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盛り塩の家 05

【五】  その家の玄関先には、何故か盛り塩の皿があった。  その時点でもう滅茶苦茶嫌だったし、そんな見るからにアレな物件ってどうなのって思ったし、なんなら案内してくれた不動産屋さんのおねーちゃんが盛り塩を見て小さな声で『うわ』と言ったのが一番嫌だった。  あ、この盛り塩ってアレなのね、不動産屋さんが自主的に置いてるものじゃないのね、ってのが地味に怖いというか嫌だ。しかし玄関先の盛り塩なんてものは、ぶっちゃけジャブに過ぎなかった。 「つか中にもあんじゃねーかよなんだこれ……」  薄暗いどころか真っ暗な室内は、残念ながら電気は通っていない。随分と前から売りに出されている空き家らしく、今回俺たちが一泊するにあたり水道だけ一時使用の手続きをしたらしい。というわけでトイレだけは心配ないと言われたが、別に嬉しくもなんともなかった。  昼間ならまだしも、俺の腕時計は夜の六時を指している。割と暗い。割と暗いので仕方なく、懐中電灯で照らしながら室内を歩く事になる。玄関先からなぜかふんわりと線香の匂いがしたが、深く考えるのは怖いので当然気のせいということにした。  一応掃除をしたので靴は脱いでお過ごしください。と言って鍵を開けてさらっと室内の説明をしたおねーちゃんは、そそくさと逃げるように俺たちを置き去りにした。  車の中では助手席に乗せたくろゆりさん相手に割合きゃっきゃしていたくせに、ひどい話しだ。そうは思うが彼女の仕事はくろゆりさんに鍵を渡し、俺たちをここまで運ぶことだけだったのだろうから、恨み言は言えない。これは仕事だ。そう思わなければ、こんな家に一歩も入りたくないと思う。  だって掃除をした、と聞いたのに、玄関から奥に伸びる廊下の両端しに、転々と、等間隔に、白い塩のようなものがこんもりと盛られた小皿が置いてあるのだ。 「…………これ、不動産屋の人が置いた、んじゃ、ないんでしょ……?」  蒼白と言わずとも、割とドン引きしながら玄関先で靴を脱ぐくろゆりさんに問いかける。律儀に靴を揃えるくろゆりさんは、どうでしょうといつもの調子でさらりと言葉を返した。 「先ほどの女性が知らないだけで、他の社員が日常的に盛り塩を置いているという可能性もありますが。清掃業者が置いていったという事はないでしょうね。まあ、外ならどんな可能性も考えられますが、室内に異物がある、という状態はなかなか、わかりやすい怪異でしょう。いっそおあつらえ向きではないかと思ってきました」 「本当にこんなところで怪談会すんの?」 「らしいですよ。僕は特別関わっていませんので詳細は不動産業者から伺ったこと以外存じませんが、そのために僕たちは本日、こちらに一泊して報酬をいただく契約ですので。あ、チェーンもかけてくださいね。盛り塩の皿が怪異でなかった場合は、誰かが合い鍵か何かで侵入している、という事になりますからね。それは別の意味で少し困るので」 「怖い事言うのやめろ……とりあえず戸締り確認しよ……」 「確かに、日が暮れないうちに家の中のチェックはしておくべきでしょう。設備的なものは僕達には関係ありませんし、キッチンも使いません。とりあえず戸締りと、なにかおかしなことがないかだけ……」 「いや、もう、この塩の皿がすでにおかしなことだろ……なんでちょっとスルーしてんだよ……帰りたい……え、まじで、帰りたい……」  勿論俺が帰りたいと連呼したところで、くろゆりさんがそうですかでは、とタクシーを呼んでくれたりはしない。  玄関の戸締りを確認し、トイレの水が流れる事を確認した後、『怪談会の下見の為に事故物件に一泊します』とだけしか告げられていない俺に対し、ようやくこの男は説明を始めた。  今回の依頼は、珍しく不動産業者から受けたという。 「僕の顧客は大概個人です。会社で何かまずいものが出た、という話がない事はないですが、そういう場合は代表の方がこっそりと、社員のいない時間を狙って依頼をしてくることがほとんどですから。これはもう、個人の依頼と言ってもいいでしょう。なので、今回の依頼内容は、非常に珍しいケースですね」  なんでも、割合有名な怪談家兼芸人主催の怪談会を、実際の事故物件で行おうという狂気のイベントが企画されているらしい。  事故物件ってあれでしょ人が死んでる部屋の事でしょ、くらいの知識しかない俺でも、事故物件検索サイトは知っている。有名だし。話のネタに数回検索したこともある。だけど近所の事故物件を見学に行こうとか、いざそこに住んでみようとか、思ったことは一度もない。  しかもそこで怪談を語ろうとか、正気の沙汰じゃないと思う。  なんでも随分と人気のイベントで、過去にも同じように心霊スポットや事故物件でイベントを開催し、大成功を収めている、らしい。  くろゆりさんが呪い屋なんて怪しいもので生計を立てている事だってやべーな日本アンダーグラウンドすげーなと思うのに、世の中俺の知らない世界はまだまだ存在しているようだ。なんだよ事故物件で怪談ナイトとか。そんなん参加する人が抽選になるほどいるとかまったくもって理解できない。  まあでも、人の趣味なんて関りがなければどうでもいいので、怪談好きな人たちが勝手に集まって勝手におしゃべりする分には、本当に好きにしたらいいんじゃないのと思う。  ただ、くろゆりさんが受けた依頼は、この怪談会に使う事故物件スポットが、『本当に安全かどうか』調べるという、なんかこう、生贄みたいな仕事だった。 「好事家が集まってやるイベントとはいえ、主催の方は芸能事務所に所属していますし、スポンサーもついているわけですからね。何かトラブルが起こるくらいならば許容できるでしょうが、人の生死にかかわる問題があるとまずいでしょう」 「え。人が死んだりする可能性あんの……?」 「まぁ、一晩過ごしたくらいで発狂するようなことは、流石にないと思いますが。なんらかの呪術が関係していたり、祟りのようなものが関わっていた場合は話が別ですから。恨みや祟り、呪術は最悪人の命も奪います。――春日くん、僕達が過ごす部屋は一階の端ですから、そっちじゃないですよ。大丈夫ですよ、僕でも命は惜しいです。自衛はしますが本気でまずいと判断したらキミを担いででも逃げますから」 「そんな事言ったってくろゆりさん霊感あんまないじゃん……」 「感じる事が出来なくても経験則で判断することは出来ます。キミは勘もいいし目もいい。この家の事は少し調べてまいりました。事故物件というものの、死亡したのは老人で孤独死です。事件や自殺よりは心理的にはマシではないかと僕は考えます。奥の部屋には一応、護符を貼っておきましょう」  さくさくと部屋を見回り、二階を一周したくろゆりさんは、一階の奥の六畳間の上に、持参したクッションマットのようなものを敷いた。暑い夏というわけでもないし、寒い冬というわけでもない。中途半端に涼しい季節は怪談会には向かないような気がしていたが、確かに電気もガスも通っていない空き家ならば、暖房や冷房などと無縁の秋が一番都合が良いだろう。  俺が持たされていたリュックの中には、飲料水とコンビニのパンと、数本の酒が入っていた。後はコンパクトに畳める薄い毛布だ。 「……こんなとこで酒盛りする気なの?」  結構度数強めのチューハイの缶を並べつつ、部屋の四隅に護符を貼るくろゆりさんに問いかける。  そういえばくろゆりさんが酒をがばがば飲んでいるところを見たことがない。ウチの店に来るときは勿論結構注文するけど、自分で飲むっていうより周りの従業員に奢っている事が多い。習慣的に酒を飲む人でもない筈だ。食事中は水を飲んでいるし、夕飯からそのまま夜を一緒に過ごす時も、酒の缶を開けたりはしない。 「いえ、僕は飲む気はあまりありませんが。酒類は嫌いではないですけど、特別酔ったりしない性質なので、好んで買いません」 「わかるーザルってそう言うーザルのイケメンとかマジカヨー絶対キャバでモテるじゃん金持ってるザル……じゃあなんで酒持ってきたのよ」 「こちらの酒類はキミ用です。アルコールは恐怖心を随分と鈍感にしますから」 「…………」 「……どうしましたか? なんだか、不思議な顔をしていますよ春日くん」 「え、いや……なんか、アレ? って思って。だってくろゆりさんいつもさぁ、怖くなったらエロい事して忘れりゃいいみたいな事言って急に押し倒したりするじゃん。酒勧められたことなんかないんだけど」 「あー……はい、そうですね。まあ、そうなんですけど。……シャワーも出ない場所ですし、フローリングの床ですし、キミにそういうことを強いる場所としては不適切かと思――春日くん?」  この時の俺の何とも言い難い感情を、どう表していいのかわからない。なんかこう、嘘だろっていう驚愕が一番でかかったような気がする。  嘘だろ。あのくろゆりさんが。あの、大体どんな事でも割と自分を優先して物事を考えるくろゆりさんが。俺の身体の心配をしている、なんて、いやいやそんな馬鹿なと笑いそうになって、声が出る前に滅茶苦茶恥ずかしくなって広げていた毛布の上に崩れ落ちて顔を隠した。 「春日くん?」 「……普段非人道的すぎるからこんな、ほんのちょっと普通に慮られた時にアーアーってなっちゃうんだってのクソ……なんでアンタ、最近ちょっと普通の人なの……」 「普通、ですかね? 僕は、自分の倫理観や感覚が他の大勢と似通っているとは微塵も思いませんし、良識的な人間になろうという努力もしていませんが、確かにキミに関しては多少、気にかける事柄が増えてきたように思います。例えば痛いから嫌だと言われること自体に後ろめたさは覚えません。でも痛いから嫌だと言ったのにやめてくれないから嫌いだ、と言われたら困るとは思います。……たぶんこれは、普通の人間の思考とは少し、違いますよね?」  言われてみれば普通とは言い難い。なんかこう、確かに事細かに言葉で説明するなら、『嫌われる可能性がある事をしない』というのは間違ってはいないんだけど、そもそも『人が嫌だという事をしない』というのが前提として無いのがなんつーか、流石のくろゆりさんだと思う。  くろゆりさんは結構狂ってる人だ。そんなのは出会った時から分かっていて、それなりに情が移ってきている今も、時折やべーなこの人って思い出す。  それなのにやっぱり、キミに関してだけは少し違う、などと面と向かって言われると、実感もあるだけになんとも言い難いし、考えれば考える程無駄に熱が上がった。  喜んでいいのか、全然わからない。喜んだらまずい気がする。でも理性じゃない部分の俺の感情は正直で、なんかそわそわして消えて無くなりたくなった。  無理。つらい。恥ずかしいとか思っちゃってる俺が無理。これから心霊イベントに使う事故物件のど真ん中で、ちょっといちゃついている気分になっているのもやばい。俺の感覚も死んできている。  三角座りで毛布に埋まりながらアーアーしている俺の隣には、いつの間にかくろゆりさんが座っていて、なんか知らんけどものすごく柔らかいタッチで頭を撫でられた。やめろイケメン。おまえのそのフェザータッチの柔らかよしよし割ときゅんとするからやめろ。 「春日くんは、あれですね。本当に意図しないところで急に照れてくれるので、とてもいいですね」 「あんたは真顔で口説いてくるのほんとやめろ……」 「口説いているつもりはありませんよ。僕の言葉は事実をただ、説明しているだけです。僕にも僕の感情なんてものはわからないんですから」  そしてくろゆりさんは流れる動作で俺の額にキスをして、そのまま唇にキスをした。 「…………こういうことしないんじゃなかったの」  若干恥ずかしさが抜けず、誤魔化す為に睨みつけてしまう。けれどまあ、俺が睨んだりしたところでこの人が気にするわけもない。唇を許している限りは、俺だって拒んでいないという事がバレバレなわけだ。 「周りを汚したり、キミが痛がるような事をしなければいいと思っています。キスくらいはいいでしょう。実は想定していたよりも肌寒いな、と思っていたところでして。……春日くんはあったかいですね」 「やめろ、口説くみたいな甘い声でなんか痒い事いうのやめろ。ぜったいしないからな。明日男の精液と汗でべったべたに濡れたまま帰るなんて絶対嫌だからな」 「キミのその、直接的な言い方が最近癖になってきました。ギャップ萌えというやつですかね?」 「いや俺なんてただのヤンキーなんだからギャップもなにも見た目まんまの頭悪いヤンキーだろ……目腐ってんのかもしかしてくろゆりさんには俺が清純大和撫子に見えてんの?」 「僕の目に映るキミは、恐らくキミが認識している状態のキミでしょうが、普段お客さんには絶対に言わないような素の言葉をぶつけられるという事は、思いの外優越感に浸れます」 「……そんなマニアックな感慨の浸り方してんの知らなかったわ……」  なんかこれ以上会話続けると余計に痒くなりそうだった。もういっそ酒を飲んで恥を吹き飛ばすのもアリだ。何と言っても酒は感情を鈍感にさせる。  と思い、缶チューハイを手に取りかけてはた、と気が付く。  酒は嫌いじゃない。割と好きだ。酒を飲んでふわふわするのも嫌いじゃない。でも、酒を飲むとどうしてもトイレに行きたくなる。利尿作用があるから仕方がない。  普段ならば別に大した問題じゃないが、この家は今、照明がつかない。  真っ暗な廊下を歩き、不気味な盛り塩の横を通り過ぎ、懐中電灯の明かりだけで用を足すのはわりとデンジャラスな肝試しだ。  結局俺は缶チューハイを開けることなく元の位置に戻し、そういやここ事故物件だったなんてことも思い出し、怖いのか寒いのか恥ずかしいのかよくわからない気持ちで、部屋の隅にまで律儀に置いてある盛り塩の皿を睨み、主に恥ずかしさを誤魔化した。

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