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盛り塩の家 03

【三】坂木春日 「隣の家の屋根裏に、女が出るんだけど」  唐突に切り出された話はあまりにも突拍子なさすぎて、口紅を中途半端に塗りながら結構本気で顔を顰めてしまった、と思う。目の前にいるのは鏡の中の俺じゃなくて、同じように口紅を塗っている鈴蘭ねえさんだったから、自分の顔の顰めっぷりはわからなかった。 「え。不眠の原因って心霊的な話なの。え、まじで。蘭ねーさんそういうの絶対信じてない人だと思ってたんだけど」 「信じてない事はないけど、それより源氏名略して呼ぶのやめて……見た目は子供で頭脳は大人な眼鏡少年が名前呼びながらスケボーとばしてきそう……」  まあまあ怪訝な顔を晒したらしい俺の顔面をちらり、と涼し気な一重で流し見して、鈴蘭ねえさんは世間話テイストでさらさらっと言葉を続けた。 「椿ちゃんって、ほら、彼氏がオカルト系の人でしょ。だからって訳でもないけど、こんな話、頭が変になったと思う人とか、怖いからやめてって泣いちゃう子とかもいるから」 「あ。やっぱり普通の人間の話じゃないんだ……」 「と、思うなぁ私は。だって真夜中の二時とかに、毎日じっとそこに立ってるだけなんてね。普通の人間だったとしてもそれって相当、まずい人だと思うし」  確かに、想像するだけで嫌な悪寒がしそうだ。まさか出勤直後のメイクアップ中にそんな話をされるとは思わず、俺は非常に何とも言い難い気持ちで口紅をポーチにしまった。  開店前の『ミルクシェル』の控室は、俺と鈴蘭ねえさんの貸し切り状態だ。フロアに出てもまあ、貸し切りだ。平日の夜だし、ウチの店が混み始めるのは二次会が盛り上がる時間帯だし、今日のスタートメンバーは俺たち二人だけだから仕方ない。二時間もすれば、遅番出勤のオカマ達で控室もフロアも訳が分からない感じにテンション上がってぐっちゃぐちゃになる。  鈴蘭ねえさんは確か二歳だか三歳だか年上の、妙に落ち着いた雰囲気を纏った古株だった。  特別ジェンダーに悩みもない『職業オカマ』なんていう一部の人間からはバリバリ非難されそうな働き方をしている俺に対しても、ねえさんはフラットに接してくれる。まあ基本この店のオカマさんたちはガチの人もライトな人も、普通に職場の同僚的なノリで受け入れてくれているけど。  金がない。水商売がしたい。そんな俺が出会ったのはホスト業でもキャバの送迎でもボーイでもなく、何故かオカマバーだった。最初は副業だった筈なのに、今やすっかり本業として汗水垂らして化粧をしてドレスを着込んでおっさん相手に酒を注ぐ日々だ。  仕事にも同僚にも文句は一つもない。けど、最近ちょっとだけ気になるのは、何故か怪しい霊能力者もどきが俺の彼氏だと認識されている事だった。  いやだから、俺はストレートだ。と主張するのもなんかどうなのだってここオカマとかニューハーフとかトランスジェンダーとかめっちゃごちゃまぜで性別の概念なんてもうあってないものだし、と思うともうなんかどうやって抗議したらいいのかわからない。  ええーだって、男同士ですよ~? と言う事でしか抗議できない程、確かに、目に見えて、俺にも自覚があるほどに、俺と件の男の間には微妙なこう、愛とか恋とかそういうものに似通った情が漂っている。抗議できないので最近はもう流す事にしている。下手に突っ込んで墓穴を掘るより随分マシだ。  だからこの時も『あの顔だけは完璧な怪しい男は決して恋人ではないです』なんてツッコミはせず、ただ隈の浮いた鈴蘭ねえさんの体調を慮った。  そもそもこの話は、最近体調悪そうですけどなんかあったんです? という俺の問いかけから始まっている。  元々白いし細い鈴蘭ねえさんだが、見るからにやつれている。俺よりもかなり身長が高いのに、肉は随分と薄い。もしかしたら体重は同じくらいかもしれない。ほんと肉食った方がいい。  でもねえさんの体調不良が食欲や風邪のせいではなく、なにかしらの霊障のようなものが原因だったのなら、くっきりと浮いた目の隈は肉を食う事では解消しない。  ただ、ねえさんの言葉に少々ひっかかりを覚えた。  鈴蘭ねえさんは、自分の部屋に女が出る、とは言わなかった。隣の家に女が出る。それはどういうことなのか、改めて首を傾げると、こちらもばっちりメイクが終わったらしいねえさんが、鏡を片付けながら少し長い息を吐いた。 「うちのアパート、三階建てで、住宅地の真ん中にスッと建ってるんだけど。まあ、東京郊外のアパートなんて、大体そんな感じでしょ。近場にコンビニがないから不便っちゃ不便だけど、駅は遠くないし、一応駅付近にはファミレスもドラッグストアもあるし。割と、気に入ってるから、引っ越すつもりはないんだけど」 「でも、隣の家に、女が出る?」 「うん。隣の家はたぶん、ずっとしばらく空き家で、うちのアパートと結構近接してるんだよね。私の部屋は三階で、隣の家の一番上の窓を丁度ちょっと見下ろすくらいの位置かな。玄関のある通路側が、件の家と隣り合っているって言って、わかる?」 「ああ、はい、わかりますわかります。あれっすよね、外付けの階段上ってずらっと部屋のドア並んでる通路がある感じですよね。まあ大概アパートなんてそんなもんっすよね。じゃあ件の夜出る女は、玄関前の通路から見えちゃう感じ?」 「そう。そうだね……部屋の窓から、じゃなくて良かったとは思うけど。ほら、私達って帰宅時間がどうしても、二時とかそのくらいになっちゃうでしょ。だから、部屋の窓のカーテンなら開けなければいい話だけど、どうしても玄関先は通らなきゃいけなくて、その度に目に入っちゃって……」 「隣の家の二階の窓際にじっと立っている女?」 「うん。二階っていうか、もしかしたら屋根裏部屋とかかもしれないけど。こちらを見ているわけじゃなくて、横向きで、部屋の中をじっと見てるだけ。だから、実害は、まぁ……ないけど、なんだかこう、気持ち悪くてさ」  一度気になると、部屋の電気を消していざ寝ようとするとどうしても脳裏に蘇ってきてしまう、らしい。その感覚は確かに、俺にも覚えがある。  うっかり自分でも忘れがちだが、俺は相変わらず天井から左足がぶら下がっているザ・心霊アパートで生活している。なんかもういい加減慣れてきてはいるものの、眠る段になり部屋の明かりを消すと、思い出したように急に怖くなったりする。目を閉じると余計な事を考えてしまい、中々眠れない事もある。  確かに深夜二時、自宅の隣に現れる不気味な人物を目撃した後に、何もかも忘れて楽しく寝ろと言われても、と思わないことはない。  アレは一体何なのか。人間なのか。そうではないのか。もしアレが自分の部屋の前に立って、扉を叩いてきたら。そう考えてしまうと、どうにも寝付けないのだと鈴蘭ねえさんはため息を吐きだす。 「まぁ、自分の家の事じゃないから、正直ちょっと気になって眠れなくなっちゃってるくらいの気持ちなんだけど。隣の家なんて、完全に他人の領域だし、あの夜中に立ってる女の人が新しい住人だったとしても、カーテンも家具もない部屋で何してるんだろうとか考えると、なんだか気持ち悪くなる一方だし。こういう時って、やっぱり無視するしか、ないのかな」 「んー……」  確かに、鈴蘭ねえさんに直接の害はない。なんとなく気持ちの悪い雰囲気の人を見かけて、ちょっと怖くなっている、程度の話だ。その気持ちの悪い雰囲気の件の人が、それこそねえさんの部屋の扉をノックしない限り、被害は何もない状態だろう。  最近なし崩しの縁で、他人のガチの心霊相談や除霊依頼を横からチラ見する事がある。勿論彼らは本気で悩んで、本気で金払う覚悟で黒澤鑑定事務所なんていう怪しい会社の扉をノックするわけだから、俺が時折お客さんとか同僚とかにチラチラこぼされる『ね~椿ちゃん幽霊見ちゃったりするんでしょ~ちょっと怖い話あるんだけどこれって霊障~?』みたいなふんわりした雑談とは心意気というか本気度が違う。  とはいえ、実際にその場にいて同じ経験をしていない俺からしてみれば、『え、そんな事でわざわざ金払って依頼に来たの?』みたいな相談者も割合多い。鈴蘭ねえさんと同じように、通勤途中におかしなモノを見かけるとか、隣の席の同僚が幽霊に憑かれている気がするとか、そういう話もあった。  自分、または自分の管理できる部屋以外に霊障がある場合。公道とか他人とか職場とか、そういう場合。俺が唯一知っている件の霊能力者はしれっとした顔で『関わらないことですね』と言い放つ。  それだけ? と思ってはいけない。実際に、それだけしかできないし、それだけしかアドバイスできないのだ。  そもそも幽霊だとか怨念だとか生霊だとか、そんなものは生きている人間に易々と理解できるものではない。と思う。  最近は実際に心霊関係の事件や依頼や不可思議な事に巻き込まれる事がやたらと多く、実際に巻き込まれてみて確かに実感したのは『あいつらよくわからん』という事だ。  死んだ後の世界など想像するしかない。誰もわからない。死んだ者が幽霊になるのかもわからないし、死んだ後に生前と同じ感情とルールで行動できるのかもわからない。  創作であるホラーコンテンツは、怨念や呪い、無念などをストーリーに盛り込む。早くに死んだ子供が母を探してさ迷う。虐待死した老人が自分を殺した家族に対する恨みを晴らせずに家ごと呪う。非常にすっきりしていて、見ている方も納得するストーリーだと思う。けれど、実際の心霊現象で理由や根拠がはっきりしているものは驚くほど少ない。  なんだかわからないけれど老人の霊が出る。なんだかわからないけれど毎晩悲鳴のようなモノが聞こえる。なんだかわからないけれど黒い女が徘徊している。  そんななんだかわからない理由のないモノたちを、生きている人たちの理屈で整理することはできないし、きっとこう考えているからこうやったらいいんじゃないの、なんて適当なアドバイスをするわけにはいかない。  隣の家の壁にゴキブリが張りついていて気持ち悪い、と思っても、当人でなければそこに殺虫剤をぶっかけるわけにはいかない。ゴキブリがこちらに飛んでこない事を祈るしかないのだ。  みたいなことをサクッと鈴蘭ねえさんにご説明しようと口を開きかけた俺の後ろから、唐突に声が掛った。 「もしよろしければ、僕の知り合いの除霊業者をご紹介しましょうか?」  すっかり気を抜いていたものだから、背後からの声に思いっきりびっくりして若干椅子から飛びのいてしまった。普段ほとんど声を荒げたりしない鈴蘭ねえさんも、珍しく口に含んだ珈琲で噎せていた。  激しい動悸を収める為に胸を押さえつつ振り向いた俺は、唐突に乱入してきた声の主を睨みつけた。 「……くろゆりさんなんで居んのここ控室なんすけど……」  そこに居たのは案の定、顔面力が高すぎる俺の懇意の霊能力者その人だった。  黒百合西東、という名刺の名前は怪しすぎて絶対に芸名か仮名だけれど、他に呼び名もないので仕方なく俺はこの怪しすぎる自称『呪い屋』の事を、くろゆりさんと呼んでいる。 「ここが控室だという事は重々承知しています。キミに忘れ物を届けに来たと申告したところ、オーナーに通していただきましたよ。何度かお声をかけたのですが、この部屋は防音がきちんとされているようですね」 「オーナー……」  アイツ駄目だ、最近くろゆりさんの財力に買収されていて、この黒づくめのイケてる顔面男を見るなり俺が何をしていようと呼びつけ、颯爽と隣につけるようになってしまっていた。すごくよくない。なんか俺がVIP客の生贄みたいになってるのがよくない。でも抗議すると割と人間に弱いオーナーは椿ちゃんが嫌がるなら、とか言って別のオカマをくろゆりさんの横に侍らせちゃって、そんでそれを眺める俺の微妙な気持ちがとんでもなくクソな感じだから、もういっそ割り切って生贄気分満喫することにしている。いやその話は今はどうでもいいんだけど。  とにかくなんかこう、店のオカマ以外の店員とかオーナーにまでこの胡散臭い黒い男は気に入られてしまっているようで、なんというか非常によくない感じだった。  珈琲を飲み込んで胸を摩っていた鈴蘭ねえさんも、ふわりと笑顔を作ってこんばんは、なんて挨拶している。いやここ控室ってかもう更衣室みたいなもんだからもっと怒っていいんじゃないのと思うけど、くろゆりさんが差し出した見覚えのある財布を見て、俺は怒っている場合ではなくなった。 「え。え? 俺の財布じゃん。え? あ、俺もしかして無一文で出勤した!?」 「みたいですよ。うちの事務所の机の上に置いてありましたから。最近春日くんは買い物も移動もすべてSuicaでしょう。現金が急に必要になる事があるかはわかりませんが、キャッシュカードやクレジットカードも入っているでしょうし、外出する用事があったのでついでに、と思いまして。ご不要でしたか?」 「いえ。まったく。不要じゃないですめっちゃ要ります本当にすいませんでしたありがとうございます……」  素直に頭を下げて財布を受け取る俺の後ろから、なんだか生暖かい視線が注がれている気がする。気にしたら絶対墓穴を掘るので、あえてそこはスルーしてにやにやとにこにこの中間みたいな顔してる鈴蘭ねえさんに挨拶してるイケメン野郎を眺めた。 「どうもこんばんは、お久しぶりです。最近お会いしていなかった気がしたのですが、僕がお店に顔を出していなかっただけですね」 「ああ、確かに……冬ちゃんが、目の保養が来ないって喚いてました。もしお暇なら今日は少しゆっくりして行ってください。今は私と椿ちゃんしかいないんですけど」 「ぜひそうさせていただきます」 「いやいや。いやいや待ってちょっと、さっきくろゆりさんなんつった? そっちの話わりと早急にした方がよくない? え、知人を? 紹介する? みたいなこと言ってなかった?」 「あ、はい。ちょっと僕自身は最近身体が空かないので、何かお悩みがあれば顔見知りの除霊業者を――」 「待て待て待て。くろゆりさん、そういう除霊仲間とか霊能力者繋がりとかほとんど無い、みたいな事言ってなかった?」 「はい、無いですね。ほとんどないです。ですが最近は伝手というものも割合重んじるように心がけていますよ。とにかく僕は独学に近いものがありますから、知識や人手はあって損をするものではないですし」 「そりゃそうだけど。つかそんな事最初から分かり切っていた事だと思うけどなんで今さら縁がとか繋がりがとか伝手とか言い出したのって話……」 「いえ、一人でどうにか商売をすることは可能なんですが、より安全に確実に生きる為には、もう少し知識も能力も多い方がいい、と考え直したもので。なにせ今までは特別死ぬ事に抵抗がありませんでしたから」  そういうことをサラッと言うから嫌で、そういうことをサラッと言われちゃう俺がそれって俺と出会ってからだとかそういう言葉が裏に隠されている事を察しちゃうのが嫌で、察しちゃうからアーアーアーと思って何も言えなくなってしまうのが嫌なんだ本当に。  言葉とか息とかなんかいろんなものをグッと飲み込んだ俺の様子になんだか妙に満足した様子で目を細めたくろゆりさんは、不穏な台詞バンバン吐いたことなんて忘れたようにさらりとした態度で鈴蘭ねえさんに向き合う。  ねえさんはごく普通のオカマさんなので、生きるとか死ぬとかいきなり言い出すこのイケメンに一応面食らっている様子だけど、なんか『霊能者って変な人多いのね』くらいの気持ちで聞き流してくれているとありがたいと願った。 「実は僕は対処療法の人なので、実際に拝見しただけで何もかも解決する方法を提示する、という事は出来ません。害虫予防はできますし、実際に虫が出たらできる限り駆除はしますが、何故そこに虫が湧くのか、その虫がどう行動するのかは僕にはわからない、という感じだと思ってください。なので僕が拝見するよりも、もしかしたら適任かもしれないという人がいますので、鈴蘭さんさえよろしければご紹介できますよ。先方と連絡をつける程度の事しかできませんが……」 「本当ですか? いえ、その、それだけでも充分ありがたいです。どうも、誰に相談したらいいものかわからなくて。ぜひお願いします」 「わかりました、では取り次いでみます。僕もたまに仕事を依頼する人なので、腕は確かですよ。ただ少し特殊な環境で生きていらっしゃるので、外見もかなり特殊ですが、まあ、人柄に関しては随分と真摯な人ですから」  くろゆりさんに特殊と言われちゃう外見ってどんなだよ、と思ったが、それよりも俺はこの人が依頼人以外の人間と会話をしている図がどうにも思い浮かばず、がっつり怪訝な顔を晒してしまった。  連絡先用の名刺を交換した鈴蘭ねえさんがオーナーに呼ばれて席を外した合間に、ちょっと、と袖を引っ張りくろゆりさんを連れ出す。ロッカーの裏の薄暗い通路にイケメンを押し込み、出来るだけ声を潜めた。 「……大丈夫なのかよ。俺あんたの霊感もあんま信じてないけど、あんたの交友関係とかもっと信じられないんだけど……ちゃんとした人なの? ねえさん超がつくいい人なんだからヤバい奴紹介したらほんと一か月は口きかねーからな」 「それは随分と可愛らしい報復で正直興味深いですが、大丈夫ですよ。除霊、という点においては僕よりも確実です。僕は宗派などがないせいで、ほとんど自己流のおまじないの混合のような対処除霊しかできませんが、彼はとにかく……まぁ、彼も自己流でしょうが、そうですね、才能と特殊能力の塊です。少々とっつきにくい人ですし、僕は若干距離を置かれていますが個人的には嫌いではないですよ」 「嫌われてんのかよくろゆりさんそれ大丈夫かよ……」 「なるべく仕事を回してほしいと先日連絡を受けましたので、依頼を無下にはしない筈です。僕の個人的な性格を彼がどう思っているのかは知りませんが、身体の相性的なものが悪――」 「は?」 「……ああ、いえ、違いますそういう意味ではなく。スピリチュアルな感覚ですよ。僕は問題ないのですが、あちらは他人や心霊的物体に対してひどく拒絶反応を起こす性質なので。僕には師匠が憑いていますからね。どうも、霊感が強い人たちにはある程度嫌われてしまうようです。ですので、身体というのは性的な意味合いではなく――春日くん?」 「……出勤前にビビらせんな馬鹿クソ危うくチンコ握りつぶすとこだったわ……」 「麗しいお化粧をしていらっしゃるのですから、あまり粗忽な言葉を使うのは推奨しませんよ。キミのあけすけな言葉は嫌いではないですが。わかりやすい嫉妬も良いですね、少しドキドキしてしまいました」  こっちは割合ドキドキしているのでホントくそがと思う。  割合人とお付き合いすることがない人生だったもので、独占欲とか嫉妬とか、そういう感情にあんまり縁がない。だから急に胃をわしづかみにされるようなもやっとした感情が湧きあがる事に耐性がなく、どう対処したらいいかわからなくなる。  相手がちゃんと恋人とかパートナーとかなら、もうちょっと簡単に解決できるのかもしれない。思う存分抱きしめて、ありきたりな言葉で確かめ合えばいい。でも俺とくろゆりさんの間にあるものの名前はやっぱりうまく言葉にできなくて、仕方なく化粧が崩れない程度に額を肩口に擦り付けた。  潜めたさらりとした声が耳元に落ちる。 「……口紅を、塗る前なら良かったのですが」  それがキスをしたいという言葉だという事に、気が付かない訳がない。こういう痒い口説き方をするから嫌だと思う。もっと粗忽にゴテゴテにロマンチストな言葉を連ねられたら、白けて笑えちゃうかもしれないのに。痒い口説き文句はイケメン効果も相まって、なんかもうどうにでもして、みたいなよくない気持ちにさせるから嫌だ。  結局この後俺の口から出たのは『塗り直せばいいじゃん』なんていうどうしようもない言葉で、薄暗いオカマバーのロッカーの影で結構情熱的なチューしちゃって息を整えるのに二分かかって、慌てて塗り直した口紅の色まちがえて、鈴蘭ねえさんににこにことにやにやの中間くらいの顔で指摘された。  この時の俺はまだ、あんなことが起こるなんて夢にも……とか、続きたいところだけど、まあ最近はいつ何が起こってもあんまり動じなくなってきたので、この後くろゆりさんにふと思い出したように明日事故物件に一泊しましょうと言われた際も、大きめのため息一つでどうにか消化したのだった。

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