65 / 83
盛り塩の家 06
【六】鈴蘭
私が苅安さんを伴い、自宅に帰ったのは、すっかり夜も更けてからの事だった。
ファミレスで時間を潰している間、私達はとりとめのない話ばかりをした。苅安さんは私の職業や、ジェンダー感に関する質問をしなかったし、私は彼の顔のタトゥーや服装について質問しなかった。冷めた珈琲を時折不味そうに口に含むばかりで、結局他の物は何一つ口にしなかったことについても特に言及はしていない。
お互いの核心を隠しながら適当に言葉を繋げたものの、その時間は決して不快ではなかった。
見た目はかなり破天荒で、性格も明るいとは言えない。しかし苅安さんは真面目で正直な人間だ、と私は結論付けた。
とにかくどうでもいい話をぽつぽつと交わしながら、私達はすっかり暗くなった道を歩いた。
私のアパートは、鷹乃鴉駅から徒歩で十五分程の場所にある。普段ならば真夜中に一人で歩く道だ。ぽつぽつと現れる街灯の下、黄色い傘をさしてふらふらと歩く苅安さんは、ガラの悪い若者や酔っ払い達もサッと道を譲る程異様だ。絡まれたり襲われたりしたら嫌だなぁなどと思う余地もない。
もしかしたら彼の奇抜すぎる外見は、人間を寄せ付けない為なのかもしれない。そんなことを考えているうちに、街灯の向こうに私のアパートが見えてきた。
「……あの、手前の、家ですか?」
マスクの下から、苅安さんが若干くぐもった声を出す。彼の囁くような声は、雑音の少ない住宅街では驚くほどに響いた。
時刻は夜の十二時を過ぎたあたりだ。だらだらと、どうでもいいことを話しているうちにかなりの時間が経ってしまった。
深夜とはいえ、ぽつぽつと人家の窓に明かりは見える。街灯もある。それなのに、件の家はそこだけぽっかりと、気持ち悪い程の暗闇に包まれていた。
異様なほど深い闇の中、カーテンのかかっていない窓をできるだけ見ないように地面に目を凝らす。確かに、そこにはうすぼんやりと白い皿が見える、気がする。
「………………塩……じゃ、ない……?」
ぽつり、と、声が落ちた。
それは隣でマスク越しに口元を押さえ、眉を寄せる苅安さんの声だった。
え、と私が疑問符を返す間もなく、苅安さんは件の家に近づいていく。相変わらずふらふらとしていたが、怯えている様子はない。ただ、彼の奇妙な緊張が伝わって来た。
「なんだろう、これ。……塩……、塩、なんだけど……他にも、何か……小麦粉、じゃない。……お米? と……」
「あの、苅安さん?」
「――――骨、だ」
小さく呟いたその瞬間、ぐらりと倒れ込むように傾いた苅安さんは、しかし倒れることなく急に走り出してアパートを通り過ぎると、道の端に座り込んで何かを吐き出した。ように、見えた。
しばらく呆気に取られていたものの、ふと正気に戻った私は彼の元に駆け寄り、支えていいものか思案しつつ声をかける。そんなことくらいしか、私にはできない。
「苅安さん、あの、大丈夫ですか?」
うっすらとした街灯の下でもわかる程、苅安さんの顔色は悪い。息も上がり、先ほどよりも格段に、確実にふらふらとしている。
「……っ、あ……は、はい、だいじょう、ぶ、です、ちょっと……しょっぱいし、気持ち悪いですけど……すいません、ご説明を……したい、ですが、まず、お部屋に行きましょう、ここはしょっぱい……です」
苅安さんの言葉の意味が分からないのは、きっと私の理解力のせいではないのだろう。マスクをとったまま口元を手で覆う苅安さんを先導し、私はとりあえずアパートの外付けの階段を上がった。
三階の、奥から二番目が私の部屋だ。
身を屈めるようにしながらふらふらと歩く苅安さんを気にしていたせいで、私は隣の家の窓を一瞥もしなかった、代わりに苅安さんの視線がちらりとそちらに向いた気がしたが、特別何かを言われることもなく、私は鍵を開け、彼は私の部屋に入ってから息を吐いた。
「うーあー……すいません、お水、いただいてもいいですか……というか、うがいが、したいです……」
「あ、はい、どうぞ。キッチンの流しを使ってもらって平気です」
常備してあるミネラルウォーターを手渡すと、苅安さんはとても控えめに軽く口の中をすすぎ、少し濁った水を吐き出した。彼の急な言葉と行動に、私の理解は一向に追いつかない。どうしていいかもわからず立ち尽くしていたが、三回口を濯いだ苅安さんがやっと安堵したように息を吐き、空のペットボトルを申し訳なさそうにシンクに置いた後やっと、座布団を用意しなくては、と思った。
あまり来客の多い部屋ではない。物は少なくすっきりとしているものの、家具も少ないせいでクッションも座布団も足りない。二人で床に座ったあと、苅安さんは少し困ったように視線をさ迷わせる。
迷っているような顔だ。どこまで理解してもらえるのか、どこまで話していいのか、探りながら困っている顔だ。
「とりあえず、ボクの体質から簡単にお話した方が、わかりやすい、とは思うんですが……ええと、何から、どうやって。……と、思うと、言葉が急に浮かばなくて、すいません。いつも、ただ運ぶだけの、仕事が多くて、あまり自分の事を話す機会が、なかったので……すいません……」
「いえ、あの、お話していただける範囲で結構です、本当に」
私の家に何か、被害があったわけではない。隣の家の女に関しても恐怖半分、残りの半分程は好奇心のようなものである。何もかも正直に、真摯に対応していただくような義理も理由もない。
そのような事をしどろもどろに伝えたところ、膝を揃えて正座していた苅安さんは、何故か一回背筋を伸ばして気合を入れたようだった。
「鈴木さんは、とても、お話しやすい方で……良かった、と思います。ボクはあまり言葉が上手くないもので。怒ってしまう人とか、首を捻ってしまう人とか、信じてくれない人も、多いから。とりあえず、ボクがわかる事を、お話します。ボクは幽霊が居る事を認識できます。たぶん、霊感というものです。そして、ボクの霊感は、目でも、耳でも、第六感的な感覚的なものでも、ないです。……ボクは、幽霊を、食べる事ができます」
「……食べる?」
「はい、あの……ちょっと、厳密には違う、んですけど。どう説明していいのかよくわからないので、食べる、と思ってください。食べて、吐き出すことができるので、自分の身体と胃を使って、運搬する……そういう、運び屋です」
いきなりそんなことを言われた私は、呆けた顔ではぁ、なとど覇気のない返事をする他なかった。しかし後々考えてみれば、そういう人が存在してもおかしくはないのかもしれない、と思う。
人間には五感がある。そしてそれはそれぞれ、個人で随分と能力が違う。目が悪い人間がいる。目が良い人間がいる。そして、目で幽霊を見る事が出来る人間がいる。そう考えれば、胃や舌や口が媒体となり霊感を発揮する人間がいても、不思議ではない。
ただ、これは後に考えたことである。この時の私はひたすらに彼の言葉を自分がわかるように咀嚼することに精いっぱいで、正直ほとんどかみ砕けていなかった。
うまく言葉が飲み込めない。しかし、一応言っている事の意味はわかるので、私はとりあえず理解したことを示すように頷いた。
「それで、ええと……食べる、時に、味がします。大概は、とんでもなく不味い、です。腐った泥のような、肉のような、なんというか……とにかく、気持ち悪い、です。それは近寄っただけで、ボクの舌に干渉、する時もあります」
「ああ……それで、塩の味が?」
「はい。普通に存在している物の味が、飛び込んでくることなんてありません。つまり、えーと、例えばそこのキッチンの塩の味が、いきなりボクの舌に飛び込んでくることは、ないです。それは、ただの塩です。幽霊でもなんでもないです」
「ということは、さっきのあの家の間の盛り塩は、人が用意したものではなくて、幽霊の一種、ということですか?」
「ボクは、そう思います。ああいうものはよく、霊障のある家に置かれていますが、盛り塩の味がしたことなど、今まで一度もないですから。とにかくしょっぱくて……あと、たぶん、アレは塩だけじゃない、です」
……米と、骨。
私の口からは知らずその言葉が零れた。
表情も変えず、苅安さんは淡々と、そうですねと頷く。
「ざらざらした、粉でした。アレは塩だけじゃないです。なにか、すごく人間っぽくて、嫌な感覚でした。もしかしたら、まじないかなにかの一種なのかもしれません。ボクはあまりくわしくないのですが……西東さんなら、何か知っているかもしれません。……いま、何時ですか?」
「十二時半、ですね。え、もしかして、今からくろゆりさんにお電話するんですか?」
「あ、はい。何時でも気にしなくていいから、鈴木さんの隣の家について何かわかったら、連絡してほしいと言われています。何でも今日は一晩、外で過ごす仕事があるとかで、寝る事はないから、と……電話、ちょっと外で、してきます」
「え、いや、別に、ここでしても平気ですけど……」
「あー……その、実はボク、西東さんとお話すると、電話越しでも結構気持ち悪くなっちゃうんです、その、霊感的な問題で。なので急に吐いたりするかもしれないんで、外行ってきます」
「……それなら、仕方ないですね……」
「すいません、ご近所に迷惑にならないように、します」
なんというか、呆れるというよりは不憫になってきた。
聞けば聞くほど、苅安さんは生き辛い生活をしていると思う。確かにくろゆりさんと呼ばれるあの人は独特のオーラのようなものがあるし、仕事柄心霊スポットにも多く行くだろうし、何かよくないものをたくさん引き連れている事が多いのかもしれない。単に彼の事が苦手、という単純な話ではないのだろう。
不憫だなと思いつつ、お茶の一つも淹れていない事に気が付き、しかしすぐに『私の淹れたお茶を苅安さんは飲むことができるのか』という問題にぶち当たり、キッチンで立ちすくんだ。
ファミレスで彼は珈琲をひどく不味そうに飲んでいた。もしかしたら、幽霊とは関係なく、味覚になにか問題を抱えているのかもしれない。外食ができない体質、とも言っていたように思う。やはり、本人に訊いてからの方がいいかもしれない。
そう思い直した直後、キッチン横の玄関扉が開き、電話を終えたらしい苅安さんが戻って来た。
が、どうも、様子がおかしい。
というのも彼は少々目線が泳ぎ、とても怪訝そうに眉を寄せていたからだ。先ほど吐いた時のように具合が悪そうな様子ではない。一体どうしたというのか。
「くろゆりさんに連絡がつかなかったんですか?」
一番あり得る理由を思いつくままに尋ねてみたが、携帯を握りしめたまま首を捻った苅安さんは私の問いに否定を返した。
「いえ、あの、西東さんには普通に、繋がったんですけど……ええと、お米と骨の事もお話しました。それは、問題ないです。残念ながら、西東さんも、骨と米と塩の混合物に、今のところ心当たりはない、そうですが。ただ、そのー。隣の家の、一番上の窓なんですが。女性が、立っていまして」
「ああ……もう、出てるんですね」
「はい。いらっしゃいました。それで、ボクはあまり目で幽霊を見る、ということがないので、見えているということ自体が、かなり不思議ではあったのですけど……あの、すっと窓の横に立って、こちらを見ていました」
「え」
……そんなはずはない。
私が見る時はいつも、女性は窓の傍に横向きに立ち、じっと家の中を見つめている。決してこちらを見る事などなかった。
「あと、実はボク、ご住所を伺った際に、隣家の事を少々、調べたんですが……やはり、空き家ですね。かなりの破格で売りに出されているみたい、なんですけど、あの家には、屋根裏はなかったです」
「……え、え?」
「二階までしかないです。内装の写真も、見ました。二階の壁の上の方に、明かり取りの天窓のようなものがついていて、随分、天井が高かったです。なので、あの女性が立っている場所に、床は存在しない、と思います」
「……………じゃあ、やっぱり」
「生きている人では、ない、ですよね。流石に遠すぎて、ボクが除霊というか、運び出すには、せめて敷地内に入らないといけないんですけど……ええと、どうしましょう。今から、早急に、あの人を、運んだ方がいいですか?」
「……そうするには、苅安さんはあちらの家に向かうことになるんですよね……?」
「はぁ。そうですね……遠いので……でも、ボクがここから、離れるのは……」
怖い。それは正直、怖すぎる。
ただそこに立っている、というだけでも気持ち悪いなと思っていたのだ。
それなのに、こちらを見ていた、と言う事実がとんでもなく怖い。
一人で過ごす事なんてできそうにない。ひとりぼっちで待つ間に、何かあったらと想像するだけでもダメだった。
私は素直に恐怖心を告白し、恐ろしいので除霊は日が昇ってからにしてほしい、そして申し訳ないが朝までぜひ一緒に居てほしい旨を伝えた。勿論一晩拘束してしまう分、お金を請求してほしい。そう言ったが、苅安さんは曖昧に首を傾げるばかりだ。
「そう、言っていただけるのは、ありがたいです、けど……ボクはあまり、時給制で仕事をしたことが、ないので……どうしようかな……」
「私は、お金を請求していただいた方が気兼ねなく、苅安さんを拘束できます。お金があって困る事はないんじゃないですか?」
「はぁ。ええと、確かに、最近はちょっと、入用ではあるんですが……」
「じゃあいいじゃないですか。請求してください。そして私と朝まで雑談しましょう。もう怖くて訳が分からないです。怖いです。怖いので、とりあえず座りましょう。……お茶飲みますか?」
「え、いいえ、結構です、その、大概口に入れる事ができないので、気にしないでください」
「わかりました。入用というのは、何かお祝い事でもあるのですか?」
「え。いや、そういうわけでは、ないんですが……ちょっと、最近、知り合った人のお陰で、随分、人生が向上したので……交際費、というか、こう……もうちょっと、ぎりぎり生きるだけじゃなくて、普通の人くらいの生活を、目指して仕事をしようかな、と思ったので……」
「いいですね、なんだか前向きで素敵な話の予感がします。私、これでも接客業長いので、恋バナには敏感なんですよ」
「こいばな…………」
「恋バナじゃないんですか?」
「……こいばな、かも、しれないです……」
うわぁ、と言いながらかなり赤くなり、立てた膝の合間に顔を埋めてしまう苅安さんは、正直かなり愛おしい青年だ。本日初めて出会ったあやしい霊能力者とは思えない。
楽しい話は恐怖を打ち負かせるに違いない。そうだ私は、ちょっとこの真面目で奇抜な人と仲良くなってしまえばいいのではないか、と思った。それはとても楽しく素敵な案だ。
そういえば、彼の特殊な仕事も体質も説明してもらったというのに、私は彼の年齢も知らない。自己紹介をしなくては、と思った。念入りに、少し親しくなるための自己紹介をしなくてはいけない。
「ところで苅安さん、御幾つなんですか?」
「え、本当に朝までボクの話するんですか……?」
「御幾つなんですか?」
「……いくつにみえますか?」
「んー私と同じ……二十八歳……くらい?」
「じゃあそれでいいです……」
なんですかそれ、と笑う。自然にこぼれた笑みは随分とリラックスしていたものだったが、時折目に入る玄関の向こうでこちらを見つめている女の事を考えると、背筋がすっと震えてしまう。
なるべく、玄関を意識しないように。なるべく、外の暗さを忘れるように。私は職場にいるつもりで、ローテーブルの上のお茶で酔っぱらうように足を崩した女性のように座り直した。
時折ふわり、と鼻につく線香のような香りには、一切気が付かないふりをした。
ともだちにシェアしよう!