60 / 83

盛り塩の家 01

【一】盛り塩の家  都内の家電販売店に勤める波多野さんは、とにかく安い家を探していた。 「嫁が妊娠したんですけどね、ちょっと近場に通える病院が無くて。どっちの実家も遠方だし、それならいっそ引っ越すかって話になったんですよ。結婚した時も、僕のワンルームアパートに嫁が転がり込んできたって感じだったんで」  以前のアパートは手狭ながらも便利な立地に建っていたが、隣人と折り合いが悪く、一時期奥方はかなりの不眠症に陥ってしまったらしい。身重の身体の事もある。早急に引っ越したいが、出来ることなら壁の向こうを気にしなくて良い一軒家がいい。  しかし結婚三年、勤続五年程度の波多野さんには、あまり金銭的余裕がない。とにかくなるべく安い家を、と不動産屋を渡り歩くうちに、ついにとある賃貸住宅に行きついた。具体的な値段は控えるが、東京都近郊の二階建て3LDKとはとても思えない安価だ。近場にコンビニやスーパーは無い住宅街だったが、最寄りのT駅は徒歩圏内で、駅周辺にはファミレスや大型ディスカウントショップもある。立地も悪くはない。  しかし内見時に不動産業者が持参した資料には、『心理的瑕疵あり』との表記があった。 「今までそんな言葉聞いたこともなかったんで、なんだそれって感じだったんですけど。要するに事故物件だったんですよ」  瑕疵物件とは、『傷物』『訳アリ』の物件である。物理的瑕疵物件とは雨漏りやシロアリ被害等の実際の住居の欠陥や被害を指すものであるが、心理的瑕疵物件とは主に事故物件を指す用語だった。室内または家屋内で、自殺、他殺、孤独死などが起こった際、この部屋ないし建物は『事故物件』とみなされる。  そう言われれば何となく空気が湿っているように感じるものの、実際の部屋は想像していたよりも広く、居心地の良い家に感じる。隣のアパートが近いせいで日当たりが少し悪いことが気になる程度で、想像していた幽霊屋敷的なおどろおどろしさは微塵も感じなかった。  波多野夫妻には霊感はない。今まで幽霊らしきものを見かけたこともなければ、普段からオカルト番組を見るような事もない。人が死んでいるという事実には単純に不気味さを感じたが、だからと言って心霊現象に結び付けて怯える事はなかった。  二人は内見を済ませると、すぐに賃貸の契約を結んだ。  幽霊も妖怪もUFOも信じてませんでしたから、と笑った波多野さんはしかし、転居初日から不気味な体験をする事となる。 「まず、家に入る前から僕たちは固まっちゃいました。玄関の前に、こう、扉を挟んで両脇の位置に、盛り塩があるんですよ」  そんなものは内見の時にはなかった。しかし引っ越し前に土地を清めるような儀式があるのかもしれない。多少気になりはしたものの、とりあえず波多野さんは不動産屋から渡された鍵で玄関ドアを開いた。  玄関からまっすぐ、突き当りのトイレまで廊下が続く。その廊下の両端に、ずらり、と盛り塩の皿が置いてあった。 「等間隔に、ずらっと皿が並んでいるんです。五十センチくらいですかね。もうびっくりしちゃってすぐに不動産屋に電話したんですけど、清掃業者しか入れてないって言うし、誰もそんな事はしてないとしか言われなくて。仕方なく自分たちで皿は撤去したんですけど、結局中の部屋全部に結構な量の皿が置いてありました。それも自分で集めて捨てました。気持ち悪くなかったと言えばうそになりますけど、だってどうしようもないですから。引っ越しのトラックは来ちゃってたし、今から坊さん呼んでお経上げてもらってって訳にもいかなかったし。その日はそれだけでした、が」  引っ越し当日の夜から、波多野夫妻はこの家の異変に悩まされた。  誰もいない筈なのに家の中を歩き回る音がする。風呂のすりガラスの向こうに人影のようなものが映り込み、スッと横切り消える。二階のベランダ側の窓に大量の手形が付く。キッチンの蛇口から勝手に水が流れ出す。夜中にテレビのスイッチが入る。深夜二時に無言電話が連続してかかってくる。  どれか一つならば誰かの悪戯か家電のトラブルで説明をつけることもできたが、ここまで不可思議な事が続くと、流石の波多野さんも怪異現象を信じざるを得ない。しかし夫妻は引っ越して来たばかりだ。契約上、一年は住まなければ違約金が発生してしまう。  怯える奥さんをどうにか宥めていた波多野さんだったが、ある時、彼女が二階に怯えている事に気が付いた。 「やたらと理由をつけて、昼間でも二階に行きたがらないんです。寝室は二階にあったんですが、結局布団まで一階に下ろしちゃって、引っ越して一か月目くらいにはもうほとんど二階は封印しているような状態でした」  奥さんの話では、二階に、女が出るのだと言う。  奥さんからこの話を聞きだした波多野さんは、流石に最初は取り合わなかった。これだけ不可思議な現象が続く家に住んでいて尚、彼は心霊現象を信じていなかったのである。 「妊娠して、仕事辞めて、引っ越して、ナーバスになってんだよって慰めましたね。俺自身は怖いって感情は無かったです。むしろ幻聴とか幻覚とかの部類だと思ってたんで、カウンセリングとかそういうところに連れて行った方がいいのかなって心配してました」  そもそも、事故物件だという事を承知して入居している身である。思い込みやストレスで病み付く事もあるだろう。  何度か宥め医者にも連れて行ったが、結局奥さんは自分の実家に帰り寝込んでしまう。  波多野さんは広い一軒家に一人で暮らす事になってしまった。 「嫁の事は心配でしたけど、僕も仕事があるんで一緒に義実家に帰るわけにはいかなかったですね。一人になると、何故か広い家が酷く狭く感じるんです。なんていうか、そこかしこから物音が聞こえて……まるで、大人数と一緒に暮しているような、気持ちの悪い感覚でした」  週末の夜、波多野さんは少々酔って帰宅した。珍しく休日が被った友人と落ち合い、近状報告を肴にかなり話し込んでしまった。玄関をくぐる頃には深夜に近く、近隣はひっそりと静まり返っていた。  誰に遠慮する事もないのだが、近所迷惑になっても困ると思い、そっと静かに扉を開ける。ギィ、と軋んだ音をさせ、玄関ドアを開けた先、波多野さんの目と鼻の先に女が立っていた。  ヒィ、と思わず叫んだ。  目の前に開いた両目があった。波多野さんの身長は特別低くはない。ということはその女は、男性程の身長があったことになる。まるで鏡を見ているかのように、波多野さんの両目の前に、知らない女の両目があった。  あまりの事に一歩引いた波多野さんだったが、次の瞬間には女はいなくなっていた。 「消えた、とかじゃないんですよね。本当に、いなかったんですよ。目を逸らした覚えはないのに、消えた瞬間は見てないんです。でもいたんですよ」  玄関で立ち尽くす波多野さんの目の前で、二階へ続く階段がぎしり、ぎしり、と音を立てた。誰かが、二階に上がっていく音だった。しかしそこには何もない。誰もいない。  思わず、身を乗り出して階段の上を覗いた。  その時、階段上の手すりの向こうから、ぐうっ、と、女が顔を出した。 「それだけっちゃそれだけなんですけど。……うちに住んでいるのは、おまえかって思ったら、気持ち悪くて鳥肌がすごかったです」  波多野さんはその日、駅近くのファミレスで一晩を明かし、そのまま早急に解約と移転の手続きを済ませたという。 「ただ、嫁が実家から帰って来ないんですよ。これが霊障のせいなのか、僕のせいなのかわからないんですけど」  奥方の子どもは流産だった。  波多野さんはいまでも、こちらを見つめる女の目が忘れられないと言う。

ともだちにシェアしよう!