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盛り塩の家 07
【七】坂木春日
「そういえば、師匠出ませんね」
宅配便来ませんねくらいの気軽さで呟かれた言葉に、思わず盛大に眉を寄せる。乾電池式の小さなランタンの明かりの向こうのくろゆりさんは、いつもどおりさらりとした感情の読み取りにくい顔を晒していた。
「急に嫌な事思い出させんのやめろ……ほんとそういうところだよ……あ、待って。そこ待って駄目。負けちゃう。俺が負けちゃう」
「三手程前の時点ですでに大半僕の駒ですが……勝敗を競っているゲームに置いて、負けるからやめてくれと正々堂々と待ったをかける姿勢には、正直、感服いたします」
「いいじゃん頭の構造がちげーんだからハンデ寄越せっつの。今のところ全敗じゃん俺。待った五回くらいは許されてもいい」
「もうすでに十回は待ったと言われていますが、まぁいいでしょう。春日くん、眠らなくていいんですか?」
「こんなとこでじゃあおやすみなさいって横になれるかよ……怪しい呪い屋とオセロしてたほうがマシだっつの」
「事故物件内で夜通し呪い屋とオセロ勝負、というのも、不思議な絵面ではありますがね」
なんかうだうだ煩いくろゆりさんを無視した俺は、さっきこの男が置いた黒の駒を勝手にどかしてひっくり返った駒を戻した。確かに盤上はほとんど真っ黒だが、このままでは全駒制覇されてしまう。いくら俺がボードゲームに弱くても、オセロで全駒取られるなんてのは流石に屈辱だ。
時刻はもうすぐ深夜の一時というところだった。
九時くらいにだらだら夕食を取ってから、特にやることもなく酒を飲むわけでもなく、俺たちは結局携帯用オセロに精を出し始めた。だって仕方ない。スマホゲームをやろうにも充電切れたら困るし、テレビもなければDVDプレーヤーもない。原始的なランタンの明かりの下でできることなんて、それこそガチアウトドアなキャンプ中に出来る遊びと同等だ。
お喋りするか、カードゲームするか、寝ちまうか。そんなもんだろう。
なんだかんだと暇な時間はくろゆりさんの事務所に顔を出してる俺は、今更こいつと夜通し語るような積もる話もない。くろゆりさんに持たされたリュックの中には何故かオセロが入っていたので、もうこれをやるしか道は残されていなかった。
そういえば電車の移動中とかにたまに一人でオセロしてるの見た事あるわ。もしかしたら暇つぶしなんじゃなくて、普通にオセロが好きなのかもしれないこのイケメン。なんかつえーし。いやなんか、頭脳系ゲームに弱いくろゆりさんってのも想像できないから嫌だけど。
集中すると時間と場所を忘れるものだ。だからこの時くろゆりさんが余計な事を言わなければ、俺はここが事故物件の中だなんてことをすっかり忘れていた。思い出させんなマジでという気持ちでいっぱいすぎる。
霊感があるかどうか怪しいラインのくろゆりさんだが、幽霊が出るかどうか判断する簡単な方法がある。
それは、毎晩くろゆりさんの元を訪れる『師匠』の存在だ。
師匠は真夜中、ほぼ必ず訪れる。それはどろどろしていて、臭くて、黒くて、不快な闇みたいな影だ。そして師匠は、何故か知らないが幽霊が居る場所には現れない。この辺に関しては多分理由とかがあるんだろうし師匠って呼ばれてる人物に関してもなんか因縁があるんだろうけれど、俺は積極的に尋ねない事にしていた。知らない方がいい事ってやつは、世の中に死ぬほどある。
確かに一時も過ぎれば、あのヘドロのような不快なにおいが襲ってきてもいい筈だ。それが出ない。
事故物件と言っても、それは決して心霊スポットと同意語ではない。ぶっちゃけ誰かが死んだ場所なんて歴史辿れば五万とある。
どこだって人は死んでいる。過去に人が死んでいるからと言って、そこが心霊スポット化したら、日本中どこに行っても幽霊だらけだ。
というわけでこのなんか怪しい盛り塩だらけの家も、怪しい盛り塩がある怪しい家というだけで霊障とは全く関係ないただのジメジメした陰気な一軒家である、という可能性に賭けていた。が、勿論そんな事はなかったらしい。なんとなくわかっていた。だってどう考えてもあの家中の盛り塩はおかしい。
師匠が出て来ないイコールこの家には何かしらがいらっしゃる、という事は確定したも同然だ。師匠リトマスの優秀さは実体験で知っている。でもまあ、その何かしらが、ひっそりと奥の八畳間でオセロに勤しむ男二人組をそっとスルーしてくれることを祈るしかない。
「つか水道一時使用許可取るくらいなら、電気も通してくれてよくない……?」
どこもかしこも真っ暗な部屋の隅や廊下の奥を見ないように、ランタンと手元のオセロ板に集中するのは結構疲れる。『確認しない』という作業は、どうしてか難しい。ホラー映画で後ろを振り向いちゃう主人公の気持ちがよくわかってしまう。見るのは怖い。でも、見ないでいるのも怖い。
「まあ、水道に関してはこの後怪談会でも使うので一時的に許可申請したのでしょうね。人間には食事と排泄が付いて回ります。睡眠に関してはある程度我慢もできるでしょうし、特に環境を選ばない人もいるでしょうが、排泄についてはどう考えても無理ですね。ましてやイベントのお客様に対し、一晩尿意を我慢してください、と強要するわけにはいかないでしょう。最寄りにコンビニもスーパーもありませんから」
「あー……そういや周りなんもなかった気がするわ……隣の家に貸してもらうってわけにもいかないだろうしなー」
「そうですね。左隣は若い家族が住んでいるようですし、右隣は一人暮らしが多いワンルームアパートです。怪談イベントをするので夜中に不特定多数の人間にお手洗いを貸してやってください、などと言うわけにはいかないでしょう。水道の問題さえクリアすれば、照明など無い方が雰囲気も出るでしょうしね」
「……怪談会、ほんとにここでやんの?」
「どうでしょうね。今のところ、目立つ怪異は何もないですが。少々線香の匂いがする程度のもので」
「あーやっぱ、これ気のせいじゃないのか……なんか、廊下の方? が、匂い強くない?」
「というか二階でしょう。階段の周りに特に塩の皿が多く置かれていましたね。この皿が一体何を目的としたものか、僕にはいまいちわかりませんが」
「え。盛り塩って除霊キットの一部じゃねーの?」
くろゆりさんの事務所に頻繁に出入りしているからと言って、俺に除霊の知識があるわけではない。関わった案件に関しての説明は一応ある程度理解するまで聞くものの、俺が積極的にお勉強したのは呪術関係の分類とかその程度のもので、結局除霊方法とかそういうのはあんまりよくわかっていない。
そもそも、除霊的なものが宗教の派閥によって全然違う。『ゆるへゆらゆらとふるへ』と『かしこみかしこみもうす』と『オンキリキリバサラ』は全然違うものだってことすら知らなかった俺だ。きちんと呪術やら除霊やらを理解するには、まずは各宗教の成り立ちと概念からお勉強しなけりゃいけない。面倒くさい。さすがにそれは面倒くさい。
故に、積極的にお勉強することは一旦諦め、とりあえずくろゆりさんが説明してくれることだけ気にすることにしたわけだ。
そんな俺が、盛り塩の意味なんてもの知るわけがない。そういえばくろゆりさんはあまり塩を使わないなーという事に、今さらながら思い立った。
「盛り塩は風水と神道の文化ですからね。そもそも塩というものはとても強いものです。主にエネルギーを吸収するものとされているようで、盛り塩というものは周りの良くないエネルギーを吸収し場を清める、という概念で部屋の四隅、入口の外、そして北東の鬼門の方角に置くものとされています。そうですね、例えば……水を吸収するタイプの除湿剤のようなものでしょうか。塩は、水を吸収する除湿剤のように、悪いエネルギーを吸収します」
「うん、はい。そこまでは理解した。エネルギーを吸収する除湿剤なら、そこら辺に置いときゃ除霊になるんじゃねーの?」
「除霊といいますか、塩に引き付けて他の場所を浄化するという考え方だと思いますよ。害虫を寄せる餌のようなものですね。基本的に盛り塩というものは、定期的に交換します。穢れた塩をそのまま置いておくことは、結局その場を穢すことになりますからね」
「あー、はい。それも、なんとなくわかる、と思う。えーとつまり、塩が、悪いものを吸って、そんでその塩を捨てて新しくするから、常に部屋がクリーンって事?」
「そうですね。そして大切な事は、塩はとても強いということです。強いので、とにかくエネルギーを引っ張り寄せ付ける。なので、必要以上に多く置く事は推奨されません。寄せ付け、吸収させ、それを捨てて浄化する。寄せ付ける力ばかりが強ければ、無駄に穢れを寄せ付けるだけになってしまいます」
「あー。あーなんかわかった。あれだ。撒き餌みたいなもんか!」
「まあ、近いものがあるでしょう。害虫駆除用の餌は確実に害虫を殺す薬剤が入っていますが、塩には霊を完全に消すような力はありません。あくまで吸い付けるだけです」
なるほどわかった納得した。盛り塩のふんわりとした原理はわかった。けれど、じゃあこの家の大量の盛り塩は一体何なのかとても想像したくなかった。
あればいいというものではない。何故ならば、塩は悪いエネルギーをただ寄せ付ける。ということは。
「……この家、悪いエネルギーまみれってこと?」
恐る恐る顔を上げてみるものの、相変わらずさらりとした表情を崩さないイケメン呪い屋は、どうでしょうねぇなんて適当な返事を返すばかりだ。
「塩の理屈も、そういう風に言われているというだけですから。一昔前の人体に対する医学のように、正直心霊現象や霊障に関してはほとんど確実にわかっていることなどありません。これをしたら解決した、これがどうやら効いたらしい、というようなものばかりですからね。ただ、何か、ちょっと……この家の盛り塩はおかしい気がします。塩の粒が、どうも細かすぎるような」
「ちょっと。ちょっとほんと、そういうのほんとやめろよマジで。なんで夜中の一時にそういうこと言い出すんだよ。なんか変だな~とか思うんだったらもうちょい早い時間に調べたら良かったじゃん。なんなの。ほんとなんなの俺にトイレ行かせないつもりかよ。トイレ行こっかなーと思ったこの気持ち折るなよ」
「いえ、なんとなくきちんと観察してみたら違和感が……春日くんお手洗いに行くのならついていきましょうか?」
「いやそれもどうかと思うんだけど俺齢二十ウン歳にしてこえーから一緒にトイレ行こ、とか言うのかなりアレなんだけど……」
「問題ないと思いますけどね。ここには僕しかいないですし、何より状況が特殊――」
と、くろゆりさんが言い終わらないうちに、わりとでかいバイブ音が響き渡った。普段なら気にならないような、携帯のバイブ音だ。真夜中の何にもない部屋の真ん中では、その音すら暴力のように聞こえる。
びっくりしすぎてくろゆりさんに抱きつきそうになってしまった。くそ。いい加減心霊現象には慣れたようなつもりになっていたけど、全然そんな事ないと実感してしまう。怖いもんは怖い。
「……電話? え、……一時前、だけど……?」
「ああ、これは、霊障とかではないですよ。鈴蘭さんのお宅の件をお任せした同業者からの電話です。本日鈴蘭さんのお家にお邪魔するというお話でしたので、何時でも結構なので何かわかればご連絡くださいとお伝えしておきました」
「経過報告かよ……びっくりして泣くかと思ったじゃねーか……つか早く出てやれよ何回コールさせてんだよ」
「春日くんのお手洗いについていかなくていいんですか?」
「ひとりで行けるわこんちくしょう」
いや本当は電話終わるまで待とうかなとも思った。だってこんなんホラー映画じゃフラグだ。個人行動は絶対に幽霊の餌食になるフラグだ。
とはいっても、トイレは俺たちがオセロに勤しむ部屋のすぐ隣にあった。暗い廊下をしずしず進む必要もない。さっと行ってさっと帰ってきたらいい。なんかもうこういう考えもフラグにしか思えないけど、そんな事言い出したら正直何もできないし、膀胱炎になるのもなんかの拍子に漏らして明日不動産屋のおねーちゃんが来るまでに自分で後片付けするのも嫌だ。
今外に出たら命がヤバい、って状況ならいくらでも尿くらい垂れ流す。だが心霊的な恐怖ってやつは、命の危機に比べたら随分とハードルが低い。
入口まで移動して携帯の通話ボタンを押すくろゆりさんに見送られつつ、懐中電灯持った俺はさっさとトイレの扉に入った。
個室は狭くて暗いけれど、少しだけ安心する。自分のいる空間がすべて把握できるのは心理的に楽だ。やっぱり、遠くの闇や未知の空間ってやつは、嫌だ。怖い。
急に声をかけられたりすることもなく、足を掴まれたり尻を撫でられたりすることもなく、扉を叩かれたりすることもなく、至極あっさりと俺のトイレタイムは終わった。
何と言ってもこれは現実だ。ここだ、というタイミングでやる気満々の幽霊がどばっと出てくるホラーコンテンツとは違う。もう盛り塩だけでおなか一杯なんだから、これ以上のホラーは食傷気味になるもんだ。
そんなことを考えつつ、特に問題なく水を流し、特に問題なくトイレを出て部屋に戻ろうとした。
まっすぐ伸びた廊下を見ずに、さっさと部屋に戻れば良かったわけだが、俺はつい玄関の方を見てしまった。
玄関すぐ横は、二階へと続く階段になっている。階段の中ほどと思われる場所から、にゅう、っと、顔が付きだしていた。
「………っ、……!」
びっくりしすぎて声が死んだ。息まで忘れそうになって、本当に死ぬかと思った。
死ななかったのは、俺が立ち止まったことに気が付いたくろゆりさんがすぐに顔を覗かせ、俺と同じものを見た後に颯爽と腕を引いて、部屋に引きずり込んでくれたからだった。
「…………っ、んだ、あれ、何……え、うっそ、つか……」
この家で死んだの、老人じゃなかったのかよ。さっき階段の中ほどからこちらを覗くように顔を出していた奴は、遠目でも何故か女だとわかった。
ガラス戸をぴしゃりを閉めたくろゆりさんは、扉の継ぎ目にさっさとお札を貼っている。それを茫然と眺めた俺は、いやいやいやとくろゆりさんに縋りついた。
「いや帰ろうってなんだよいるじゃんなんかいるじゃん!」
「まあ、いましたね。ですが僕が受けた依頼は『ここで怪談会をしても影響がないか否か』ですので。確かに生きている人ではない、と思われるものがいらっしゃいましたが」
「やっぱ幽霊確定? なんか変なホームレスが住み着いてるとかじゃなくて?」
「キミにはどう見えていたのか存じませんが、僕の目には真っ黒な焦げたような人間がぬるっとこちらをのぞき込んでいたように見えましたよ」
「うっえ……うっそ。俺普通の女の人の顔に見えた……」
「僕が見間違えたとしても、物音も足音もなく急に現れたモノですから、恐らく人ではないでしょう。何かしらいる事は確定していたので、特に、驚いてはいませんが……アレが何なのか、という点は興味深いですね」
「ぜんっぜん興味深くなんかねーよ早く出ようっつってんじゃんもうこんなとこで怪談会とかしたらヤバいから別のところにした方がいいですよって報告書叩きつけたらいいじゃん出ようって……」
「確かに、それでもかまいませんが。窓も玄関も開かないのではないかと思いますよ」
「え。なんで」
言われて初めて、二枚ある窓の方を見た。空き家なので勿論カテーンなんてものはなく、ただガラスがあるのみだ。外の暗闇がダイレクトに見えるので、恐ろしくてほとんど見ないふりをしていた。
目を凝らすが、特別おかしなことはない……と、思って首を傾げてさらに目を凝らした俺が馬鹿だった。
「…………ッヒ!?」
思わず叫んだ。なんかもう、ほんとうに嫌だ。
一見何もない。何もない窓だが、窓の下の桟の方に、もごもごと青白い塊が見える。
指だ。何本かの手の指が、外側からぎっちりと窓を押さえつけていた。
ついでにくろゆりさんが札を貼ったガラス戸の右上から、こちらを覗くようにべったりと張りついた顔のようなものがある、のがわかる。こちらはすりガラスだったが、うすぼんやりとした中でもわかる程白い顔が浮かび上がっていた。
「し、めん、そか……」
「なかなか文化的な物言いをしますね。まさにその通りでしょう。まあ、朝になればどうにかなる筈です。たぶん。それなりに霊験あらたかな札を持参してきて良かった。こちら側に入れない、というよりは僕たちを閉じ込めている、という感じがしないでもないですが」
「やばいじゃん。わりとやばいじゃん。なんでそんな冷静なんだよ。なんなんだよほんと。担いでも逃げるんじゃなかったのかよ」
「本当に危なくなったら担いで逃げます。……どっちなのかな、と考えているところです」
「どっちって……何が……」
「あの塩は、コレらをこの家に閉じ込めているのか。それとも、呼び込んでいるのか。ああ、そういえば今ご連絡をいただいた霊能者の――苅安さんとおっしゃるんですが。彼が言うには、この塩は純粋な塩ではないそうです。僕は何か呪術的なものを感じるのですが、残念な事に現時点で心当たりはありません」
「――は? え……待っ、苅安さんって、ええと、蘭ねーさんの隣の家に女が出るって案件で、今日、蘭ねーさんの家に行ってんじゃ、」
「そうですね。鈴蘭さんのアパートのお隣の家には、玄関前に盛り塩があったそうです。恐らく空き家で、そして二階に女が出る」
アパートの隣の空き家。盛り塩のある家。二階の女。
すべての言葉を反芻して、ザっと血の気が引く。しかし俺の予想は、くろゆりさんの言葉にあっさりと否定された。
「単純にこの家の隣が件の鈴蘭さんのアパートであれば、とても簡単で良かったのですが、実はそうではありません。この家の右隣のアパートはコーポ・マムA棟。鈴蘭さんのアパートはロータスハイツ。ロータスハイツの隣の空き家は、アパートに向かって左側にあります。完全に別の物件ということです。ただしどちらも、最寄り駅は鷹乃鴉駅ですね。駅から歩く方角は別になりますが、おおむねどちらも徒歩十五分程度でしょう」
「…………別の、場所に、同じ盛り塩の家がある、ってこと?」
「そう解釈していいでしょう。実はこの件に関わる前に、杜環さんからも同じような家の話を伺いました。その家も鷹乃鴉駅から徒歩圏内にあり、玄関先と室内に奇妙な盛り塩があるそうです。そして二階に女が出る。地図を確認する限り、この場所でも、鈴蘭さんのお宅の周辺でもないです」
最低三件、鷹乃鴉駅周辺に似たような盛り塩の家が存在する、ということになる。
パニックだらけで興奮していた頭が、背筋に走る悪寒で冷やされいていく。もやもやした、なんだか消化不良のような嫌な気持ちだった。いっそそのすべてが同じ家でしたと言われた方が、まだいい。呪いの家に巻き込まれた人間の知人もやはり巻き込まれていく、と言った話の方がはるかに単純だ。
盛り塩の家が別々に三件存在している、と言われるよりも、断然いい。
「まぁ、色々な解釈というか、考えるだけならば可能性はかなり存在しますが……とりあえず春日くんは、息をして落ち着いてください。キミがそんな風に動揺するのは、久しぶりですね。もうすっかりこういうことには慣れてしまったかと思っていました」
「慣れるわけねーだろ馬鹿なんだよそれ……ちょ、くろゆりさ、顔、顔なんか降りてきてね!?」
「こちらには入れないとは思いますが、わりと粘ってきますね。あのすりガラスの顔の方は、窓の外の指の本体のお方でしょうかねぇ」
「のびのび考察してる場合かよ……!」
「そうは言っても、特にやることもありません。僕はこの家の除霊をしろとは言われていません。とりあえずこの場で一泊した場合何が起こるのか、わかる範囲内でご報告することが今回の仕事です。これ以上何をすることもないので、オセロに戻るか、それとも寝てしまうかの二択ですね。ああ、もし正気を保つことが難しいのでしたら、お酒を飲んでみては?」
「おま……心霊現象なうの現場でそんな飲酒のススメする奴がいてたまるかよ……飲まねーよトイレ行きたくなったら終わる……」
「なるほど。次回似たような依頼に向かう場合は、簡易的な排泄ができる道具を持参しましょう。宇宙飛行士はおむつを穿くと聞きますが、大人用のおむつの吸収力はどの程度――」
だらだら、本当にどうでもいいことを話す口を塞ぐ。話を遮るためではなく、キスをするためだ。
窓からもすりガラスの戸からも距離を置いた部屋の真ん中で、くろゆりさんを押し倒す勢いでキスをする。いつなんどき強引にキスを始めても、このムッツリエロイケメンは、すぐに舌を差し出して生々しいキスに対応してくれる。
物音ひとつない深夜に、お互いの唾液が絡む音だけが響く。あとは、自分の心臓の音がうるさいくらいだ。
「…………、ふ……春日くん、あの……上に乗っていただく事自体は大変歓迎しますが、もしあまりにも恐怖が勝ってしまうようなら僕の唾液では不十分でしょうし、無償で提供しますので飲み札を飲んでみたらいいのではないかと思いますが」
「……いい。いらない。くろゆりさんエッチしよ」
「…………構いませんが……いいんですか? タオルとウェットティッシュくらいしか持参していませんよ。残念ながらローションもコンドームもありません」
最後の二つに関しては携帯しています、と言われた方が微妙な気分になるのでまあいい。とりあえずなるべく汚さないように努めれば、なんとかなると信じている。
男の身体は女よりもびしゃびしゃいろんなもんが出るけど、そこはもう、ゴミ袋かなんかに射精するしかない。
色気がないとか言っている場合ではない。とにかく恐怖を紛らわすため、すりガラスの向こうで徐々に移動している女の顔を忘れるため、一刻も早くなんかしらエロいことをしないと死ぬと思った。
言葉の合間にもがっつく恋人同士みたいにキスをして、震えながらくろゆりさんのシャツのボタンを外す。ちなみに俺の指が震えているのはエッチ前の興奮でも緊張でもなく、本当にただの恐怖心のせいだ。部屋の中には何もいないはずなのに、ばしばし見られている気がする。視線が肌に刺さりまくる。怖すぎて指どころか息まで震える有様だ。
ムードもへったくれもなく震える俺に対し、くろゆりさんは余裕の表情で腰を撫でてくる。この人の指先はイケメンって肌までつるつるで隙が無いのねと笑えてしまう程気持ちよくて、ちょっと撫でられただけで今度は恐怖じゃなくて快楽の予感に震えた。
「……っ、……ぁ、ちょ……服、脱ぐ、脱ぐから待っ……明日何着て帰ればいいんだよ馬鹿待て! 全裸で! 全裸でヤろう!」
「そんなに堂々と宣言されてしまうとどうも、情緒と言うものを考えてしまいますね……まぁ、雰囲気がどうとか言える場所じゃなかったですね。ところで僕は空気を読むということが苦手なので、始める前に名言していただきたいのですが、どこまでしていいんですか?」
「チンコ挿れんのは無理だから、それ以外」
「それ以外、と言いますと」
「……それ以外ならなんでもいい。何してもいい。許す。つかもうほんと……なんでもいいから、あの女の顔なんか忘れるくらいエロい事して」
我ながら頭の悪い誘い文句だと思う。けれど本気でマジでガチで心の底から本心しか口にしていないし、一瞬だけ目を見開いた後、どろりと最高にエロイケメンな顔で笑ったくろゆりさんを見て腰がびくっとしてしまったのも悔しいけど正直な反応だった。
なんでもいい。なにされてもいい。この後この場所で誰かが怪談イベントするかも、とか考えている場合じゃない。すりガラスの上の方にあった顔は今や床の方に移動して、不透明なガラス向こうで口をパクパクと開いたり閉じたりしている。怖い。何が何だか全然わからないけれど怖いことだけは確かだ。
全裸になって、薄いマットレスシートに押し倒されて、いきなりチンコの先っぽ触られてびっくりして自分の腕を噛む。春日くん、と俺の名前を呼ぶくろゆりさんの背後に見えるすりガラスの向こうで、やっぱりあの顔はこちらをじっと見ていた。
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