を持っているけれど、普通の人ならばこのタイプの霊能者に不信感を持つかもしれない。
ぼくたちが一般的な霊能力者に求めるのは、一瞬で悪霊の正体を見抜き、一括でそれを祓ってしまう漫画や小説のような力であって、それは実際の彼らの仕事とはかけ離れたものなのだろうなぁと思う。
いやわかんないけど。ぼくはくろゆりさんしか、そういう人を知らないし、これからもそういうものに積極的に関わろうとは思わないから。
微妙に不安そうなのり子夫人の淹れてくれたぬるいお茶をいただき、その後ぼくたちは二階に案内された。二階には夫婦の寝室と知里さんの私室があるらしい。狭い廊下は暗く、その中ほどに厚手の座布団が二枚と、畳んである毛布が二つ重なっていた。
ぼくらを案内してくれたのり子夫人は、深々と頭を下げてからそそくさと奥の部屋に入ってしまった。おそらくそちらが寝室なのだろう。
……あー。ここで、張り込むわけか、と。ちょっとしんどいって思ったのが珍しく顔に出ていたのか、それともぼくの表情の動きなんか特に気にしてはいないけど一応言っておこうと思っただけなのか、くろゆりさんがすいませんとぼくに囁く。
「暗い事と寒い事くらいは僕にも分かるのですが、所詮それだけです。暫く粘ってはみましたし、知里さんともお話してみたのですがね。まったく何も起きない。異変が起きるのは夜が更けてからと伺っていましたので、いっそ強硬手段に出ることにしました」
「強硬手段……え。張り込んでその場を押さえよう、的なことです?」
「それができればそれでもいいですけれど。僕はそもそも、あまり目も耳も鋭敏ではない。お話を伺う限りでは思い当たるような元凶も現象もない。そうなるととりあえず対処をしましょう、というような数撃てば当たるような防御戦法くらいしか使えませんがこれは非常に費用がかかる。手当たり次第の護符を貼るわけですからね。僕が書ける護符も無くはないですが、アレを書くのは手間がかかる。いまここで、というわけにもいきませんし、まあ、一晩我慢すればここに霊が居るかどうかだけはわかる筈なので、どうぞお付き合いください。アルバイトとしてうちの事務所からお給金も出しますので」
「ええと、いえ、お金は、うーんもらえるならそれはありがたいですけど、くろゆりさんはあまり霊感的なものがない、と伺っていますけれど、そのーぼくも、たいしてそういうものに強いわけでもないですし、いざ幽霊が出てきても、二人とも異変に気が付かないってことは、ないんですかね」
「気が付かなくても大丈夫なんですよ。僕は少々、厄介なものを背負っていますので」
それが、教えてくれます。と彼は薄暗い廊下の電球の下で笑ったようだった。
なんだか急にライトノベルの思わせぶりな脇役みたいな事を言われてしまった。うーん、やっぱりこの人の事は、よくわからない。椿くんの隣から一歩引いて見ているくらいがちょうどいいのだろう、と実感する。
乗りかかった船だし、そもそもぼくが名刺を渡さなければこんなことにはならなかったわけだし、明日は休みだし杜環くんも確か急ぎの原稿があるとかで小忙しい筈だし、まー、これも人生のネタかなと思って諦めてため息は飲み込んだ。
「……何人か、相談した霊能者に匙を投げられたってふんわーり聞いた気がするんですけど。大丈夫、なんですかね」
「どうでしょうね。大丈夫かどうか、この時点でわかることができたら、僕はもう少し安全に仕事をこなせるのに、と思わなくもないですね」
まったくその通り過ぎて、デスヨネなんてあほみたいな返答しかできなかった。何事もそうだ。霊感があってもなくても、未来予知ができてそれらしい助言ができるのは、大概小説の登場人物だけだった。
それっきり、くろゆりさんは黙ってしまう。
仕方なくぼくはスマホの画面を開き、多分大変忙しいであろう友人と恋人に『くろゆりさんなう』とだけメッセージを送った。
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