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盛り塩の家 02
見ているかのように、波多野さんの両目の前に、知らない女の両目があった。
あまりの事に一歩引いた波多野さんだったが、次の瞬間には女はいなくなっていた。
「消えた、とかじゃないんですよね。本当に、いなかったんですよ。目を逸らした覚えはないのに、消えた瞬間は見てないんです。でもいたんですよ」
玄関で立ち尽くす波多野さんの目の前で、二階へ続く階段がぎしり、ぎしり、と音を立てた。誰かが、二階に上がっていく音だった。しかしそこには何もない。誰もいない。
思わず、身を乗り出して階段の上を覗いた。
その時、階段上の手すりの向こうから、ぐうっ、と、女が顔を出した。
「それだけっちゃそれだけなんですけど。……うちに住んでいるのは、おまえかって思ったら、気持ち悪くて鳥肌がすごかったです」
波多野さんはその日、駅近くのファミレスで一晩を明かし、そのまま早急に解約と移転の手続きを済ませたという。
「ただ、嫁が実家から帰って来ないんですよ。これが霊障のせいなのか、僕のせいなのかわからないんですけど」
奥方の子どもは流産だった。
波多野さんはいまでも、こちらを見つめる女の目が忘れられないと言う。
【二】杜環
「いやぁ流石。流石ウチの杜環センセイ。なんかもーいっそギャグも恋愛も何でも書けちゃうんじゃないのって感じっすわすげーなホント半端ねぇっすよ。実話怪談初めて書いたとか舐めてんのかって感じなんすけど」
つらつらといつものように言葉を羅列する馴染みの編集者は、今日もどこで息継ぎをしているのかわからない絶妙な言葉の弾丸を浴びせてくる。彼が言葉をがつがつと連ねる時は決まって上機嫌の時だ。それ自体は嬉しいことだ。どんな場面であろうと、知り合いが不機嫌でいるよりは、楽しい気分でいてくれた方がいい。
しかしこの日の僕は、彼の上機嫌な言葉に浮かれるような気分ではなかった。
「いやでも……やっぱり本業の方には及ばないです、本当に。どうも説明ばっかりが多くなって……あと、過去形ばかりで中々、纏まらないというか、似たような言葉ばかりで単調というか」
「まーね。そりゃーね。過去こういう話がありましたーって体なんで仕方ないんじゃないっすかね。俺もまぁこの界隈詳しくないですけど、これ以上派手だと『いやーこれぜってー書き手が盛ってるでしょ』って感じにならないっすかね。なりますよね。なるわ絶対。このくらいでちょうどいいと思いますよ俺は。あと地味にえぐいラストもイヤーな感じでなんつーか、コメントしがたい感じのコワさで個人的には結構嫌っすね。これ、マジで実話なんでしょ?」
「はぁ。あの、イベントで聞いた話を、基本はそのまま、文字に起こしただけなので」
「まぁ話し手が盛ってなけりゃ全部ガチって事っすもんねー波多野ってどの人でしたっけ? なんかあのやたら早口な痩せたおっさん?」
「……割と皆さん早口だったので風合瀬さんがおっしゃる人がどの方なのか、正直、わからない……」
「うははは確かに! あのイベント個人的には大成功だと思ってますけど、かなりパンチ効いた読者のオンパレードっしたからねー。さすがラノベ。こんなこと表で言ったら一瞬でボッコボコにされちゃうんで編集部内オフレコっすけど、いやほんとラノベの読者は一味どころかとんでもねーゲテモノぞろいで個人的には最高に楽しい体験でしたわ」
確かに、普段の風合瀬さんには縁のない仕事だったと思う。基本的に純文学もどきの現代文学を書いて生きてきた僕にとっても、先日のサイン会を兼ねたイベントは正直、未知の領域だった。
牡丹籠社の風合瀬さんは、しがない文字書きである僕のデビューから付き合いがある、数少ない馴染みの編集者だ。学術書や固めの文芸を主に手掛ける牡丹籠社だが、最近は若者向けのレーベルを新設し、新規開拓を狙っている、らしい。要するにライトノベルと言われる分野への参入だ。
一口にライトノベルと言っても、誰もが想像するようなアニメ漫画テイストのファンタジーものから、児童文学寄りの文芸入門と言えるようなもの、女性向けのライトな恋愛ものなど、様々な分野がある。少し前にはヤングアダルトというものも流行った。
イラストレーターに伝手が少ない牡丹籠社は、まずは『学生が気軽に読める物語』をテーマに作家を集めた、らしい。そして何故かその中で断トツ売れてしまっているのが、僕が執筆する『幽霊探偵マコト』というライトホラー青春ミステリ(というジャンルがあるのかわからないが、あらすじと帯にはこう書いてある)小説だった。
ホラー小説やホラー映画など、そういうものに触れてこなかった僕が、何故ホラー小説などを書こうと思ったのか、その過程については、今は割愛する。とりあえず前提として主張しておきたい事は、僕はホラーコンテンツに興味はあれど実際の怪異には触れたくないし、恐怖体験もしたくない。要するに怖がりだという事だ。
それなのに売れているから、今しかないから、と上機嫌な風合瀬さんに背中をぐいぐいと押され、ついにとあるイベントに無理やり参加させられてしまった。
幽霊探偵マコト最新刊の発売記念を銘打ったサイン会とトークショー、という事になっていたが、実際そのイベントの招待ハガキには『アナタのコワい体験是非お聞かせください』と印字されていたことを僕は知っている。いや直前まで知らなかったが、イベントの控室で打ち合わせをしている時に急に聞かされた。
正直とても帰りたかったが、純粋にサインを楽しみにしている人がいたら、と思うと申し訳なさが勝った。元来売れっ子とは言い難い作家の端くれだ。直に感想をもらい、読んでくれる人の顔を拝見できるイベントを企画してもらう事など、この先何度あるかわからない。
最初は吐きそうな程緊張し眩暈がしそうな程帰りたかったイベントだったが、参加してくださったお客さんの話が進むにつれ、僕は真剣に怪談に耳を傾けていた。
心霊スポットに突撃してこい、と言われれば絶対に首を横に振るし、絶対に腰を上げないし、一歩も動かないと断言する。けれど、人の体験した怖い話というものは何故か、続きが気になってしまう。
勿論、風合瀬さんがただ単に面白そうだから、などという理由でイベントを企画したわけではないと察していた。僕はあまり頭脳明晰とは言えないが、何故かこの人の考える事は嫌な予感として察してしまう。絶対に、確実に、何かやらされるんだろうなと確信していた。
そして当たり前のように持ち上がったのが、僕が執筆する実話怪談本の企画だった。
馴染みのない人の為に少々説明すると、実話怪談というジャンルが存在する。これは単に幽霊の話、怖い話、というよりも、『本当にあった誰かの体験した話』に特化したものである、と僕は解釈している。
友達が居酒屋で急に始める、知人の怪異譚のような。そういえばこの間変な事あってさ、から始まる自身の体験談のような。
身近にあるリアリティと、オチのつかない奇妙な味が、『実話怪談』には織り込まれている。大切なのは登場人物の関係性やストーリーではなく、とにかくどこで何があったかというただそれだけだ。それが、怖いというか、奇妙に気持ち悪い。
僕もホラー小説を書くにあたり、著名な実話怪談本を何冊か拝読した。現代の実話怪談の基礎ともいえる中山一朗・木原浩勝共作の実話怪談集『新耳袋』は特に有名だろう。淡々と綴られる奇妙な体験談は、ストレートに怖いものから、なんとも言えない嫌な後味を残す不思議な話まで多岐にわたる。
素直に面白いジャンルであると思う。僕はびっくりしたりハラハラしたりするホラーは苦手だが、不思議だったり不気味だったりするものは結構好きなのかもしれない、と思い直した程だ。
しかし読んで面白いものと、書いて楽しいものは別だ。ライトなホラーですら背筋を震わせながら書いているというのに、実際に起こった怖い体験談など正直無理だ。怖いにも程がある。
と、何度も抗議したにも関わらず、結局僕は風合瀬さんの無理矢理に近い口車にかなり強引に乗せられ、実話怪談の真似事のような小説を現在執筆している最中である。
筆は遅い方ではない。慣れないルポ調の小説は難しく、手が止まる場面も多いが、それでもどうにか半分程書き上げた。
僕の原稿は基本的にデータでやり取りをしているので、打ち合わせもメールや電話で済ませてしまう事が多い。しかし今回僕が、執筆を終えたわけでもないのに牡丹籠社を訪れたのは、切実な理由があった。
「原稿の進捗も流石の速さですし、まぁ確かにちょっと杜環センセイの文章にしちゃあかてーかなって感じはありますけど、参考にしたのが新耳なら随分柔らかい方じゃないですかね。手探り感あっていいですよ。超初々しい杜環センセイの初実話怪談、杜環マニアにめっちゃ重宝されそうふはは。はー……で、なんでしたっけ? つかセンセイなんで今日来たんでしたっけ?」
「あの、えーと……実は――」
この本の執筆をやめたい。
思い切ってその言葉をどうにか告げた僕の目の前で、珍しく風合瀬さんが眉を寄せた。
思わず、肩に力が入る。風合瀬さんの言葉は割合きついが、テンションに関しては常にフラットだ。きつめの校正をする時も意見をぶつける時も、はっきりとモノを言うが急に怒ったり不機嫌になる人ではない。普段と違う彼の表情は、僕の胃を確実に的確に笑えるくらいわかりやすく締め付けた。
僕の緊張は表情に出ていたのだろう。
自分の親指で眉間を揉むようにぐりぐりと押した風合瀬さんは、すうっと息を吸って短く深く吐き、いつものフラットな表情に戻ってから頬杖をついた。
「いや、スイマセン。なんか珍しい事珍しい人に言われたなーと思ってびっくりしたら顔作るの忘れた。怒ってないからビビんなマジでって感じなんで続きどうぞ。珍しいですね、杜環センセイが書いてる途中でやめたいなんて言うの。大体はプロットの時点で無理なものは無理って結論付けて蹴っちゃうじゃないっすか」
「あー……そう、ですね。僕は、プロットがちゃんとできてないと全然うまく書けないから……。いやでも、今回のは、そもそもプロットとかないですし」
「最初から乗り気じゃなかったですもんねぇ。そら嫌になるか」
「いや、ええと、違うんです、違う」
確かに僕はホラーモノが得意ではないし、怖いものは苦手だ。けれど触れてみて初めて分かったが、確かに、このジャンルは面白い。自分にもし挑戦できるならやってみるのも面白いと思う。
幸いな事にネタは風合瀬さんが集めてくれたし、個人的にもオカルト関係の友人は何故か多い。たぶんここ最近仲良くしてもらっている椿さんあたりに訊けば、余裕で一冊くらいは埋まってしまう筈だ。
せっかく環境が整っているのだ。とりあえず僕はやる気になってから執筆にとりかかるタイプなので、書き始めた時は確かにやる気に満ちていた。
書くことが嫌なのではない。イヤイヤやっていて、耐えられなくなったからと懇願しているのではない。
「嫌になったって話じゃないなら、じゃあ何がどうなってやめたいですなんて話になっちゃうんです?」
「――変な事が、起こるんです」
「へんなこと?」
風合瀬さんが表情を変えずに首を捻る。僕は彼の手元のプリントアウトした怪談話に目を落としながら、慎重に言葉を探した。
「その原稿を執筆してから、なんですけど。夜中に、誰かが訪ねて来るんです」
「はー……え。え? マジで?」
「はい、あの、本当に。たぶん、二時頃だと思います。僕は大概、夜寝て昼に仕事をする状態を保っているので、夜中の二時には二階の寝室で寝ているんですけど」
夜中、二時頃になると、ピンポーンと、玄関のチャイムが鳴る。
最初は気のせいかと思った。熟睡していた僕は夢うつつにその音を聞き、寝ぼけているのだと思った。しかし翌日、また深夜の二時に玄関チャイムは鳴った。
「……あーと。センセイのお家ってアレっすよね。あのわりとでかい一軒家……あの玄関チャイムが鳴る?」
「はぁ。そうです。二度目に鳴った時、僕は一階の書斎で原稿を書いている最中でした。本当はあまり昼夜逆転したくないんですけど、筆が乗ってしまって……」
「インターフォン的なもの付いてないんすか? カメラとか」
「無いです。最近の新築でもないですし、叔父が受け継いだ家を間借りしているだけですから、勝手にそういうものを付ける訳にもいかないですし」
「じゃあ誰が来たのかとか、実際にドアんとこ行ってスコープ見ないとわかんないわけですか。センセイ、外見たんですか?」
「まさか。そんなことできる訳ないじゃないですか……二時ですよ。夜中の。……十年前だったら、急に居酒屋帰りの友達が終電無くして寄ったのかな、とか、想像できなくも、ないですけど……いまは、普通に家を訪ねる時にだって着いたよって携帯で連絡しちゃうくらいなのに」
「まあ、確かに。あんま押さないっすよね、チャイムとか。俺もそういや大御所先生のご自宅訪問くらいでしか押さないっすわ。電話して開けてくれって言った方がはえーもんな……」
僕の家のチャイムも、同じ理由でほとんど鳴る事などない。そもそも家に訪ねて来る友人など皆無に等しいし、唯一頻繁に出入りする蓼丸さんも風合瀬さんと同じように、玄関前で着いたよと電話をくれる。僕の家のチャイムを鳴らすのは、宅配便の配達員くらいだ。
そして勿論、宅配便の配達員は深夜の二時に訪れる事など無い。
ピンポーン、と、チャイムが鳴った時、僕は見事に固まった。寝ぼけてなどいない。作業中は眠気とは無縁になるタイプで、意識もしっかりとしていた。確実に、僕の家のチャイムは鳴った。ちらりと確認したパソコン上の時計は、二時だった。これも間違いはない。
どのくらい固まっていたか定かではない。とにかく意味の分からない恐怖に囚われ、自分の心臓の音がひどく耳についた。息も忘れそうな程、僕は緊張していた。
とりあえず、二階の寝室に行こう。僕は僕の家のセキュリティについてあまり信用していない。以前にも、家の周りを何者かがぐるぐると徘徊するという怪異に遭遇しているからだ。とにかく一階ではなく、二階の寝室に逃げ込みたい。その一心で腰を浮かした時、書斎のドアがバン! と激しい音を立てた。
外側から思い切り叩きつけたような、空気を震わせる音だ。窓でも、壁でもない。その音は、僕がいる書斎と廊下を区切るドアから確かに聞こえた。
「…………え、マジで?」
ここまで話し終えた僕に対し、若干半笑い状態の風合瀬さんは口調だけは真剣に問いかける。
「作り話してまでやめたい仕事なんてないですよ……理由があって書けない、と思ったら、ちゃんと言います……」
「ですよねー杜環センセイはそういうクソ真面目作家の鏡ですもんねー。つか完全に心霊体験じゃないっすか。ガチ実話怪談じゃん。ネタ一個増えたじゃん」
「絶対そう言うと思ったんですけど、わりと、本気で怖いので、僕はちょっとこの本の企画、続けたくないです」
「いやでも、杜環センセイの深夜二時のチャイム体験が心霊なのかちょっとヤバい変態が二時にお散歩してたのか、そこは置いとくとして、原因がこの波多野某の原稿っていうのは確定なんです? センセイがなんかこう、適当にどっかから地縛霊拾ってきましたーとか、近所で自殺がありましたーとか、人身事故みかけちゃいましたーとか、そういう他の心当たりはないんすか? てか他にも結構な量の怪談話書いていた筈ですし」
「……結局その日、僕は書斎から出れずに知人と電話しながら朝を待ったんですけど」
「はい。うん、そんで?」
「夜が明けて、ご近所さんとかも起き始めて、犬の散歩をする人たちが挨拶する声が聞こえて初めて、書斎から出て玄関先まで行ってみたんです。――玄関の前に、白い固まった塩のようなものが盛られた、小皿が置いてありました」
ちなみにこの時夜が明けるまでの五時間、僕の電話に付き合ってくれたのは勿論蓼丸さんだが、恐怖でパニックになりかけた僕を宥め、朝一番で駆け付け、玄関先の皿をゴミ袋に突っ込んでゴミ捨て場に放り投げてくれたのも蓼丸さんだった。本当に頭が上がらない。さらに心配だからとその日泊まって行ってくれた彼へのお礼はこの後考える事にして、まずは目の前の風合瀬さんに目を向けた。
元来オカルトは信じていない、と豪語する風合瀬さんだが、他人の話を頭から否定する人ではない。
「オチまで完璧じゃないっすか、って笑いたいところですけど、センセイが他人に作り話するような器用なタイプじゃないの知ってるんでそれはなんつーか、普通に嫌ですね確かに。それ、そっから毎日ですか?」
「いえ、ええと……その、『盛り塩の家』のバックアップを風合瀬さんに送ってから、自分のパソコン内のデータを消したら、その後は特に……」
「かなりの確率でこいつが原因じゃないっすかマジかよ。マジか。あー……それで、杜環センセイは、純粋に怖いので実話怪談本の執筆をやめたい、と。いやでもこの話だけがまずいなら、『盛り塩の家』を抜いて発行しちゃえばいいんじゃないですかね。ほら、なんかこう、タブー的な話ってわりとあるじゃないですか。この話を書こうとすると必ずデータが消えて電子機器が壊れるから、封印している、みたいなの」
「えー……」
「だって勿体ないんですよーこれおもしれーんだもん基本。俺は出したいですね。勿論センセイのモチベが上がんないとか、ストレスになるようならごり押しはしませんけど。もしアレなら、霊能力者的な人に一回見てもらうってのもアリじゃないっすか?」
「……風合瀬さん、その様子も最終的にルポにするつもりじゃないですか?」
「うははばれてーら。いやーだって、ビビってるセンセイには申し訳ないし実際俺だってこえーなまじかよって思うけど、おいしい話であることは確かなんで」
霊能力者に相談する、という話であれば、風合瀬さんに調べてもらわなくても一人だけ、僕にも伝手というか心当たりがある。
果たしてあの人が正式に霊能力者と言えるような人物なのか、正直今でもよくわかっていない。幽霊や怪奇的なものと向き合う商売をしているという面では、確かに霊能力者の一部と言える、筈だ。
自称『呪い屋』を名乗る黒づくめの人は、風合瀬さんに紹介するにはインパクトが強すぎる。絶対に後々彼をネタに何かを書けと強要されることだろう。絶対に嫌だ。絶対に紹介したくない。
その為僕は酷くあやふやに、友人にちょっとオカルトに詳しい人がいるので相談してみます、と濁して話を終結させた。
結局、風合瀬さんは粘りに粘り、一旦『盛り塩の家』を本編から外し、本の執筆はそのまま続けることになった。そして僕は知人のオカルト関係者に、風合瀬さんは個人的に取材元となった波多野氏にコンタクトを取る事を提案し、その日の急な打ち合わせはどうにか穏便に終わった。
「あ。そういえば杜環センセイ、この盛り塩の物件の最寄りのT駅って鷹乃鴉駅でしたっけ?」
「あ、はい。そうですけど。イニシャルじゃなくて仮名とかの方が良かったですか?」
「いや原稿はイニシャルで問題ないんですけど、俺今日これからわりと暇なんで、外回りがてらちょっと鷹乃鴉駅あたりまで一緒に行きますか? と思って」
「え。嫌です。絶対嫌です。行きません。嫌です」
「三回言いやがりましたね。そう言われると思ってましたし別にいいですけど。でもいつか心霊スポット突撃ルポ集も書いてほしいっすね~やっぱ杜環センセイは体験したことの方が臨場感あって最高なんだよな~待てコラ逃げんなついでに次のマコトのネタだししましょう俺暇だから」
「えー……」
僕は本気で嫌そうな顔をしてしまったようで、風合瀬さんの珍しい爆笑をもらってしまった。なんだか恥ずかしかったし解せない部分もあるけれど、暗い話をしているよりは、誰かと一緒に笑っている方が気分も紛れる。
実は、風合瀬さんに話していない事がある。
深夜にチャイムが鳴ったあの日から、線香のような香りがずっと、鼻先から離れない。それは今も続いていて、ふとした瞬間に僕に恐怖をもたらした。
この話もやはり、相談しよう。一人でどうしようもできない事を、うだうだと悩んでいても胃に悪いだけだ。というのは、実は蓼丸さんの受け売りなのだが。
さて、黒澤鑑定事務所はここからどの程度の距離だっただろうか。いっそ椿さんに連絡した方が速いかもしれない。そう思いながら、鼻先にかすめる線香の匂いを振り切るように、何気ない顔で頭を振った。
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