56 / 83

ことのはのろい 03

 現代って便利だなーと思うけれど、同時に不便だなーとも思う。  いつでもどこでも好きな時に電子書籍で本が読めるのは便利だ。でも、電子書籍を読む媒体であるタブレットの充電が切れてしまえば、本を読むどころか他人と連絡を取ることもできなくなる。  集中しなくてもいいもの、と思って某大御所作家さんのSFショートショートをだらだら読んでいたのだけれど、半分ほどで充電が二十パーセント切りましたというメッセージが出て、泣く泣くぼくはスマホを置いた。  うーん暇だ。思っていたより寒くはないけれど暇だ。毛布にくるまった隣のくろゆりさんをちらりと伺うと、目を閉じてじっとしている。うっすらとした灯りの中で見た腕時計の針は、午前零時過ぎをさしていた。  そろそろ、椿くんのお仕事が終わる時間だろう。深夜営業のお店は規制の為一時には店じまいをしなくてはならない。ぼくが時折手伝うバーも、椿くんとフユが勤務する店もこの例外ではなくて、よく退勤後の二時あたりにファミレスやファーストフードでだらりとどうでもいいことを話した。  そういえば最近そういう時間も作っていないなぁ、と思い出す。フユが新しい彼氏にお熱になったこともあるけれど、ぼくはぼくで杜環くんの家に直で帰ってしまうし、椿くんは大概くろゆりさんと一緒に居る。  寂しいような気がしないでもないけれど。別に、友情がなくなったわけでもないし、よくよく考えたら三日前くらいにランチしたばっかりだからむしろ仲良しだなーと思い直した。  夜中に会わなくてもいいのだ。夜はやっぱり、ちょっと変なものが多い。夜の重さって嫌だなぁと思うようになったのは、くろゆりさんと会ってからかもしれない。  寝ていてもいいとは言われていたけれど、他人の家の廊下は安眠できるような場所ではない。そもそも夜型のせいで、仕事のない日でもこの時間に眠くなることはあまりない体質だ。  くろゆりさんは寝ているのだろうか。普段、彼がどのようなスケジュールで動いているのかなんて知らないし、忙しいのかどうかもわからないけれど、なんとなく睡眠なんか三日くらい取らなくても生きていけるような顔をしているので不思議な気分になった。  返事のないラインにメッセを送りまくる遊びにも飽きた。杜環くんは仕事中はラインを見ない事を知っているけど、たくさんメッセを送っておくとあとで全部読んで律儀に返事してくれるからかわいくて、ついつい言葉を送り付けてしまう。  うーん帰りたい。でもお給料いただけるっていうし、そのお金で何かおいしいものでも食べにいければ、まあまあ、悪くないしおもしろい時間なのかもしれない。と……ぼくが、比較的前向きに考えあくびをした時だった。  ごとり、と音がした。  外の音かと思ったけれど、いやいやと時間を思い出す。深夜零時、繁華街や人通りの多い駅の近くならまだしも、閑静な住宅街だ。杜環くんの家がある環境に近いと思う。あそこはほんとうに静かで、夜九時を過ぎるともう、隣の家のテレビの音だってしないくらいだ。時々猫やカラスが鳴くだけでもびくっとしてしまうくらいに、何の音もしない。  ごん、ずずっ、ごん、ずずっ、とさらに数回。ぼくがこの音が外の音ではない、ととっさに判断した原因が分かった。  上からしているのだ。たぶん、屋根の上じゃない。二階と屋根の狭間の、屋根裏みたいなスペースから聞こえる。それでこれはたぶん、何かが、這っている音なのではないか、と。 「うわぁ……」  また上か、と思った。どうしてぼくが遭遇する怪異ってやつは、いつも天井からなんだろう。いや、なんていうか、床下から足を掴まれるのもたいそう嫌だけど、上からっていうのはこう、なんとなく逃げ場がないような気分になるから最悪だ。  ごん、と膝をつく。ずずっと擦るように進む。四つん這いになってゆっくりと這いまわる何かを想像しそうになって、あわてて視線を下げた。意図せずうちに、上を見ていた。そこから何かがにゅう、と出てきたら最悪だ。となりのくろゆりさんは、目を閉じたまま微動だにしない。これはもしかして、この場で意識を保っているのはぼくだけとかそういう、よくホラー小説とか映画とかにあるようなとても嫌な展開なのではないか、と。  冷汗をかいた時に、部屋の中から小さな叫び声がした。  知里さんだ。次いで、部屋の中を走る音がする。これは、もしかしてまずいのではないだろうか。くろゆりさんは、相変わらず目を閉じている。揺り動かして起こすのも恐ろしく、とりあえずぼくは恐る恐る、知里さんの部屋のドアノブに手をかけた。  くろゆりさんに『部屋に入るな』とは言われていない。この人は、本当に駄目だとかやってはいけないみたいな禁忌は、きちんと最初に羅列してくれるマニュアル対応的な人だ。入るなと言われていないのだから、まあ、大丈夫なのだろう。  おずおずとノックをすると、部屋の中で悲鳴が上がる。あー、まあ、そうだよなと思ってできるだけさっとドアを押し開けすいませんと声をかけた。 「あのー……ええと、今日ちょっとお邪魔してる者で、そのー……黒澤鑑定事務所の、者なんですけどなんか天井の方から音うっわ!」  顔をのぞかせたぼくは思わず言葉の途中で声を上げてしまった。  部屋の中は暗かった。電気が消えた闇の中で、ふわふわと部屋の中を舞う白いものが大量に見えた。  一瞬幽霊だとかそういうものが頭をよぎる。しかしふわっと床に積み重なるように落ちるそれは、よく目をこらしてみればティッシュペーパーだった。  大量のティッシュに埋もれるように、ベッドの上で女の子が震えていた。上下色がそろっていないジャージ、というところに今時女子の私服感があってうーん、いや、彼女の服装なんてどうでもいいんだけどさ。  がたがた震える彼女の傍に寄ると、苦しそうに胸を押さえて息をする。ぜえはあ、ぜえはあとまるで発作のようで、慌てて駆け寄ったぼくは背中をさすった。 「ちょ、あの、大丈夫……っひ!」  びくり、と彼女が痙攣するように体を揺らす。喉の奥からア、ア、ア、と断続に絞り出すような悲鳴が漏れていた。 「ア……来る……来るよぉ…………」  来る、と彼女が口にした瞬間、天井がドン! と音を立てる。大変覚えのある嫌な緊張が部屋の中に満ちた。妙に寒く、腰から一気に鳥肌が立つ。それもそのはずで、何故かこの冬の最中、彼女の部屋の窓は開いていて、カーテンがゆらゆらと揺れていた。  窓に気をとられているうちに、今度はクローゼットの中から嫌な音がした。カリカリカリカリ、板を、爪で擦るような。いや、実際にそれは、板を爪で擦る音そのものだったのだろう。  カリカリカリカリガリッ、カリ、カリカリカリカリガリガリガリガリガッ、ガッ、ガッ、ドン、ドン、ドンッ、と、その音は次第に大きくなる。  うーわぁ、なんて頭の中ではわりと冷静にどうしようこれ、と思っているのに身体は動かなくて、知里さんと思われる女性の肩を抱きしめて息を止めることしかできなかった。  こわい。まずい。これはくろゆりさんを無理にでも叩き起こした方がいいんじゃないのかな。でも、ここから離れて廊下に行く勇気も、あんまりない。春日くんはいつもこんな状況に耐えているのかあの子思ったよりもどMだななんて、ほんとどうでもいい事まで考えてしまうのはパニックしているからだ。  ああ、ほんと、余計な事に首をつっこむんじゃなかった。くろゆりさんが清水家に関わった件についてはぼくが発端とはいえ、そもそも関係のない人たちの事だ。せめて名刺を渡すだけに留めておくべきで、くろゆりさんからの電話に出るべきではなかったし、仕事が休めないのでと適当な事を言って断るべきだったのだ。  ちょっと本当に泣きそうになって、自分の心の弱さを呪う。あれだなぁ、ここのところ、ずっと杜環くんと一緒だったから。杜環くんがいれば、もうちょっと心強くもてるんだけど。  彼はとても怖がりで、最近ホラー小説を書いているのが冗談に思えるくらいの怖がりで、きっと僕の洋服の裾を持って涙滲ませてもう無理ですってえっちしてる時みたいに震えて懇願すると思うから。そしたらぼくはきっとなんか妙にきゅんとしちゃって怖いのとかどうでもよくなる筈だ。  怖い時には楽しい事を考えたらいい。と、昔聞いた。もっと言えばエロい事をしたらいいとも。杜環くん相手ならそれも対処法としてありなんだけど、隣で震えているのは名前しか知らない女の子で、うーん流石にぼくとえっちな事して恐怖を忘れましょうと提案するわけにもいかない。昔ならしてたかもだけど。何と言ってもぼくは、杜環くん以外には貞淑を貫いているし。これたまにみんなに疑われるけど本当にぼくは恋人一筋で生きているのだから失礼すぎる。自分の奔放な過去が悪いんだけど。知ってるけど。いやぼくのよくない過去のお話とか性癖のおはなしはどうでもよくてさ。  暫くドンドンとクローゼットは鳴っていたが、それ以上のアクションはないようだ。いっそスパーンと開けたらどうなるのだろう。まあ、それを実践する勇気は生憎のところない。  さむい。こわい。つんと冷えた空気の中に、嗅ぎなれない臭気を感じたのは、さてぼくが先だったのか腕の中の少女が先だったのか、わからない。  気が付けば、二人とも眉を寄せて口元を覆っていた。袖の長いカーディガンをひっかけていたぼくは、ぐいとひっぱったその袖で鼻と口を覆う。  窓の方かと思ったけれど、むしろ風はひんやりとその臭気を流しているような気がした。じゃあどこだ。廊下ではこんな臭いはしていなかった。というか、先ほどまでこの部屋の中も、臭いなんてしていなかった筈だ。パニックになっていて気が付かなかっただけ? いや、臭いは、段々と濃密になっている。  部屋の中は相変わらず暗い。うっすらと目に慣れた闇の中で、そよいでいたはずのカーテンがぴたりと動きを止めた事に気が付いた。  そして隅の闇が、ずるり、と蠢く。 「――――――っ」  悲鳴を飲み込んだのは、ぼくかそれとも彼女か。喉が変な風に鳴って、息をすることを忘れる。  口を開いただけで吐きそうな程の臭いで満ちている。窓は開いているのに。髪の毛を燃やしたような、泥臭いような、卵が腐ったような、とにかく動物的な異臭と山の中のような臭いが混じって強烈に鼻を刺激する。  一人だったら耐えられずに吐いたかもしれない。目が痛いのは、臭いのせいか興奮状態にあるせいか、わからない。隣の少女は嗚咽を上げながらも、暗闇のなかで動くソレを見つめていた。  ぼくもそうだ。見てはいけないような気がする。それでも、視線が逸らせない。  ずるり、とソレは動く。暗い部屋の中で、確かに身動きしているのがわかる。やたらと小さい気がした。もしかして子供や動物かと思ったが、暫く観察していてソレが四つん這いになっている事に気が付いてしまい、あーもうほんとに泣きそうだと思う。  なんでああいうものって、ずるずると這うんだろう。確かに二本足で立って走ってきても嫌だけど。それはそれで嫌だけど。  ソレが這う度に、ずるり、という音とぐちゃり、という音が混じる。粘着質で水っぽい嫌な音だ。濡れた衣服が床を擦るような音もする。そしてどんどん、異臭は強くなる。 「ぅ……うう…………」  隣の少女の喉から、嗚咽のような声が漏れる。そのうちそれが聞こえなくなり、気が付けばぐったりと重い身体が壁にしなだれていた。意識を失ってしまったらしい。ぼくだってできれば目を閉じて朝になっていたら結局何もなかったです、というようなオチが見たい。それなのにずるずると這う何か黒いものはもう部屋の半分程まで進んできてしまっているし、ぼくの意識は割合強く、ふつりと途中で切れる気配もない。  べちゃ、ずるり、ずるっ、ぐちゃり、べちゃ、ずる。  耳に張り付くような音の合間に、ずおっと空気が流れるような音が混じり、ああもうほんと勘弁してください呼吸音じゃないの息吸って吐いてるじゃないの完全に人型確定じゃないの、と泣きそうになった。  べちゃ、ずるり、ぐちゃ、ずるっ、ドン。  …………部屋の中程まで進んだその黒いぐちゃぐちゃした四つん這いの何かは、急に壁の方にべったりと身体を寄せて頭のようなものをどんどんと、壁に叩きつけた。  ドン、グチャッ、ドン、グチャッ、と、嫌な音が響く。それが何の音なのか、全く想像したくない。 「……五分ほど、我慢してください」  唐突に響いた声は、廊下から聞こえてきたものだった。そうだ、あの黒いものがどんどんと頭をぶつけている先。そこにはくろゆりさんが、座っている筈だ。開け放たれたドアの向こうから、廊下に居るはずのくろゆりさんの声が聞こえる。 「くろゆり、さ、……これ、なにが…………」 「何となく、そうではないかなと思ってはいたんですが、たまには自分のカンも信じてみるものですね。蓼丸さんは巻き込んでしまいましたが、まあ、これならば後を引くようなものでもない筈なので、大丈夫でしょう。ご説明は後程いたします。どうぞ、目を閉じて五分、耐えてください」  そうしたらお暇しましょう、と言うかの人の声は異常に落ち着いていて恐ろしい。  何がどうなっているのか。ぼくには全くわからない。わかるのは、くろゆりさんが大丈夫だと言っているのだからたぶん本当に大丈夫なのだろう、というよくわからない確信だけだった。  椿くんは折々にこう言っている。あの人は、嘘をつかない。あの人は、飾らないし誇張しないし最悪なくらいに正直に物を言う。だから無理だと思えば依頼人が泣こうが喚こうが無理だと言うし、あの人が大丈夫だと言い切ったことは、本当に絶対に自信を持って信じていいことだ、と。  くろゆりさんは嘘をつかない。くろゆりさんは言葉を放つ時に柔らかいものに包まない。だからぼくは彼が怖いと思うけれど、確かにこういう場面では真実しか言わないこの人の言葉は大変ありがたいものだな、と実感した。  五分って何秒だっけ。三百秒だっけ。一から三百数える間に、本当にこの泣きそうな異臭は消えるのだろうか。消えてくれないとさすがにぼくは吐きそうだ。  お経の一つでも覚えておけば心強いかもしれない。  もうこういう案件に関わるのはこりごりだと思っているのにぼくは、今後の為に帰ったらお祓いの祝詞を調べようだなんてことを考えながら、三百秒数える為に目を閉じた。  暗い部屋から、真っ暗な瞼の裏に切り替わる。  ドン、ドン、べちゃり、と。蠢く黒いものがくろゆりさんと自分を阻む壁に身をぶつける音を聞きながら、ぼくは長い五分を待った。

ともだちにシェアしよう!